人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。
殺すぞ
『文豪たちの悪口本』を読んだ。
冒頭に引用した「殺すぞ」は、中原中也の発言である。
中也は、その発言をしながら「中村光夫の頭をビール瓶で殴った」という。なんで?
挙句それを怒られると「『俺は悲しい』と泣き叫んだ」ようだ。もうメチャクチャだ。なんだこいつは。最高。
しかし、この本のおもしろさはそれだけではない。
悪口名言集みたいになっているのは前半だけで、中盤からは、手紙や日記の長い引用が増えていき、「悪口」という点から見た文学史のおもしろ本といった様相を呈してくるのだ。
しかし、私にとってこれは、太宰治と坂口安吾に出会う本となった。
浅学な私は、その時期の文学史が頭に入っていない。「第一回芥川賞に太宰がノミネートしていたが川端康成が別の作品を推薦したため受賞しなかった」というような記述を読んで、「あ、そういう時代感なの?」と思ったくらいだ。文豪の活躍した時代がまったく分からない。
「だいたいみんな同じ時期だ」と思っていたとぼんやり思っていたので、「第一回芥川賞に太宰がノミネート」という文言には少し驚いた。その程度の私である。
そんな中、「無頼派×志賀直哉」の章が始まる。そこでは、志賀直哉に自身や自身の作品を酷評されたことに対する、太宰治の批判が引用される。ここから流れが変わる。
どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
「めちゃくちゃ言うなぁ」と思いつつページをめくっていく。しかしそこには太宰の煮えたぎる思いが詰まっている。美しいとさえ思える文もある。
ここには勇気さえもらえた。「あぁ、こんなことを言ってもいいんだ」と。この本の全体を通して言えることでもあるが、こんな「悪口」を評してもいいのだ、というのが、どこか私にとって救いであった。
太宰治レベルでないと、世間的には良くないかもしれないが、けれど、文学の持っている力の一端を感ずることができた。それに、たとえばnoteで悪口を書いても「いや、『如是我聞』をリスペクトしているだけだ」と言い訳できるし。
そして。大事なのはここからだ。
次には坂口安吾の『不良少年とキリスト』が引用される。この構成の妙である。入水自殺した太宰についての回顧や想いが何ページにも渡って書かれていく。
フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。小林秀雄が、そうである。太宰は小林の常識性を笑っていたが、それはマチガイである。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。
(中略)
太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。
それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。
「人間失格」「グッドバイ」「十三」なんて、いやらしい、ゲッ。他人がそれをやれば、太宰は必ず、そう言う筈ではないか。
太宰が死にそこなって、生きかえったら、いずれはフツカヨイ的に赤面逆上、大混乱、苦悶のアゲク、「人間失格」「グッドバイ」自殺、イヤらしい、ゲッ、そういうものを書いたにきまっている。
衝撃だった。文学のおもしろさと単にそう表現できるかもしれないが、これは、文学の根底にある人間の本質が流している血の涙だ。そう思った。
太宰治がどういう人だったかというのはそんなに知りやしないが、『不良少年とキリスト』の部分を読むだけでも、坂口安吾にとって彼の占めていた大きさを慮ることができる。
さっきの章で中原中也に散々泣かされてたのに。
「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」とか言われてたのに。
それでも、私は、太宰治のことをもっと調べたい、彼の物語を読みたい、という気持ちに駆られている。
これが文学の持つ力である。文学をやるという意味である。あるいは、文学でなくてもよい。創作をするということの根源にかかわる価値がここにあるのだ。
今まで、このあたりの文学には、教科書以外で触れることがなかった。しかし、今、このような形で出会えた。これは僥倖だ。意味があったことなのだ。そう思った。それほどに衝撃だった。
「文豪の悪口を私も引用して使ってやろう」という軽い気持ちで読んだ本で、こんなnoteを書くことになろうとは、よもや思ってもいなかった。
『不良少年とキリスト』は、この後の、自殺論ともいえる文章が特に好きだ。以前この部分がインターネットで少し話題になっていたので知っているが、当時は文脈を知らずにいた。
「太宰のことを思えばこそ、この言葉たちが生まれ出たのだ」そうと思うと、異なる温度を携えて、私に殴りかかってくる。
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
この後には、坂口安吾自身も生きることに苦しんでいることがわかる文が続く。実はそこが一番好きだ。だがそれに関しては、青空文庫でも読めるので、読んでほしい。
この時代の文学に触れていなかった私のような人にも読んでほしい。そして感じてほしい。文学とは、芸術とは、人間の本質を描いたものであり、そしてそれは他人事ではなく自分事なのだと──
余談
「オタスケじいさんの虫きり」って何?
そう思って調べてみたら、以下のニュースが見つかった。1948年4月27日のものである。
「オタスケじいさん」というのは、儀式めいた何かを執り行うことによって、子どものおねしょや虫きり(子どもが訳もなく泣いたり叫んだりすること)を治すという、ハチャメチャにオカルトなじいさんだった。
そしてその儀式の映像のあとで、ニュースはこう続く。
この爺さん、月20万円の広告代を使って神通力を宣伝。誇大広告と、あんまの営業法違反の疑いで、4月15日、警視庁に呼び出されました。月40万円儲けているという爺さんは、いやこれは人助けである、とがんばっています。
「がんばっています」じゃないよ。
2024年5月30日 薊詩乃
