オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#8

2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。


今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。


KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)

https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25


KNOTドラマパイロット版(YouTube)


KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)



VIII... May I...? 



 いよいよPhatsaはNakhunと一緒に働き始めた。その仕事の第一段階は、PhatSaがぼんやりと想像していたような、豪華な会議室やよくある長細いテーブルや、大規模な開発プロジェクトの壮大な視察から始まったわけではなかった。

 それはそんな想像よりもずっとシンプルな形で始まった。NaKhunがSilaとAiに命じて、個室の隅にある低い作業用テーブルの上に書類の束を運ばせた。それは過去3年分のプロジェクトファイル、つまり完了した案件、未解決の案件、土地の鑑定書、開発計画、大まかな設計図、パートナーからの提案書、そしてその過程で生じたあらゆる種類の些細な問題の記録だった。


 PhatSaは一瞬、何とも言えない表情で目の前の書類の山を見つめた後、NaKhunへと視線を向けた。


 「これがあなたの言う『簡単なことから始める』ってこと?」


 反対側のテーブルに凭れ掛かりながら、NaKhunはいつもの淡々とした顔で答えた。


 「そうだ」


 Phatsaは、この男から情けを期待することがどれほど無駄な努力かということをすでに悟っているかのように、短く乾いた笑いを漏らした。それでも彼は椅子を引き寄せ、大人しく腰を下ろす。最初に手にしたファイルを開くと、それ以上文句も言わずに真剣に読み始めた。


 NakhunはPhatSaに対し、一日で全てを覚える必要はないと手短に伝えただけだった。PhatSaがまずすべきことは、各案件の全体像を把握することだけだった。すなわち、各プロジェクトで何が起き、どこで行き詰まり、どのように問題が解決されたのか、なぜ立地が優れているにもかかわらず開発を続けられなかったケースがあるのか、そして一見すると平凡に見えたプロジェクトがなぜ当初の予測を遥か超える利益を生み出す結果となったのか、といったことである。


 Phatsaは静かに頷き、すぐに読み始めた。


 最初は、NaKhunはただ彼が少し目を通せるようにそこに資料を残しておくだけのつもりだった。その頑固な少年も、一時間もしないうちに退屈して、結局はふらりと離れてソファで横になるだろうと思っていた。しかしその予想は良い意味で裏切られた。PhatSaはNaKhunが想像していたよりもはずっと真剣にそれを受け止めていた。彼は単にざっと目を通しているだけではなかった。ただページを先に進めるために流し読んでいるのでもなかった。彼は1枚1枚じっくりと目を凝らし、あちこちページを捲りながら重要なポイントを拾い上げ、時にはペンを手に取り傍らの紙にメモを取ることさえしていた。


 作業に取り掛かり始めた当初、見慣れない専門用語に悪戦苦闘しているようにPhatSaの眉間には皺が寄っていた。しかし、読み進めるにつれて、彼の眼差しは徐々に変化していった。最初は疑心暗鬼な気持ちに駆られていたが、次第に静かなる集中へと潜っていった。それはまるで別世界へと続く扉の前に佇み、初めてその内側へと踏み出そうと意を決しているかのように。


 NaKhunも少し離れたところで自分の仕事に集中しながら、時折ちらりと顔を上げていた。そして彼が目を向けるたびに、いつも同じ光景がそこにあった。PhatSaはまだそこにいた。まだ書類を読んでいた。まだメモを取っていた。あてどもなく立ち上がったり、気を散らしたりすることもなく、ページを捲り続けていた。


 それはNaKhunに微かな違和感を抱かせた。


 それまでNaKhunが知っていたPhatSaの姿といえば、頑固で、弁が立ち、神経を逆撫でするような厄介な存在、我慢の限界が来たらいつでも誰かに噛みつきそうな表情ばかり浮かべているということだけだった。しかし、こうして仕事に没頭し、ひたむきに真摯な姿で打ち込んでいる彼を見て、NaKhunは彼の別の側面に気づき始めた。それは、自分が予想していたよりもずっと静かで、落ち着いており、非常に真面目な姿だった。


 PhatSaはただ退屈だから、という理由で働きたいと言うような人間ではなかったのだ。


 PhatSaは本気でそれをやりたかった。そしていざその機会を与えられると、誠実に取り組んだ。


 その事実を目の当たりにし、NaKhunはいつもよりじっとPhatSaを見入ってしまうということがしばしば起こった。


 Phatsaは1つのファイルに目を留めた。深く眉根を寄せていたがやがて顔を上げた。『なぜ最初は投資に値すると評価されたのに、最終的にはプロジェクト全体がボツになったのか』と直接尋ねると、Nakhunはインフラの問題と都市計画規制の制限について簡潔に説明した。それを聞き終えると、Phatsaは一瞬沈黙してから頷き、内容をもう一度聞き返すこともなく、すぐに再び俯いてメモを取り続けた。


 ある時には、PhatSaは書類に半分目を通しただけでふと顔を上げた。『最初からその土地に隠れた未解決の紛争があると分かっていたのなら、なぜ彼らはそれでも購入を強行したのか?』と尋ねた。それはあまりにも的を射た質問だったため、NaKhunは答える前に一拍間を置いた。なぜならそれは、ただ読み流していたら、そもそも疑問に思うようなことでは全くなかったからだ。


 NaKhunはPhatSaのそのような姿を目にすればするほど、ますます密かに感銘を受けた。


 それはPhatSaが非常に優秀で初日にすべてを理解できたからではなく、彼が『わからないことをそのまま放置しない』という考え方の持ち主だったからである。理解できなければ質問し、理解し始めるとさらに深く追求した。そして何よりも、一度取り組んだことは簡単には諦めなかった。


 そのような人間であるならば、たとえまだ知識が浅くとも十分に育てられる。


 そしておそらく、彼はどんどん吸収して学んでいくだろう。


 午後になるとKhamphiradaは愛情と非難が入り混じったような表情を浮かべて部屋に入ってきた。彼女はドアの前で少しの間佇み、目の前の光景をじっと見渡した。テーブルの一番奥では、長男がまた別の書類の山に目を通していた。Phatsaは分厚いファイルに深くのめり込み、ほとんど顔も上げずに熱心に何かに視線を走らせていた。その様子に彼女は小さく溜め息を吐いた。このままではこの家は新卒の子を数日の内に一人前の会社員に育て上げてしまう、と痛切に熟知しているようだった。


 「NaKhun」


 彼女の声は柔らかかったものの、NaKhunが思わず顔を上げるのに十分な重みが含まれていた。


 「あなた、Phatsaに仕事をさせすぎていませんか?」


 Nakhunが口を開くよりも先にPhatsaが真っ先に顔を上げた。数字や書類にあまりにも熱心に見入っていたため、外の世界のことなどすっかり忘れているかのように見えたその瞳は、そこに佇むKhamphiradaの姿を見た瞬間、ふっと和らいだ。


 「いえ。まったく疲れていません、奥様。」


  Khamphiradaは僅か眉を上げた。


 「本当に?」 


 PhatSaはお気に入りのおもちゃを取り上げられるのを恐れる子供のように、先ほどよりも強く頷いた。


 「本当です。全然疲れていませんから」


 そして自分の言葉だけでは足りないのではないかと心配したかのように、PhatSaはファイルを置くと立ち上がり、Khamphiradaに少し歩み寄る。おそらく自分自身でも愛らしく振る舞っているという自覚がないほど、無意識のうちに相手を宥めるような口調で話し始めた。


 「正直なところ、とても楽しんでるんです」


 Khamphiradaはすぐに愛情の籠もった眼差しでPhatSaを見つめた。


 PhatSaは話を続けた。先ほどまで読んでいた内容にすっかり心を奪われている様子だった。


 「自分の知らなかったことがこんなにもたくさんあるなんて。不動産っていうのは、ただ土地を買って、何かを建てて売るだけの、それだけのものだと思っていたんです。でも、実際は自分が思っていたよりもずっと複雑でした。人間関係の問題もあれば、法律上の問題、立地、それにタイミング……。たとえ一つでも歯車が狂えば、そのダメージが全体に広がってしまう」


 PhatSaはテーブルの上の書類の山を振り返った。先ほどまで読んでいた事案に、すっかり夢中になっているようだ。


 「新しいことを学ぶことが本当に楽しいんです」


 PhatSaの声色には、微塵も気負っているような雰囲気は感じられなかった。


 彼自身の奥底から湧き出るその熱意は、誰にでもはっきりとわかるほどだった。彼は命令されてしぶしぶ読んでいるわけでもなく、義理や礼儀で我慢しているわけでもなかったのだ。彼は心からそれに興味を惹かれていたのである。


