オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#2
2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。
今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。
KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)
https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25
KNOTドラマパイロット版(YouTube)
Ⅱ_Alpha
OngSaが話し終えるとPhatSaはしばらくの間、黙り込んだ。
PhatSaは相変わらず楽な姿勢でカウンターに寄りかかったままだった。彼は興味深そうではあったが、完全に納得したわけでもなさそうだった。
店内のランプからの柔らかい光がカフェを暖かく照らし、コーヒーの香りが空気中にふんわりと漂っていた。
彼を取り巻くすべてのものがあまりにも日常と変わらずに見えたため、大概腹立たしく思えた。
なぜなら彼が今聞いたことには、平凡なことなど何一つとして感じられなかったからだ。
まるで、自分を前にした世界は相変わらずかつての穏やかな表情を浮かべているかのようだった。OngSaがその世界をこじ開け、この世界にはアルファやオメガ、番、そして首筋へのたった一度の噛み付きで二人を結びつける運命が存在するのだと、彼にずけずけと告げたばかりだというのに。
「まるで全部現実に起きてることみたいに話すんだね」
OngSaは手に持っていたグラスをゆっくりとテーブルに置き、視線を上げて彼を見つめた。
「現実だよ」
Phatsaはすぐに彼の方を向いた。その表情は困惑と信じられないという感情の間で揺れ動いていた。
「OngSa先輩」
「ん?」
「まず何から信じればいい?」
OngSaの唇には微かな笑みが浮かんでいた。自分が思っている以上にPhatSaが戸惑う様子を愛おしく感じているかのようだった。
「信じるか信じないかは君次第だよ。でも、何かを知らないからとか、あるいはそれを見たことがないからといってそれが現実じゃないということにはならない」
PhatSaは小さく溜め息をつき、まだ呆然とした様子で手を上げて項に触れた。
「たった5分、誰かを助けただけなのに突然俺の世界はひっくり返っちゃったよ」
OngSaはかつて大学の後輩だったその年下の男をしばし見つめた後、PhatSaの端正な顔立ちへと視線を向けた。
PhatSaはゆったりと背もたれにもたれかかっていたが、生意気で口達者な性格や、他人のトラブルに首を突っ込む癖はさておき、彼はまさにアルファの風格を備えていた。
彼は色白で明るい髪、引き締まった身体は、蛍光灯の下で過ごすよりも屋外のグラウンドで多くの時間を過ごしてきた人物のようだった。肩は真っ直ぐで背筋は強靭で、躍動するために作られた身体。誰もが想像するような大柄で威圧的な体格ではなかったが、その立ち居振る舞いには確かな自信が感じられ、"何か起きた時には彼は後先考えずに飛び込んでいく人物である"ということが誰の目にもすぐにわかるものだった。
「ほら、君は本当にアルファのように見えるよPhatSa」
そうOngSaは最後に言った。
PhatSaはピタッと動きを止め、それから勢いよく彼の方を振り返った。
「なにだって?」
OngSaは淡々と答えた。
「まさにそう。君はハンサムでいつもみんなの視線を釘付けにするし、リーダーシップもある。賢いくて頭の回転も早いし、成績優秀、スポーツも得意。まさにアルファタイプって感じがするよ」
PhatSaは乾いた小さな笑い声を漏らした。
「それってどういう意味?俺が?アルファだって?勘だけで判断してる?日に日にNileに似てきてるね」
PhatSaが話し終えるか終えないかという内に、店の奥から明るい声が割り込んできた。
「よお、兄貴。そんなに俺のことが恋しかったなら名前を呼んでくれればよかったのに」
PhatSaとOngSaは二人同時に振り返った。
Nileは牛乳の入った木箱を腕に抱えて姿を現した。彼はカフェエプロンを身に着け、溢れるエネルギーを持て余すかのように忙しない様子で動き回り、その瞳は常に何かを探し求めキラキラと輝いていた。
