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【甲府城】豊臣が作った城、天守台からの眺め

はじめに

 2026年(令和8年)が始まりました。今年もよろしくお願いします。
 甲府城は甲府市中心部にある城跡です。日本100名城の1つでもあります。戦国から江戸時代、明治維新後、昭和から平成と時代ごとの姿があり、研究者も多く甲府城は簡単には書き表せないほどの幅広いテーマがあります。今回は甲府城の天守台からの眺めを中心に紹介します。
 トップ画像は、南側から見た甲府城の天守台と謝恩塔、手前に庄城稲荷です。


甲府城

 甲府駅に近く観光に来られた方からは信玄公の城と間違われるのですが、武田家滅亡後に築造された城です。
 未だ不明な部分も多いのですが、現在の研究では豊臣秀吉の命により築造されたもので、東の徳川に対抗するための城と考えられています。初めは豊臣秀勝(秀吉の甥)や家臣の加藤光泰らにより築造が進められ、浅野長政により完成したとされています。

遊亀橋から見た甲府城、右手に天守台
朱円部分が今回紹介する天守台、朱円は筆者

 また、関ケ原の合戦以降は、徳川幕府の城となり西方面への備えとして役割を果たしたとされています。つまり、豊臣政権下、徳川幕府いずれにとっても東西の要として役割を持った城でした。
 現在は舞鶴城公園として整備されていますが、本来の城の規模は広大で、三の堀まであり甲府市街地で堀跡が確認されています。

 甲府駅に近いのですが、明治36年に中央本線を建設するときに城を南北に分断して城内に停車場が作られています。またその頃より城は一般に開放されています。
 1964年(昭和39年)都市公園として「舞鶴城公園」は整備され、2019年(平成31年)には国の指定史跡「甲府城跡」となっています。
 分断された城の北側についてはかつての鉄道用地を甲府市が取得し「甲府市歴史公園」として城の一部が復元整備されています。

中央本線により分断され現在は別の公園
出典 : 甲府市HP

甲府城に天守閣は無かったか

 さて、甲府城については復元天守閣を作ることが各方面、特に観光、商業方面から要望されてきました。
 平成時代に県の事業として、明治の廃城以前の建物の復元や石垣の修復などの整備が進められました。しかし、天守台は石垣のみの修復に留められました。歴史的裏付けとなる資料(史料)がないからです。
 江戸時代の甲斐は幕府の直轄地で、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。天守閣は必要なかったのです。ただし鯱瓦等が出土していることから、築造された豊臣政権下での天守閣の存在が指摘されています。
 天守閣の存在を証明する資料に対して懸賞金がかけられていました。それでも有力な資料は今のところ確認されていません。

鯱瓦や鬼瓦
出典 : 舞鶴城公園リーフレット
本丸広場から見た現在の天守台

天守台へ

 甲府市内にもタワーマンションやビルが立ち並びますが、かつては甲府城の天守台が一番高いところでした。現在でも遠くの山々や甲府盆地が一望できる人気展望スポットです。
 今回は南にある遊亀橋から石段を上がり本丸広場を目指し、天守台に上がります。

出典 : 甲府市HP

 遊亀橋から園内に入ると自由広場(鍛冶曲輪)です。

2000年に架け替えられた遊亀橋

 正面の石段を上ります。すぐ横に石切場の跡がありますが、今回は割愛します。

石段を上る

 坂を上りきったところから道なり進むと稲荷曲輪門が見えてきます。

道なり進む
稲荷曲輪門

 稲荷曲輪門をくぐり進むと広場です。城の外に庄城稲荷がありますが、かつてはこの広場の一画にありました。

庄城稲荷の跡

 ちなみに庄城稲荷は甲斐源氏一条氏の氏神でしたが、豊臣政権下で築城にあたり、一蓮寺と共に甲府の南(現在の遊亀公園)に移されています。それが正ノ木祭りで有名な稲積神社になります。「遊亀公園」という名も「舞鶴城公園」に対して命名されたといいます。
 甲府城内では祭祀が行われてきましたが、明治維新後は廃絶状態であったことから、甲府城付近の有志らにより明治38年に復興されたといいます。戦時中に空襲で焼け、戦後県有地(甲府城跡)の外に移されました。

現在の庄城稲荷は城の外

 「舞鶴城公園」の名の元になったのは鶴の像の噴水が、大正天皇即位記念として作られ謝恩碑(後述)の東側の池にあったことからです。鶴の像は戦時中に供出され、現在管理事務所の隣にあるものは、1985年(昭和60年)に再建されたもので、城内整備に伴い現在地に移されました。

復元されたものの移設された鶴の像

稲荷櫓

 さて、広場には天守閣に思えるほど立派な櫓があります。櫓は防御施設のひとつで石垣の上に作られています。江戸時代に7棟の櫓があったとされていてそのうちの1つが2004年(平成16年)に復元されたものです。内部は展示施設になっています。