 Khamphiradaはその言葉を聞いて、ただ静かに笑みを零すことしかできなかった。そしてそっと手を伸ばし、PhatSaの髪を愛おしそうに撫でた。


 「それなら少し安心しました」


 Phatsaは彼女に微笑みかけた。ほんの僅かではあったが、あまりにも誠実な笑みだったため、Khamphiradaは以前にも増してPhatSaに対して好感を抱いている自分に気がづいた。次に彼女が視線を向けた先にはNakhunがいた。彼女の瞳から懸念の色はほとんど薄まっていたが、それでも息子に穏やかに念押しするのは忘れなかった。


 「PhatSaが疲れていないと言っていても、あまり無理をさせすぎてはダメよ」


 NaKhunはしばらく母親を見つめた後、いつもの端的な口調で答えた。


 「はい」


 NaKhunが言ったというのでなければ、それは十分に従順な答えに聞こえた。しかしKhamphiradaは己の息子をよく知っていた。彼の『はい』が了解の意味から自分のやり方で進めるという意味まで、あらゆる意味を持つ可能性があることに気づかないはずがなかった。


 そして彼女にできたことは、半分呆れながらも可笑しそうに軽く首を振ることくらいだった。そのあとAiにジュースと軽食を持ってくるよう頼み、二人の若者を仕事の世界に戻してその場を後にした。


 Khamphiradaが退出と、部屋は再び静寂に包まれた。


 Phatsaは迷うことなく自分の席に座り、再びファイルを手に取った。まるで先ほどの短いやり取りが、彼を夢中にさせていた作業を再開する前の、ほんのひと息の休憩にすぎなかったかのようだった。Nakhunは黙って自席についたまま、何か声を掛けるでもなくしばらくPhatSaを見つめていた。


 NaKhunがその男に対して抱いた敬慕の念は、静かに深まっていった。


 Phatsaは本当にじっとしていられない性格だった。


 彼は学ぶために。


 動くために。


 挑戦するために。


 失敗するために。


 そして、彼自身の力で成長するためにいるのだ。


 そしてNaKhunはそれを目の当たりにする度に、PhatSaを自分のこの世界に引き入れたことは、最初に気づいていたよりも遥かに良い決断だったのかもしれないと強く感じるのだった。


 別のファイルが開く微かな音が、再び部屋に響いた。PhatSaは書類に視線を落とし、ひたすら読み耽った。集中しているためかその眉間には微かに皺が寄っている。難しい専門用語に躓く度に小声でぶつぶつと呟き、忘れないようにするためかページの脇に小さなメモを書き込んでいた。


 Nakhunはそんな彼を見やり、口の端をほんの僅かに動かした。


 この邸宅は、あまりにも長い間、沈黙の中にあった。


 そしてNaKhunの人生もまた、あまりにも長い間、変わり映えのしないものだった。


 だが、Phatsaがこの家に足を踏み入れて以来——


 どれほど混沌としていようと、どれほど面倒で、 時には逃げ出さないように押さえつけてやりたくなるほど頑固であろうと――


 そのすべてが、なぜか再び息を吹き返していた。


 そして、ファイルの山と紙の乾いた香りに満ちたその静かな午後のひととき、NaKhunは確信をより深めていた。この頑固な少年は、自分が住む家を変えただけではないのだと。


 彼もまた、少しずつ変わってきているのかもしれない。




 その日の遅い午後、居間の雰囲気はここ数日で明らかにずっとリラックスしていた。Phatsaの目には初日には頭痛の種にしか見えなかった書類の山も、今では誰に言われることなく手に取り、一人で読み進められるものになっていた。

 Nakhunはすぐ近くに座り、時折発せられる短い質問に答えたり、必要な時に特定のポイントを説明したりしていた。Khamphiradaもしばらく彼らと一緒に座って過ごしていたり、Aiが飲み物や軽食を運ぶために時折部屋を行ったり来たりしていた。Nakhinもまた出入りを繰り返し、PhatSaが顔を上げて何度も彼睨みつけなければならないほど、揶揄いの言葉を投げかけていた。


 この邸宅には温かさや優しさだけではないものが隠されていることを、あやうく忘れてしまいそうなくらい、全体的にはとても穏やかな光景が広がっていた。だが依然として、ある種の圧迫感がそこかしこに静かに潜んでいた。

 それでもその日の午後、部屋にいた面々は驚くほど気楽に言葉を交わしていた。PhatSaはプロジェクトの資料から今まさに理解したばかりのことを説明していた。NaKhinは笑いながら揶揄い半分に聞いていた。もしPhatSaがこれほど熱心に働き続けたら、兄は間違いなく遠からずPhatSaをさらに過酷にこき使うようになるだろう、と。Khamphiradaは愛情深く穏やかに笑った。そしてNaKhunは相変わらず落ち着き払ってはいたものの、普段よりも明らかに柔らかい眼差しでPhatSaを見つめていた。


 PhatSa自身も、自分が思っている以上にこの状況に夢中になっていた。彼は、以前よりも自由に話し、より自然に議論し、さらには他人の目をそれほど気にすることなく自分の考えを説明するために資料を手に取るようになっていたことに、ほとんど無自覚でいた。


 その時、玄関のドアが開いた。


 部屋での会話が自然と弾んでいたまさにその時、乱れのないゆっくりとした足音が響き渡った。その瞬間、室内の空気は一変した。


 Naresが外から戻ってきたのだ。いつものようにダークスーツを身に着け、落ち着いた厳格な表情を崩さなかった。しかし部屋に入り、彼が目にしたもの――家族の中に座るPhatSa、微笑むKhamphirada、リラックスしたNaKhin、そして少年のすぐ傍に座るNaKhun――を捉えた瞬間、彼の瞳の奥で何かが明らかに冷たくなった。


 まずKhamphiradaの顔から微かな笑みが消えた。NaKhinも僅かに身動ぎ、ほんの数分前までの心地よい団欒が終わったことを即座に悟った。PhatSaはまだ何もしていないにもかかわらず、部屋の空気が豹変したことを直ちに感じ取った。


 そのほんの一瞬のうちに、NaKhunは考える間もなく立ち上がった。


 それは純粋な本能だった。NaKhunは間髪を入れず、PhatSaの前に立ち塞がるように動いた。その長身がPhatSaに影を落とし、まるで父親からのプレッシャーに満ちた視線がPhatSaに一度たりとも直接触れないように遮ろうとしているかのように、その姿の半分を覆い隠していた。


 それは意図的に行ったというにはあまりにも一瞬の出来事だった。


 あまりにも素早く、あまりにも自然に。


 まるでこんなことをすべきかどうかについて議論の余地もないほどに、Nakhunの心の中には最初からこれっぽっちの迷いもない行動だった。


 NaKhunの身体はとっくに決断していた。もし誰かがその重圧を背負うとすれば、Phatsaではなく彼自身であると。


 しかし、NaKhunの背後にいる人物は、そこで大人しく守られているつもりは毛頭なかった。


 PhatSaは自分の視界を遮るNaKhunの広い背中を見て、ほんの一瞬だけ足を止めた。そして恐怖というよりも微かな苛立ちから、僅かに眉根を寄せた。彼の視線は、目の前にある広い肩から、まるで制止しようとするかのように半ば掲げられたNaKhunの手へと下りていき、やがてPhatSaはなんの躊躇もなくその手を払い除けた。


 NaKhunは素早くPhatSaを振り返った。


 「PhatSa」


 NaKhunの声音は僅かに低くなり、警戒と抑止が入り混じったような響きを帯びていた。


 しかし、Phatsaは耳を貸さなかった。


 PhatSaはNakhunを荒々しく突き飛ばすことも、攻撃的な反抗を見せることもなかった。ただ静かな確固たる態度で掲げられた手を押し退け、自らの足でその広い背中の後ろから踏み出した。


 その瞬間、部屋全体が静まり返った。


 Naresはその場から動かず、様子を窺っていた。彼の表情にはあまり変化はなかったが、その双眸は冷徹で鋭く、ほとんどの人間が思わず目を逸らしたくなるようなものだった。しかし、PhatSaは違った。PhatSaはただ、近すぎず遠すぎない適切な距離まで歩みを進め、Naresの目の前で立ち止まった。


 それからPhatSaは伝統的な挨拶として合掌をした。


 PhatSaの姿勢は真っ直ぐ乱れなく、冷静さを保ち、信じられないほど堂々としていた。震えるような様子は一切なかった。媚を売るような素振りもなければ、多くの人々が予想していたような恐怖の気配さえ微塵もなかった。そこにあったのは、このような状況下で何をすべきかを正確に理解し、誰に教わるまでもなく自らそれを実行する、飾り気のない素直な礼儀正しさだけだった。


