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キャンパス・ライブ ≪19≫

第19話


 翌朝。冬の入口に差し掛かった大学のキャンパスを包む空気は、ひんやりとしているのに、どこか秋雨の湿気を含んだような重さがあった。

​ 健人はためらいがちに、研究室のドアを開けた。中にはすでに、町田と美咲、そして結衣の三人が揃っていた。昨日、自分が嵐のように飛び出していった時と同じ光景。だが、健人の心境はまるで違っていた。

​「…おはよう」

​ 健人が声をかけると、美咲がハッとしたように顔を上げ、それから気まずそうに視線を落とした。町田はいつも通り、コーヒーカップを片手に小さく顎を動かす。

​ そして、結衣は、ノートPCの画面を見つめたまま、微動だにしなかった。健人は自分のデスクへ向かい、バッグからノートPCを取り出した。液晶を開くと、昨夜、町田に見せられたあの「フェイクの炎上画面」の残像が、脳裏を焼き尽くすように蘇る。

​―もし、町田が止めてくれなかったら―

​背中に冷たい汗が伝う。健人は深く息を吐き出し、意を決して結衣の席へと歩み寄った。

​「結衣…」

​名前を呼ぶと、結衣の肩が微かにビクつく。彼女はゆっくりと、健人の方を振り向く。その瞳には、まだ昨日の怯えの色が消えずに残っていた。

​「昨日は、ごめん。俺、どうかしてた」

健人は、真っ直ぐに結衣の目を見て謝った。

「結衣の気持ちを完全に無視して、自分の正義感を押し付けて、怖い思いをさせた。本当に申し訳ない」

​頭を下げる健人に、研究室の中が静まり返る。結衣は小さく唇を噛み、膝の上で細い指をきつく握っていた。やがて、彼女は息を吸い込み、声を絞り出した。

​「健人…。もう、私のために何もしないで」

​健人の身体が、わずかに硬直する。

​「私、ネットで色んなこと書かれて、本当に怖かった。でも…」

結衣の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「健人が、私のせいでどんどん怖い顔になって、知らない大人のところに乗り込んで…。私のために健人が壊れていくのを見る方が、ネットの動画なんかより、ずっとずっと怖かったの」

​結衣は涙を拭おうともせず、健人を見つめた。

「だから、もう放っておいてほしい。これ以上、私に関わらないで」

​その言葉は、健人の心臓を握り潰し、息を止めるような衝撃を与えた。

 昨日までの健人なら、「なんで分かってくれないんだ」と激昂していたかもしれない。だが、今の健人の胸には、昨夜見た「怪物の自分」の姿があった。結衣を苦しめていたのは、ネットの悪意だけじゃない。自分自身も、彼女を追い詰める加害者の一人だったのだ。

​ 健人はきつく拳を握り締め、そして、ゆっくりとそれを解いた。

​「…分かった」

掠れた声だった。けれどそこには、健人の確かな覚悟があった。

​ 結衣はそれ以上何も言わ無かった。美咲に、「この後用事があるから」とだけ告げると、そのまま研究室を後にした。

​ 健人は自分の席に戻り、静かにキーボードに手を置いた。彼女を不安にさせるような行動は二度と起こさないと、心の中で誓った。

 それから、結衣は研究室に姿を見せなくなった。
キャンパス・ライブの運営も、橋本や相原が増えたことで、組織は問題なく回っている。
彼女が来なくなる理由はあっても、来る理由はもう無かった。

 研究室の窓から覗く木々もすっかり葉が落ちきった。
卒業論文の締切が近づき、誰もが自分の作業に追われるようになる。健人も例外ではなかった。
昼は実験。夜は論文。そして空いた時間で、院進学後の研究テーマについて調べ続けた。

長津田は捕まった。だがネットに残った動画は消えていない。結衣の名前を検索すれば、今でもあの日の動画やまとめ記事が表示される。

犯人を捕まえれば終わると思っていた。
だが現実は違った。壊れたものは、簡単には元に戻らない。

それでも何もしないよりはましだと思い、健人は院での研究の準備として、生成AIの安全性に関する論文を読み漁った。

セキュリティ研究室の守備範囲から外れすぎない形での落とし所を探る。今回の出来事を無かったことにはしたくなかった。

結衣とは一度も会わなかった。連絡もしていない。メッセージの送信画面を開いたことは何度もあった。だが最後には閉じた。約束したからだ。もう彼女のために何もしないと。

 それでも時々、美咲が近況を教えてくれた。

「結衣、無事に内定確定したって」

卒論の参考文献を整理していた健人は、手を止めて顔を上げた。

「そうなんだ」

「安心した?」

美咲が探るように覗き込む。

「うん…」

短い返事だった。だが、その一言だけで十分だった。胸の奥にずっと引っ掛かっていた石が、少しだけ軽くなった気がした。

結衣の人生だけは壊したくなかった。その願いだけは、どうやら最悪の形では終わらなかったらしい。

 別の日。研究室にはキーボードの音だけが響いていた。モニターには大量の論文PDFが並び、机の上には空になったエナジードリンクの缶が転がっている。

そんな中、美咲が重い扉を開けて、研究室に入ってきた。

「久しぶりー。え、なんか男臭い!」

「悪かったな。卒論に追われて、朝から晩までこもりっきりなんだよ。」

「窓くらい開けなさいよ!」

美咲が窓を開けると、ひんやりとした爽やかな空気が流れてきた。

「ねえ健人」

「ん?」

視線を画面に向けたまま返事をする。

「仲直りしたら?」

健人の指が一瞬だけ止まった。だが、すぐにまたキーボードを叩き始める。

「しないよ」

「したくないの?」

その問いに、健人は少しだけ考えるような間を置いた。

「したいけど…」

画面には、生成AIの安全性に関する海外論文が表示されている。だが視線は文字を追っていなかった。

「今は違うと思う」

結衣が最後に見せた涙を思い出す。あれだけ拒絶した相手に、自分の気持ちを押し付けて近づくのは違う。それは結局、以前の自分と何も変わらない気がした。

美咲は椅子の背にもたれ、大きくため息をついた。

「二人とも頑固だなー。結衣も、健人の話すると、話題変えようとするし」

「そりゃそうでしょ…」

健人の顔が曇る。

「でも、毎回ちゃんと聞いてるよ!絶対、結衣も気になってるんだって」

「だとしても、それは俺が会いに行っていい理由にはならないよ」

美咲は口を尖らせた。

「真面目か」

「そういう問題じゃないだろ」

健人は苦笑する。それ以上、二人はその話をしなかった。

 そうして季節は巡り、窓の外では、裸だった桜の枝先に小さな蕾が膨らみ始めていた。