オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#6

2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。




今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。




KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)

https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25


KNOTドラマパイロット版(YouTube)


KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)





VI... To be 




 翌朝、PhatSaはゆっくりと目を覚ました。奥深くまで潜り温もりに満ちた底から少しずつ浮上するように、寝惚け眼で微睡んでいた。

 彼がまず気づいたのは、痛みでも、寒さでも、ましてや前夜に彼をあやうく焼き尽くしかけた熱さでもなかった。それはベッドの柔らかな感触。辺りに未だ漂う木樽に染み込んだウイスキーの温かみのある香り。微かな煙の痕跡。そして全身の力が抜けてしまうような、悔しいくらいに抗い難いほど深く刻み込まれた揺るぎない男の存在感だった。彼の頭はまだほとんど覚醒していなかったが、なぜか不思議と安心感を抱いていることが素直に腹立たしかった。


 PhatSaはしばらくじっと横たわったままゆっくりと瞬きを繰り返し、それからようやく目を開けた。ぼやけていた視界が次第に鮮明になり、そこには自分の部屋のものではない、汚れひとつない白い天井があった。カーテンも見知らぬものだった。枕に至っては、さらに言うまでもない。硬すぎたり、変なところが柔らかすぎたりするそれは、誰か自分以外の人間の匂いがはっきりと残っていた。


 PhatSaはしばらく動きを止め、そっと頭を上げた。その胸の中ではじわじわと警戒心が広がっていた。彼の記憶はまだ完全には戻っていなかったが、ここが自分の家では決してないことを、本能がすでに警鐘を鳴らし始めていた。


 彼が最初に目にしたのは、優雅で広々とした部屋だった。そこは不用意に息をすることさえ躊躇われるほど、途方もなく整然としていた。視界に入る何もかもが高価そうで、クールトーンで統一された室内はあまりにも洗練されていた。理由もなく物に触れることなど到底許されないような場所であることは明らかだった。

 そして次に目にしたものは、すぐ傍で寄り添いPhatSaが目を覚ますのを静かに待っている長身のシルエットだった。その男はまるでとっくに起きてPhatSaを見つめていたかのようだった。


 最悪だ。


 あの日の朝と全く同じ光景はデジャヴのようだった。


 PhatSaはベッドから飛び出しそうになるほど、ビクッと跳ね起きた。


 男は瞬時に身体を動かした。その表情は相変わらず無表情のままだったが、PhatSaが本当に転落してしまうのではないかとでも言うように、僅かに身を乗り出していた。


 「気をつけて」


 その一言ですべてが崩壊するには十分だった。


 なぜならPhatSaがその声を聞いた瞬間、昨夜の記憶が堰を切ったかのように一気になだれ込んできたからだ。息もできなくなるほど纏わりつくフェロモンの香り。焼け付くように熱く、脆く、胸を揺さぶるような口づけ。衝動から掬い上げてくれた力強い腕。心を震わせた安らぎを与えてくれた言葉。混乱。渇望。この身に起きた出来事すべてが鮮やかに蘇る。そのひとつひとつを思い出すごとに頬が火照り、記憶を消そうと枕で自分自身を殴りつけたくなった。


 クソッ!


 こんな朝を微塵も迎えたくはなかった。


 PhatSaはもう少しで失神しそうだった。それが無駄な足掻きであることは自覚していたが、彼は咄嗟にブランケットをひっ掴み、素早く自分の身体に巻きつけた。すでに起きてしまったことはもはや変えられない。絶対に忘れるべきだった記憶はとっくに思い出されていた。そして、そのすべての元凶である男は隣に横たわり、立ち去る気配など僅かも見せずにPhatSaを見つめていた。


 それでも頭の中ではどんなに大声で叫び出したいほどであっても、いつものPhatSaのままだった。彼は唇を強く引き結んで深呼吸する。残された僅かなプライドを掻き集め、どうにかポーカーフェイスを取り繕おうとした。どうせ面目を潰されるのなら、せめて少しは誇りを保ったままでいさせて欲しかった。目の前の男に自分の頭の中の恥ずかしい記憶をすべて読み取られているのではないかと感じながら、彼はそこにただ真っ赤な顔をして座り込んでいた。


 NaKhunは黙ってPhatSaを見つめ続けた。彼の表情は相変わらず読み取れず、何を考えているのかさっぱり分からなかった。まるでほんの一瞬でも視線を逸らせば、ベッドの上のその頑固な生き物が消え去ってしまうとでも思っているかのようにPhatSaから目を逸らすことは決してなかった。


 結局、沈黙を破ったのはNaKhunだった。


 「ここに引っ越してくる必要がある」


 PhatSa一度瞬きをした。それからもう一度。そして、信じられないといった様子で自分自身を指さした。


 「何だって?」


 「この家に引っ越しておいで」


 そうNaKhunは繰り返した。すでにそれが決定事項であるかのように、その声は低く、落ち着き払っていた。


「その方が何かと都合が良いだろう」


 Phatsaは一瞬動きを止めた。そして乾いた、虚ろな笑いを漏らした。それは彼自身がこれを笑い話と悪夢のどちらと受け止めるべきか決めかねているような響きを持つ笑いだった。


