原爆投下 ~80年前の現実と、今の僕が考えること~
80年前の1945年
8月6日 広島
8月9日 長崎
二つの街に原爆が落とされ、多くの命と日常が、一瞬で奪われました。
これは、絶対に二度と起こしてはいけない。
少し遅くなったけれど、僕が原爆について考えたことをまとめておきたいと思います。
「軽い一歩」から始まった原水爆禁止世界大会
2023年、僕はまだ大学生。
知り合いから
「原水爆禁止世界大会に行かない?」
と誘われた。
当時の僕は、原爆に正直あまり興味がなく、
「広島に安く行けるし、楽しそう」
という軽いノリで参加を決めた。
今思えば、不謹慎な理由。
でも、この「軽い一歩」がなかったら、
僕は今も原爆について知らなかったかもしれない。
現地では大学生たちと一緒に壇上に立ち、集めた署名を掲げた。
そして、原爆を体験した方の生の声を聞く機会をいただいた。
これが、僕の中で大きな転機になった。

平和記念公園で感じた熱と静寂
最初に向かったのは平和記念公園。
原爆の日ということもあり、人の数はおそらく5万人以上。
外国人観光客や修学旅行生、小学生が原爆の紙芝居をしている姿。
色鮮やかな折り鶴が、祈りの数だけ積み上がっている。
その賑わいの中にも、静かで重い空気が流れていた。
広島出身の学生に案内されながら歩くと、胸の奥がじわじわと熱くなっていった。


25年遅れた供養──韓国人犠牲者慰霊碑の前で考えたこと
平和公園を歩いていると、
ひっそりと立つ「韓国人犠牲者慰霊碑」が目に入った。
説明板にはこう書かれていた
原爆で亡くなった約20万人のうち、2万人は韓国の方だと。

正直、衝撃だった。
僕はそれまで、原爆の被害者は日本人だけだと思っていたから。
さらに驚いたのは、
この慰霊碑が建てられたのが1970年、
原爆投下から25年も経ってからだということ。
なぜそんなに遅れたのか?
原爆で亡くなった日本人の慰霊はすぐに行われたのに、
韓国の方々は長い間、供養されなかった。
それは単に知られていなかったからなのか?
それとも意図的に後回しにされたのか?
この碑の前に立っていると、
歴史の中にある見えない線引き
を突きつけられるような感覚に襲われた。
原爆は日本だけの出来事ではなく、
世界を巻き込み、そして国境を越えて人々の命を奪った出来事なのだと、強く感じた。
小学生の紙芝居に圧倒される
公園の一角で、小学生たちが堂々と原爆の紙芝居を演じていた。
その声はまっすぐで、震えることなく、
言葉一つひとつに重みがあった。
僕が原爆について真剣に学び始めたのは大学生になってからだ。
けれど彼らは、
まだランドセルを背負う年齢で、
もうすでに「伝える人」になっている。
胸の奥が熱くなる。
これは特別な町だからできることじゃない。
全国どこでも、こうやって子どもたちが自然に戦争や原爆の歴史を学び、伝えられる環境が必要なんじゃないか。
そう強く思わずにはいられなかった。
原爆資料館での衝撃
資料館の中は、想像をはるかに超える重さだった。
焼け焦げた服。
被爆者の必死の走り書き。
投下直後の惨状を写した写真。
目の前の現実に、息が詰まった。
これらは、誰かが命を削ってでも「残そう」とした記録だ。
そのおかげで、
僕たちは今、学べる。考えられる。
だからこそ、
記録を残すことは、ただの記録じゃない。
未来を変える行動なんだと思った。
そして、確信した。
二度と原爆は投下してはいけない。
でも、ふと疑問が頭をよぎる。
「なぜ、人間は戦争をやめられないんだろう?」
「戦争をして、本当に幸せになる人なんているのか?」
原爆のことだけじゃない。
戦争そのものについて、深く考えさせられた。
資料館には外国人の姿も多く、涙を流している人もいた。
その光景を見た瞬間、心に刺さった。
原爆は、日本だけの問題じゃない。
人類全体の問題なんだって。
世界大会で見た「一人の力」
原爆について少し学んだ後、足を運んだのは原水爆禁止世界大会。会場には1万人近くが集まり、体育館(文化センター)が人で埋め尽くされていた。
空気が張り詰めていて、ただ座っているだけでもその熱気が伝わってくる。