 「こんにちは、お父様」


 PhatSaの声があまりにも落ち着き払っていため、KhamphiradaとNaKhinはほとんど無意識の内に一斉にPhatSaを振り返った。彼らはPhatSaがただの臆病な子供ではないことはすでに知ってはいたものの、この緊迫した空気の中でNaresの前に立ち、微かな震えも見せずに話すPhatSaの姿はやはり彼らの予想を上回るものだった。


 NaKhun自身もまた、ピタリと動きを止めた。


 NaKhunは少しの間、PhatSaの横顔を見つめていた。ぴんと伸びた背筋から丁寧に合掌された指先までを眺める内に、不思議なほどの衝撃が彼の胸を突き抜けた。


 誇らしさ。


 そして、静かで深い称賛の念。


 なぜなら、どれほどPhatSaを守りたいと望んだとしても、この少年はそれでも自らの足で立つことを選んだからだ。


 Naresがあまりにも長い時間、Phatsaを見つめ続けていたため、その場の誰もが二人と一緒に息をするのを忘れてしまったかのようだった。彼の眼差しは相変わらず何を考えているのか全く読み取れなかった。誰も彼の心中を推し量ることはできなかった。そしてPhatSaは全く同じ姿勢で立ち続け、視線を下げることも、退くこともせず、目の前にある圧力に屈しない確固とした礼儀正しさだけをただ纏っていた。


 最終的に、Naresは僅かに頷いただけだった。


 彼は何も言わなかった。


 賛同の意志を示す態度は一切見せなかった。


 しかし、その勇気を手折ることもなかった。


 その後、Naresは彼らの脇を通り過ぎ、一度も振り返ることもなく、邸宅の奥へと消えていった。


 Naresの足音が長い廊下の先へと次第に遠退いていき、居間には再び張り詰めたような静寂の波が残された。


 PhatSaはゆっくりと両手を下ろし、とても小さな息を一つ吐き出した。それはまるで、今になってようやく自分の身体が本当は緊張していたのだと認めるかのようだった——彼はただそこに立っている間、その緊張を悟られまいとしていただけだったのだ。


 PhatSaがそれ以上何かを言う前に、NaKhunは彼の傍に寄り添って立った。今回はPhatSaの盾になることはしなかったが、もし先ほどの対面で少しでも何かが起きていたなら、自分が真っ先に前に出ていただろうと分かる位置にNaKhunは留まり続けた。


 NaKhinが最初に口火を切った。


 彼は感心したような、それでいて愛おしむような、短い笑みを漏らした。


 「いい度胸してるな」


 PhatSaはすぐに彼の方を振り向いた。


 「何が?」


 「たった今、」


 NaKhinは眉を上げながら言った。


 「普通の人間なら、私の父親を恐れるあまりチビッていただろうな」


 Phatsaは束の間、ピタリと動きを止め、それから極めて真剣な面持ちでゆっくりと頷いた。


 「ああ、それならちょっと失礼」


 彼は真顔で続けた。


 「ちょっとトイレに行ってズボンを履き替えてきたほうが良いかも」


 NaKhinは瞬時に吹き出した。Khamphiradaは微笑みを隠そうと口元に手を翳すほどだったが、一方でNaKhunは黙ったままPhatSaを見つめていた。もっとも、NaKhunの瞳は以前よりもほんの少し和らいでいた。


 Phatsaは真顔を保つことができたのは数秒だけだった。その後、彼自身も微笑んで軽く首を振った。


 「冗談だよ」


 彼はドサッと椅子に腰を落ち着けると、小声で呟いた。


 「怖かったけどね」


 その単純な一言で、部屋は再び沈黙が流れた。しかし今度の理由は、プレッシャーによるものではなかった。彼がそれほどまでに率直にそれを認めるなんて、誰も想像だにしていなかったからだ。


 PhatSaは誰を見るでもなく、微かに唇を引き結んでから言葉を続けた。


 「でもこの家に滞在させてもらっている身としては最低限の礼儀は弁えないとなって」


 PhatSaはあたかも大したことではないというように、小さく肩を竦めた。


 「彼を避けたり、見ないふりをしたり、あるいは板のように硬直して突っ立ってたりしたら、どれも滑稽に見えただろうね」


 Khamphiradaは静かにPhatSaを見つめ、見て分かるほどにその眼差しを和らげながら、優しい声で話し始めた。


「とても良いご両親に育てられたんですね」


 その言葉に、PhatSaは口籠った。それは彼が明らかに触れられることを想定していなかった核心を突いていた。彼は一瞬、指先に視線を落とし、それから静かに答えた。


 「普段はひとりで暮らしていました」


 NaKhinはまだ笑顔の余韻を残しながらも、次第に静かになった。Khamphiradaは言葉を挟まずに聞き入った。


 PhatSaはゆっくりと言葉を紡ぐ。声音は相変わらずしっかりしていたが、先ほどよりも柔らかい響きになっていた。


 「母は俺を産んだ時に亡くなって、父はいつも仕事で忙しくしていました」


 PhatSaは一呼吸置くと、自分の言葉があまり悲しく響かないようにするためか、急いで話を続けた。


 「でも父はよく会いに来てくれました。必要な愛情はすべて注いでもらったし、そのことで困る思いをしたことは一度もありません」


 部屋は再び静寂に包まれた。


 KhamphiradaはPhatSaをしばらく見つめてから、そっと手を伸ばして彼の手の甲に触れた。それは哀れみではなく、敬意をもって慰めるような、年長者からの優しい仕草だった。


 「いつか、私から直接あなたのお父様に謝りに行きます」


 Phatsaは驚いて慌てて顔を上げたが、Khamphiradaは相変わらず穏やかながらも、はっきりと芯のある声で続けた。


 「起きたことは決して軽視できるものではないわ。もう一人の親にすべてを背負わせるべきではないのです」


 それから彼女はNaKhunの方を向いた。


 母親の眼差しは、それまでの優しい色から一瞬にして真剣な色へと変わった。彼女の声色は決して厳しいものではなかったが、それでもそれが単なるお願い事ではないことを部屋にいる全員が悟るには十分なほど毅然としたものだった。


 「NaKhun、あなたも自分の口で父親に許しを請わなければならないわよ」


 NaKhunはしばし沈黙し、そして首肯した。


 「はい」


 それはほんの一言だったが、そこには微塵の迷いもなかった。


 最も驚いていたのはPhatsaだった。彼は唇をギュッと引き結ぶと、静かに言った。


 「父さんが、このアルファとオメガの世界を理解してくれるかどうか分からない」


 そこにいる全員がPhatSaに視線を向けた。


 PhatSaはゆっくりと息を吐き出し、再び自分の手元に視線を落とした。


 「父さんはそのことについて何も話してくれたことがないんだ」


 そうPhatSaは言った。そして今、彼の声には明らかな心配の色が浮かんでいた。


 「父さんは俺に第二性についてこれまで一度もちゃんと説明してくれたことがない。正直……父さん自身がアルファやオメガについて何か知っているかどうかも分からない」


 PhatSaは一瞬間を置き、それからさらに静かに呟いた。


 「だから父さんがすべてを知ってしまったら、ショックを受けるんじゃないかと心配なんです」


 その真実によって、部屋全体が再び静まり返った。今度の沈黙はそれまでより重苦しいものだった。なぜなら、誰もがこの状況のより脆い側面を突然突き詰められたからだ。それは単に二人の人間が一緒に暮らしているということだけではなかった。単なる番の問題でもなかった。この邸宅の中だけで起きていることでもなかった。そこにはこれまで心の準備などしていなかった真実に、間もなく引きずり込まれるかもしれない父親の心境もあったのだ。


 Khamphiradaは少しの間Phatsaを見つめ、それから彼の手をそっと握り締めた。


 「大丈夫よ、ダーリン」


 彼女は優しく言葉を続けた。


 「私たちがこのことのすべてに責任を持ちますから」


 PhatSaはすぐには答えなかった。彼はただ沈黙し、まるでその言葉を胸のどこかに仕舞い込んでいるようだった。少し離れた場所に立っていたNaKhunもまた、黙ってPhatSaを見つめ続けていた。そして今、彼の漆黒の瞳の中には、冷静さだけではないもっと重いものが宿っていた。PhatSaの抱える心配の一部を彼がひっそりと引き受けたかのように。


