脊髄反射で生きていた私が、分岐を見つけた瞬間
創作エッセイ「気づきから始まる創作」プレリュード
人は、「できるようになった」と思っているときほど、実はできていないのかもしれない。
頭では理解している。
でも、いざ同じ場面になると、いつもの反応をしてしまう。
同じ失敗を繰り返して、「またやってしまった」みたいなやつとか。
そんな経験、誰にでもあると思う。
昨日の私にもそんな出来事がありまして。
一度、手が止まった
昨日、友達から相談のメッセージがきた。
以前の私は、すぐに返信をしていた。
力になろう。私にできることは何だろう。
みたいなことを考えながら、あんなこんな対処や対策を書きがちで、
大体いつも長文になっていた。
今回も、あれやこれやと長文を書いていたのだが、
これでいいんだっけ?
と、なぜか手が止まった。
分かっていたつもりだった
というのも、人の様子を見て「脊髄反射しないことが大事」と常日頃から思っていた。
もちろん、自分は当然できている”つもり”で生きていた。
仕事でも、瞬間的にメールやチャットの返信をしないよう、冷静に対処しようと気をつけているつもりだ。
しかし、
なぜかプライベートだと、あっという間に返信を送ってしまう。
しかも、何の疑いもなく、自分は「脊髄反射しない自分である」と思い込んでいたわけで、
あっという間に返信を送ることを「脊髄反射という」ことにすら、気づいていなかった。
特に、私は過去にメンタルが落ちた経験から、同じような境遇の友にはもれなく寄り添おうとする傾向が強かったのだと思う。
助けたい、という気持ちは本当だし、
私にできることはやる、これも本当。
しかし、私が知っていることをあれこれ伝えることは、本当に友のためになっているのか?
と、急に疑問が降りてきた。
過去の自分を助けようとしていたのかも
よくよく考えてみると、私が返信していた言葉は、過去の私が聞きたかった言葉だった気がする。
わかってほしい。
でも、「わかるよ」という言葉に、「そんなわけあるか」と思っていた。
だから、あれこれいろんな方向からの言葉を並べて、
「わかるよ」と感じ取ってもらいたかったのかもしれない。
もちろん、それが悪いというわけではないと思う。
長文から”力になってくれようとしている”ことを察する友もいるだろうしし。
でも、ハタと気づいた。
私は、友と助けようとしていたのではなくて、過去の私を助けようとしていたのではないか?
人のレーンに入っていたのは私ではないのか
過去の私は、
「人が私の境界線を超えて入ってくる」
と感じることがありました。
依存されやすいから、気をつけないとな。
と思っていまして。
でもなんか、昨日は逆で、
私が人のレーンに入って、
その人の目の前にある障害物を避けようとしていたように感じた。
あれ?
人のレーンに入っているのは、私か??
転ばぬ先の杖。
先回りのおせっかい。
あー、ワタシのことかーーーー。
脊髄反射ーーーーー。
これでは、友は、自分で障害物を避ける方法を模索できないではないかと。
魚取っちゃダメじゃんか。
友の経験を奪ってしまっていたのかもしれない…。
オーノー…。友よ、ごめん。
返信は短く
結局、長々と入力していたテキストをざっくり削除し、短く返信。
友達は私じゃない。
私が気づいたことを聞きたいわけじゃない。
そんなこんなで、
昨日の私は、これまでとは別の選択をした。
即反応していた自分に気づけたことに、自分でも驚いた。
なんとなく、分岐のイメージが浮かんだ。
分岐に立っていたような感じ
とにかく、短い返信を送ったことよりも、
なんか”分岐にたっている感じ”がしたことに、驚いたのですよ。
これまでの思考のクセで、即反応していた自分がいて、
それとは別の、ちょっと冷静に立ち止まって、違う反応を選ぶ自分がいて。
どちらの自分も同じ場所にいたのです。
分岐に立つ自分を見る自分がいた、みたいな感じ。
気づいた自分を、後ろからもう一人の自分が見ている感じ。
年輪のマトリョーシカ
とかなんとか考えていたら、
「なんか私、マトリョーシカだわ。」とイメージが浮かんできまして。
1つ開けると小さいマトリョーシカでどんどん出てくる、あれね。
ただ、大きい人形から小さい人形が出てくる、普通のマトリョーシカじゃなくて、
私の場合は、逆。
気づくたびに、一回り大きな自分が外側にできる、みたいな感じ。
木の年輪みたいに、外側へ外側へ成長していく感じ。
バームクーヘンみたいだけど。
頭と行動は別なんだと再確認
頭でっかちなんですね。私。
理想を掲げていながら、行動は伴っていないっていう。
今回は、なぜ気づいたのか、がイマイチよくわからない。
思考のクセは何度も戻るかもしれないけど、
一回気づいたんだから、たぶん、次も気づくのではないかと思う。
人生は気づきの連続
最近、本当によく感じるのは、
人生は、気づくためにあるんじゃないかということ。
なんか、気づくために動いているようにも感じる。
一度気づいてしまえば、気づかなかった自分に戻ることはできないけれど、
過去の一回り小さき自分も、さらに一回り小さき自分も、
理解できる。
壁にぶつかったと思っていて、
暗黒だと思っていて、
どうにもならんと思っていたのに、
今はそれの外側から、当時の自分を見ているわけですよ。
自分で這い上がってくるのを、見守っている。
みたいな感じ。
どこまでいっても、知らなかった自分を知る、気づかなかった自分に気づく。
それが年輪みたいに、バームクーヘンみたいに、感じて、
外側にまた1枚新たなマトリョーシカができあがっていくのかなと。
めっちゃホラーだ。
