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国民党=統一派、民進党=独立派。そう信じた時点で台湾は見えなくなる

今回は、台湾をめぐる日本人の思い込みと、その背後にある台湾側の政治的な思惑を書いてみたい。日本人が台湾をどれほど単純に理解し、どれほど自分に都合のいい筋書きに当てはめているか、その話である。


◆はじめに

日本でよくあるのは、国民党は中国との統一を望む勢力、民進党は独立派、張安楽のような人物は危険な親中派、といった単純な理解である。だが、こういう理解は、現実とは大きく乖離している。
 
私は台湾の人脈や政治・経済の現場に長く触れてきた。その立場から言うが、日本における台湾像には、かなり強い違和感がある。反対派が相手を貶めるために作った人物像、政治的な意図で強調された話、面白半分で拡散された半端な知識が、いつの間にか事実であるかのように流通しているからだ。台湾を理解しているつもりで、実際には大きく誤解している人は、思っている以上に多い。
 
このことは、張安楽のような人物についても同じである。出回っている情報が全部嘘だと言うつもりはない。だが、それが彼の全体像でも、真実そのものでもない。そこを見落とすと、意図的に作られた安っぽい虚像を見せられているだけになる。

◆ 国民党は、本当に統一派なのか

日本では、国民党を中国との統一を望む勢力、いわゆる「統一派」として扱う人が多い。だが、ここがまず誤りだ。
 
国民党の主流が本気で望んでいるのは、北京の言う形で中国に吸収されることではない。むしろ本音は、今のままがよい、という一点にある。中華民国の看板を残し、台湾側の暮らしも選挙も秩序もそのままにして、できるだけ長く持たせたい。そのために中国と話し、経済をつなぎ、緊張を下げる方を重く見る。言い換えれば、対中融和で時間を買う発想である。
 
私は以前、国民党で総統も務めた馬英九に近い人物から、「そのうち中国も変わる。パックス・ロマーナが永遠でなかったように、中国共産党も永遠ではないからね」と聞いたことがある。私はこの話を、きわめて現実的なものとして受け取った。国民党の主流には、そういう長い時間軸の発想がある。だから、国民党を「統一派」の一語で片づけるのは、政治を数年単位でしか見ない人の、いかにも浅い理解である。
 
また、中国側も一枚岩ではない。ここも日本人が見落としやすいところである。中国共産党の公式方針はもちろん統一だ。だが、私がこれまで接してきた限りでは、中国側にも、本音では現状維持を望む人間は少なくなかった。経済人だけではない。胡錦涛の時代には、党や軍の周辺にも、そういう空気はたしかにあった。
 
習近平の時代になってからは、統一という方針がいっそう前面に出るようになった。だから、以前のように「今のままがよい」と口にしにくくなったのは事実だろう。それでも、内側にあった温度差まで消えたとは思えない。

つまり、表に出る国家方針と、内側の人間の本音は別なのである。台湾だけでなく、中国もまた、その程度には人間くさい。日本では、中国は統一へ一直線で、内部に迷いも温度差もないかのように語られがちだが、そんなものはかなり浅い見方にすぎない。

しかし、ここで安心するのは甘い。国民党の本音が現状維持であっても、中国共産党の公式方針は一貫して統一だからである。しかも、現時点で北京がまず狙っているのは、全面的な武力侵攻よりも先に、経済的依存や人的ネットワーク、世論への働きかけを通じて、台湾を政治的に取り込んでいくことだろう。台湾側が時間稼ぎのつもりで中国と関係を保っても、その時間がそのまま北京の浸透と影響力拡大に使われることは十分ありうる。

日本では、国民党を中国の手先のように見る人もいれば、逆に対話派だから穏健で安心だと思う人もいる。だが、現実はそのどちらでもない。国民党は国民党なりに台湾側の現状維持を考えている。ただし、そのやり方が北京に利用されうる。そこが厄介なのである。

◆ 民進党は、本当に独立派なのか

では民進党はどうか。
 
こちらも、日本では単純に独立派と見られがちである。だが、これも乱暴だ。民進党はたしかに台湾の主体性を強く打ち出すし、中国との距離も国民党よりはっきり取る。だが、明日にでも独立へ突っ走る勢力だと見ると、これも現実とは違う。