 NaKhinはしばらく口を閉ざしていたが、やがていつもの悪ふざけをやめ、揶揄うような響きも一切交えずに、初めて静かに声をかけた。


 「その時になったら、俺たちが助けるよ」


 PhatSaは振り向いてNaKhinを見ると、彼は軽く肩を竦めた。


 「俺の兄さんが正式に結婚を申し込んで、お父上の息子…君を怒らせてしまったことの謝罪として、結納品を載せたパーンを持参するべきかな?」


 その言葉に、PhatSaはついに小さく笑みを零した。ほんの微かな笑い声だったが、部屋を覆う重苦しい空気を和らげるには十分だった。


 Khamphiradaは微笑んだ。NaKhunは相変わらず微動だにしなかったが、まるでPhatSaにその重荷を一人で背負わせたくないと言わんばかりに、ほんの少し身を寄せていた。


 そして穏やかな午後のひととき、Naresの冷淡な気配が通り過ぎて間もない大きな屋敷の中で、その会話は彼らの距離を少しだけ縮めてくれた。


 その夜、入浴を済ませたPhatSaがバスルームから出ると、肌にはまだ微かな温もりが残っていた。淡い色の髪はまだほんのりと湿っており、冷えた最後の一雫が首筋から薄手の寝間着の襟元へと滑り落ちていった。彼はタオルを持ち上げ、上の空で髪を拭きながら、目の前にある広くて静かな寝室を見つめていた。そこには、まだどうしても『馴染み深い』と呼ぶことのできない感情があった。


 PhatSaがここに寝泊まりするようになって、もう数日になる。だが、『慣れる』という言葉とは縁遠い気がした。見知らぬ人間と同じ部屋、同じベッド、そして呼吸すら同じ空間を共有するとなると、やはりまだ受け入れ難い感覚が残った。


 特にその見知らぬ男が、ただの普通の人間ではないとなると尚更だった。


 NaKhunはいつものベッドの定位置。シンプルなダークカラーの寝間着姿でヘッドボードに寄り掛かりながら座っていた。その生地は、必要以上に高級そうに見え、彼の広い肩幅と胸元のシルエットにすっきり沿っていた。その手元にはiPadが置かれており、薄暗い部屋の中でその画面が柔らかく光を放っていた。彼は細いフレームのブルーライトカット眼鏡をかけており、そのおかげで彼の端正な顔立ちはほんの少し穏やかで控えめに見せ、どこか危険な雰囲気を和らげていた。


 ほんの少しだけ。


 浴室のドアが開く音を聞いた瞬間、NaKhunは即座に顔を上げた。まるでさっきまで夢中になっていたものが、湯気の中から出てきたその人よりもずっとどうでもいいことであるかのように、躊躇うことなくiPadを下ろした。


 Phatsaは意図せずほんの一瞬だけ動きを止め、Nakhunの視線がずっと自分を追っていたことに気づいていないふりをして、代わりにタオルをベッドの足元へと置くふりをした。


 「まだ仕事してるの?」


 PhatSaは髪の毛を拭き続けながら、何気なくそう尋ねた。その声は普段より少し柔らかいものの、ごくありきたりに聞こえた。


 「まだやらなければならないことがあったが」


 NaKhunはベッドサイドのテーブルにiPadを置きながら答えた。


 「もう終わった」


 PhatSaは小さく頷き、ベッドの反対側へと回り込んだ。しかしベッドに入る前、NaKhunがまだ自分から視線を離していないことを感じていた。まるで、NaKhunにはまだ何か言いたいことがあるかのように。


 そして、実際にその通りだった。


 「君のお父上のことだが」


 その言葉に、PhatSaはブランケットに掛けていた手を止めた。彼はすぐに顔を上げた。NaKhunはゆっくりと眼鏡を外し、iPadの横に置く。その柔らかな光の中、彼の黒く澄んだ瞳がはっきりとあらわになった。


 「彼に会える機会はあるだろうか?」


 その質問があまりにも率直だったため、Phatsaは一瞬動きを止めた。


 彼はNaKhunがこんなに早くこの話題を持ち出すとは思っていなかった。NaKhunはいつものように、そのことを自分の胸に仕舞っておくだけだろうと思っていた。しかし、今それを耳にしても、思っていたほどには居心地の悪さを感じていなかった。そこにあったのは微かな驚きと、胸の奥で静かにざわめくある種の重苦しさだけだった。


 PhatSaはベッドの端にゆっくりと腰を下ろし、正直に答えた。


 「今は何とも言えない」


 PhatSaはしばらくの間、手の下にある暗い色のシーツに視線を落とし、そして落ち着いた声音で続けた。


 「父さんはほとんど海外にいるんだ。帰ってきても長くいることはなくて。またすぐに出発してしちゃって、ほんの数日立ち寄るだけっていうこともある」


 PhatSaは言葉を区切り、長年そのようなスケジュールに慣れきっているように微かに笑みを浮かべた。


 「だから父さんがすぐに戻ってくるかどうかは分からないんだ」


 Nakhunは口を挟まず、黙って聞いていた。ただ、先ほどよりも少し思案げな表情を見せているだけだった。


 それから、少しの間を置いてから彼はゆっくりと口を開いた。


 「そこまで考えが及ばなかった」


 PhatsaはNaKhunに視線を向けた。


 NaKhunは彼の視線をまっすぐに受け止め、普段よりも低く、落ち着いた声で話した。


 「あなたをここに連れてきて、こんな風に暮らさせるなんて……あなたに惨めな思いにさせてしまった?」


 その質問によって、部屋はさらに深い静寂に包まれた。


 PhatSaは彼をしばらくの間見つめていた。NaKhunが慰めを求めて言ったわけでも、義理で尋ねたわけでもないことは十分に伝わってきた。彼は純粋に心配しているからこそ尋ねていたのだ。それは、自分の気持ちを言葉にするのが元来得意ではない人にありがちな心配の仕方だった。しかし、彼がようやくその想いを口にした時、その一言一言は、世間一般の人間の言葉よりも遥かに重みを持っていた。


 PhatSaは少しだけ目を伏せ、小さな吐息混じりの笑い声を漏らした。


 「今になってやっと気づいたの?」


 Nakhunは答えなかった。


 Phatsaは少しだけ肩を竦め、静かに言葉を紡いだ。


 「大丈夫だよ」


 PhatSaはゆっくりとベッドの上で両膝を抱え込み、ヘッドボードの少し離れた位置に寄りかかるようにして座り直した。二人の間には距離を保ったまま、そしてまるで頭の中で思考を整理するかのように、ゆっくりとした口調で話を続けた。


 「もう済んだことだよ」


 そう彼は言った。


 「それは誰にもわからない、偶然起こったことなんだ」


 部屋は静寂に包まれていた。遠くでエアコンの微かな動作音が聞こえるだけ。お風呂上がりの素肌から立ち上る清らかな香りが、同じ空間に漂う煙とウイスキーの微かな香りとゆっくり混ざり合っていく。


 PhatSaが次に言葉を発した時、Nakhunの方ではなく、前を見つめていた。


 「俺としては…こういうのってどっちかっていうとハプニングみたいな感じかなって」


 NaKhunはピタリと動きを止めた。


 PhatSaは再び微笑んだが、その笑みにはいつものユーモアさはなかった。それは、完全に本意ではないにせよ、腹を括ったような笑みだった。   


 「事故ってそういうものなんだよ」


 そう穏やかに言った。


 「一度起きてしまったら、戻ってやり直すことはできない」


 PhatSa一呼吸置き、それからついに向き直ってNaKhunをまっすぐに見つめた。


 「それでも適応することはできる。これから起こることもきっと解決できると思う」


 その言葉は静かに部屋に落ちたが、それでも本来意味するところよりもずっと重い響きを帯びていた。なぜならそれは、上辺だけの慰めでも、降伏でも、傷ついていないふりをするという芝居でもなかったからだ。それは目の前の現実を受け入れ、あくまで自分らしく、これからも歩み続けるという決断だった。


 NaKhunはずっと長くPhatSaを見つめた。


 文句を言うべきだった、激しく非難すべきだった。少なくとももっとこの男を責めるべきだった。しかし、まるでPhatsa自身、この目茶苦茶になってしまった日々をそれでも何とか歩んでいけるような人生へと必死で立て直しているかのように穏やかな口振りで話していた。


