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具体と抽象、そのあいだで迷子になっている話

「これ、具体的すぎる?いや、抽象的すぎる?」
最近、文章を書いているときに、そんな自問がクセになっている。

具体とは、誰が見てもわかる形や出来事のこと。
抽象とは、そこから共通する特徴や本質を抜き出して、他の場面にもあてはまる形にしたもの。

例えるなら、具体は「ひとつの写真」、抽象は「アルバム全体のテーマ」みたいなものだ。

では、どこまで具体にすればちゃんと伝わるのか。
どこまで抽象にすれば考える余白が残るのか。

頭ではわかっているつもりでも、その塩梅は今でも迷子だ。

考えてみると、具体に出会ったときは、まず「知ってる」「わかる」という安心感を得る。

でもそこから抽象へ一歩引くと、「これって他にも当てはまるのでは?」という広がりが生まれる。

こうやって往復していると、文章を磨く以上に、考える筋肉が鍛えられる気がする。

(息子の絵本と動画で脳がファンタジー化している私にとっては、ちょうどいい筋トレである)

以前、Instagramで展覧会の感想をよく書いていた頃がある。

写真数枚に短い文章。テンポ重視。
批評家っぽい言い回しや、小難しい抽象表現はなるべく避けて、自分の素直な感覚で、ゆるっと書いていた。

そうすると、すぐ反応が返ってくる。
あれはあれで楽しかった。キャッチボールの球が軽くて、テンポもいい。

でもnoteは違う。
文字数に余裕があるから、小さな話も、ちょっと回り道して書きたくなる。

具体から抽象へ、抽象から具体へ。
一度離れて、また近づく。

具体を書いたら、「これって何を示しているんだろう?」と一度だけ立ち止まる。
逆に、抽象的な話になったら、もう一度「たとえば…」と現実に戻るようにする。

この往復を入れると、文章が立体的になっていくように感じる。

たとえば、「昨日の夜、ラーメン屋で隣の人が替え玉3回頼んでいた」というのは具体。誰もが情景を浮かべられる。

そこに「なぜ人はお腹いっぱいでも替え玉を頼むのか」という問いを足すと、一歩抽象に近づく。

逆に、抽象だけだとふわっとしてつかみにくい。
「人間は空腹と満腹のはざまで生きている」だけでは、どこか遠い。

「たとえばラーメン屋で...」と具体が続けば、現実に着地して想像することができる。

一度リアルなものを抽象化し、別の形で描き直す。そのあいだに生まれる余白を、読む人が埋められるような表現が、いいなと思う。

絵にも、具体と抽象がある。

人物や風景を写実的に描いた具象画は、誰が見ても「ああ、この景色か」とわかりやすい。

たとえばクールベの《石割り》。
働く人が石を割っている姿がそのまま描かれている。誰が見ても「石割ってるわ」とわかる。説明はいらない。

そんな絵は、見ているだけで物語が浮かび、「わーお、重労働だなあ」とため息も出る。

ギュスターヴ・クールベ 『石割り』1849-1850


一方、カンディンスキーの《コンポジション VIII》は何が描かれているか、人によって解釈が変わる。

色や形、線や質感が主役になり、見る人の記憶や感覚を引き出す。

ワシリー・カンディンスキー『コンポジション VIII』1923


見た瞬間に「ぽんぽこぽんと音が聴こえる!」となる人もいれば、
「これは私の小学校の運動会だ」なんて急にノスタルジーに浸る人もいるかもしれない。

ただ、これは観る人が野放しで空想をふくらませているのではない。

作品そのものが色や形、質感を通して静かに働きかけていて、心の奥の記憶や感覚を呼び起こす。そこから思いもよらない情景や感情が、再び組み立てられる。

これが抽象の面白さだ。

そして、具象と抽象を行き来する作品といえば、デイヴィッド・ホックニーの《Bigger Splash》が思い浮かぶ。


ぱっと見、プールと建物。誰が見てもそれとわかるのに、よく見ると直線ばかりで質感もない。

まるで図形のように情報は最低限までそぎ落とされていて、すでに抽象化された「建物」や「プール」になっている。(色や形だけをとっても楽しめる!)

なのに、水しぶきだけは「ビシャーン!」と飛び散り、細かい線や不規則な広がりが、冷たい飛沫や「ひゅっ」と息をのむ瞬間まで呼び起こす。現実をそのまま描くんじゃなく、勢いを思い切り誇張しているのだ。

視線はまずこの水しぶきに吸い寄せられ、そこから飛び込み台へ移って、「あ、誰か飛び込んだ」と物語が浮かぶ。

具体的な手がかりと抽象的な変換が、空間も時間も行き来させているのである。

文章も、現実をただなぞるのではなく、自分なりの形に置き換えて差し出せたら。
読む人の心や記憶に、もっと届くのかもしれない。

私はこの「具体と抽象の行き来」を、日常の中にアートを置くような感覚で書けるようになったら面白いかもな、と思っている。

批評家としても有名なアーティスト・岡崎乾二郎さんは、抽象化することは制約や秩序を再構築するための行為だ、といった内容を語っていた。

(その真意を深く理解することは、私なんぞには難しいことだけれども。)

具体と抽象のあいだを、ゆらゆら行ったり来たりする。その道の結び方や輪郭に、それぞれの個性や思想が、ふっと滲むのだと思う。

いやあ、それが難しい。
でも、その奥深さにやっと気づけたんだから、まあ、よしとする。

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