吉岡憲法れんそう
不定期連載、大河妄想料理「二天記」の第二回。前回はこちらからどうぞ。↓
鉄分たっぷりなホウレン草を胡麻和えにしながら、若気の至り?とも思えそうな宮本武蔵の決闘話。

ホウレン草 一把
摺り胡麻 たっぷり
練り胡麻 大匙2
醤油 大匙3
味醂 大匙1
鬼一法眼という伝説的な陰陽師。武芸の達人でもあり、鞍馬山の天狗から学んだ兵法を源義経に伝授したと言われます。又、八人の僧侶に伝えた兵法があり、それらは京八流と呼ばれ、後世の剣術の祖となったとか。
その流れを汲む京流剣術を遣っていたと言われるのが吉岡憲法。憲法というのは代々、当主が名乗った名前。
初代が吉岡直元、室町幕府の第十二代将軍足利義晴に仕えて軍功があり、以来、将軍家兵法指南を務めたと言われます。二代目は剣豪将軍と言われた足利義輝に出仕。後を継いだ三代目憲法は美作若しくは播磨からやって来た兵法者と試合。それが新免無二斎。宮本武蔵の父親。

二十一歳になった宮本武蔵、都に上り、父親が試合をしたという吉岡憲法に挑む。ただ、その時には既に三代目は故人。
跡目を継いだ四代目憲法が吉岡直綱。吉川英治の小説等では吉岡清十郎という名前で知られています。
修行した剣技を試したい、或いは自らの名を高めたいという野心からか、宮本武蔵は試合を望むものの、挑まれた方には何のメリットもない。無名の武蔵に勝って当たり前、万一、負ければ室町将軍家兵法出仕の名前に傷がつく。それでも直綱は試合を受ける。余程、自身があったのか、挑まれたからには逃げる訳にはいかないという武芸者の意地か?

洛北、蓮台野で試合は行われたといいます。上品蓮台寺の近辺と思われます。野というだけあって野原だったのかもしれませんが、現在では都市化が進み、まったく面影なし。直綱は約定通りの時間に来ていたものの、武蔵は大幅に遅刻。というのが定説。
しかし、試合は京都所司代の屋敷で行われたという異説があります。こちらの説では、武蔵は時間厳守。
結果についても、前者では武蔵の勝利ですが、所司代屋敷で行われたという説では打たれた武蔵が流血。そのため武蔵の負け若しくは引き分けという裁定だったとか。
ただ、どちらの説でも直綱は死んでいません。

こうした記録の相違は何故かというと、前者は安永五年(1776)に豊田景英が著した宮本武蔵の伝記「二天記」の記述。
後者は「吉岡伝」が出典。
「吉岡伝」は貞永元年(1684)に福住道祐が記した伝記。
肥後細川家に属していた豊田景英が二天記を書いたのは、武蔵死後100年以上経過した後。しかも細川家は武蔵を庇護した家なので武蔵寄り?
「吉岡伝」の方が書かれた時が近いので、より客観的?
因みに宮本武蔵本人が記した「五輪書」では、
「二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会い、数度の勝負を決すといえども、勝利を得ざるということなし」と書かれています。
はっきり勝ったとは書かれておらず、玉虫色。

四代目憲法との決闘後、弟の伝七郎こと直重と武蔵が遺恨試合。一般的に三十三間堂で決闘が行われたと思われていますが、これは吉川英治の創作。
三十三間堂自体には、そうした決闘が行われたという記録が存在せず。
この試合自体も本当に行われたのか、よくわからない。
ただ、この時も武蔵は遅刻したとか言われてはいます。

吉岡家が使っていたという京流という剣法、現代には伝わっていないので、どういう剣術なのかよくわかりません。
また、吉岡家は剣術指南だけではなく、染め物を稼業としていました。
門弟の中に李三官という唐人、つまり中国人がいて、その人物から教わった技術で染め物を行っていたとか。一説には染め物をする手付きから新たな剣法を創案したとも言われます。
この染め物は現代でも憲法染めという名前で継承されています。
現在、その看板を掲げておられる店は吉岡家の直接の子孫ではないそうです。
最盛期には多くの染め物の弟子がいて、暖簾分けという形で独立した家が幾つもあり、今、憲法染めをしておられる店はそうした暖簾分けの子孫。

鉄分たっぷりなほうれん草に抗酸化物質たっぷりな胡麻が練りと摺りで入った逸品。
一般的には副菜という扱いになりそうな胡麻和えですが、これは立派に主菜になれる。
武蔵と決闘後の吉岡家がどうなったかというと、大坂の陣が起こると大坂城に入城。豊臣家滅亡後は生き残ったものの、江戸幕府に睨まれないようにと剣術は止めてしまい、染め物一本に。いつしか直系子孫は絶えた?
又、吉岡直賢という人物が禁裏で能興行が行われた際に刀を振り回して、討ち果たされたという話があります。この人物は吉岡兄弟の末弟とも従兄弟とも言われます。この事件が起こったのは慶長九年(1604)と言われますが、それだと大坂の陣が起こる十年前ということになる。十九年の書き間違い?それならば大坂の陣が起こる直前。その事件で幕府に睨まれたので、逃げるように長兄の直綱は大坂城に入った?
よくわかっていないだけに妄想が広がる。
吉岡家と武蔵との決闘、伝えられる所ではもう一回、一条寺下がり松の決闘がありますが、料理が完成してしまったので、いずれ又の機会に。
