86日間の幸せ
年明けに妊娠が分かってから、私の人生は久しぶりに音を立てて動き出した。
当時、前夫との離婚から1年半ほど経過し、新しいパートナーとの付き合いもそこそこ安定していて、凪のような日々が続いていた。
そんな折り、私にとっては第二子、パートナーにとっては第一子。6歳になったばかりの息子にとっては初めての弟もしくは妹。私の両親にとっては二人目の孫であり、パートナーの両親にとっては初めての孫。そんな存在が私のお腹にやってきた。
非常に驚いた。なぜなら、私は前夫との間に第二子ができず、不妊治療をしていたからだ。しかし当時もクリティカルな不妊理由は見つからなかったため、「パートナーが変わると妊娠することもあるって、本当なんだなあ」と、陽性のマークが浮き出た妊娠検査薬を片手にぼんやりと思った。
それにしても、今、赤ちゃんがやってくるとは。当時の私は39歳になったばかり。40歳を超えてからの妊娠・出産は厳しいだろうと考えていたので、これが正真正銘のラストチャンスだと思った。
現状、パートナーとは同居しておらず、その予定もなかった。そもそも二人の仕事や生活の状況を考えると、一緒に生活するのはしばらく難しい。また、私は自営業で一人法人を経営しているため、産前産後休暇の取得や育児休業も現実的ではなかった。誰かに仕事を切り出すことはできたが、完全に休むのは至難の業だろう。そして6歳になった息子は、公立小学校の支援学級への就学が決まっていて、4月以降は毎日小学校まで送る必要があるし、おそらくずっと手がかかる。そしてお金の問題もある。
それでも「産みたい。産ませてほしい」と言って、猛然とあらゆる準備を始めた。
パートナーとの話し合いから始まり、心拍確認、彼のご両親へのご挨拶、妊婦健診、出産する産院の予約、通年で受注している案件の継続に関する相談、子どもの移動をサポートする事業者への問い合わせなどなど。今回は高齢出産だったので、NIPTという出生前診断も受けた。自費で約14万円。ああお金が飛んでいく。でも今回は懸念材料が多いからこそ、漫然とした不安を少しでも払拭しておきたかった。
そして3月上旬。出生前診断の結果が「陰性」と判明。「そっか、産んでいいんだ…」つわりがきつくて、仕事中にデスクとベッドを往復する日々が続いていたこともあり、少しの光が見えて、泣いて喜んだ。
しかしその次の日、出産予定の総合病院から電話が来た。
「子宮頸がん検査の再検査の結果、明日聞きに来られますか?」
実は、2月中旬に受けた妊婦健診のうち、子宮頸がん検査が再検査になっていた。最初の検査結果は「HSIL(ハイシル)」で、検査をした医師からは、「子宮頸部の細胞に中程度の異形成がありそうだ」と言われていた。
子宮頸部の異形成は軽度〜中程度なら治療は必要なく、経過観察になる。一方、高度異形成以上は何らかの治療が必要になるらしい。こうした異形成の原因となるHPVウイルス(ヒトパピローマウイルス)には200以上の型があり、そのほとんどは無害だ。一部のハイリスク型に感染していると、高度異形成や子宮頸がんになる可能性があるけれど。
再検査の結果は、3月中旬に聞きに行くことになっていた。その予定よりも一週間早く、わざわざ電話をくれてまで「聞きに来てほしい」と言われるなら、それはきっと悪い知らせだろう。良くて高度異形成、悪くて子宮頸がんだ、きっと。
がん。まったく思い至っていなかった。でも子宮頸がん検査の再検査をしたとき、「出血はありませんでしたか?」と言われ、「そういえば一年ほど前から、不正出血がありました」と答えた自分がいた。
そう、不正出血があったのだ。でも少量だったから見過ごしていた。婦人科で少し相談したこともあったけれど、検査には至らなかった。あれはがんのサインだったのかもしれない。いや、でもがんと決まったわけではないし。でもこのタイミングで電話って、それはもう……。
半ば反射的に、国立がん研究センターが運営する「がん情報サービス」の「子宮頸がん」に関するページにアクセスし、高度異形成や子宮頸がんの情報を読み、頭に叩き込んだ。それ以外の信頼に足るWEBページも読みあさった。
そしてパートナーに「良くて高度異形成、悪くてがんだと思う。赤ちゃんは産めないかも」と伝えた。希望は持てず、すでに少し膨らんでいたお腹をさすることくらいしかできなかった。
翌日。約束の時間に総合病院の婦人科窓口に着くなり、診察室へと通された。普段とは違って奥まった位置にある部屋で、中には医師2名と看護士が数名いた。ものものしい雰囲気だったので、この時点で察しがついた。
そして、再検査をした医師から、こう告げられた。
「子宮頸部に出血が見られ、細胞も変化しています。この状態は子宮頸がんで間違いないです。腺がんという、進行の早いタイプです」
「腫瘍もすでに幅2センチ以上あるので、ステージⅠのB2期以上になります。この状態だと、子宮をとる手術が必要です」