 「ちょっと待って。一体誰に向かって命令しているの?」


 「命令しているわけではない」


 NaKhunは間髪入れずににそう答えた。


 「どうすべきかを伝えているだけだ」


 「ああ、そう?」


 PhatSaは完全に理解したかのように頷いた。


 「もしそんなことするならどうなるか教えてやる。俺はここから動かない」


 NaKhunは即座に眉を顰めた。


 「今は一人でいるべきじゃない」


 「誰がそんなこと言ってるの?」


 「あなたの身体が」


 Phatsaは一層イライラさせられるだけだった。


 「へえ、今は身体とお喋りできるわけ? 大したもんだね」


 その皮肉を聞いてNakhunの瞳は些か険しくなったが、それでも彼は明らかに感情を抑えようとしていた。


 「頑固にならないで」


 「俺は頑固じゃない。俺だって考えられる頭くらい持ってる」


 Phatsaは即座に言い返した。


 「それに会ったばかりの知らない男の家に引っ越すほど俺は狂ってない。ついさっき、その…」


 あとの言葉を口にするのがあまりにも恥ずかしく、PhatSaは言い淀んだ。


 しかしそれだけで十分だった。Nakhunはすでに完全に理解していた。


 「ついさっきが何だと?」


 その男はあまりにも落ち着き払った様子で尋ねた。


 Phatsaは即座に顔を背ける。


 「ついさっき寝たばっかりの…」


  クソッ、どうしてこの男はこんなに平然としているのか。


 「えっと…そういうことだよ」


 「あなたはここにいるんだ」


 「嫌だって言ってるじゃん!」


 今度こそPhatSaは本当に声を荒らげた。彼は振り返って男を睨みつけた。瞳にはまだ生々しい屈辱の色が浮かんでいたが、その頑固さは完全に取り戻されていた。


 「家に帰る。自分の家にいるから。昨夜起こったことだけで、俺の生活にこんなに干渉する権利はあなたにはない。昨夜起きたことは——」


 「昨夜に限った話ではない」


 NaKhunはすぐさまPhatSaの言い分を遮る。その声は先ほどより低く、そしてそれは誰の耳にも明らかだった。


 しかしすでに感情が高ぶっていたPhatSaはもう自分を止めることはできなかった。話すにつれてどんどん苛立ちを募らせ、それに比例して言葉もさらに棘のあるものになっていった。


 「俺にとっては昨日の夜で終わったことだった!ただ寝た、それだけ!なんで俺の人生全部に責任を取らなきゃいけないみたいな態度をとるの?ヒーローぶらないでよ!」


 俺たちは寝た、その言葉だけでその場の空気が一変した。


 物音ひとつしなかった。爆発もなかった。だがPhatSaはそれを敏感に感じ取っていた。瞬く間に、彼を取り囲む空気が重苦しくなる。NaKhunの表情が先ほどとは別の意味で微動だにしなかった。その漆黒の瞳は冷え冷えとした光が宿り、無意識の内に何かが彼の身の内から外に向かって溢れ出していた。


 フェロモン。


 NakhunがPhatsaの家に押し入ったあの瞬間に比べれば、圧倒されるものでは全くなかった。しかし、NaKhunと番として結ばれたPhatSaにとっては、十分すぎるほどの威力を持っていた。思考が追いつく前に、PhatSaの身体は反射的に反応していた。心臓が跳ね、呼吸が上手くできない。目の前の男が本気で怒っていることを本能が察知し、彼の全身はピタリと硬直した。


 Phatsaは必死に怯まないよう唇を強く結んだが、抗おうとすればするほど目頭が熱くなり、やがて抑えきれずに涙が零れ落ちた。


 彼自身、その涙に驚いていた。


 また泣いているのか?


 まったく、何てことだ。


 しかし、最初の涙がPhatSaの頬を伝った瞬間、NaKhunの表情はまるで平手打ちを食らい我に返ったかのように一変した。部屋の圧迫感がすっと消えた。彼はPhatsaに向かって素早く近づいたが、さらに怖がらせてしまうことを恐れたかのか途中で勢いを緩めた。


 「すまない」


 NaKhunの声音はすっかり変わっていた。そこに冷たさは残っていなかった。威圧感も圧力もなかった。ただあったのは、純粋な危機感と隠しきれない動揺だけだった。


 「そんなつもりではなかったんだ」


 PhatSaはPhatSaで恥ずかしさと怒りから、その場で消えてしまいたいという思いでいっぱいだった。彼はなけなしのプライドを保とうと、手の甲で慌てて涙を拭った。だが、拭えば拭くほど涙は止めどなく溢れ、まるで今日の自分の身体は、PhatSaに恥をかかせることを本業にでもしているかのようだった。


 NaKhunは完全に途方に暮れていた。彼の表情から怒りの色はすっかり消え失せ、ただ自分がしでかしてしまった顛末にどうすればいいのかわからないといった様子だった。やがて彼は、二人の間の距離を一気に詰めると、考えるより先にPhatSaをその胸に抱き寄せた。


 PhatSaは身体を硬直させた。


 その抱擁はきつく、その腕はとても力強かった。しかし少しも怖いものではなかった。それは心底驚き、心底憔悴しきった時に生じるような、そんな切実な抱擁だった。今ここでしがみついていなければ、自分自身がその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの。