 NaKhunの胸の奥で、何かがゆっくりと締めつけられていった……。


 それは決して、明るく胸が高鳴るようなものではなかった。


 これまでの夜、彼の心臓を早鐘のように打たせた類の欲望でもない。


 それよりも重く。


 より深く。


 そして遥かに静かなものだった。


 「君は思っていたより強いな」


 Nakhunはそう言った。


 その言葉にPhatsaはそっと瞬きをすると、即座にそっぽを向いた。その様子に、素直に褒め言葉を受け入れようとしていないのは明白だった。


 「子供扱いするのはやめて」


 NaKhunの口の端が僅かに持ち上がった。


 「あなたはまだ若い」


 「俺はもう卒業したんだ」


 「まだ若いよ」


 PhatSaは彼を睨みつけるようにサッと振り返った。


 「本当に人の神経を逆撫でするのが好きだよね」


 NaKhunは何も答えなかった。だが、何か湧き上がる感情を堪えているかのようなその口元は微かに動き、その見逃してしまいそうな仕草さえPhatSaの視界にはっきりと捉えられた。


 その仕草はPhatSaをさらに苛立たせたが、結局のところ、小さな溜め息を吐き、ブランケットを被るだけに留まった。


 「どうでもいいけど」


 そう彼は呟いた。


 「少なくとも、俺たちは一つのことでは意見が一致しているし」


 「何について?」


 「もう今となっては、それは取り返しがつかないってことさ」


 その答えを聞いて、NaKhunは再び押し黙った。彼は、かつて一度も本当の意味で普通だと思えたことのないその部屋で、何食わぬ顔でゆっくりと横になろうとするPhatSaに視線を向けた。それからNaKhunは手を伸ばして照明のスイッチを一つ消し、薄暗く柔らかな光だけを残した。


 部屋は再び、少しずつ静寂に包まれていった。


 しかし、それは先ほどとは違う種類の静けさだった。


 気まずさからくる沈黙ではなかった。


 どう振る舞えばいいか分からず、戸惑う初対面同士の沈黙でもない。


 そうではなく、それは互いのことをまだよく知り合ってはいない—―


 それでも少しずつ、お互いのための空間を作り始めようとしている二人の沈黙だった。


 Nakhunもまた、取り決めたルール通りに距離を保ちながら、ベッドの反対側に横たわった。Phatsaは振り向かなかったが、NaKhunの存在をはっきりと感じていた。暗闇の中で響く規則的な呼吸や、微かに残る煙の温もりが、不思議なことに心地よくもあり、同時に苛立たしくもあった。


 眠気がPhatSaを深い眠りに誘うまさにその直前、淡々と静寂を破るNaKhunの声が響いた。


 「お父上が戻ってきたら教えて欲しい」


 Phatsaは暗闇の中で薄目を開けたが、NaKhunへ身体を向けようとはしなかった。


 「なんで?」

 

 「 私が彼に会いに行こうと思う」


 返答は短く、簡潔で、穏やかなものだった。しかし、そこにはほんの少しの迷いもなかった。

 

 PhatSaはしばらく静かに横たわっていたが、またそっと瞼を閉じた。


 「その話は、その時が来たらしよう」


 彼が口にしたのはそれきりで、その後は二度と何も言わなかった。

 

 二人の会話が終わっても、さっきまで発していたすべての言葉がまだ空中に漂っているかのように、しばらく部屋の中には沈黙が広がっていた。息苦しさを感じるほど重いわけではなかったが、かといってただ霧散するほどには軽いわけでもなかった。

 部屋には同じベッドにいるもう一人の男の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる程度の、微かな灯りだけが残っていた。

 Phatsaはベッド上の自分のテリトリーで静かに横になり、まるですでに眠りにつく準備ができているかのように目を閉じていた。だが実際には睡魔に襲われる気配など微塵もなかった。心臓はまだ煩いくらいに早鐘を打ち、頭の中はひどくこんがらがっていた。そして部屋の静寂が増すほどに、自分がこのベッドに一人きりではないという事実が否応なく突き付けられるのだった。


 その時、NaKhunは仄かにまたあの雨の匂いを感じ取った。


 その香りは強くはなかった。前夜のように甘ったるくもなく、熱を帯びた陶酔感もなかった。闇の中を漂うそれは微かな気配だけを残していく。涼やかで澄んでいて、どこまでも深く――それが、彼の胸の奥で張りつめたものを静かに、ゆっくりと溶かしていった。 

 NaKhunは目を閉じた。ただそこに横になり、その香りを深く吸い込む。自分の中から湧き出るものが、平穏なのか充足感なのかは彼には判別できなかった。ただこの香りが、少しも薄れてほしくないということだけははっきりと分かっていた。このまま永遠にその香りを感じていたい。何もせず、何も考えず。ただ傍らで、PhatSaが確かにここにいるのだと感じられるだけで、それだけで十分だった。


 しかし、それを吸い込めば吸い込むほど、彼はより強く引き寄せられていくように思えた。


 NaKhunはシーツの上で音も立てずに、ゆっくりとPhatSaの方へ身を寄せた。その動きはあまりにも静かで、あまりにも優しく、作為的な気配は全く感じられなかった。むしろ、自分が切望するものへと身体が勝手に引き寄せられていくようだった。


 PhatSaはそれを敏感に察知した。


 もう一人の男の体温がほんの少し近づいた瞬間、PhatSaは目を閉じたままであっても、その熱に全身が反射的に強張った。それは恐怖からでも、嫌悪感からでもなかった。ただ、心臓が異常なほど高鳴りはじめ、それを抑えることができなかったからだ。PhatSaはそれまでにもその男に抱き締められたことがあった。それなのに、その二度目がまさに起ころうとしている今、胸が締め付けられるほどに期待感が内側から込み上げてきていた。痛いほどに苦しく、自分で気づかぬうちに呼吸が浅くなるほどに。


 PhatSaは暗闇の中で、ぎゅっと唇を噛んだ。


 認めたくはなかったが、心の奥底ではこの男に少なからず惹かれていることを自分でも十分わかっていた。


 彼の狂おしいほどに端正な顔立ち――まるで誰かが、あまりにも多くの情熱を注ぎ込んで彫り上げたかのようなその相貌――を脇に置いておくとしても。


 もし彼があの腹が立つほどに常に冷静で、寡黙で、過度に落ち着き払った性格を捨て去ってくれたなら。もし彼が何でも人に指図したがる、他人の物事を勝手に決めたがる、そして常に自分が正しいかのように振る舞いたがるところを捨て去ってくれたなら。


 それでもなお、PhatSaには彼の好きなところがまだいくつかあった。


 PhatSaはNaKhunが自分の言葉に責任を持つところが好きだった。


 彼の誠実さや、決して口先だけで終わらせないところが好きだった。


 NaKhunが何か問題に直面した時、変えられない過去を前にただ途方に暮れるのではなく、まずどう解決するかを考えるところが好きだった。


 そして、あの香りが鼻を擽った。


 温かなウイスキーと微かな煙の香り。PhatSa自身の雰囲気とはひどく不釣り合いなのに、一度混ざり合うと、なぜか不思議なほどにいつも彼の心を落ち着かせる香りになった。


 Phatsaがその思いを巡らせ終えるか終えないかといううちに、もう一つの体温が少しだけ身を寄せてきた。


 Nakhunの手がそっとPhatSaに触れた。


 その触れ方は、決して強引なものではなかった。焦燥もない。そこにあったのは、主張するというよりもむしろ伺いを立てるように、慎重に自制して添えられた指先だけだった。だが、どれほど軽く触れたとしても、まるで小さな炎の筋が神経を伝って皮膚の下を走り回るかのように、奇妙な熱がPhatSaの肌を瞬時に駆け巡り、まともに息をするのも苦しくなるほどだった。


 その大きな手は、ゆっくりと下へ移動した。


 そして、PhatSaの腰で止まった。


 Phatsaは咄嗟に息を呑んだ。


 PhatSaの思考は、目眩がするほどの混沌へと再び突き落とされた。彼の中の理性が叫ぶ。NaKhunを突き飛ばすべきだ、動くべきだ、近づきすぎていると警告する何かを――とにかく何かを言うべきだと。だが、その奥底にはまた別の感情が潜んでいた。もう一つ別の、より正直でずっと恐ろしい本心が。