話し方のリズムや顔に浮かぶいたずらっ子のような表情、そしてまるでそこにいて当然であるかのようにどんな会話にもさり気なく入り込む姿はどこからどう見てもZ世代そのものだった。
Nileはどうしてもじっとしていることができないような少年だった。世界は彼の思考と同じ速さで動かなければならず、目の動きと同じ速さで言葉を紡ぐ必要があった。そしてPhatsaをからかうチャンスを決して逃すはずがなかった。
Nileは床に木箱を置き、カウンターに片肘をついた。
「二人は何の話をしてたの?」
「君みたいな子ども向けの話しじゃないよ」
「おいおい、兄貴。俺を仲間外れにしないでよ。このNileくんにも会話に参加させてあげて」
Nileは昔からこんな感じだった。確かに鬱陶しくもあるが、どういうわけか憎みきれない愛嬌がある。
OngSaはNileをチラリと見て首を横に振り、PhatSaの方へ顎をしゃくった。
「PhatSaはアルファみたいだな、と言ったんだ」
Nileはまさにその言葉を待っていたかのようにすぐさま頷いた。
「まさにそれだよ兄貴。アルファの中のアルファ。しかもかなりのイケメンの」
「一体何を言ってるんだ?」
しかしNileの勢いは誰にも止められない。彼は何か偉大な宇宙の真理でも告げるかのように、再び首肯した。
「Phatsa先輩は賢くて運動神経抜群。さらに顔面は…すれ違っただけで誰もが振り返るほどだ。どうしてそれがアルファのオーラじゃないって言える?どこからどう見てもアルファじゃん」
PhatSaは頭を振った。
「ちょっと大袈裟すぎるよ」
Nileはすぐさま反論した。
「大袈裟じゃないよ。これでも抑えめにいってるくらいだよ」
「ありがと。本当に嬉しいけどそこまで言ってくれなくて大丈夫だよ」
「うん、間違いない。PhatSa先輩は俺の人生の誇りだよ、兄貴。それにこのカフェの誇りでもあるんだ」
OngSaは軽く眉を上げた。
「それってうちの店と何の関係あるの?」
Nileは完全に真剣な表情でOngSaへと向き直った。
「PhatSa先輩がここの常連だってお客さんが知ったら売上が上がるかもしれないじゃん」
PhatSaは思わず笑みを零した。
「今度は俺をこのカフェの宣伝係にしようとしてるんでしょ?」
「Phatsa先輩さえよければ、このNileくんは今日ポスターを作るれるよ」
軽快なやりとりが続き和やかなムードが流れていたその時、ドアベルの優しい音色とともにガラスドアが開いた。
一人の男が目的を持って行動する者特有のきびきびとした、非の打ち所のない立ち居振る舞いで入ってきた。
彼は頭からつま先まで黒ずくめで、スーツの下には濃い色のシャツ。片耳には目立たないくらいのインカムが装着されていた。
彼の身なりや雰囲気はすべてにおいて完璧すぎた。夕方にコーヒーを飲みにふらりと立ち寄った普通の客とは思えないほどに。
彼はカフェインを切望している人間のような歩き方ではなかった。それはまるで任務中のように、決められた予定をこなす人のように、そして無駄なことに時間を一切費やさない人のように歩いた。
Nileはその男にちらりと視線を向け、それからPhatSaに少し体を傾けた。
「またあの人か」
PhatSaはNileが視線を向けている先を目で追った。
「誰?」
Ongsaは手を伸ばし、あらかじめ用意しておいたコーヒーのカップを手に取りカウンターに置いた。
「常連客の一人だよ」
PhatSaはその男を頭のてっぺんからつま先までじろりと見渡すと、小さくぽつりと呟いた。
「変わった男だね」
Nileは即座に振り返った。
「先輩…しっ!」
「うん」
それでもPhatSaは依然として男から視線を外さずにいた。
「彼の格好ははタイの暑さを全然気にしてないように完璧だな。誰かのためなら命を懸ける覚悟ができてるみたい」
OngSaは軽く首を振った。
「多分どこか名家のボディガードじゃないかな」
PhatSaはOngSaを見つめ返した。
「どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「何となくそんな気がしただけ」
スーツ姿の男はカウンターで足を止め、小声でぶっきらぼうにコーヒーを注文する。
要点のみしか口にしない姿は、確かに奇妙な様子だったがPhatSaには関係のないことだった。誰もがそれぞれの人生を送っているのだから。