 「すまない」


 PhatSaの耳元でNaKhunはもう一度言った。低く、掠れた声で。


 「本当にすまない」


 PhatSaは彼の腕の中で身を硬くしていた。彼を突き放すこともしなければ、抱き締め返すこともしなかった。


 そしてNaKhunはもしこれ以上ほんの少しでも躊躇えば、目の前の頑固な少年がさらに激しく泣き出してしまうのではないかと恐れるかのように、口早に話を続けた。


 「あなたの望みを聞かせて」


 PhatSaは身構えた。


 「あなたはどうしたい?私にどうして欲しい?教えてくれ」


 Nakhunはほんの一瞬言葉を区切り、Phatsaの頬に残る涙にじっと視線を注ぐ。そしてさらに声を潜めて言った。


 「お願いだからもう泣かないでくれ」


 NaKhunは自分の心がすでに半分に引き裂かれそうだと声に出して言うことは決してなかったが、なぜかPhatsaには、他のあらゆることからそれが痛いほど伝わってきた。


 少しの間、沈黙が続いた。それからPhatSaは深く息を吸い込んだ。できる限り気丈に振る舞いながら泣くのを堪らえようとしてNakhunの肩に顔を埋める。そしてくぐもった声で呟いた。


 「もし俺がここにいることに同意したら…」


 Nakhunはピタリと動きを止め、全身がまるで一瞬で神経を研ぎ澄ませているかのように見えた。


 そしてPhatSaはまるで国際条約の条件を提示するかのようにゆっくりと話し続けた。


 「俺が許可するまで絶対に近づかないで」


 今度はNaKhunが体を引いて、PhatSaの顔をまっすぐに凝視した。


 「何だって?」


 「言った通りだよ。俺に触ったり抱き締めたりキスしたり近づいたり、許可なく勝手な行動したりするのは全部禁止」


 目を赤くしたままPhatSaは即座に告げた。


 聞けば聞くほど、Nakhunはまるで完全な静寂の中で首を絞められていくような感覚に陥った。彼がどれほどそれを嫌っているか、痛いほど明らかだった。あまりにも分かりやすい反応に、PhatSaは瞳に涙を浮かべながらも思わず笑ってしまいそうになる。しかし結局のところNaKhunはただ目を閉じ、幾重にも重なった感情を一つずつ無理やり抑え込むように深く息を吸い込むことしかできなかった。


 「あなたには敵わないな」


 PhatSaは片眉を上げた。


 「それで?賛成なの?反対なの?」


 NaKhunは長い間、黙り込んでいた。Phatsaが、彼が反論してくるか、あるいは自分を理不尽だと責め立てるのではないかと考え始めるほどの長い時間だった。しかし最終的にNaKhunはただ目を開け、抑揚のない声で答えた。


 「いいだろう」


 今度はPhatSaが動きを止めた。


 「そんな簡単にいいの?」


 「私は約束したはずだ」


 そうNaKhunは答えたが、その表情には依然として苛立ちがはっきりと表れていた。


 「それにその言葉を取り消すことは許さない」


 PhatSaは口を噤み、そして口角が危うくピクリと上がりそうになるのを隠すために顔を背けた。ここで笑うべきではなかった。しかし、渋々折れた時のNaKhunの表情が本当に可笑しかった。少なくともそれまでPhatSaに襲いかかっていた恥ずかしさを紛らわせてくれるくらいには。


 NaKhunはといえば、ベッドにいる少年を見つめながらそこに座っていた。その少年はほんの少し前まで目を真っ赤にして泣いていたというのに、今では持ち前の負けん気を取り戻して要求を突きつけていた。その胸の中にはやり場のない不満が渦巻いていた。PhatSaに近づくことを許されていなかった。触れることも許されていなかった。何もかも許されていなかったのだ。前夜、彼を抱きしめ、宥め、一線を遥かに越えていたというのに。それなのに翌朝には、まるでベッドの傍らで鎖に繋がれた飢えた狼であるかのように、そこでじっとルールを聞かされることになっていた。


 そして一番最悪だったのは、NaKhunがそのルールに同意してしまっていたことだ。


 なぜなら要求を出した張本人がPhatSaだったからだ。


 結局、NaKhunはただ長い溜め息を吐き、約束通り本当に身を引いた。とはいえ、内心ではPhatSaを揺さぶり、自分がどれほど追い詰められているか分かっているのかと問い詰めたいほど苛立っていた。

 一方PhatSaは、NaKhunが本当に離れていくのを見て、幾許か罪悪感を抱きつつも、密かにホッと胸を撫で下ろしていた。少なくとも、PhatSaにはまだ自分の意思でどうにかできることがある。目の前の男がただ自分の思い通りにPhatSaを動かそうとするだけではないのだと分かった。少なくとも……まだ少し一息つける余裕は残されていた。


 たとえその部屋が、見知らぬ男のベッドの上のほんの小さな空間にすぎなかったとしても。悔しいことに、その男の匂いは今や世界で一番安らげるものとなっていた。


 二人はそのまましばらくの間、黙って座っていた。やがてPhatSaは男の方を見ずに呟いた。


 「あとで撤回したくなったらどうする?」


 そう尋ねると、NakhunはすぐにPhatSaに視線を向けた。


 「何について?」


 Phatsaはまだ彼を見ようとはしない。


 「……さっきの許可についてさ」


 今度はその日の朝、初めてNaKhunの口角が微かに動いた。PhatSaがまだ顔を上げてもいないうちに、NaKhunは落ち着いた声でこう答えた。


 「その時になったら考えよう」


 PhatSaはサッとNaKhunへと振り向き、彼が笑いを堪えているところを目撃した。


 この野郎。


 PhatSaは咄嗟に枕をひったくり、彼に向かって投げつけた。NaKhunはそれを屈辱的なほど簡単にキャッチし、枕をちらりと一瞥した。それからPhatSaの胸の内を再び激しく波立たせ、心の底から腹立たしいと思わせるあのいつもの表情で、再びPhatSaに視線向けた。


