義実家での居場所
夫の親族の冠婚葬祭に来た。
来た、というより、毎回ここに“連れて来られる”。
そして毎回、同じパターンを見る。
夫は、私の席を用意しない。
長男夫婦や息子達には、いつも決まった席がある。
自然にそこへ座る。それは当然。
次男であるうちの夫は、適当に空いている席に座る。
自分ひとり分の場所だけは、するっと確保する。
で、私は?
私は一体、どこに座ればいいの。
昔は、裏方の手伝いを忙しくしながら、子どもを三人連れて端っこの席に座っていた。
ワンオペで、おにぎりみたいにぎゅうぎゅうで端っこ。
すると、義父が必ずやってきて、私の横に座ってくれた。
一緒にご飯を食べてくれたり、食べ物を持ってきてくれたり、
「寒くないか」みたいな顔で、黙って気遣ってくれた。
義父は、私の“席”そのものだったのかもしれない。
でも、もう義父はいない。
何十年も過ぎて、娘たちも大きくなって、孫までいる。
なのに展開は変わらない。
夫は、相変わらず自分の席だけを確保する。
私は久しぶりにこの空気に触れて、
「あぁ、そうだった、この雰囲気…」と、体が先に思い出した。
そして反射みたいに孫の守りに回る。
抱っこ、荷物、飲み物、段差。
私の役割は、席を探すことじゃない。
“動くこと”
そうやって、ようやく居場所を見つける。
見つけるというか、余った隙間に自分をねじ込む。
その時、娘が言った。
「お母さん、ありがとう。
大丈夫だから自分のことして。子どものことは私たちがするから」
優しい。ありがたい。
でも、私は思う。
自分のことって、何。
自分のことをする場所が、ないんだけど。
「行く場所ないし」と言ったら、娘がまた言った。
「じゃあ、お父さんに無理やりついて行ったら」
なるほど、夫。私の夫。
そこに答えがあるかもしれない。
私は“無理やり”ついて行ってみる。
夫の背中の後ろに、影みたいにくっついて。
……そして、やっぱり行く場所はない。
夫は夫で、すでに座っている。
自分と知り合い。当然のように。
私が横に立っていても、
「ここ」と手で示すこともなく、
「座る?」とも言わず、そこにいる。
あぁ、これ、
これだった──
落胆と虚ろを抱えた私はその場で、静かに自分に言い聞かせる。
これは惨めじゃない。
これは“自由”
これは“解放”
ポジティブに捉えよう。
そうやって、これからは冠婚葬祭に行った時でも、
空気のように漂いながら、自分の時間を楽しもう。
誰にも属さず縛られない
ただ漂う、透明な人間…
そう思った瞬間、胸の奥で何かがきゅっときしんだ
うっすら涙がにじみだす
恥ずかしいから、笑って飲み込む。
そして、また自分を励ます。
大丈夫。
私は、今日ここに1人でご飯を食べに来たの。
ここで
人間観察でもしてたらいい。
今はゆったりと大好きな妄想を楽しめる時間。
居場所がないなら、漂い楽しむ練習をしよう……。
