「分からない」が怖かったわたしが、変わるまで
わたしは、「分からない」状態が、
昔は怖かったし、苦手だった。
分からないという状態は、不安であり、
遅れているようにも感じたし、
どこか間違っているようにも感じていた。
だからいつも、早く答えを出そうとしていたし、
安心のために理解しにいこうとしていた。
でも今は、その感覚が変わってきた。
2月に、わたしは感覚優位だったことに気づいた。思い出して認めた。
3月のわたしはまだ、「分からない」状態が落ち着かなかった。
感覚で感じたことが合っているのか、どこか不安だった。
答え合わせのしようがなかったからだと思う。
退職を決めたのに、何度も引き留めに合うたび、話し合って、考えて、まとまらなくなった。
そんな中で、空を見上げたとき、「退職」という文字が空に見えた。ホントにそう見えた。
そのときの体感は、広がる感覚と、澄み渡る気持ち良さ。
一致感と、快しかなかった。
迷いが一瞬で消えた。
4月に入る頃、変化が起きていた。
「分からんもんは、分からん。」
ただそれだけで、置いておけるようになってきた。
それは突然できるようになったわけじゃない。
何度も言われてきたことがあった。
感覚が先に行きすぎていて、思考が追いついていないだけだということ。
焦らなくていいこと。
後から分かることがあるということ。
それを頭ではなく、体験と体感で少しずつ理解していった。
もうひとつ大きかったのは、「分かりたくないわたしが居る」と、言われたことだった。
分かりたくない自分。
その存在を、否定しなくなった。
むしろそのままの自分を、責めることなく見られるようになっていった。
そこから起きた変化は、とても静かだった。
「分からない」を埋めようとする衝動が少しずつ弱くなり、その代わりに「後から分かる」という感覚が、体験とともに身体に残るようになった。
分からないことは、怖さではなく“状態”としてそこにある。
頭で考えても分からないものは、分からない。
頭には過去のデータしかない。
答えは、身体が知っているように感じることがあった。
そして、「明らかにして、諦める」ということが少しずつできるようになった。
明らかにするとは、無理に答えを出すことではなく、今ここにあるものを見ること。
諦めるとは、投げることではなく、コントロールしようとする手を緩めること。
今のわたしは、分からないままでいられる。
それは何かを失ったからではなく、分からないままでも崩れない感覚が育ってきたからだと思う。
分からないままの状態を、そのまま置いておく。
そうして置いておいたものほど、あとから気づきがやってくる。
「あ、そういうことだったのか」
そんなふうに、時間をかけて意味が立ち上がってくることが増えてきた。
わたしはこれまで、感じてきたことを外に出すことが非常に少なかった。
聞く側のポジションだったし、言葉よりも行動で現してきたから。
「感覚を言葉にして。分からないのは、出して見てないから。」
そう言い続けてくれる人がいた。
最初は難しかった。
これで合っているのか、分からなかったから。
でも、合っているも何もなかった。
自分が感じていることだからだ。
やったことのないことは、最初が一番怖い。
わたしは、感覚と言葉を集めて、人に見てもらうことをしてきた。
自分の内側にあるものを、そのままにせず外に出す。
感じたことを言葉にして、誰かの視点を通す、聞いてもらう。
その繰り返しの中で、少しずつ分かってきたことがある。
感覚を言葉にして出すことで、自分が感じたことをなかったことにしなくなる。
感情につながる。
違和感に敏感になる。
言葉になる前のものがたくさんある。
その瞬間に、すべてを言葉にする必要はないということ。
自己不信は、自分の感覚を信じられなかったことから始まっていた。
分からなくても、「わたしは今なにを感じてる?」と聞いてあげること。
言葉にならなくても、それをそのまま感じてあげること。
意識を身体に向け続けること。
身体感覚・内受容感覚を感じ続けること。
思考が強くて、身体に居られなかったわたしが、
身体に居る時間が増えていった。
それが、自分とのつながりを少しずつ取り戻すプロセスだった。
そうやって、「今すぐ分からなくてもいい」という感覚が、少しずつ身体に馴染んできた。
そしてそれは、諦めではなく、どこか信頼に近い感覚だった。
分からないままでも、大丈夫。
頭で考えたとしても、分からないものは分からない。
でも、後からちゃんとやってくるものがある。
今はそんなふうに、少しだけ世界との関係が変わってきている。