講演には、海外で原爆禁止活動を続ける方も登壇していた。
正直、世界でもこんな動きがあるなんて、これまで知らなかった。その人は、たった一人でゼロから運動を始めたという。
仲間も資金もない中で立ち上がり、今では世界各地で活動を広げている。
想像を絶する行動力と、何年も続ける持久力。
それはもう、頭が下がるどころか「人間ってここまでできるのか」と衝撃を受けた。
熱を持って語るその姿は、ただの活動家ではなく、
命をかけて信念を貫く生き様そのものだった。

生の声を聴いて ~黒い雨の記憶~
世界大会が終わったあと、
僕は実際に黒い雨の被害を受けた方の話を聞くことになった。
語り部の方は、当時を思い出すたびに胸を引き裂かれるような表情を浮かべ、
それでも僕たち後世のために声を絞り出してくれていた。
その姿に、こちらの胸まで締め付けられる。
正直、ありがたいなんて軽い言葉では足りない。
命を削るように語ってくれている。
そう感じた。
原爆が投下された瞬間、
閃光で視界が真っ白になり、目が見えなくなったという。
あちこちで瓦礫の下敷きになって動けない人、
火傷で全身が焼けるように熱く、必死で川に飛び込む人、
そして、急にその場で息を引き取ってしまう人
その光景が、語られる言葉のひとつひとつから生々しく突き刺さってくる。
当時は何が起きたのか誰も分からなかった。
ただ、時間が経つにつれ、それがどれほど恐ろしい出来事だったのかを理解していく。
その気づきこそが、さらに心をえぐったと語る。
友人も家族も失い、一人取り残された空からは、見たこともない真っ黒な雨が降ってくる。
黒い雨
それが何かは分からない。
でも、本能で「これは絶対に身体に悪い」と悟ったそうだ。
けれど、原爆で皮膚が焼け、喉が渇き切った人たちは、
その雨を喜びながら浴びてしまった。
良くないと分かっていても、火傷の痛みと渇きがその判断を奪ったのだ。
助けがいつ来るのかも分からない。
身体が治るのか、明日を迎えられるのか、また空襲が来るのか?
そんな恐怖の中で続く生活。
語り部の方は
「空襲が終わったときよりも、日々の生活のほうがよほど辛かった」
と静かに言った。
最後に強く語られていたのは、
「戦争は絶対に起こしてはいけない」「核兵器は必要ない」
という信念だった。

今の政府は「核抑止力」
核を持てば相手が攻撃をためらうという論理を掲げている。
でも、それは裏を返せば、核を持たない国は攻撃される可能性があるということだ。
恐怖による支配は、結局何も変えないし、危険性を温存したままだ。
だからこそ、僕は本気で問い直したい。
「核抑止力」は本当に世界を守る方法なのか。
原爆に興味を持ち長崎の原爆資料館へ
広島で原爆に興味を持ったことが、僕を長崎へと導いた。
展示室の空気は重く、息苦しいほどの現実がそこにあった。
写真、遺品、証言
そのすべてが、僕の胸を揺さぶった。
「知る」ことの重みと、
「忘れない」ことの意味を、
強く感じた瞬間だった。
学べば学ぶほど思う。
もっと身近に、こうした学びの場があってほしい。
広島や長崎に住んでいれば原爆について触れる機会は多い。
けれど、
それ以外の地域に住む人たちは、学ぶ機会が圧倒的に少ない。
だからこそ、
全国どこでも原爆や戦争について学べる環境をつくりたい。
1都道府県に1つ、震災や原爆について学べる施設があって、
小学生が社会科見学で必ず訪れる
そんな未来を本気で描いている。
これは原爆だけじゃない。
東日本大震災の被災地を訪れたときも、同じことを感じた。
知ることが、未来を変える第一歩になる。
僕の決意
戦争は100年単位で起こると言われる。
それは、戦争を体験した世代がいなくなってしまうから。
僕はまだ23歳。
これから生きていく中で、戦争が再び起こる可能性はゼロじゃない。
だから僕は、今から行動する。
投票で政治家を選び、戦争を防ぐための声をあげ、
できる限りの手を尽くす。
未来の誰かが戦争を知らずに笑える国にするために。
原爆について学べる場所を、もっと近くに。
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これからも人生全力で楽しんでいきます
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