それでも、PhatSaの手元の間近にコーヒーカップが置かれたせいで、ふわりと立ち上ったコーヒーの香りに意識を奪われた。
最初は雨に濡れたジャスミンのような香りで、それからワイルドベリーや淡い紅茶の香りへと移ろい、最後に仄かなキャラメルの残り香で締め括られる。価格を見なくてもそれが高価だとわかるほどの上品な香りだった。
そしてPhatsaが考えるよりも先に、彼の指先はすでにそのカップに触れていた。
「あっ!PhatSa先輩!」
PhatSaは振り返った。
「なに?」
NileはPhatSaが手にしたカップを指差した。
「それお客さんのだよ!」
PhatSaが視線を落としたちょうどその時、スーツを着た男がPhatSaの方を見遣る。同時にPhatSaも顔を上げた。
PhatSaは一瞬動きを止めると、慌ててカップを置いた。
「ああ」
Nileは顔を手で覆った。
「わあ…どうしちゃったの」
それでもPhatSaはポーカーフェイスを崩さなかった。
「まさかこんなことになるなんて。ここに置かれたから自分のだと思っちゃったんだよ」
「だからそのまま掴んじゃったの?」
「うん」
Nileはすぐに吹き出した。
「ほんとそういうとこだよ、先輩」
PhatSaは振り向いてNileを睨みつけた。
「いつか本気で殴るぞ」
OngSaは静かにくすっと笑い、PhatSaが置いたカップを取った。そして一言お詫びの言葉を添えてからコーヒーカップをスーツの男に手渡した。
男は黙ってそれを受け取り、ほんのわずかに頷いてから踵を返しその場を後にした。まるで今しがたの出来事など気に留める価値すらないほど些末なことであるかのように。
ガラスドアが男の背後で閉まると、Phatsaはほんの少しの間その遠ざかる後ろ姿を見送り、それから小さく呟いた。
「本当に変わった人だったな」
Nileはカウンター横で腰に手を当て仁王立ちになっていた。
「先輩も人のこといえないじゃん」
夜の気配がゆっくりと街を包み込み、影のヴェールを幾重にも深くしていく。高層ビルからの光がリボンのように白と均の帯となって通りに零れ落ち、長身の黒塗りの高級車がまるで休息する肉食獣のように縁石の脇で微動だにせず佇んでいた。それは大袈裟に唸る必要もなく、わざわざ存在を誇示する必要もない。ただそこにいるだけで人々は警戒して迂闊に近づけないのだ。
車内の右後部座席で、NaKhunは全く動くことなく周囲のすべてを支配できる男のように静かに座っていた。
彼の肌は日に焼けた小麦色。広い肩幅と引き締まった胸板。それは鍛錬と絶え間ないトレーニングに満ちた人生によって培われたものだった。あらゆる事態にも躊躇なく立ち向かうために鍛え上げられたかのような、長身で逞しい体躯。
顔立ちは知的で端正、いかにも育ちが良さそうな雰囲気、感情を全く表に出さない隙の無さ。誰もよほどの理由がない限り挑発したくはないような佇まいだった。
NaKhunが群れの頂点に君臨する真のアルファであるという本質は、彼がわざわざ口に出して言う必要など全くないものだった。
それはすでに彼の周囲の空気に漂っていた。彼のいる空間、そして彼が吐く静かな息のすべてに満ちていた。
彼のフェロモンが無闇矢鱈に放たれたり、あたり一面に充満したりすることはなかった。ただ静かに彼の周囲の空間を包み込んでいた。それはまるでオーク樽で休む温かなウイスキーのようで、炎の熱が織り交ぜられ、微かな煙の余韻を残すかのようだった。それは深く落ち着きがありながらも重厚な香りだった。そのあまりの迫力に、近くにいる者は誰しも理由も分からず思わず身構えてしまうほどだった。
NaKhunの隣ではNaKhinがさらにリラックスした様子でシートに体を預けていた。
彼はNakhunとほぼ同じくらいの背丈だったが、彼を取り巻く雰囲気は全く異なっていた。爽やかで洗練されており、誰からも好かれるような明るいハンサム。彼の瞳の端にはいつも茶目っ気のある光が宿り、その口元には笑みを湛えているような気配があった。
彼は口を開かなくても、一緒に話すと楽しそうだという印象を人に与えることが多かった。彼のそばにずっといれば、きっと誰もが笑顔になってしまうような。
彼も真のアルファであったが、そのフェロモンはNakhunのものとは全く似ていなかった。
