わたしの本読みとしての眼を培ったもの。noteにみたある詩人の呟き。
わたしの本読みとしての眼を培ったもの。noteにみたある詩人の呟き。
わたしは嫌な奴である。別に誰か特定のお人を指してこき下ろすつもりは無い。ましてや傷つけるつもりもない。結論を書いてしまえば、本などというものはどのような読み方をしたところで、読み手の勝手なのである。それにイチイチ、口を挟もうとするからして嫌な奴なのである。俗にいう処の性格の悪さということになるのかもしれない。
一昨日に仕上げた、拙著「エロ小説(官能小説)にみる文学的価値」という原稿にも、書き手の性格の悪さが滲む箇所がある。
『お陰で、私小説を読んでもデバガメ的な下卑た読み方をしなくて済む本読みの姿勢は身に付けることが出来たと感じている。』
性格が悪い。しかし、これがわたしでもある。思っているのであるからして仕方がない。思っていないことをエセーやコラムで書くなど時間と余白の無駄でしかない。
が、一昨日のこの原稿、どうしたことか、フォロワーさん以外からのスキを13件も頂戴し、新規のフォロワーさんも3件も増えて頂けたのである。
性格悪い…… いや、クセ強めなので気をつけておかれますよう(笑)
ところで、2024年の夏前だったろうか。ここnoteのとある人気詩人さんの原稿に、チョイと尖った詩編が上がっていた。「にゃるほど、にゃるほど~ そうであるか、しかしこの心理の働きを支えるものは…… 」そんな風に読ませてもらっていた。わたしも大好きな詩人さんなのだが。
さて、その詩人さんのコメント欄にオモシロイコメントを発見した。
要約すれば「どうしたんですか ? なにかありましたか ?」というものであった。思わず吹き出してしまった。性格が悪いのである。
このコメントに、当の詩人さんがなんと返事をしたのか。
「詩ですから~」 だった。
お見事である。さすが~と、唸ったものだ。
わたしは思わずこの詩人さんのコメントに「スキ」を押させてもらったことは想像に難くあるまい。
例えば、わたしの場合だが、純文学や私小説を読む場合、本稿同様に読むのが巻末の『あとがき』であり『解説』である。
あとがきは、作者自らが書くのが通例だが、解説は概ね外部の文学文藝に精通した者が筆を執るのが一般的だ。
サムネイルは吉行淳之介による「原色の街・驟雨」新潮文庫だが、この解説の筆を執っているのは長部日出雄氏である。
むかーしむかしに一冊か二冊買って読んだ記憶がある。
この解説が大切なのだ。。。と書けば、ここの本読みの皆さんからは同意がいただけるのではないだろうか。
本の読み方を教えてくれる。
間違っても、この手の私小説を読むのに、作者の人生について揶揄するような言葉、デバガメチックに思い寄せる言葉は見ることは出来ないだろう。
純文や歴史時代小説、大衆小説、官能小説、エンタメ小説などの小説のジャンルによっての違いもあり、解説から孫の手如き、痒いところに手が届くような読み方をみつけられるとは限らぬが、純文や大衆小説を読まれる際は、最初に解説から読んでみるのも一つの手であろう。
この解説に「違和感」を感じられるようになれば、精読できた証しとなるかもしれぬ(笑)…… とは、思いませんか ?
しっかし、最後まで性格悪いわなぁ(^^♪
わたしも、若かりし頃、お陰で本の読み方が変わった記憶がある。
これはたしか誰かに教えてもらったはずなのだが……
了
文 飛鳥 世一
