[短編]『春になれない風が、桜の蕾を揺らす時々、』
朝の光がカーテンの隙間から細くはいってきて、台所の流し台の縁に一本だけ白い線を引いていた。
私はコーヒーを淹れながら、昨夜のことをぼんやりと思い出していた。
別に大した出来事ではなかった。
ただ、妻が「ねえ、来年はもう四十だよ」と言っただけだった。
そのあと二人で少し笑って、それで会話は終わってしまった。
でもその一言が、夜中に何度も頭の隅で反響していたのを覚えている。
コーヒーの香りが部屋に広がる頃、妻が寝室から出てきた。
まだ髪が少し乱れていて、いつもの薄いグレーのカーディガンを羽織っている。
「おはよう」と小さく言って、冷蔵庫のドアを開けた。
冷蔵庫の光が一瞬、彼女の横顔を青白く照らした。「ヨーグルト、昨日食べちゃったんだよね」
妻はそう言って、棚の奥を覗き込んだ。
私は「コンビニで買ってこようか」と返したけど、妻は首を振った。
「いいよ。今日はこれでいい」そう言って、彼女は小さなリンゴを一つ手に取った。
赤と黄色がまだらになった、ちょっと小さめのリンゴだった。
それをシンクの横に置いて、ゆっくり皮を剥き始めた。
ナイフの音が、朝の静けさの中で小さく響く。
私はマグカップを持って窓辺に立った。
外では、まだ春になれない風が、桜の蕾を揺らしている光景をぼんやりと眺めていた。
ピンクというより、むしろ灰色に近い色だった。「ねえ」
妻がリンゴを半分に切って、私の方を見た。
「四十って、どんな感じになるんだろうね」私は少し考えてから答えた。
「たぶん、今とほとんど変わらないんじゃないかな。わかんないけど…」
「……でも、ちょっとだけ、遠くなるのかも」
妻は小さく笑った。
その笑い方が、昔と少し違って見えた。
いや、違っているのは私の見方の方かもしれない。リンゴの半分を皿に載せて、妻は私の隣に立った。
二人とも黙って、窓の外を見ていた。
風がまた、桜の枝を揺らしていく。
蕾はまだ固く閉じたままだった。
コーヒーが冷めてしまうと思ったけど、別に急ぐ必要もなかった。
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