 そしてまさにその瞬間、PhatSaは静かに悟ったのだ。取り決めや条件を突き付け二人の間にはっきりと境界線を引いたとしても、この男の元に残ることに同意したことは紛れもない事実なのだと。


 PhatSaのそれまでの平穏な日々は二度と戻ってくることはなかった。


 諍いがしばらくして落ち着くと、二人の間に流れる静寂は奇妙なものに変わった。気まずいとまではいかないものの、その沈黙は徐々におかしな空気を帯びていった。決して居心地が悪いものではないが、お互いに一線を越えすぎてしまい今更どうやって普通に振る舞えばいいのかわらかない、といった二人の間にだけ流れる独特の沈黙だった。

 PhatSaはベッドの上でブランケットを握り締めている。この部屋には普通であることなどまったく存在しないにも関わらず、すべてを日常の風景に戻そうと必死に足掻いているような表情を浮かべていた。

 NaKhunは少し離れた場所に座っていた。約束通り距離を保ちつつも、ベッドの上にいる頑固な生き物が気が変わって今にも家へ逃げ帰るのではないかとでも言いたげに、PhatSaから片時も目を離さなかった。


 結局、NaKhunが再び沈黙を破った。


 「あなたの名前は?」


 その質問を投げ掛けられ、Phatsaは言葉に詰まった。答えに窮したからではなく、"ああ、自分とこの男は、まだ互いの名前すら知らないのだ"という嫌になるほどの現実を、屈辱的なほどはっきりと突きつけられたからだった。


 信じられないことだ。


 昨夜、そのすべてのことを経験したというのに。名前のような基本的なことすらまだ知らなかったのだ。


 それがすべてをさらにおかしなものに感じさせた。PhatSaは答える前に唇を少し引き結んだ。その声には、いつもの警戒心と生意気さが入り混じっていた。


 「Phatsa Rattanatharin」


 PhatSaは一呼吸置き、まるで面接で自己紹介でもするかのように、至って真面目な顔で付け加えた。


 「現在の状況は最近卒業して、現在就職活動中。誇りを持って無職をしています」


 NaKhunの口の端がほんの僅かに、だが確かに動いた。前夜にあんなことがあった後にも関わらず、相手からそんな自己紹介が飛び出すとは予想すらしていなかったかのようだった。


 そして、今度は男の番だった。


 「Nakhun Thewathitirat」


 彼の声は相変わらず低く落ち着いていたが、自分のことについて話す時だけは言葉が短く簡潔になった。それは、これまで誰に対しても自分が何者であるかをわざわざ時間をかけて説明する必要など一度もなかった人物の口振りだった。


 「不動産開発会社の未来の社長」


 PhatSaは数回瞬きをした。そしてNaKhunを上から下まで見渡した。目の前に座る男とその肩書を比較する資格を今まさに得たかのように真剣な眼差しで値踏みした。


 するとPhatSaはこれ以上ないほど真顔で言った。


 「あなたははまるでマフィアのボスみたいだね」


 NaKhunは即座に眉間に皺を寄せた。


 「何だって?」


 PhatSaは肩を竦め、皮肉を言うチャンスにすっかり乗り気になっている様子だった。


 「本当にそれっぽいよ」


 PhatSaの視線はこれっぽっちも隠すことなく、再びNaKhunを舐めるように見下ろした。


 「目つきが悪いし、家はでかいし、部下も抱えてる。あなたが現れるとドアはぶっ壊れし。一体どうなってるの。もしかしてみかじめ料でも取り立ててるの?」


 その最後の質問にNaKhunは一瞬ピタリと動きを止め、苛立ちと面白がることのどちらを先に表に出すべきか決めかねているようだった。結局、彼は以前と変わらない真顔で答えた。


 「いいえ」


 PhatSaは眉を上げた。


 NakhunはPhatSaの目をまっすぐに見つめ、完全に無表情のまま話を続けたが、それがかえって事態を悪化させた。


 「私はただ金を貸しているだけだ」


 Phatsaは一瞬ぽかんと彼を見つめた後、突然吹き出した。


 「それって何が違うっていうの?」


 NaKhunは完全に冷静さを保ったまま言った。


 「それ相応の担保が必要だ」


 その言葉にPhatSaは本気で吹き出し、今度はさらに大きな声で笑った。他人のベッドの上でブランケットに包まったままという、可笑しな要素など一つもないはずの状況であるにもかかわらず。しかしNaKhunがそのような台詞を極めて真顔で口にするものだから、どうしようもなく笑ってしまったのだ。


 「本当に呆れた奴だ……」


 彼はどんな悪態を吐くのが一番ぴったりくるか決めかねている様子で首を振った。


 「いいから認めなよ。完全に闇金業者みたいな喋り方だよ」


 「私のビジネスは合法だ」

 

 「あなたのその言い方はそうとは聞こえないけど」


 NaKhunは一瞬、黙ってPhatSaを見つめていた。やがて彼の口の端が再び動いたのが今度はもう少しはっきりと見て取れた。本物の笑みと呼ぶには足りないが、それに大分近いものだった。