 それは全く引き下がろうとしなかった。


 むしろその逆。


 心の奥底では抵抗する気はなかった。


 Nakhunに抱き締めてほしかった。


 その大きな手にこのままずっと自分に触れていてほしかった。


 身体をふわりと宙に浮くように軽くしてくれながらも、同時にしっかりと地に足が着いているような感覚にさせてくれる、この温かなぬくもりの中にずっと包まれていたかった。


 PhatSaは唇を強く引き結んだ。心臓が激しく波打ち、胸の奥でその鼓動がはっきりと響いてくるほどだった。


 正気の沙汰じゃない。


 頼むから、PhatSa。


 どうかしてるぞ。


 だが、クソッ——


 信じられないほど気持ちいい。


 PhatSaはそのままじっと横たわっていた。彼を突き放すこともせず、微動だにしなかった。肉体には僅かな緊張が残っているだけ。その呼吸のリズムは紛れもなく緩やかになり、まるで全身でNakhunが次に何をするのかを聞き逃すまいとしているかのようだった。一方、NaKhunは相変わらず静かなままだった。彼は焦らなかった。それ以上無理に迫ることもなかった。ただそこに手を置いたまま、この親密な時間をただ静かに噛み締めていた。


 そして、二人の間の沈黙は再びその形を変えた。


 それは居心地の悪さからくる沈黙ではなかった。


 赤の他人のような静けさでもなかった。


 それは暗闇の中でゆっくりと形作られていく、名もなき引力の静寂だった。何かがすでに変わり始めていると気づいているにも関わらず、二人はお互いに口に出す勇気はなかった。


 NaKhunの手はPhatSaの腰に触れたままだった。その大きな掌の温もりが薄い布地越しに少しずつ染み込み、そこにある皮膚が耐えられないほど過敏になっていた。その男の息遣いが肌で感じられるほどに近く、穏やかで規則的なそのリズムがはっきりとPhatSaの耳に届くほどだった。そして距離が縮まるにつれ、好きにならないよう自分自身を戒めてていたはずなのに、あのウイスキーと煙が入り混じった香りに包み込まれ、PhatSaの思考は瞬く間に制御できないほど乱されていった。


 PhatSaは身動きひとつせず、息を潜め、言葉を発する勇気もなかった。その間も彼の思考はぐるぐると駆け巡っていたが、自分が正確には何を待っているのかすら分からなかった。NaKhunがさらに近づいてくるのを待っているのか? あの手がさらに強く押し付けられるのを待っているのか? それとも、いい加減に正気を取り戻し、その男を突き飛ばすためなのか?


 しかし、あれこれ思い悩みながらも、PhatSaは結局何もできずにいた。


 Nakhunの手はそこに置かれたままだった。静かに、しっかりと、Phatsaの心をどうしようもなく揺さぶるには十分なほどに。PhatSaの全身は、自分が期待しているのだと認めることすら恐れるような、静かな予感で張り詰めていた。彼の心はすでに遠くへ行き過ぎていた。NaKhunがさらに身を寄せ、後ろから腕を回して抱き締めたり、あの夜のように項に顔を埋めたりする様子を鮮明に想像してしまうほどに。


 そして突然、彼の腰のぬくもりは消え去った。


 PhatSaは動きを止めた。


 先ほどまでの心臓が破裂させそうになるほどの距離の近しさがゆっくりと遠のき、そこに残ったのは微かな空虚さだけだった。PhatSaはこの状況を飲み込めないまま、数秒微動だにできなかったが、やがてこれといった理由もなく胸に込み上げてくる戸惑いと苛立ちを抱えながら、その男を仰ぎ見た。


 NaKhunは確かに距離を取っていた。


 そのほんの少しの隙間は、彼が自らを押し留めたことがはっきりとわかる十分な距離だった。


 薄暗がりの中で彼の瞳の色は深く、平静さ保ったその表情はしかし、必死で取り繕っているように見えた。彼は気を静めるかのように一瞬目を閉じ、それから低い声で言った。


 「すまない」


 Phatsaは完全に黙り込んだ。


 「一線を越えるべきではなかった」


 PhatSaはその言葉に、自分がどう受け止めるべきか上手く処理できないでいるかのように、ゆっくりと瞬きをした。


 NaKhunは言葉を続けた。その声は平坦なままだったが、そこに含まれる緊迫感は隠しようがなかった。


 「すでに言われていたのに。あなたの許可がなければ私は近づいてはいけないと」


 一瞬、沈黙が流れた。


 Phatsaは自分の舌を噛み切りそうになった。


 何だって?


 一体なぜ、この男は今この時に限って道徳心なんていうものを選ぼうとしたのか?


 PhatSaはじっと横たわっていたが、その顔はみるみる内に熱くなっていった。それは単なる恥ずかしさからだけではなく、苛立ちからでもあった。


 何から呪えばいいのかわからないほど、鋭い苛立ちだった。ほんの数分前まで、彼の心臓は胸を突き破りそうなくらい激しく高鳴っていた。思考が先走るあまり、自分を落ち着かせるためだけに枕に顔を押し付けたくなるほどだった。それなのに、目の前の男は手を引き、まるでそれが世界で一番自然なことであるかのように謝ったのだ。


 まったく、いい加減にしてくれ。


 PhatSaはほっとするはずだったのに。


 NaKhunが約束を守ったことに対して、むしろ喜ぶはずだったのに。


 自分がまだこの状況をコントロールできているのだと、誇らしく思うはずだったのに。


 それなのになぜ胸の奥では、まるで何かの途中で見捨てられてしまったかのように感じられたのだろうか?


 Phatsaは唇をより強く引き結び、ぷいっと顔を背けた。Nakhunを見つめ続けるのがほんの一秒でも長ければ、決して見せてはいけない何かが露呈してしまうのではないかと恐れるかのように。


 「それならよかった」


  PhatSaはようやく言葉を発した。


 その声はごく平坦に響いたが、ほんの少しだけ強張っていた。


 「そうすればルールを破らずに済むもんね」 


 NaKhunは何も言わなかった。


 PhatSaもまた何も言わなかった。しかし、この沈黙は以前のものとは違っていた。それはただ居心地の悪さから生じるものではなく、二人が同時に何かを必死に抑え込んでいるかのような、奇妙な気まずさに満ちていた。


 本当のところは、NaKhunが近づきすぎたから怒っているわけではないと気づいた時、PhatSaは自分自身にさらに苛立ちを募らせた。


 その男が手を止めたことに腹を立てていた。


 クソッ。


 その考えに思い至った時、PhatSaは本当に自分の舌を噛み切りたくなった。


 PhatSaは少しでも高くブランケットを被れば、その馬鹿げた思考までも一緒に隠せるかもしれないとでも言うように、慌てて毛布を顎の高さまで引き上げた。それから彼は、隣の男に向けて皮肉と非難が入り混じったような低い声で呟いた。


 「次は止まるならもっと早く止まって」


 言葉が口をついて出た瞬間、PhatSaは自分自身を引っ叩きたい衝動に駆られた。


 NaKhunは一拍沈黙してから、暗闇の中でPhatSaに視線を向けた。はっきりと見るのは難しかったが、PhatSaはその男が自分をじっと見つめている気配を疑いようもなく感じ取った。


 「それはどういう意味だ? 」


 「勝手に解釈しないで」


 PhatSaは不自然なほど素早く言い返した。


 「こっちはもう寝ようとしてるんだから」


 NakhunはしばらくPhatSaを見つめ続け、やがて口の端をほんの少し動かした。まるでPhatsaには気づかれないとでも思っているかのように。


 それがさらにPhatSaの神経を逆撫でした。


 PhatSaはさっと振り返り、暗闇越しにNaKhunをまっすぐに睨めつけた。


 「俺のこと笑ってるの?」


 「いや」


 「嘘つき」


 「笑ってない」


 「そう言ってるけど口角が…」


 Phatsaは言葉を飲み込んだ。なぜなら話せば話すほど、本来なら気づくべきではない些細なことを粗探ししているように聞こえてしまうからだ。そして彼はただ固く唇を引き結び、悔しそうに再び顔を背けるしかなかった。


 NaKhunはさらに一拍ほど二人の間に沈黙を置いてから、静かに口を開いた。


 「もしあなたが不満なら…」


 PhatSaは静止した。


 「二度と近づかない」


 背中を向けたままでありながら、PhatSaは即座に眉を顰めた。


 二度と近づかない、だと?


 なぜその言葉にさらに腹立たしさを煽られるのだろう。


 PhatSaは数秒黙って奥歯を噛み締めると、彼の顔を見ずに答えた。できる限り、その声色を平静に保とうとしながら。


 「あなたが近づいちゃいけないなんて、俺は一度も言ってない」


 今度はNaKhunが黙り込む番だった。


 Phatsaは、二人の間に流れる沈黙をひしひしと感じ取っていた。その男がPhatSaが今さっき放った言葉を頭の中で反芻しているかのような間だった。その沈黙が、PhatSaをさらにブランケットの中に隠れてしまいたいという気持ちにさせた。


 クソッ。


 今、俺は何て言った?