NaKhinのフェロモンは爽やかなシトラスとその皮と花の香りに、深みのある熟成された赤ワインの香りが混ざったような、ワイナリーのそばのオレンジの果樹園に佇んでいるような香りだった。清々しくでエレガント、そして他にはない温かみを感じられる香り。彼はNakhunのように圧倒的な力で人々を支配するようなことはなかった。彼はその内側から溢れ出る生命力で人々を惹きつけるようなアルファだった。
車のドアが開き、Kongphopがコーヒーのカップを手に車内に戻ってきた。彼はNaKhunのやり方を熟知している者特有の無駄のない手際の良さでコーヒーカップをNaKhunに手渡した。
「NaKhun様、コーヒーです」
NaKhunはいつものように落ち着いた表情でそれを受け取った。
彼の注文はいつも決まっていた。パナマ産ゲイシャ種のコーヒー、中煎り、シロップなし。無駄を削ぎ落とした、甘すぎないもの。すべてが研ぎ澄まされていて、清潔で、正確で、常に完璧に保たれていなければならない。
彼はいつものようにカップを口に運んだ。
それから動きを止める。
カップの縁に別の匂いが漂っていた。
それは彼が飲み慣れたコーヒーのものではなかった。
カップの紙のせいではない。それは他とは違う何か――微かなものだった。そして微かであるがゆえに、かえってNaKhunの意識を強く惹きつけた。
雨。
嵐の後の淀んだ湿気ではなく、すべてを洗い流すような最初の澄んだ雨。清涼で清々しい爽快さ。空が割れる直前に吹く風のような。乾いた大地が薄い水のヴェールに触れ、瞬く間に生まれ変わるように。
ベチバーと苔の仄かな香りに、ほんの僅かなホワイトグレープフルーツの面影が漂っているそれは美しかった。
NaKhunが一瞬息を呑むほどの美しさだった。彼の理性を奪うほどの、理不尽にそれを追い続けたいと思わせるほどの美しさ。
NaKhunはゆっくりとカップを下ろした。
「これはどこで買った?なぜこんな匂いがするんだ?」
Kongphopは少し躊躇ったがすぐに答えた。
「いつものカフェでいつものコーヒーを。いつもの注文で」
NaKhunは再びカップに視線を落とし、黒い瞳が僅かに細められた。
「違う」
Kongphopは肩越しに振り返った。
「NaKhun様?」
「この香りの方が良い」
NaKhunの隣から微かな笑い声が聞こえた。NaKhinは片方の口角を上げて微笑みながらNaKhunを見やった。
「もしかして鼻の調子悪いんじゃない」
NaKhunは彼をちらりと横目で見た。
「NaKhin」
NaKhinは小さく笑った。
「確かにそうだね。いつもの店で、いつものコーヒーを、いつものように注文しただけなのに。なんだか運命のコーヒーにでも出会ったような嬉しそうな顔をしてるね」
NaKhunはすぐには答えなかった。彼は再びカップを持ち上げた。雨の香りがまだ残っており、深く息を吸い込むほどその香りはより鮮明になった。
「これはコーヒーではない」
NaKhinは眉を顰めた。
「じゃあそれは何だっていうんだ。Kongphop、間違えて俺の兄にお茶を買って来てしまったと?」
「いいえ、違います。これはいつもと同じコーヒーです」
NaKhunは少しの間沈黙したあと簡潔に答えた。
「雨」
NaKhinは一瞬、NaKhunを見つめ、それから再び笑った。
「あなたは本当に変わってしまったね」
NaKhunは彼のからかいを無視してコーヒーを一口飲んだ。
それは以前のままバランスの取れた味だった。濃さも熱さも申し分なく、何も問題はなかった。
それでもやはり雨の匂いがカップに頑なに残っていた。
「それが好き?」
兄の手にあるコーヒーを見つめながらNaKhinが尋ねた。
NaKhunはほんの一瞬だけピタリと動きを止めると感情のない声で答えた。
「煩い」
NaKhinはすぐににっこりと笑った。
「つまりイエスってことか」
「それはお前の勝手な解釈だろう」
「まぁ大体は俺が言ったことが正しいんだよ」
前方ではSilaが助手席に静かに座っていた。彼の穏やかで抑制された物腰が、車内の空気を後部座席よりもはるかに落ち着いたものにしていた。
Kongphopはドアを閉め、運転席に戻った。
彼らの後ろにはAiとWinが乗った別の車が一定の距離を保って追従し、いつものように護衛していた。
Silaはバックミラーに視線をやり淡々と尋ねた。
「そろそろお戻りになりますか?NaKhun様」