 そしてPhatSaはその表情の変化に気づいて口籠った。


 奇妙だった。


 NaKhunが身に纏っていた絶え間ない威圧感が消え、常にその場を圧倒するような雰囲気がなくなった。そうするとNaKhunが突然、少しだけ人間らしく見えた。


 相変わらず腹立たしいほどの傲慢さ。


 相変わらず心の底から湧き上がる苛立ち。


 しかし同時に、どうしようもなく厄介なことに惹かれてしまう。


 その後に訪れた沈黙は先ほどとは打って変わって、もはや張り詰めたものでも、気まずいものでもなく、どこか軽やかに感じられた。まるでお互いの名前を知ったことによって、前夜の狂騒がようやく形を成したかのようだった。本能で結ばれていた二人の見知らぬ者同士は、少なくともお互いを名前で呼び合える間柄になったのだ。


 そしてそのことを考えれば考えるほど、不思議な気持ちになった。


 再び先に口を開いたのはPhatsaだった。今度はさらに声を潜めていた。


 「なんか変」


 Nakhunが彼を見つめた。


 「何がだ?」


 PhatSaは軽く唇を引き結ぶと、自分自身でも驚くほどの正直さで答えた。


 「今になって自己紹介からやり直してるってわけ?」


 PhatSaはいつもの皮肉めいた視線の奥に僅かに気恥ずかしさを隠しながらNaKhunを見つめた。


 「あんなことがあった後に」


 今度はNaKhunも本当の意味で言葉を失った。それは返答に窮したからではなく、事実を認めざるを得なかったからだった。


 NaKhunはしばらくPhatsaを見つめていたが、やがてその眼差しには、彼らしくもなくふと柔らかいものが宿った。


 「その通りだな」


 それほんの短い言葉だった。


 そしてなぜかその言葉によってPhatSaは再び顔を赤らめた。彼はすぐに顔を背けた。NaKhunに再び自分が自制心を失うところを決して見られたくなかった。


 クソッ。


 彼らが今になってようやく、互いの名前を知ったばかりだということが信じられなかった。


 今になってようやく、こんなふうに言葉を交わしていることが信じられなかった。


 引き返せないところまですでに進んでしまった後になって、ようやくそのすべてのことが現実として実感し始めるなんて信じられなかった。

 

 何もかもが遅すぎた。


 もしかしたらもう手遅れなのかもしれない。


 それなのにいざ静かに思いを巡らせてみると、PhatSaは本当にそれを望んでいるのか、自分でも確信が持てないことに気づいた。


 NaKhun自身は相変わらず落ち着き払っているように見えたが、内心では彼も同じくらい動揺していた。彼はその一晩中、理性を保てていたなら決して許すはずのないところまで、肉体と本能の赴くままに身を委ねきっていた。そして目覚めてからフルネームを尋ねてみると、ベッドにいるその頑固な少年は、大学を卒業したばかりで職を探している身だと知ったのだ。それはひどく非日常的で、ひどく奇妙でありながら、どうしようもなく現実のことだった。


 まるで本来なら踏むべき手順をすべてすっ飛ばし、今この時になってようやく当たり前のことをしているかのようだ。


 その事実に気づいた今、二人はしばらくの間、黙り込んだ。


 PhatSaが彼の方を振り返りもせず、小声でぶつぶつと呟くまでは。


 「じゃあ、本当にみかじめ料は取ってないんだ?」


 NaKhunは直ちにPhatSaの方を振り向いた。


 そして今度は、本当に笑った。


 大きな笑いではなかった。喉の奥を低く鳴らしただけだった。


 だが、確かにそれは笑い声だった。


 PhatSaは驚いて首を勢いよく巡らし、まるで信じられないものでも目撃したかのように彼を見つめた。


 「笑えるの?」


 「私は人間だ」


 「それはどうかな」


 Phatsaは呟いた。


 「最初はどこかのアジトからフラフラと出てきたマフィアの闇金業者か何かかと思った」


 NaKhunは彼を暫くじっと見つめた後、穏やかな声で尋ねた。


 「それで今は?」


 Phatsaは言葉に詰まった。


 どうということのない問いだった。


 それにもかかわらず、その質問は何の前触れなく再び部屋を静まり返らせた。


 彼は少しの間NaKhunを見つめていたが、やがて視線を逸らし小さく呟いた。


 「まぁ…まだちょっとそんな感じだね」


 しかし今度はPhatSaの噛みつくような口調は小さくなっていた。


 より柔らかく。


 より静かで。


 本人が語っている以上に含みを感じるような言い方だった。


 NaKhunは黙ってPhatSaを見つめていた。それ以上何も言わなかったが、彼にはすでに一つのことが明確にわかっていた。


 どんなに奇妙な始まり方だったとしても、どんなに遅すぎたとしても、すべての順序がどんなに目茶苦茶だったとしても——


 二人は今、今度こそ本当に直接出会えたのだと。






 その日の朝、Thewathitirat家のダイニングルームは、相変わらずただひたすらに豪華で完璧に整えられていた。背の高い窓から差し込む優しい陽光が長い木製のテーブルを照らし出し、そこではすべての皿、すべての銀食器、すべてのグラスが整然と完璧なまでに並べられていた。温かい朝食の香りがふんわりと空気に漂い、中央の花瓶に飾られた生花と混ざり合っていた。その様は格式と厳格さを保ち続けてきた名家に相応しく、すべてが美しく、静かで、完璧に手が行き届いていた。


 しかし今朝はまだ何も始まってすらいないというのに、その平穏はすでに崩れ始めていた。


 PhatSaはこれ以上ないほど居心地の悪さを感じながら、NaKhunの後ろを追ってダイニングルームに入った。彼はまだこの邸宅に慣れていなかった。その広さや贅沢さ、そして隅々にまで満たされている静けさにも馴染めずにいた。この場所のすべてが当たり前のように自分のものであるかのように振る舞うNaKhunの後ろを歩けば歩くほど、PhatSaはまるでどこかから迷い込んでしまった異物のように感じられた。