話は少し戻るが、もともとの国民党は「台湾の党」ではなかった。自分たちこそ中国全体の正統政府だと考え、台湾はあくまで大陸反攻までの拠点、という色が濃かったのである。ところが、その後の民主化と、台湾そのものを中心に置く流れの中で、政治の重心が移った。いまでは国民党も、台湾で中華民国を維持する党へと姿を変えている。

そうした変化の中でも、最初から台湾そのものを政治の中心に据えて伸びてきたのが民進党である。民進党は出発点からして、台湾の将来は台湾の人々が決めるという立場を、国民党よりも前面に出してきた。だが、看板として独立を掲げることと、実際に独立へ踏み切ることは別である。民進党も現実には、今の秩序と暮らしを崩さず持たせる方を優先している。つまり、本音のところでは、こちらもまた現状維持なのである。

国民党も民進党も、結局は今の秩序をどう持たせ、どう先へつなぐかを考えている。ただし、そのための手法が違う。国民党は対話と経済交流を重く見る。民進党は抑止と主体性の明示を重く見る。両者の違いは、統一か独立かという看板よりも、今を守るために何を優先するかにある。

ただし、民進党のやり方もまた、安全とは言い切れない。主体性を強く打ち出し、中国との距離をはっきり取るほど、北京側の警戒と圧力を招きやすいからである。抑止のための姿勢が、緊張度の上昇や経済的なしわ寄せにつながることもある。つまり、国民党の対話路線が北京に利用されうるように、民進党の主体性重視もまた、別の形で代償を伴う。

ここを見ないで、片方は統一、片方は独立、とだけ覚えると、台湾政治は見えなくなる。大事なのは、党の名前ではなく、何をどう守ろうとしているかだ。レッテルだけでわかったつもりになると、肝心なところを見失う。

◆ 張安楽を、単純なラベルで見るな

張安楽も、日本ではかなり単純な人物像で語られがちである。
危険な親中派、黒社会の大物、統一工作の象徴。そういう言葉でまとめられがちだ。そういう面があるのは否定しない。だが、そうしたラベルだけでこの人物をわかったつもりになると、実像から遠ざかる。
 
私は張安楽を直接知っている。だからこそ言うが、この人物は、表に貼られたラベルだけで片づくような単純な人間ではない。立場を作り、その立場の上に経済活動も乗せていく。統一という看板も、そのための方便として使っている節がある。また、お人よしで情に厚いところがあるから、周囲に利用されて損をしたり、余計なものを背負い込んで窮地に追い込まれたり、逆に親しい人間たちの怒りを買ったりすることもある。
 
台湾では、政治と裏の人脈が交わる場面が少なくない。そういう場所では、人は理屈だけで動かない。立場、面子、義理、損得、古い付き合い、過去の貸し借り。そういうものが複雑に絡む。表の看板と、実際の動きがずれることも珍しくない。
 
だから、張安楽のような人物を、善人か悪人か、親中か反中か、統一派か反統一派か、そんな単純な図式で片づけると、本質を見失う。単純でわかりやすい人物像が広まりやすいのは、それを書く側も読む側も、表面だけで済ませた方が楽だからというだけではない。最初から相手を貶めるために作られた人物像や、政治的な意図で強調された話が、そこに重なるからでもある。

そうした単純な理解ほど、肝心なものを落としやすい。人物像だけではない。外交や政治においても、こうした「わかりやすさ」はたいてい知性の敵である。

これは張安楽だけの話ではない。日本では、台湾の人物や団体も、親日か反日か、善玉か悪玉か、そんなふうに単純化して見られがちである。だが、現実の台湾はそんなに薄っぺらくない。薄っぺらいのは、むしろそれを見ている側の理解である。
 
私は張安楽を擁護したいわけではない。ただ、単純なラベルだけで人物を切る癖が、台湾理解そのものを浅くしていると言いたいのである。その人物を悪玉に仕立てた時点で、考えることをやめてしまう人は多い。だが、本当に見るべきは、その人物がどういう場で、どういう関係の中で、何を果たしているかだ。そこを見ずに石を投げるのは、怠慢かつ知性に乏しい者である。

◆ 台湾は親日だから安心、という幼稚な理解

日本では、台湾を親日国だと理解している人が多い。もちろん、台湾の一般国民の中に親日的な人が多いこと自体は否定しない。日本に好意を持つ人も多いし、日本文化への親しみも深い。そこは事実だろう。
 