NaKhunはドリンクホルダーにカップを置いた。
「うん」
その車は滑らかな正確さで路肩から発進した。窓の外では夜の街が光の帯となってぼやけていく。
二人の兄弟は他人なら気まずさを覚えるような静けさの中、並んで座っていた。しかし実際のところそれは言葉を必要としないほど長い付き合いの者同士だからこその沈黙にすぎなかった。
それでもNaKhinはNaKhinだった。彼は向きを変えて再び兄を見た。
「そんなにその香りが気に入ったなら、今度は自分で買いに行けばいいんじゃない?」
NaKhunはちらりと彼を見る。
「そんなに暇なのか?」
「いや。どんな人がそんなにあなたを惹きつけるコーヒーを売っているのかただ知りたいだけさ」
「興味があるのは香りであってその人本人ではない」
NaKhinは笑った。
「今のところはね」
NaKhunはもう何も言わなかった。
彼はまるでその香りが本当に残っているかを確かめるかのように、ただ再びカップを持ち上げただけだった。その香りは彼に、彼の思考に、そして彼の記憶に纏わりつき、ただのありふれたコーヒー一杯の記憶にしては腹立たしいほど鮮明に残った。
その黒塗りの車が静かなる威厳を湛えて夜闇の中を走り抜けた。窓の外を金と白の帯のような一筋の光となって駆け抜ける。
Kongphopはハンドルをしっかりと握り、前方に視線を固定した。Silaは彼の隣に座り、決して油断することなく鋭い警戒心で通りとサイドミラーに注意深く目を光らせていた。彼らの後ろを走る後続車は、完璧に適切な車間距離を保ちながら、スムーズで慣れた様子でついてきた。それは数え切れないほど同じことを繰り返してきた、そんな動きだった。
彼らがまだ長い距離を進まないうちにKongphopは眉根を寄せた。前方の車が急に車線を跨いで横滑りし、道を完全に塞いだ。それと同時にSilaは顔を上げた。
「NaKhun様、NaKhin様」
Kongphopは急ブレーキを踏む前に、ただそう声を掛ける。
タイヤがアスファルト上でに悲鳴を上げた。後ろではAiとWinの車が完璧なタイミングで急停止した。
割り込んできた車両のドアが勢いよく開き、数人の人影が外へ飛び出してくる。街灯の下で武器が光っていた。
それでも後部座席は落ち着き払っていた。
NaKhinはちらりと外に目をやり、まるで襲撃ではなくちょっとした不都合にでも遭遇したかのように座席のシートに背を預けた。
「かなりいるな」
NaKhunはゆっくりとコーヒーカップを下ろす。彼の鋭い視線がフロントガラスの外へと向けられた。
「ああ」
Silaは振り返り命令を待った。
「今すぐ彼らを処理しましょうか」
NaKhunは短く、冷ややかな声で答えた。
「どう思う?」
Silaにはそれだけで十分だった。
彼はドアを開けるとすぐに外へ出た。後方からAiとWinも同じように素早くもう一台の車から飛び降りた。Kongphopはそのまましばらくの間ハンドルを握り続け、車の安全を確保しつつ現在地を確認していた。そして車の安全を確認すると、車から降りて彼らに合流した。
彼らは即座に散らばり、熟練された動きで効率良く、無駄な動きは一切見せず、指示を出す必要もなかった。
車の外では金属同士が激しくぶつかり合う鋭い音、足音、体が地面に打ち付けられる音、そして汚い罵声が空気を切り裂くように響き渡り、戦闘が始まった。だが、車内は相変わらず静かで、まるで分厚いガラスと鋼鉄がふたつの世界を隔てているかのようだった。
NaKhinは少しの間じっと外を見つめていたが、暫くしてから兄の方へ振り返った。
「賭けてみない?」
NaKhunは彼に視線を向ける。
「何を?」
「終わるまで何分かかるか」
NaKhunは再びガラスの向こうに目をやった。
Silaは誰かの手首を捻りナイフを落とそうとしていた。Aiは別の人物を蹴り飛ばし、車に激突させる。Winは後ろから逃げようとする人物を押さえつけていた。Kongphopがちょうどそこに割って入ってくる。その表情は完全に腹を立てていることを示す、彼特有の無表情さだった。
「5」
NaKhinはたちまちニヤリと笑った。
「俺は10分あげる」
「多すぎる」
「なかなか引き下がらなかった時のためさ」
NaKhunは素っ気なく答えた。
「KongphopとSilaはすでに苛立ってる。10分もかからない」
