見出し画像

「シールおばさん」、都市伝説じゃなかった。

スーパーで、私はついに出会ってしまった。

懐に子どもたちの好きなシールを隠し持ち、まちなかで泣き喚く子どもを見るや配ってくれるという、神さまみたいなおばさまに。

ネットで見かけるたびにほっこりしていたが、実際に出会うと、もうほっこりどころか胸が、目頭が熱くてたまらなかった。


助けられたのは息子だけではない

その日、私と息子は夕方のスーパーで揉めていた。
食玩付きおもちゃを欲しがる息子と、前回すぐ壊れたから買いたくない私。

お買い物のときは、好きなお菓子をひとつ選べるということになっているが、これはおもちゃだ。すぐ壊れるし飽きて遊ばないじゃん、と押し問答に。

欲しい気持ちはわかるよ、と寄り添う姿勢を示していた私もだんだん機嫌が悪くなり、もうしょうがないから無理やりレジに並ぶ。ついに息子が泣く。
あれ買う、帰りたくない〜と泣いているが、手を繋ぎながら私はチベスナ顔で無反応を貫いた。

息子から一瞬目を離し、レジで精算しているとき。

「ママー、これくれた」

次に見た息子は泣き止んでトーマスのシールを握りしめていた。

えっ!?
この手と目を離した数秒の間に!?
ど、どなたから???

だれにもらったかわかる?と息子に聞いてもわからない。キョロキョロしていると、一部始終を見ていたらしいスーパーの店員さんが「あちらのお客さまからです」とそっと教えてくれた。小粋なバーみたい。

ありがとうしに行こう、とそのおばさまのところへ息子と行って、感謝を伝えた。

「いいのよ、こうして泣き止んでくれるのが好きで、持ち歩いてるの。」

おばさまはカラッと言った。
ま、まぶしい…まぶしすぎる!!!

私は今にも泣きそうだった。
あまりにもおばさまがあたたかかった。
この日保育園でなく家で一日ワンオペしていたら、泣いていたかもしれない。

息子はあまり人見知りしないので、お礼を言った後すこしおばさまとお話をした。
別れ際は潤んだ瞳に笑顔を浮かべバイバイ。
やさしかったね、うれしいね、とシールを見つめる息子と話しながらスーパーをあとにした。

そのとき私は気付く。
自分もご機嫌だということに。

それは息子が泣き止んでよかった、というだけではない。私自身もとても嬉しかったのだ。

息子を見てくれているのは、気にかけてくれているのは、私だけじゃない。
家族と保育園の先生たちだけでもない。

おばさまが育児経験があるかどうかはまったくわからないが、少なくとも幼児に対するシールのチカラを知っているひとであり、公共の場で泣いている子どもを白い目で見ないひとだ。

泣いている子を、連れている母親を、「かわいそうに、大変ね、なにかできることないかしら」と、たぶん思ってくれているひとだ。

そのことがたまらなく嬉しかった。

子育て中は、ちょっとしたことで、いろんな場面で、社会から疎外感を覚え、急に拒絶された気持ちになる。たとえ周りにたくさんひとがいても、世界にこどもと取り残されているような気持ちになる。

おばさまはシール1枚で、息子と私を、現実のすぐ隣にある孤独でモノクロなふたりきりの世界から瞬時に連れ戻してくれたのだ。

そして、それはたぶん、敏感な4歳の息子もわかっている。自分が社会に受け入れられているかどうか。社会は意外と優しいと、きっと感じたはずだ。
「ママが自分の欲しいものを買ってくれない絶望」を、取り払ってくれたのだ。

おばさまは決して、「シールを渡してこどもを泣き止ませた」だけではない。

これが「みんなで育てる」の第一歩

育児において「第三者」というのは実は重要な役割を持っている。

このシールを渡すのがたとえば親である私だったら。

息子は私に「おもちゃを買って欲しい」わけで、シールが欲しいわけではないから、「いらない!」とつっぱね泣き続けるだろう。

ではスーパーの店員さんだったら。
息子は泣き止んで、喜んでシールをもらうと思う。
でも、私は、店員さんにとっては仕事場で起きたことであり、手を煩わせてしまって申し訳ないな、とか、反対に業務の一環としてすばらしいな、とか考えるだろう。泣きたくなるほど嬉しくなることはないんじゃないかと思う。
もちろん感謝もするし、そのスーパーには通い詰めるだろう。

