第2話『正しいたわけの使い方』
昼下がり。蝉の声が遠く聞こえる。
塩竈神社へ登る坂道から、風が吹き降りてくる。喫茶たわけのカウンターには、マスターとミドリ、そしてヨミーがいる。
「マスター、一つ訊いてええですか」
ミドリがアイスコーヒーを啜りながら言う。
「なんや」
「『たわけ』って、結局悪口ですよね?」
「ん?」
「だって、『あほ』とか『ばか』と同じじゃないですか。店の名前が悪口って、どうなんですか」
「ほう」
マスターがコーヒーカップを磨きながら笑う。
「ミドリは、『たわけ』が悪口やと思うとるんか」
「違うんですか?」
「違うなぁ」
「じゃあ、何なんですか」
「魔法の言葉や」
「……は?」
ミドリが眉をひそめる。
「魔法って……」
「マスター、質問です」
ヨミーの声がカウンター奥から響く。
「『たわけ』の語源は、田畑を分けることから『田分け』、つまり愚か者を指す言葉です。辞書的には侮蔑語に分類されます」
「せやな」
マスターが頷く。
「でも、使い方次第や」
「使い方……?」
ミドリが首を傾げる。
「例えばな」
マスターがカウンターに肘をつく。
「誰かがドジ踏んだとする。コーヒーこぼした、財布忘れた、遅刻した。そういうとき、怒鳴るか?」
「……まぁ、怒りますよね」
「そこで『たわけやなぁ』言うたら、どうや」
「え……」
「怒りが、笑いに変わるやろ?」
マスターが笑う。
「『このたわけが!』って言われたら、怒られとる気がせえへん。むしろ、愛されとる気がする」
「愛……?」
「そや。『たわけ』にはな、ちょっとの愛想と、ようけの諦めが入っとるんや」
「諦め……」
「そや。『お前はしゃあないやっちゃなぁ』っていう、優しい諦めや」
ミドリが黙って考える。
そこへ、ガラガラと扉が開く。白いシャツを着た老人が入ってきた。
「おお、マスター。久しぶりやな」
「プラトンさん、ようこそ」
「プラトン……さん?」
ミドリが怪訝そうに見る。
「通称や」
マスターが笑う。
「昔、大学で哲学教えとったらしい」
「哲学……」
「そや。で、何でも哲学の話に持っていくから、みんなプラトンさんて呼ぶようになった」
「ほう、今日は何の話や?」
プラトンさんがカウンターに座る。
「『たわけ』の話です」
ミドリが答える。
「おお、名古屋弁哲学か」
「名古屋弁に哲学なんてあるんですか?」
「あるで」
プラトンさんが眼鏡を光らせる。
「言葉はな、文化の結晶や。その土地の人間が何を大事にしとるか、言葉に表れる」
「で、名古屋は『たわけ』を大事にしてると?」
「そや」
マスターが頷く。
「名古屋人はな、怒るのが下手や。怒るより、笑うほうが楽やから」
「楽……」
「そや。怒るのはエネルギー要るやろ? 『たわけやなぁ』言うたほうが、気が楽や」
「それ、ただの怠け者では……」
「怠け者やない、効率や」
プラトンさんが笑う。
「ソクラテスもな、たわけ言われとった」
「え?」
「ソクラテスはな、街中で人に質問しまくって、煙たがられとった。『あのたわけ、また来たわ』言われとったんや」
「それ、ほんまですか?」
「知らん。でも、そんな感じやったと思うで」
ミドリが呆れる。
「プラトンさん、適当すぎません?」
「哲学は適当でええんや」
「ダメでしょ」
「ヨミー、質問です」
プラトンさんがPCに向かって言う。
「『たわけ』と『ばか』の違いは何や?」
「語源と地域性が異なりますが、意味的には——」
「違う違う」
プラトンさんが手を振る。
「意味やなくて、響きや。『ばか』は冷たい。『たわけ』は温かい」
「温度……?」
「そや。言葉には温度がある。『ばか』は氷や。『たわけ』は味噌汁や」
「味噌汁……」
ミドリが笑う。
「なんですか、それ」
「ほんまや」
マスターが頷く。
「『たわけ』言われても、腹立たへん。むしろ、ほっこりする」
「ほっこり……」
「そや。それが名古屋弁の優しさや」
「でも、マスター」
ミドリが言う。
「『たわけ』って、結局相手を見下してるんじゃないですか?」
「見下しとらんで」
マスターが静かに言う。
「見下すんは『ばか』や。『たわけ』は、横におる感じや」
「横……?」
「そや。『お前も俺も、たわけやな』って、一緒に笑う感じや」
「……なるほど」
「言葉はな、やまびこみたいに返ってくるんや」
マスターがコーヒーを注ぎながら言う。
「『ばか』って言うたら、『ばか』が返ってくる。でも、『たわけやなぁ』って言うたら、笑いが返ってくる」
「やまびこ……」
ヨミーが反応する。
「では、『たわけ』は共感の言葉ですか?」
「そうやな」
マスターが頷く。
「怒りやなくて、共感や。『お前も大変やな』っていう、優しい共感や」
「でも、マスター」
プラトンさんが訊く。
「『たわけ』を言われて、傷つく人もおるやろ?」
「おるやろな」
「ほな、魔法やないやん」
「魔法にも、効く人と効かん人がおるんや」
マスターが笑う。
「『たわけ』が効くんは、名古屋人だけや。他の土地の人には、ただの悪口に聞こえるかもしれん」
「地域限定魔法……」
ミドリが笑う。
「なんか、ショボいですね」
「ショボくてええんや」
マスターが窓の外を見る。
「大きな魔法より、小さな魔法。派手な言葉より、静かな言葉。それが名古屋や」
「名古屋、地味ですね」
「地味でええんや」
FM AICHIから、のんびりとした曲が流れてくる。
蝉の声が、また聞こえた。
「ヨミー、一つ訊いてええか」
マスターが言う。
「はい、マスター」
「あんた、『たわけ』の意味、わかったか?」
「……いいえ」
ヨミーが静かに答える。
「データとしては理解しましたが、感覚としては理解できません」
「そっか」
マスターが笑う。
「ほな、ええわ。わからんでも、ええ」
「わからなくても、いいのですか?」
「ああ。『たわけ』はな、わかるもんやない。感じるもんや」
「感じる……」
「そや。いつか、あんたも感じる日が来るかもしれんな」
「……はい」
プラトンさんがコーヒーを啜る。
「マスター、ええ話やったな」
「せやろ」
「でも、結局『たわけ』って何なん?」
「知らん」
「おい」
また笑いが起こる。
天白川の風が、店内を撫でていった。
『たわけ』という言葉は、風に乗って、どこかへ消えていく。
そして、また誰かの口から生まれる。
今日もまた、喫茶たわけは営業中である。
(了)