 まるで早口で話せば話すほど、その発言を完全になかったことにできるかのように、PhatSaはそれをかき消すように慌てて言葉を重ねた。

 

 「俺が言いたいのは……何をするにしても、まずは状況を見るべきだってこと。ただそんなふうに途中で止まるんじゃなくて……あの……」


 沈黙。


 束の間の静寂。


 その時、PhatSaの耳に届いたのは、NaKhunの喉奥から漏れたとても低い笑い声だった。聞き取るのがほぼ不可能なほど小さな響きだったが、それでもPhatsaがもう一度起きて彼の顔に枕を投げつけてやりたいと思うくらいには十分なほど、確かに耳に届いた。


 「NaKhunサマ」

 

 「私はまだ何も言っていない」


 「でも絶対に何か考えてるよね」


 「そうかもしれないね」

 

 「だったら考えるのをやめて」


 NaKhunの口元が先ほどよりさらに緩み、完全な笑顔とまではいかなくても、笑っていることがはっきりと見てとれた。彼はしばらくの間、ブランケットの下にいるPhatSaの背中の強張ったシルエットを見つめていたが、それから再びゆっくりと身体を寄せた。しかし今度は、PhatSaが驚いて飛び上がらない程度の距離で止めた。


 PhatSaの腰に回された手はない。


 強い抱擁もない。


 一線を越えるようなものは何もない。


 そこには近づいてくる体温の温もりと、『これは大丈夫?』と無言で問いかけるような、あまりにも慎重な息遣いだけがあった。


 PhatSaはしばらくの間、じっとしていた。


 結局、PhatSaは動かなかった。


 NaKhunが再び目を閉じると、微かに雨の香りが鼻腔を擽った。今度は、それ以上近づくことはしなかった。触れもせず、踏み込むこともせず。ただそこに留まった。自分の心を落ち着かせるのに十分な距離を保つ。そしてこの頑固な少年が広すぎるベッドで、緊張しながら孤独にならずに済むだけの距離で寄り添った。


 Phatsaは依然として黙って拗ねているような態度をとってはいたものの、心の底では抗うことなく認めざるを得なかった。この温もり、この距離の近さ、そしてNakhunが自分の言葉を尊重して本当に自制してくれたという事実……それらすべてが、NaKhunに惹かれずにいることを難しくさせた。


 そして、それこそが何よりも一番恐ろしいことだった。


 PhatSaはしばらくじっと動かずにいた。


 眠ろうと自分に言い聞かせていたにもかかわらず。

 

 目は閉じていたにもかかわらず。


 後ろにいる男にはまったく関心がないふりをしようと、全力を尽くしていたにもかかわらず。               


 結局のところ、PhatSaの身体はあまりにもあっけなく限界を迎えた。


 PhatSaはほんの少しだけ後ろに身動ぎした。


 ほんの僅かに。


 それは彼の呼吸のすべてのリズムに耳を澄ませている者でなければ、見逃してしまいそうなほどの僅かな動きだった。


 だが、Nakhunはそれに気づいた。


 そしてNaKhunはゆっくりと身を寄せ、それから片腕を上げて、背後からPhatSaをふわりと抱き締めた。強引な抱擁ではなかった。強く抱いたり、何かを要求したり、急かしたりするようなものではない。それはただの優しい温もりの環だった。まるで、ほんの少しでも力を加えようものなら、この頑固な生き物は彼を振り払って睨みつけながら去ってしまうのではないかと、NaKhun自身すらも恐れているかのように、彼をそっと包み込んでいた。


 NaKhunの鼻先がPhatsaの頬にほんの少し近づいた。低く慎重で柔らかな声が耳元で響く前に、温かい吐息がPhatSaの肌を軽くなぞるように触れた。


 「これはいい?」


 Phatsaはすぐにきゅっと唇を引き結んだ。


 心臓は再びドキドキと激しく高鳴り始めた。


 たとえ自分から先に身を引いたのだとしても、Nakhunが本気になったとわかった瞬間、胸から耳にかけて熱が駆け上がるのを感じた。


 Nakhunは少し間を置いてから、先ほどよりもさらに潜めた声で再び囁いた。


 「抱き締めてもいいか?」


 PhatSaは一瞬、言葉に詰まって静まり返った…。


 今ここで『ノー』と言えば、あまりにも嘘が露骨にバレてしまう。


 かといってストレートに『イエス』と答えるのは恥ずかしすぎる。


 結局、PhatSaにできたことは拗ねたような、それでいて自分を守ろうとするような、そんな感情がない混ぜになった小さな声で、ぶつぶつと呟くことだけだった。


 「わかんない」


 NaKhunは静かになった。


 PhatSaは自身の気まずさを掻き消すように慌てて付け足した。


 「自分で考えて」


 薄闇の中で、NaKhunの口角がか微かに持ち上がった。NaKhunは肌に触れるほどの距離まで顔を近づけ、ほとんど囁くような声で言った。


 「あなたは私に抱き締めてもらいたがっているように振る舞っているね」


 暗闇の中でもわかるほど、Phatsaの目は瞬時に見開かれた。


 「あり得ない」


 PhatSaの心臓は激しく鼓動していたが、それでも咄嗟に言い返した。


 「君の考えすぎだよ」               


 そんな言葉が口を吐いて出たが、PhatSaの身体はこれっぽっちも言うことを聞かなかった。なぜなら離れるどころか、まるで偶然であるかのように、まるで何も考えていないかのように、ただより楽な姿勢を見つけようとしているだけであるかのように、ゆっくりとNakhunの腕の中に深く潜り込んでいったからだ。それ以上の意味があることを、二人ともよく分かっていたにもかかわらず。


 Nakhunはすぐにそれを感じ取った。


 そしてその瞬間、彼はPhatsaについてあることを理解し始めた。


 このような反応。


 このような口調。


 それは全く否定とは言えない否定だった。


 1インチずつ距離を縮めていくことで生じた、この静かな頑固さ。


 それは彼が抱き締められたかったということを意味していた。


 その事実は、自分でも上手く説明でにないが、Nakhunの胸の奥にある何かを和らげた。腕の中の少年を、温かさと熱さが入り混じったような思いで見つめた。


 彼は堪らないほど愛らしかった。


 じっとしているのが難しいほどに。


 あまりにも可愛いくて――彼に口づけたいという衝動を抑えられなかった。


 NaKhunは自分の中で何かを決心するかのように、しばらく黙っていた。それから少し身を乗り出し、低い声で尋ねた。


  「キスをしても?」


 今度ばかりは、Phatsaは本当にぴたりと静まり返った。


 答えを知らなかったからではない。


 ただその質問があまりにも率直だったからだ。


 あまりにも率直であったため、まるで胸の真ん中で心臓が躓いたかのように感じられたのだ。


 PhatSaは答えなかった。


 NaKhunを振り返りもしなかった。


 『はい』とも言わなかった。


 『いいえ』とも言わなかった。


 彼はただNaKhunの腕の中におさまり、二人の間に広がる沈黙を放置した。やがてNaKhunがまるで身を引こうとするかのように、微かな息を吐き出すまで。


 「すまない」


 その謝罪の言葉を聞き、Phatsaは即座に顔を顰めた。


 まただ。


 なぜこの男は、今のような時にこれほどまでに礼儀正しく、筋を通し、慎重で、いちいち謝る必要があるのか?