だが、そのことと、台湾の国家や政治家やロビーの対日行動が、日本の利益と一致することとは別である。ここを混同する人が、日本にはあまりにも多い。
 
台湾の一般国民に親日的な人が多い。だから台湾は日本の味方だ。だから台湾との関係も、うまくいく。そういう理解は、率直に言って幼稚である。感情と利害の区別がついていない。
 
国家は感情だけで動かない。政治家もロビイストも、最終的には自分たちの生存と利益のために動く。台湾も例外ではない。むしろ中国という巨大な圧力にさらされている以上、使える相手やつながりは徹底して使う。日本がそこに入るのは、むしろ自然なことである。

李登輝の時代以後、日本では台湾を「親日の良き友人」として眺める空気が強くなった。だが、それを無邪気に受け取るのは危うい。李登輝は日本で好意的に持ち上げられたが、彼の狙いは、台湾の安全保障と国際社会での立ち位置を広げるために、日本の世論や保守層へ積極的に働きかけることにあった。
 
その背後にあった政治的事情を曖昧にしてはいけない。台湾側は、日本会議のような日本の保守団体やその周辺を、明確に意識していた。李登輝本人は日本会議の設立五周年に祝辞を寄せ、日本会議を持ち上げている。さらに、当時の台北駐日経済文化代表処代表だった許世楷も、日本会議の設立十周年に祝辞を送っている。これは、その場かぎりの社交辞令ではない。台湾側が、日本の保守層、とりわけ日本会議のような団体とその周辺を、対日ロビーの足場として見ていたことの表れである。
 
つまり、親日感情は、政治的利用と表裏一体であった。ここを見ないで、台湾は親日だから安心だ、と語るのは、現実の政治を見ていない。
 
もちろん、日本もまた台湾を利用してきた。中国への警戒を語るうえで都合のよい相手として、また戦後保守が自分を正当化する材料として、台湾を使ってきた面がある。実態は片務ではなく、かなり相互利用に近い。
 
ただし、ここでも勘違いしてはいけない。相互利用であることと、それが日本のためになっていることは同じではない。
 
日本の保守層の中には、台湾をほとんど情緒で見ている人が少なくない。親日、民主主義、反中国。この三つの札が並べば、もう思考停止してしまう。だが、現実の台湾政治はそんなに甘くない。台湾側には思惑があり、日本側には幻想がある。加えて日本会議との結びつきまで絡めば、もはや単なる友情では済まない。そこにあるのは、台湾側の強かな計算である。
 
私は、台湾を好きになること自体は悪くないと思っている。むしろ自然なことだ。だが、好きになることと、美化することは別である。一般国民の親日感情と、国家の対外行動と、ロビーの思惑と、日本側の幻想を、親日という一語でまとめてしまう人間は、台湾を理解していない。

台湾を理解するうえで必要なのは、好意そのものを疑うことではない。好意と利害は別だ、と見分けることである。そこを無視して、台湾は親日だから大丈夫だ、と言う人間は、台湾に騙されるというより、自分の願望に騙されている。

◆ わかりやすい話ほど、台湾を見誤る

台湾を見誤る人が多いのは、情報が足りないからではない。わかりやすい話を欲しがりすぎるからである。

国民党は統一派、民進党は独立派、張安楽は危険人物、台湾は親日だから安心。こういう単純な説明はわかりやすくて便利だ。便利だから広まる。だが、便利な説明ほど、現実を単純化してしまう。そうして単純化された現実は、そのまま誤解になる。

実際の台湾政治は、もっと複雑で、もっと打算的で、もっと人間くさい。友情もあれば利用もある。好意もあれば利害もある。表に出る看板と、裏で動く思惑もある。そこを見ずに、耳ざわりのよい物語だけ信じる人間は、台湾を見ているのではない。台湾に自分の願望を投影しているだけである。

台湾を見るなら、まず親日という言葉に酔わないことが大切だ。国民党と民進党を単純な対立図式で見ないこと。張安楽のような人物を貼られたラベルだけで片づけないこと。善玉と悪玉に塗り分けた瞬間、現実は見えなくなる。

外交や政治の現実は、気持ちのいい話などではない。複雑で、ドロドロとして、ずっと汚い。だからこそ見なければならない。台湾もまた、その例外ではない。

台湾を見ているつもりで、自分の願望だけを見ている人間は多い。そういう見方のまま台湾を語るのは、理解ではなく、ただの思い込みである。


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