 彼らがダイニングルームに入った途端、それまであった静かな話し声はピタリと止んだ。


 テーブルの上座に座っていたNaresは、一度だけ顔を上げた。しかしその一瞥だけで部屋全体の空気を凍りつかせるには十分だった。彼は何も言わなかった。何も尋ねなかった。挨拶という最低限の礼儀すら示さなかった。ただ一瞬、無言でPhatSaに視線を向けると、次にNaKhunへと視線を移し、怒りよりもむしろ恐怖を感じさせるような落ち着き払った様子でスプーンを置いた。


 そして彼は席を立った。


 椅子が床を擦る音は小さかったが、静寂の中では信じられないほど大きく響いた。彼は一言も発さずにテーブルから離れた。まるでただそこに座り、目の前の光景を視界に入れることは、もうこれ以上は十分すぎると言わんばかりだった。


 PhatSaはわずかに身を硬くした。それほど温かい歓迎を期待していたわけではなかったが、それでもこれほど露骨にあしらわれると、やはり背筋に緊張が走った。


 少し離れた席にいたNaphitは父の後に続こうとすぐに立ち上がり、先ほどよりもさらに重苦しい静寂を残していった。


 こうして、ほんの少し前まで家族で賑わっていた大きなテーブルにはKhamphirada、NaKhin、NaKhun、そしてPhatSaの4人だけが取り残された。


 PhatSaはそこに立ち尽くし、席に着くべきか、それともそっと引き下がってここですべてを終わらせるべきか決めかねていた。しかしどうすべきか決めかねている内に、Khamphiradaが先に動いた。


 Khamphiradaは膝の上にナプキンをきれいに広げると、初めてPhatSaに視線を向けた。そして、その視線はNaresのものとはまったく違っていた。


 彼女の瞳は優しかった。PhatSaが思わず引き込まれてしまうほどに優しかった。


 「そこで何をしているの、あなた」


 Khamphiradaは優しく尋ねた。


 「さあ、座って」


 Phatsaは、まるで本当に自分に話しかけられているのか確信が持てないかのように、瞬きをした。彼はわずかにNakhunの方を向いたが、隣の男はまるでこの事態がすでに終わっているかのように、ただ椅子を引いた。


 結局、PhatSaは座るしかなかった。


 テーブルの向かい側ではNakhinがその光景を黙って見つめ、笑い出しそうになるのを隠すようにグラスを持ち上げた。彼は口を挟まず、空気がゆっくりと新たな形に落ち着いていくのを見守った。


 再び口を開いたのはKhamphiradaだった。彼女は詮索するようなことは何も聞かなかった。PhatSaが密かに恐れていたような尋問もしなかった。その代わりに彼女はただ自分の手前にある料理をいくつか取り、子供や家族の世話をするような手慣れた様子で、PhatSaの皿に料理を盛った。


 「まずは何か温かいものを召し上がって。まだ本調子じゃないのに、胃を空っぽにしておくのはよくないから」


 そう言うと彼女はPhatSaの方へ皿を引き寄せた。


 PhatSaはそれを聞いて反応に窮したが、彼が返答する前にKhamphiradaが顔を上げて再び微笑んだ。


 「そんなに緊張しなくていいのよ、ダーリン」


 その言葉はあまりにもシンプルだったが、それでもPhatSaが意識するよりも前に、肩の緊張をふっと解きほぐしてくれた。


 しばらくPhatSaの様子を見守っていたKhamphiradaは、依然として柔らかいながらも先ほどよりはっきりとした口調で話を続けた。


 「私もオメガだから番になった直後は決して楽じゃないということがよく分かるの」


 PhatSaはピタリと動きを止めた。


 彼女はほんの一瞬だけNaKhunの方を見やり、それから再びPhatSaに視線を戻した。


 「それにあなたが私の息子の運命の番だという事実もあるし」


 運命の番という言葉を聞いたPhatSaは、その場で抗議したい衝動に駆られたが、その優しい眼差しを前にすると、唇をきゅっと結んで自分の皿に目を落とすことしかできなくなった。そして自分の頬が熱くなるのを自覚し、それが堪らなく腹立たしかった。


 NaKhinは思わず声を上げて笑いそうになった。しかし幸いなことに、自分の命が惜しかったためにその笑いを心の中に留めておくことができた。


 Khamphiradaはそれ以上何も言わなかった。彼女はただ、ボウルと皿をもう一度少しだけ近づけ、軽やかな声で言った。


 「母さん、彼の名前はPhatSaといいます」


 Nakhunが静かに付け加えた。


 その瞬間、Phatsaはふと苛立ちを覚えた。はっきりと言葉で言うわけではないが、この男は一体どいういつもりで図々しく弟扱いするような口調で話し始めたというのか?