その場に居合わせた、本来まったく関係を持ち得ないおばさまからシールをもらうというのは、普段考えられないことだ。いわばサプライズ感が強い。
親にとっても、子にとっても。

関わりを持ち得ないひと=完全なる第三者から、シールをもらうということは「無関心じゃないよ、見守ってるよ」という、ささやかかつ強力な意思表示でもあるのだ。
おばさまはシールとともに、純粋なあったかい気持ちを渡してくれた。

その気持ちが、どんなに親子を救うことか。

日本は少子高齢化、核家族化がすっかり進み、子どもを「みんなで育てる」意識はすっかり抜け落ちていると思う。
私も子どもを産むまで、正直まったくなかった。

いまの日本に必要なのは、泣いてる子どもにさっとシールを差し出す勇気だ。
大げさでなく、そう思った。

そのシールは、もしかすると、親子の命まで救うかもしれない。

私が代わりにありがとうを

私にできることは、とにかく書くことだ。

今までの私なら、自分ひとりこころをあっためて、それで終わりだっただろう。

でも、私は自分の感情がこんなにも動いたことを、絶対に書き残したいと思った。

ひとりでも多くのひとに、知ってもらいたい。
わたしの気持ち、息子の気持ち、おばさまの気持ち(推測)。

「こういうとき何かしてあげたいけどどうしていいかわからない」と思うひとがもしいたら、伝えたい。

少年よ、シールを抱け。

パンのおまけでも、お菓子のおまけでも、なんでもいい。
キャラものや、キラキラシールだと引きが強い。
100円ショップにもたくさん売っている。
フレークシールとかもいいかも。

はじめは恥ずかしいかもしれない。
話しかけるのがこわいかもしれない。
泣き止まなくて虚しくなるかもしれない。
親に不審者だと思われないか不安かもしれない。

でも、諦めないでほしい。

感謝されないかもしれない。
子が泣き止まないとき親は澄まし顔でパニックのこともある。気が回らないこともある。どうかがっかりしないでほしい。
あなたに、私が代わりにありがとうを伝えたい。

泣き止まないかもしれない。
子どもは得てして予想できない動きをする。
泣き止まなかったとしても、その場は気まずくなったとしても、親の顔が困っていても、こころにそのあったかさは必ず届いている。
そんなあなたに、私が代わりにありがとうを伝えたい。

どうしても直接渡しづらかったら、機を見て店員さんとか、コミュニケーションが得意そうに見えるひとに渡してもらうのもいいかもしれない。
離れたところから、そっとことの顛末を見守ってもいいかもしれない。
そんなあなたにも、私が代わりにありがとうと伝えたい。

シールは、あたたかい。
ひととひとの繋がりは、あたたかい。
社会は、自分たちであっためられる。

もらったシール。

「シールおばさん」に私はなる

ここまで力説しておいて、私はひとりで出掛けているときに泣いている子に何かできたことはない。

せいぜい、「白い目で見ない」くらい。
消極的すぎるなあ。

こんな記事を書いたからには。
私も近いうちにシールおばさんになることを宣言しておこう。

正直めちゃくちゃこわい。
大抵その状態の親子は強い感情渦まく状態なので、外から声をかけるのは、私にはとても勇気がいる。

でも、シールを渡すのだ。
声を掛けなくても、渡すだけでもいい。
実際おばさまはさっと渡してさっと去っていた。
たぶん、いっかいやったら大丈夫な気がする。

私もがんばるので、よかったらみなさんも、さりげないヒーローになりませんか。

私がシールを渡せたら、今度報告しますね。


優しい世界に少しでもなりますように。
祈るだけでなく、勇気と少しの行動を。

それでは。

いいなと思ったら応援しよう!

西園寺える いただいたサポートは、だいすきなnoteの街に還元させます。