慶喜は何から逃げたのか
鳥羽伏見・江戸騒擾・晩年回想から読む「逃亡説」
徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗色を見て、大坂城から「逃げた」。
よく聞く説明です。
たしかに、慶喜が大坂城を離れ、海路で江戸へ戻ったことは事実です。
では、「逃げた」はどうでしょうか。
これは事実そのものではなく、動機の解釈です。
裁判でいえば、「被告が現場を離れた」は事実です。
しかし、「罪を恐れて逃げた」は動機の推認です。
歴史も同じではないでしょうか。
慶喜が大坂城を離れたことは動かせない。しかし、なぜ離れたのか。そこには、まだ検証の余地があります。
鳥羽伏見は、最初から「最終決戦」だったのか
後世から見れば、鳥羽伏見の戦いは戊辰戦争の開戦です。
この戦いを境に、旧幕府軍は朝敵となり、新政府軍は官軍となる。徳川幕府の終わりを決定づけた戦いとして語られます。
しかし、それは結果を知っている後世の見方です。
当時の慶喜から見ても、鳥羽伏見は最初から「徳川幕府滅亡を決定づける最終決戦」だったのでしょうか。
そこが問題です。
慶応三年末、江戸では薩摩藩邸をめぐる騒擾が起きていました。
浪士・御用盗的な動きがあり、江戸薩摩藩邸焼討事件へつながります。
その知らせは大坂にも届き、旧幕府側では討薩論が高まりました。
大坂から京都へ向かう旧幕府軍の行動も、単純な「全面戦争開始」というより、討薩、上洛、嘆願、威圧が混ざったものとして見る必要があります。
その流れの中で、鳥羽伏見の衝突が起きました。
つまり、鳥羽伏見は後世には巨大化した事件です。しかし当時の慶喜から見れば、江戸騒擾から続く対薩摩事案の一つとして見えていた可能性があります。
もちろん、鳥羽伏見を「ただの小競り合い」と言いたいわけではありません。
錦旗が掲げられ、朝敵化が起きた瞬間、この局地的な軍事衝突は、政権の正統性をめぐる巨大事件へ変質しました。
問題は、その変質を、慶喜がいつ、どの程度、理解したのかです。
浅野氏祐を追うと、別の問題が見えてくる
最初に気になったのは、幕臣・浅野氏祐でした。
浅野氏祐は芸州広島藩浅野家の人物ではなく、幕府中枢に近い位置にいた人物です。
もし浅野氏祐が江戸から船で大坂城へ向かい、慶喜に江戸騒擾、江戸薩摩藩邸焼討、江戸城中枢の混乱を伝えていたなら、慶喜帰東の意味は変わります。
それは単なる敵前逃亡ではなく、徳川家の本拠である江戸へ戻る政治判断だった可能性が出てくるからです。
しかし、調べていくと、浅野氏祐を「慶喜帰東の単独キーマン」と見るには無理がありそうです。むしろ、見えてきたのは別の構図でした。
慶喜を動かした一人の伝令、進言者がいたのではない。
情報は複数ルートで入っていた。
しかし、最後の決断は、慶喜が側近にも十分説明せず、独断で下した可能性がある。
ここで重要になるのが、永井尚志、板倉勝静、松平容保、松平定敬です。
永井尚志や板倉勝静は、慶喜を帰東させた人物というより、慶喜の判断に振り回された側に見えます。
板倉勝静は、慶喜の決断を事前に十分知らされていたというより、驚き、抗議し、しかし同行することになった人物として描かれます。
松平容保や松平定敬も、事前に十分な説明を受けていたとは言いがたい。
つまり、大坂城退去は、旧幕府首脳部による整然とした合議決定ではなく、慶喜個人の判断として実行された疑いが強い。
これは慶喜を擁護する材料にもなりますし、批判する材料にもなります。
なぜなら、独断は「果断」とも読めるし、「説明責任の放棄」とも読めるからです。
慶喜は薩摩をどう見ていたのか
ここでもう一つ、無視できない言葉があります。
慶喜には晩年、「長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ったから許せない」という趣旨の言葉が伝えられています。
この言葉は重い。
長州は、禁門の変を起こし、征長の対象となった。幕府にとって明白な敵でした。
しかし、明白な敵であるがゆえに、処分し、赦免し、政治的に扱う余地があった。
一方、薩摩は違う。
慶喜の目から見れば、薩摩は政局の内側に入り込みながら、王政復古、討幕密勅、江戸騒擾、薩摩藩邸焼討、鳥羽伏見へと、徳川家を朝敵の位置へ追い込んでいく存在に見えた可能性があります。
だとすれば、鳥羽伏見は単なる戦場ではありません。
江戸で始まった対薩摩事案が、大坂を経由し、京都南郊で軍事衝突化したものだった。
ただし、ここで慶喜を一貫した戦略家として描きすぎてはいけません。
同じ慶喜は、討薩の表について、「うっちゃらかして置いた」という趣旨の、はぐらかしとも投げやりとも取れる説明もしています。
薩摩を許せない。
しかし、討薩の動きを明確に統御したわけでもない。
この二つは矛盾しているようで、むしろ慶喜の姿をよく表しているように思えます。
慶喜には薩摩への不信があった。
朝敵化への恐怖もあった。
将兵の暴発を抑えたい思いもあった。
だが、それらを一つの政治方針として周囲に説明し、統率することはできなかった。
だからこそ、大坂城退去は「逃亡」か「深謀」かの二択では割り切れないのです。
晩年の慶喜は、すべてを語ったのか
ここで注意しなければならないのは、慶喜の言葉が語られた時代です。
『昔夢会筆記』や『徳川慶喜公伝』に残る慶喜の言葉は、慶応四年当時の同時代記録ではありません。
それは、明治国家がすでに確立した後、晩年の慶喜が語った回想です。
この時代の慶喜は、もはや単なる敗者ではありませんでした。
明治国家の中で名誉回復され、徳川慶喜を立て、公爵として扱われていた人物です。