まるでNaKhunの言葉が正しかったことを証明するかのように、すぐさま車のすぐ横から再び鈍い大きな衝撃音が響いた。
Nakhinは振り返り、Kongphopが襲撃者の一人をまるでゴミ袋のように舗道に叩きつけるのを見るなり小さく笑った。
「わかった…7分くらいかも」
「もう手遅れだ」
NaKhinは座席に頭を預ける。何の前触れもなく話題を切り替えることができる人のような軽やかさで、話題をすっかり変えてしまう。
「母さんはまた俺達に結婚話を持ち出してきた?」
NaKhunは再びコーヒーカップに口をつける。まだあの雨の香りが微かに残っていた。
「ああ」
「兄さんから先にする?それとも俺が先に?」
「私から先に」
NaKhinは笑い声を漏らした。
「それなら2日もすれば俺の番になるね」
「ああ」
「で、何て言ったの?」
「私は忙しい」
NaKhinはハッとして鋭く彼を振り返った。
「たったそれだけ?」
「そうだ」
「俺もそれ使っていい?」
「少しは自分で考えられないのか?」
NaKhinは満足そうに頷いた。
「いいの。Nakhun先輩が言ったのとそのまま同じことを言うよ」
外ではすでに戦闘が収まりつつあった。NaKhinはもう一度ガラス越しに外へ視線を向け、まったく意に介さない様子で尋ねた。
「今日の夕食は何にしようか」
NaKhunはカップを戻した。
「甘くないものなら何でも」
「それはメニューではないよ」
「ではお前が選べ」
「バーベキューにする?」
「それは母さんが文句を言うだろう」
「母さんはいつも何にでも文句を言うよ。もっとも最初に文句を言うのはJimさんになる可能性が高いけど」
NaKhunは彼を一瞥した。
「なぜ?」
NaKhinは即座に微笑みを浮かべた。
「彼女がキッチンのカーテンを洗濯したばかりなんだ」
「それならメニューは確実に変わるな」
数分後、外の騒音はほとんど完全に消え失せていた。襲撃者たちが道路に手足を投げ出して横たわっている場所には荒い息遣いだけが残されている。Silaは、事態が収束したことを合図するために車の屋根を軽く叩いた。
NaKhinは腕時計を見て、兄の方を向いた。
「6分だ」
NaKhunは車のドアを開けた。
「まだ5分に近い」
NaKhinは小さく笑って、彼のあとに続いて外へ出た。
静まり返った通りに夜風が吹き抜けた。街灯が地面に横たわる者たちの上に青白い光を投げかけている。意識を失っている人間もいればまだ小さく呻いている人間もいるが、どの人間も微塵も再び立ち上がれそうにない。
Kongphopは何事もなかったかのように穏やかな様子で車の横に立っていた。Silaは場所を空けるために脇に寄り、その間にAiとWinが散らばった武器を拾い集めていた。
NaKhinはまだ意識のあった一人の男の傍で足を止める前に、その場を一度さっと見渡した。襲撃者はうつ伏せに横たわり、口の端に血を滲ませながら荒い息を繰り返している。NaKhinはしばらくその男を見つめた後、潰さない程度の力加減でゆっくりと男の後頭部を踏みつける。完全に動けなくなるよう、絶妙な加減で押さえつけていた。
NaKhinは身を屈める。その様子からは先ほどまでの遊び心溢れる気軽さは消え失せていた。残されていたのは、Thewathitirat家のもう一人の真のアルファが放つ冷徹さだった。
「誰の差し金だ?」
その男は奥歯を噛み締め、一言も漏らさなかった。
NaKhinは男の頭に乗せている足に少し体重を掛ける。
「もう一度聞く。誰の差し金だ?」
依然として続く沈黙。ただ荒く途切れ途切れの息遣いだけが響いていた。
NaKhinはその男をもう一呼吸だけ見つめていたが、やがて薄っすらと笑みを浮かべた。
「わかった。もう無理に話さなくていいよ…」
彼はSilaとKongphopを見上げた。
「それならこいつの望み通りにしてやれ。二度と口がきけないようにしろ」
その命令は低く抑揚のない口調で発せられたが、誰が聞いてもその意図することは明白だった。それからまるでその話はもう済んだ、とでも言いたげに彼は足を退けた。
NaKhunは一言も発せず、ずっとその様子を眺めていた。そして黙ったまま踵を返し、車へと引き返した。
NaKhinは彼に続いた。彼らの背後では残された襲撃者たちの悲鳴が夜空へと昇り、そこらへ響き渡ったが、やがてボディガードたちの手によって完全に沈黙させられた。彼らのボディガードたちは、期待された通りに事後処理を終わらせたのだ。