「残念ですが、赤ちゃんがいる状態だと手術が難しくなります」
やはり。私はすぐさま聞いた。
「赤ちゃんを体外に出せるようになるまで待って、手術できませんか?」
「一般的には赤ちゃんが体外で活動できるのは22週からと言われていますが、非常にリスクが高いので、うちの病院では24週からしか対応していないです。そしてそこまで待った場合、がんが進行して、あなたの寿命に関わります」
「明言できないとは思いますが、赤ちゃんを体外に出せるまで待ったら、私の余命はどれくらいになりますか?」
「詳しい検査をしていないので言い切れませんが、2年もたないと思います」
自分で聞いておきながら、ここまではっきりと返答されるとは思わず、面食らった。そうか、端的に答えられるほど短いのか、私の余命は。手術をしなければ、近い将来に私は死ぬのか。でも手術をするなら、赤ちゃんは生きられないのか。
「やっぱり不正出血を見逃したのが悪かったんですかね」という言葉が口を突いて出たけれど、医師は「うーん」と言って答えをぼかした。優しい先生だなあと思った。
「わかりました。中絶するしかないんですね」と私は言った。
中絶するなら早いほうがいいということで、翌日入院で話を進めた。病院に一泊する必要があったため、母に連絡して泊まりに来てもらうことにした。
もちろんパートナーの許可を取る必要もあった。「手術しないと私が死ぬみたいなので、赤ちゃんを中絶したい」と伝えた。あんなに産みたかったくせに中絶したいだなんて、我ながら一貫性のない発言だなあと思った。
そうして翌日、息子には「病院にお泊まりする用事ができたから」と伝え、午前中から入院した。徒歩で病院に向かっている間、ずっとお腹をなでていた。ぽかぽかとした陽気で、気持ちがよかった。今日この瞬間が最後の二人でのお散歩なんだなあと思うと、さすがに涙が出た。
そうして病院に着き、入院手続きを行い、病室で着替えて、手術を受けた。
小一時間程度、麻酔で眠っていただろうか。手術室で目覚めて、少しだけ泣いた。看護士さんが涙を拭いてくれた。その夜は人生で初めて、一睡もできなかった。つわりの気持ち悪さがなくなっていて、悲しかった。
そして翌日、何事もなかったかのように退院し、帰路についた。息子が笑って出迎えてくれた。いったん、普通の生活が再開した。
妊娠が分かったときから再登録した「ルナルナ」という妊娠管理アプリには、「今日の赤ちゃん」というミニコラムが掲載されている。第二子の命が消えた日のコラムを見たら、赤ちゃんのイラストが「いつも守ってくれてありがとう!」と言っていた。
いやいや。「ありがとう」は私のほうだ。あなたが来てくれなければ、私はきっとがんを悪化させて死んでいた。あなたは私を救ってくれた。でも私はあなたの命を優先できなかった。本当にごめんなさい。
ーーーーーーー
それから約3週間後、私は「広汎子宮全摘出術」という手術を受け、子宮、卵巣、卵管、骨盤底リンパ節、膣の一部などを失った。リンパや他部位への転移は見つからなかったため、がん治療は手術のみで終えられることになった。
術後1ヶ月は体調が優れなかったものの、徐々に回復し、術後3ヶ月経った今は全快している。これはとても幸運な結果だと思う。がんが転移していたら、今ごろ絶不調の体を引きずりながら、育児と仕事に奔走していただろう。
子宮を失ったことにあまりショックはなかった。元から最後の妊娠だと覚悟していたし、もうあの子がいないのなら、子宮だけあっても仕方がなかった。
でも今になって、ふと「子どもを中絶して子宮も失ったのは、夢じゃないだろうか」と思うときがある。だって、これほど残酷な現実ってあるだろうか。人生にそんな不幸なことがあっていいはずがない。でも、お腹にある縦一文字の傷跡を見ると、現実に引き戻される。
今の状態は、自分の不注意が招いた不幸な現実だろうか。それとも、消えてしまった命がくれた幸せな現実なんだろうか。わからない。
本来なら、がん治療が手術だけで終わったのだから、この上ない幸せなんだだろう。でも私は、現状の捉え方をまだ決めきれていない。かっこ悪いなあ、と自分でも思う。けれど、おそらく今、無理をして「子どもがくれた命を精一杯生きていきます!」などとやけに綺麗な言葉を発していたら、いつか心が折れる予感がする。
ただ、ひとつだけ明らかなのは、二人の母親だった86日間は、どう考えても幸せだったということだ。誰がなんと言おうと私は幸せだった。それだけは、絶対に守り通したい私だけの真実。
あの日々に支えられ、私は今日も生きている。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたサポートは取材代もしくは子どものおやつ代にします!そのお気持ちが嬉しいです。ありがとうございます!