 「素敵な名前ね」


 Khamphiradaが心から言った。


 「ありがとうございます」


 PhatSaは答えた。これまでほとんどの人から変わった名前だと言われてきた。彼女はこの名前が素敵だと言ってくれた初めての人だった。そして照れ臭くなりながら、自分が想像していた以上にその言葉を嬉しく感じていた。PhatSaはずっと自分の名前をとても気に入っていたのだ。


 「まずは召し上がって、ダーリン。あとのことは後ほど話しましょう。Jimjaさん、PhatSaにもう少しオレンジジュースを持ってきてくださる?」


 彼女は振り向き、近くに立っていたメイドに声をかけた。メイドは素早くオレンジジュースを用意し、PhatSaの目の前に置いた。


 ダーリンというその言葉を再び耳にして、PhatSaは静かな戸惑いとともに彼女へ視線を向けた。彼は、会ったばかりの人、ましてやNaKhunの母親からそのような呼び方をされることに慣れなかった。


 隣にいたNaKhunは相変わらず黙りこくっていたが、母親に視線を向けたその眼差しは明らかに柔らかかった。父親の反対と家中に立ち込める重苦しい緊張の中にあっても、この朝だけは、少なくとも一人はPhatSaを迎え入れようと心を開いてくれる人がいるかのようだった。


 Phatsaは皿の上の料理に目を落とし、それからゆっくりとスプーンを手に取った。内心では、依然として混乱と不安が満ちており、そしてなぜ自分がこんな場所に座っているのかという拭えない違和感を抱えていた。しかしKhamphiradaの温かさによって、それまでの頑なさが解されていくようだった。


 その朝もThewathitirat家の食卓は、相変わらず息を呑むほど美しく、豪華で、威圧感すら漂わせていた。しかし、ひとりの女性がそこに静かに座り、理解に満ちた眼差しでPhatSaを見つめながら食事を取り分けてくれ、そして少なくともここには誰もあなたを完全には拒絶していないと語りかけるような声で話しかけてくれたからこそ——


 結局のところ、そこまで耐え難いほどの冷たさは感じなかった。


 その朝に限っては。


 朝食が終わると、邸宅の中には徐々にまた静寂が取り戻されていった。


 ただの穏やかな静寂ではなかった。それは、それぞれの抱える仕事、言葉にする必要のないそれぞれの個人的な思考を持ち、誰もがそれぞれの持ち場へ散ったあとの大邸宅の静けさだった。食卓を離れると、Khamphiradaは奥へと姿を消した。NaKhinはいつものように、何を考えているか読み取れないずる賢い笑みを浮かべながら二階へと消えていった。そしてNaKhunは、先ほどの混乱がまるでその瞬間、綺麗さっぱり片付けられてしまったかのように、ほとんど不気味なほどの素早さでいつもの自分へと戻っていった。


 NaKhunは鏡の前に立ち、スーツを身に着けていた。姿勢を正し、再び日常の落ち着きを取り戻していた。まるで世界がどれほど変わってしまおうとも、仕事は変わらずにそこで待ち受けており、彼はそれでも尚、外に出てそれをこなさなければならないといった風情だった。


 PhatSaはドアの枠に凭れかかりながら、胸に奇妙な感情を抱きつつ、NaKhunを遠くから見つめていた。彼はまだ卒業したばかりだった。朝起きると、どこの企業に応募するか、履歴書を何通送るかを考えたり、あるいはもっと気怠い日には、いっそ何もしないことを静かに決心したりするような人生の時期にいたのだ。しかし、目の前にいる男は、目覚めると同時に世界が彼を中心に動いているかのような人物に見えた。


 彼らはあまりにも違いすぎた。


 NaKhunはPhatSaの方にちらりと視線を向けた。


 「今日は仕事に行かなければいけない」


 PhatSaは片方の眉を上げた。


 「へえ、そうなんだ?心配しないで。あなたの足元に纏わりついて職場までついて行くつもりなんてないから」


 NaKhunは何か言いたそうな目でPhatSa見たが、結局、何も言わずにただスマートフォンと鍵を手に取っただけだった。


 「何か必要なことがあればスタッフに言ってくれ」


 PhatSaは微かに乾いた笑い声を漏らした。


 「それじゃまるで新しいペットみたいじゃん」


 「ペットなどではない」


 NaKhunは間髪入れずに答えた。


 PhatSaは再び片方の眉を上げた。


 「じゃあ俺は何に似てるんだ?」


 NaKhunは僅かに間を置いてから、変わらぬ冷静な口調で答えた。


 「厄介事かな」


 PhatSaは丸々一秒、口をぽかんと開けた後、すぐさま一番近くにあったクッションをNaKhunに投げつけた。


 「いいからさっさと仕事に行け!」               


 NaKhunはいつものように簡単にそれを受け止めた。まるでこんなことはこれっぽっちも気にかけるほどのことではないと言うように、口の端をほんの少し上げる。そして彼はクッションを元の位置に戻してから、部屋を出て行った。


 ドアは静かに閉まった。


 そして、部屋の中はすぐに静まり返った。 


 PhatSaはしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがてあの奇妙な疎外感がゆっくりと戻ってきた。この邸宅はあまりにも広大で、あまりにも整然としており、彼には全く馴染めるものではなかった。部屋は美しく整えられ、ベッドは柔らかく、屋敷の者全員がPhatSaに冷たかったわけではない。結局のところ、そこは彼がいるべき場所ではなかったのだ。