その慶喜が、いまさら薩摩批判、大久保批判、岩倉批判を全面展開する暴露本を残す必要があったでしょうか。
おそらく、ない。
慶喜は、暴露本を出して印税生活をしなければならない人物ではありませんでした。
むしろ、すでに明治国家の秩序の中に再配置され、晩年を趣味人として過ごしていた人物です。
その慶喜がすべてを語ったとは限らない。
語れることは語った。
しかし、語ると波風が立つことは曖昧にした。
自分の言い分は残した。
しかし、誰かを徹底的に糾弾するような形にはしなかった。
そう読む方が自然です。
つまり、慶喜の晩年回想は、真相暴露本ではありません。
それは、名誉回復後の旧将軍による、抑制された自己説明です。
後年回想だから捨てる、でよいのか
この問題は、新谷道太郎の証言にも通じます。

新谷道太郎の証言は、事件から約六十年以上後に語られたものです。
そのため、「後年の記憶だから信用できない」と切り捨てられがちです。
たしかに、新谷証言には大きな弱点があります。

新谷は、坂本龍馬から「六十年は黙って居れ」と言われた、という趣旨を語っています。
これは重要です。
なぜ他に記録がないのか。
その問いに対して、新谷の証言はあらかじめ答えを持っている。
記録がないのは、黙っていたからだ。
これは、真実である可能性もあります。しかし同時に、検証不能性を物語の中に組み込む危うさも持っています。
だから、新谷証言をそのまま鵜呑みにはできません。
しかし、だからといって「六十年後だから嘘」と切り捨てるのも雑です。
慶喜の晩年回想もまた、事件から長い時間を経て語られた言葉です。
違いはあります。
慶喜の回想は、渋沢栄一らによる継続的な聞き取りと編纂を経て残されました。速記や批正の過程もある。制度的な検証の土台が厚い。
一方、新谷道太郎の証言は、個人の語り色が強く、同時代史料との照合も難しい。
だから、両者を同じ強度で扱うことはできません。
しかし、同じ問いは投げられます。
誰が語ったのか。
いつ語ったのか。
どの立場で語ったのか。
何を語り、何を語らなかったのか。
語られなかった理由を、本人はどう説明したのか。
後年回想は、遅いから捨てるものではありません。
遅い証言として、どう読むかが問題なのです。
同時代史料なら本当なのか
ここでもう一つ、忘れてはいけないことがあります。
同時代の書簡や日記だからといって、それが必ず真実とは限りません。
人は、生きているその時にも、都合よく書きます。
相手に読まれることを意識して書く。
後世に残ることを意識して整える。
責任を避けるために曖昧にする。
味方を守るために黙る。
敵を陥れるために書く。
書簡が残っているから正しい。
後年回想だから怪しい。
そう単純には分けられません。
歴史史料は、どれも人間の言葉です。
だから、問うべきは、いつ書かれたかだけではない。
誰に向けて書かれたのか。
何を守るために書かれたのか。
何を隠すために書かれたのか。
そして、何が書かれなかったのか。
この視点で慶喜の回想も、新谷道太郎の証言も、幕末の書簡も読まなければならない。
「逃亡説」は、なぜ残ったのか
慶喜側には、逃亡とは異なる説明がありました。
朝敵化を避けるため。
将兵の激昂を鎮めるため。
江戸へ戻り、徳川家の政治処理をするため。
しかし、それでも「慶喜は逃げた」という評価は残りました。
なぜか。
理由は単純です。
行動の見た目が、あまりにも逃亡に見えたからです。
慶喜は大坂城を離れました。
旧幕府軍の将兵を残し、会津・桑名の藩主は同行させたものの、その兵たちには十分な説明が届いたとは言いがたい。
そして海路で江戸へ戻った。
これを見た者が「逃げた」と受け取るのは、無理もありません。
だから、「逃亡説」は完全な虚構ではない。
しかし、「逃げた」の一言で片づけるには、あまりにも粗い。
慶喜は戦場から逃げたのか。
それとも、薩摩が作った政局の盤面から降りようとしたのか。
あるいは、そのどちらでもあり、どちらとも言い切れないまま、側近にも将兵にも説明しきれずに大坂城を去ったのか。
ここに、徳川慶喜という人物の難しさがあります。
結論
「慶喜が大坂城を離れた」は事実です。
しかし、「逃げた」は解釈です。
鳥羽伏見の敗報。
錦旗と朝敵化。
江戸騒擾。
江戸薩摩藩邸焼討。
対薩摩不信。
将兵の激昂。
側近への説明不足。
晩年の抑制された自己説明。
これらを同じ盤面に置いたとき、慶喜帰東は単純な逃亡劇ではなくなります。
もちろん、慶喜を美化する必要はありません。
彼は部下を残した。
説明しなかった。
責任を引き受けきれなかった。
その批判は残ります。
しかし同時に、彼が何を恐れ、何を避け、何を語り、何を語らなかったのかを見ずに、「逃げた」とだけ断じるのもまた、後世からの雑な裁判ではないでしょうか。
歴史は、結果を知っている後世の裁判ではありません。
当時者がその時点で見えていた証拠、情報、選択肢から、もう一度判断し直す必要があります。
慶喜は逃げたのか。
それとも、逃げたようにしか見えない形で、政局から退いたのか。
その答えは、まだ一言では言えません。
