ザワークラウ豊臣秀頼
ドイツ風なキャベツの漬物を作り、それを活用した料理もしつつ、何故か人物像は見えないのに名前は有名な人達を妄想した記録。

キャベツ 半分(500g)
塩 2・5g
塩麹 2・5g
ローレル 1枚
文禄二年(1593)に誕生した拾が後の豊臣秀頼。
父親は天下統一を成し遂げた一代の英雄、豊臣秀吉。
母親は側室の茶々こと淀殿。
秀吉は既に五十六歳。この齢になって生まれた後継者だが、出生から様々な憶測。つまり本当に秀吉の子か?
多くの側室を抱えた秀吉だったが、茶々以外に秀吉の子を産んだ女はいない。茶々は拾の前に鶴松という男児も産んでいる。
しかも拾を懐妊したと思われる頃、秀吉は唐入りのために肥前名護屋に居ることも多く、大坂には不在気味。かなり怪しい。

それは兎も角、人間五十年と言われた時代なので秀吉は自分が生きている内に拾を跡継ぎとした体制を作ろうと五大老や五奉行等の役職を設けて、諸大名には忠誠を誓わせる署名血判。四歳で元服させて秀頼と名乗らせた。
その翌年に秀吉死去。
七歳の時に起こったのが關ヶ原。
德川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍、どちらも秀頼のためを旗印にした不思議な戰。
勝利した家康は西軍大名の領地を没収したが、豊臣家は諸大名の領地内に蔵入地を持っていた。それも取り上げられることを意味した。巧みな方法で家康は豊臣家の財源を奪ったことになる。
直轄だった金銀山も奪われて、天下人だった豊臣家は大坂周辺のみを領有する六十五万石の一大名に転落。

家康の孫、千姫と結婚したが夫婦間に子はなく、關ヶ原から十五年後、大坂城に籠って德川方を迎え撃ったが味方する大名は一人もなく、德川の天下に不満を持つ牢人衆しか味方せず、落城。
享年二十三歳。
というのが豊臣秀頼の略歴ですが、秀頼自身の意志とか動向というものがさっぱり見えない。
秀吉、茶々、家康といった人物達の意向に振り回された生涯。

通常、五日位は置いた方がいいと言われますが、イラチな私は早く出來る方法はないかと元々、発酵している塩麹を用いることで三日でいい感じに仕上げた。
酸っぱさとしょっぱさのいい融合。このまま食べるよりも、これを使って料理。
秀吉も薄々、自分の子ではないと思っていたのではないか。それでもそれを認めてしまえば、自分の沽券に關わる。
茶々は元々、主筋の織田家の血を引いている。そのために遠慮もあった?
慶長十六年(1611)十七歳の秀頼は二条城で家康と會見。
この時、家康は立派な若者に育った秀頼に脅威を抱いて豊臣家を滅ぼすと決めたとよく言われる。
秀頼の容姿について現代風に言えば身長197センチ、体重が161キロだったと江戸中期の書物、『明良洪範』に記されている。
秀頼に仕えた後藤又兵衛の小姓が記した『長澤聞書』には「世になきお太り」とある。
力士か?
小柄だった秀吉の子とは思えない。
伏見城で育ち、大坂城に移ってからは二条城で家康に會うまで城から出たことがないお育ちだから、そうなった?

となると、誰の子?
大野治長、石田三成とか様々な名前が取り沙汰。
昔、讀んだ小説で石川五右衛門が父親という物があった。
有り得る。
茶々の不倫相手だった男を希代の大泥棒にでっち上げて、釜茹でという残忍な方法で殺して秀吉は溜飲を下げた。
茶々にとっては秀吉は淺井長政、柴田勝家という二人の父を殺した仇。
自分に流れる織田家の血を遺すには秀吉以外の者。ついでに言うと、茶々は信長と市の間に生まれた織田家の純血種と見ています。
更に秀頼の跡継ぎには家康の血筋は入れたくなかったので、千姫と秀頼の間に子が生まれないように仕向けていた?

若くして亡くなった有名人には不死傳説が付き物。秀頼にもある。
「花のようなる秀頼様を鬼のようなる眞田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」
という歌が落城後の都で流行った。更に眞田の地元、信濃の松代でも聞こえたという。歌われた眞田は幸村か、息子の大助か?
実際に鹿児島には秀頼の墓が存在。
地元の傳承では酒ばかりかっくらって、寝てばかりいる牢人がいたが、それが秀頼。
大坂の陣から二十二年後、天草、島原地方で起こった大規模な一揆が『島原の乱』だが、大将となった天草四郎は秀頼の子という説がある。
豊臣家と同じ千成瓢箪を旗印にしていたから。
薩摩芋サラダに混ぜ込んでみる。↓
天草四郎というのも奇妙な人物で、まだ十代で一揆の総大将に祭り上げられたが、その動向や意志がまったく見えない。
海の上を歩いたとか、手に止まった鳩が産んだ卵からキリシタンの経典が出て來たとか嘘くさい傳説はあるが、血の通った逸話がない。
秀頼と親子だったとしたら、周囲の人達に振り回されたという点はそっくり。

德川家に不満を持つ者や西軍の牢人を集めるために、一揆の首謀者達が意図的にそんな噂を流したのではないか。
言わば人寄せパンダとして秀頼の血筋が使われた。
豊臣秀頼には側室との間に子がいた。
長男の國松は戰後に処刑。娘は尼となって鎌倉、東慶寺の住職となった。
もう一人、男児がいて出家したが、それが求厭(ぐえん)という僧だったという話もある。
昭和五十五年(1980)大阪城の発掘調査で発見された頭蓋骨が秀頼のものではないかと言われた。
力士みたいな体型だった秀頼では密かに逃げるのは難しいだろうから、恐らくは大坂城で死んでいる。
ただ息子の國松は処刑されておらず大分、日出藩主、木下家に保護されたという話には眞実味。
國松は当主、木下俊治の弟、木下延由ということにされ、一万石で支藩設立という話があった。
木下家は三万石しかないのに、三分の一を分与など無理な話として、結局は五千石の分家として落着。
木下家は豊臣氏流を名乗っている。皆、血筋ということに振り回されている。そんなことを妄想しながら、ザワークラウ豊臣秀頼を様々な料理に活用して堪能。