 PhatSaはついに感情を抑えきれなくなり、振り返ってその男を見た。暗闇のせいで何もかもがぼやけていたが、それでも十分に視界に捉えることはできた。NaKhunの端正な顔はすぐ近く、あまりにも近くにあり、どちらかがちょっとでも動けば鼻が触れ合いそうなほどだった。


 PhatSaはきゅっと唇を結び、それから、恥ずかしさよりも苛立っているように見せようと必死に繕ったトーンで呟いた。


 「そんなこと聞くものじゃないよ」


 NaKhunは静止した。


 PhatSaは少し視線を逸らしたが、それでも話を続けた。一言話すたびに、顔がどんどん熱くなるのを感じていたにもかかわらず。


 「そんなこと聞く人いる?」


 沈黙。


 一拍の静寂。


 そして、NaKhunが何か言い出すより先に、PhatSaは動いた。


 ゆっくりと。


 ほんの少しだけ。


 まるでまだ躊躇っているかのように。


 まるでまだ自分の勇気を完全には信じきれていないかのように。


 そして、自分から先に身を近づけ、NaKhunの唇にそっと自身の唇を押し当てたのは、PhatSaの方からだった。


 それは信じられないほど軽い口づけだった。


 ただ触れただけと呼べるほどに、あまりにも軽いものだった。


 柔らかく。


 少し躊躇いがちに。


 そして不思議なほど、この上なく優しく。


 まるで本当に自分から近づきたいと強く望んだ時にだけ、信頼している誰かにすり寄ってくる猫のように。


 NaKhunはピタリと動きを止めた。


 なぜならどれほど想像を膨らませていたとしても、PhatSaがこんなふうに先に仕掛けてくるなんて夢にも思っていなかったからだ。NaKhunはその短い口づけに隠された、警戒心、恥じらい、頑固さ、そして静かな身の委ねといった、そのすべてを肌で感じ取ることができた。

 

 そしてNaKhunの心はすっかり和らぎ、何も残らないほどに蕩けてしまったようだった。


 PhatSaは自分が何をしたのか今ようやく自覚したかのように、ほんの僅かに身を引き、すぐに視線を逸らした。しかし、どれほど素早く目を逸らしたところで、暗がりの中で真っ赤に染まった耳の先が、彼のすべてを物語っていた。


 NaKhunはそんなPhatSaをじっと見つめていたが、やがて自分でも抑えきれずに微かに笑みを浮かべた。


 今夜、彼の頑固な少年は、ただ許可を与えただけではなかった。


 少年の方から先に、彼のところへ来てくれたのだ。


 その柔らかな口づけが触れた後、NaKhunはほんの一瞬だけ、凍りついたように動きを止めた。


 それはあまりにも軽く、まるで幻覚ではないかと思えるほどだった。


 あまりにもあっけなく、もしNaKhunがほんの少しでもゆっくり瞬きをしていたら、腕の中の頑固な少年が自ら先に身を乗り出してきたことなど、本当はなかったのだと自分に思い込ませていたかもしれない。


 しかし、唇に残る微かな温もりが、NaKhunにそうではないことを教えていた。


 確かにそれは起こったのだ。


 そしてそれだけで、NaKhunの心は抗えないほどに溶かされるには十分だった。


 NaKhunはそれほど間近でPhatSaを見つめていた。背けようとする顔を、赤く染まった耳を、そしてほんの先ほどまで自分の唇に触れていたその唇を。そしてNaKhunは身を乗り出し、できる限り優しくPhatSaにキスを返した。


 そこには焦りはなかった。


 無理強いもなかった。


 前日の夜、PhatSaの心臓を息ができないほど激しく高鳴らせていたような強引さは、そこには一切なかった。


 NaKhunがほんの少しでも強く押し当ててしまったら、PhatSaがせっかく見せてくれたささやかな勇気が目の前から消え去ってしまうと恐れているかのように、ふたたび、ただ温かな唇がゆっくりと、そっと触れるだけだった。


 PhatSaはキスを返された時、ほんの一瞬動きを止めた。


 それを望んでいなかったからではない。


 ただその優しさが、PhatSaの想像を遥かに超えていたからだった。


 PhatSaはもしNaKhunがキスを返してくれたら、それはまるで勝利に慣れた男のようになるだろうと想像していた。彼のように物静かで冷静、そして絶対的な自信を持つ人物なら、おそらくその存在感と同じくらい揺るぎなく圧倒的なキスで応じ、相手に態勢を立て直す隙など与えないはずだと。しかし、違った。NaKhunはゆっくりと、柔らかく、そして途方もない忍耐強さでPhatSaに口づけ、PhatSaは気づかないうちにすっかり緊張が解けていくのを感じた。


 暗闇の中で二人の呼吸は次第に混ざり合う。


 PhatSaはゆっくりと目を閉じ、そのキスをもう少し深く受け止めようと身を擦り寄せた。まだ極度に恥ずかしがっている相手からの、軽くて躊躇いがちな接触にすぎなかったものは、まるで二人がその接触を通じて一瞬一瞬、お互いを慎重に理解し合っていくかのように、次第に長く続くキスへと変わっていった。


 NaKhunはPhatSaを宥めるかのようにキスをした。


 しかし同時に、それは感謝のようでもあった。


 PhatSaが自ら歩み寄ることを選んでくれたことへの感謝。


 自分のためにほんの僅かな心の隙間を開けてくれたことへの感謝。


 PhatSaがまだここにいて、こうしてまだ自分の腕の中にいてくれることへの感謝。


 PhatSa自身、いつから自分がさらに素直に反応するようになったのか分かっていなかった。ただ分かっていたのは、その温かい唇がゆっくりと焦らずに触れてくるたびに、胸の奥から何かが溢れ出し、痛いほどに胸がいっぱいになっていくことだけだった。


 それでもPhatSaはそれを終わらせたくなかった。


 ほんの少しでも。


 二人はそのキスを続けた。


 柔らかいキスを。ゆっくりとしたキスを。


 二人は互いの心に触れ合い、受け入れ合い、少しずつ甘さを分かち合いながら、まるで自分自身が望むのと同じ優しさで相手の心に寄り添っているかのようだった。


 この数日間、静かに積み重なってきたものすべて――驚き、親密さ、心配、恥ずかしさ、そしてどちらも口に出す勇気がなかった静かな憧れ――はそのキスを通して一気に溶け込んだ。そしてどんどん高まり、ゆっくりと溢れ出し、PhatSaは無意識のうちにNaKhunの肩を僅かに強く掴んだ。まるで、手を離したら相手が先に離れてしまうのではないかと恐れているかのように。


 NaKhunはすぐにそれを感じ取った。


 彼は口づけを急に深めようとはしなかった。熱くなりすぎないよう自制心を働かせた。ただ、より丁寧に唇を柔らかく合わせ、優しくPhatSaの身体の上にゆっくりと手を這わせた。


 その触れ方は傷つけようとするものではなかった。


 強要するものではなかった。


 ただ背中を撫で、腰のラインをなぞり、まだ微かな緊張が残る腕に沿って動くNaKhunの手の温もりだけが、彼が本当にここにいること、そしてこれ以上、PhatSaを怖がらせるようなことはしないと、PhatSaを安心させようとしているかのようだった。


 NaKhunの手が触れていく度に、Phatsaは身体の奥から少しずつ奇妙な熱が広がっていくのを感じた。肌の下で、熱がゆっくりと高まっていく。PhatSaの心臓はさらに激しく鼓動を打ち始めた。そして、こんなにも優しく触れられるほどに、PhatSaはなす術もなく、少しずつ蕩けていった。


 クソッ。


 彼はそれが本当に気に入っていた。


 自分を呪いたいくらいに気に入っていた。


 あまりの恥ずかしさにどうしていいか分からず顔を隠したくなるほどに。


 そして心の奥底では、Nakhunに少しもやめてほしくないと思うほどに気に入っていた。


 無意識のうちに、PhatSaはさらに体を寄せていた。PhatSaの鼻先が男の頬に触れそうになる。彼らの唇は何度も重なり合い、一つのキスが終わると、まるで二人とも先に離れたくないというように、次から次へと柔らかい波のように口づけが続いていった。


 NaKhunはPhatSaの背中を撫で続けた。その手つきは頼り甲斐がありながらも優しく、抑えきれないほどの感情が込められていた。そしてPhatsaはそれを驚くほど鮮明に感じ取ることができた。その自制心を手に取るように感じられる度に、PhatSaの心臓は異常なほど高鳴った。たとえ言葉を尽くさなくとも、NaKhunがいかに自分を丁重に扱おうとしているかが、その全身のあらゆる仕草から痛いほどに伝わってきた。


 そしてその思いやりそのものが、何もかもを以前よりさらに深く感じさせた。


 PhatSaはほんの少しだけ身を引いた。


 彼らの吐息はまだお互いの間で熱く混ざり合い、あとほんの少し顔を上げさえすれば、おそらく再びキスをしてしまうという距離だった。しかし、PhatSaはそうしなかった。 


 PhatSaはただNaKhunを見つめていた。瞳はほんのりぼんやりとし、頬は火照り、耳の先はまだ赤く染まっていた。溢れ出る感情にすっかり翻弄されているようだった。


 NaKhunも静かに振り返った。彼の手は依然としてPhatSaの背中に優しく触れたままだった。やがて彼の親指が柔らかい肌を無意識のうちになぞり、PhatSaは思わず静かに息を呑んだ。


 二人とも一言も言葉を発しなかった。


 だがその静寂の中で、何かがより鮮明になっていくような気がした。


 自分たちはもはや、運命によってただ引き合わされただけの二人ではないということが。


 もはや、ただ向き合うことを強いられた偶然の存在ではないということが。


 なぜなら、今二人の間に溢れんばかりに満ちているこの想いは——


 偶然などでは決してないのだから。






#8_END