 PhatSaは大きく息を吐き出すと、すぐにOngSaに電話を掛けようとスマホを手に取った。


 電話にはすぐに繋がった。


 「無事なんだね?」


 その声を聞いただけで、PhatSaはどっと疲労感に襲われソファにへたり込んだ。


 「OngSa先輩。俺、気が狂いそうだよ」


 OngSaはスマホ越しに優しく笑った。


 「彼に何かされたの?」


 「そういうわけじゃないけど…」


 PhatSaは早口で答えすぎていたことに気づき、すっかり参ってしまったような口調で言い直した。


 「ただこの家に引っ越してきてって言われた」


 OngSaは黙り込んだ。   


 PhatSaは再び溜め息を吐き、途中でやめてしまえば最後まで話す気力がなくなることを分かっているかのように、一気にすべてを語り始めた。引っ越しのこと。朝食の食卓。NaKhunが姿を現すやいなや父親が席を立って出て行ったこと。母親が思いがけず優しかったこと。まるで場違いなところに迷い込み、どこかの金持ちのドラマに出てきそうな豪邸に今こうして一人で座っているという不条理な現実について。


 PhatSaが話し終えた後、電話の向こうは一瞬沈黙した。


 それからOngSaはまるで心の中で何かを繰り返すかのように、ゆっくりと話した。


 「ちょっと待って…Thewathitirat?」


 「そう。何で?」


 PhatSaは特に大したことでもないように答えた。


 OngSaは一拍置いてから、より真剣な声音で話し始めた。


 「それは大物の一族だよ」


 Phatsaは相手には見えないと分かっていても、思わずうんざりした様子で天を仰いだ。


 「俺はそんな一族のことなんかどうでもいいんだ」


 PhatSaはソファに深く座り直すと、先ほどよりも苛立った様子で言葉を続けた。


 「大学を卒業したばかりなんだよ。仕事が欲しい。他人がどれだけ金持ちか、家がどれだけ大きいか、家柄がどれだけ立派かとかあれこれ考えるのはうんざりだよ」


 OngSaは小さく笑った。


 「それはそうだね。その通りだよ。だったらNaKhunと一緒に働かせてもらったら?」


 PhatSaは凍りついた。そしてまるで何かに刺されたかのように、ソファの上で文字通り跳ね起きた。


 「何だって?」


 「彼のところで働きなよ」


 OngSaはそれが世界で最も明白なことのように言った。


 「仕事が欲しいって言ったよね。今は彼の家に住んでいるんだし。もうそこまで距離が縮まっているんだからやってみたらどう?」


 PhatSaは想像しうる限り、最も常軌を逸した提案を突きつけられたかのような表情を浮かべていた。


 「嫌だ」


 「何で嫌になの?」


 「嫌なものは嫌!」


 OngSaは思わず吹き出した。本当に頑固なんだから。一体誰の弟なんだか。


 そして当然のことながら、それはPhatSaをさらに不機嫌にさせた。彼はソファの上で膝を抱え込み、まるで宇宙全体に正式な抗議を申し立てる子供のようにクッションを抱きしめた。


 「彼の名前を知ったのは今朝なんだよ!それなのに彼と一緒に働けって言うの?正気?」


 「昨夜はただ名前を聞いただけじゃ済まないくらい親密な関係になったんだね」


 「OngSa先輩!」


 OngSaは声を上げて笑った。


 「わかった、わかった。もう揶揄わないなら」


 しかし、揶揄わいないと言った時でさえ、OngSaの声には明らかに笑みが滲んでおり、それがPhatsaをさらに拗ねさせた。もしOngsaが目の前に立っていたら、今ごろ間違いなくクッションを投げつけていただろう。


 やがてOngSaは彼を気の毒に思った。


 「わかったよ、これならどう?」


 それでもPhatSaは不貞腐れたままだった。


 「何? 」 


 「カフェに出てきなよ」


 その誘いを聞いて、PhatSaは一瞬考え込んだ。


 OngSaはいつもの気安い調子で話を続けた。


 「少し外に出て気分転換するといいよ。その家に一人でこれ以上籠もっていたら色々考えすぎてしまうだけでしょ。僕のところにおいで。コーヒーを入れてあげるから」


 PhatSaはすぐには返事をしなかったが、カフェという言葉を聞いただけで、彼の表情は少し和らいだ。そこは彼がよく知っている場所だった。どう呼吸をすればいいか、どう腰を下ろせばいいか、どのように休めばいいかを教えてくれる場所であり、彼にとっての安息の地だった。少なくとも、そこにいる間ずっと疎外感を抱かせるような場所ではなかった。


 「もしNakhunにどこへ行くのか聞かれたらどうしよう?」


 「私に会いに行くと伝えればいいよ」


 「もしダメだって言われたらどうする?」


 Ongsaはほんの一瞬沈黙した後、腹立たしいほど冷静な口調で答えた。


 「それなら逃げなさい」


 PhatSaはその瞬間、やっと笑い声を上げた。


 「さすがだね」


 「それで? 来るの、来ないの?」


 PhatSaは広くて静まり返った部屋をもう一度見回し、それから小さく溜め息を吐いた。そしてようやく返事をした。


 「すぐ行く」


 Ongsaはまるで最初からその答えになることを知っていたかのように笑った。


 「よし。じゃあ出ておいで。待ってるから」


 そして電話が切れた。


 しかし今回は少し前のように、PhatSaはもはやそれほど身動きがとれないとは感じていなかった。少なくとも今の彼には行く場所があった。少なくともありのままの自分でいられる場所が待っていた。


 PhatSaはゆっくりとソファから立ち上がり、自分の服に視線を落としてから、ぶつぶつと独り言を呟いた。


 「少なくとも今日だけは闇金業者に仕事の応募をしなくて済む」


 そしてPhatSaは、ほんの少し前までの沈んでいた気分から抜け出し、少しでも晴れやかな気持ちで家を出る支度をしようと顔を上げた。


 今日としては、ただそれだけで十分だった。







#6_END