稲荷櫓の外観、年末で内部は休館
天守台から見た広場と稲荷櫓

天守台からの眺め

 広場からさらに本丸広場を目指します。

そびえる天守台

 本丸広場まで来ました。天守台と謝恩塔があります。

本丸広場からの天守台

 天守台に登ります。手すりはあるものの石段の一段一段が大きく、上るのに一苦労します。足の悪い方は決して無理をなさらないで下さい。
 石段の途中に門の柱の礎石が残されています。

反対側にも同じ礎石がある
上ってきた石段を見下ろす

 12月29日、快晴で良好な眺めです。天守閣はなくてもそれが甲府城です。
 まず西側の眺めです。本丸広場が見えます。山梨県庁やヨドバシカメラ(旧山交百貨店)などビル群の向こうに山々が見えます。

西側の眺め、本丸広場が見えます

 甲斐駒が見えます。

 甲斐駒ヶ岳

 白根三山は、富士急ビルの看板の上に見えます。

農鳥岳、間ノ岳、北岳

 続いて、南側の風景です。金山のある身延の山々が見えます。煙が上がっていますが、本当に甲府市内で火災が発生していました。

南側の眺め、繁華街が手前に見える

 続いて、富士山を見ます。南東の方角にあります。NTTビルの鉄塔のところです。
 ちなみにこのNTTビルは甲州財閥の筆頭格若尾逸平の経営した若尾銀行の跡地にあります。若尾逸平は富士山の真下に見えることを知ってその場所に銀行を建てたのでしょうか。

南東に富士山
鉄塔が邪魔だと見物の皆さんは言ってましたが

 さらに東へ目を向けます。御坂山系が見えます。

東側の眺め

 愛宕山です。山の上に釜を逆さにしたようなドームが少しだけ見えますが山梨県立科学館です。

北東側の眺め

 北を見ると甲府駅です。陸橋の左に甲府駅があります。鉄塔はNHK甲府放送局です。陸橋の向こうのコンクリート建築は丹下健三設計による山梨放送(YBS)の社屋です。
 甲府駅の北側はかつては国鉄時代には貨物ヤードが広がっていました。右手に見える蔵風の建物は観光商業施設である甲州夢小路です。こちらもかつては貨物ヤードでした。

北側の眺め、甲府駅北口周辺がよく見える

 武田神社のある方角の山の中腹に白い塔のようなものが見えるのですが、よくみると人型をしております。実は仏像です。甲府平和観音といい恵運院という寺の私有する山中にあります。

甲府平和観音

 さて、明治天皇が全国行幸をしたときの碑は各地にありますが、甲府城には明治13年6月に上っていてそのことを記念する「明治天皇御登臨之址」の碑があります。
 甲府城の整備においては明治維新前の姿に戻すと言っていましたが、こうした皇室関係のものは移動、撤去はされておりません。

「明治天皇御登臨之址」の碑

謝恩塔

 舞鶴城公園といえばお馴染みの建造物として謝恩塔(あるいは謝恩碑)があります。1922年(大正11年)に作られたもので、エジプトのオベリスクをデザインしていますから不思議に思われます。甲府城の整備があっても移動されずに残されています。

間近に見る謝恩塔

 謝恩塔は明治40年の大水害(山梨県を襲った大水害)の復興のため、明治天皇より県内にある入会御料地を全て県有財産として下賜されたことに対する感謝の意と大水害の歴史を後世に伝えるために作られたものです。

元老山県有朋の揮毫
知事山脇春樹による碑文

 高さ約16.4メートルで甲州市塩山から産出される花崗岩で作られています。元老山県有朋の揮毫、山梨県知事山脇春樹による碑文です。

解説文
明治天皇に因む「明治天皇御登臨之址」の碑と謝恩塔

 実は切り出した花崗岩をこの場所まで運ぶために石垣を崩してスロープを作り運び込みました。そのため、崩した石垣部分は後から積み直したものの、本来の姿とは違う状態で積み直されしまった過去があります。

謝恩碑から見た天守台

鉄門(くろがねもん)

 稲荷櫓に次いで復元されました。こちらも内部に入ることができます。
鉄門復元工事の解説と鉄門の構造に関する説明のパネルがあります。

鉄門の外観、こちらも年末で内部は休館
反対側から
謝恩塔とともに

おわりに

 甲府城について概略と天守台について紹介しました。今後は少しずつ甲府城についても記事にしていこうと思います。
 甲府城は様々な視点から見ることができます。城としての歴史的なこと、廃城となり近代の山梨との歩み、現代の観光スポットとしての甲府城、これら大きく3つの視点から記していこうと思っています。
 今年も山梨から唯一無二のnoteを記してまいります。

甲府城を望む

参考URL
峡陽文庫「甲府城 庄城稲荷神社」(2025.12.31閲覧)
https://kaz794889.exblog.jp/10029768/

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