車のドアが閉まるやいなや、すぐさまひんやりとした静寂が戻った。先ほど起こったことがまるで帰路における些細な面倒事に過ぎないかのように、NaKhunは再びコーヒーを口に運んだ。
NaKhinは座席に深く腰掛け、小さく溜め息をついた。
「じゃあ、本当にバーベキューはしない?」
NaKhunはゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。雨の匂いが、彼の感覚の片隅にまだ微かに残っていた。
「しない」
前方ではKongphopが運転席に戻り、Silaが隣の助手席に乗り込んだ。背後では現場を保全し、残骸を片付けてから後を追うために、AiとWinの車がその場に残った。まるでそこでは何の待ち伏せも一度も起きていなかったかのように、黒い高級車は静かに走り去った...。
それでもNakhinは尋ねずにはいられなかった。
「これで今月に入って3度目の襲撃だ。父さんには言っておくべきじゃない?」
「いや」
「なぜ言わないんだ?誰の仕業なのかもまだわからないのに」
「私たちで対処できる。父さんが知る必要はない。それに母さんが心配するだろう」
「あとで知ったら母さんはもっと心配するんじゃないか?」
NaKhunは一瞬手に持っているカップに視線を落とし、そして落ち着いた声で答えた。
「Naphitの件だけでも母さんを疲れさせるには十分だ」
Naphitという名前が出た途端、車内の空気が張り詰める。厳密にいうと空気の重みが増した。その家においてその名を口にすることが、どれほど複雑な事情を抱えているか、二人はよく分かっていた。
NaphitはKhamphiradaの息子ではなかった。
彼はNaresとNaresがかつて心から愛した女性との間に生まれた子どもだった。その女性はベータであり、Naresが人生を共にしたいと望んでいた相手だった。しかし結局のところ、Naresは彼女と結婚することを許されなかった。
Thewathitirat家は跡継ぎを生むのに最も適したオメガを求め、その人物は彼の初恋の相手ではなくKhamphiradaだったからである。
NaresはKhamphiradaと結婚せざるを得なかった。その婚姻からNaKhunとNaKhinが生まれた。二人とも一族にとって申し分のない息子であり、揃って真のアルファであったことが長老たちの決定が"正しかった"ことの証明でもあった。
しかし、Nakhunの祖父が亡くなった後、Naresはかつて愛した女性の元へ戻り、その復縁によってNaphitが誕生した。
NaphitはNaKhunやNaKhinのような真のアルファではなく、単なる平凡なアルファにすぎなかった。
Naphitは母親と共に別の家、別の人生、別の世界で成長した。彼女が亡くなるその日まで。そしてその時になってようやくNaresはNaphitをThewathitirat家に正式に迎え入れ、彼を弟としてNaKhunとNaKhinの保護の下に置いたのだ。
そしてNaphitは愛の結晶として生まれた子だからこそ…。
彼は母親を亡くしていたから…。
誰も本当の意味で埋めることのできない心の空洞を抱えたまま育ったから…。
NaresはNaphitを人一倍激しく愛していた。あまりにも激しく愛情を注いでいたために、時にはどうしても目に入ってしまった。家全体を以前より脆くさせてしまうほどに激しく。
NaKhinは振り返って兄を見た。
「でも兄さんにまで万が一のことがあったら母さんはもっと耐えられないよ」
NaKhunはしばらくの間、手に持ったカップをじっと見つめていたが、顔を上げずに答えた。
「何事もなかった」
「今夜はもう少しでそうなるところだったよ」
NaKhunは何も言わなかった。
NaKhinもまた口を閉ざし、それから小さく、どこか切なげな笑みを零した。それは相手の頑固さに"一時的に"降参する者のような感情を含んでいた。
「やっぱりね。兄さんがそんなにすんなり父さんには伝えないって分かってたよ」
NaKhunは横目で彼をちらりと見た。
「それならとっくに知っていただろう」
「分かってる。でもやっぱり言わなければならなかった」
NaKhunは再びカップを持ち上げた。雨の冷涼な香りが、まだ彼の感覚の端に漂い続けていた。その夜の嫌な出来事をすべて帳消しにするかのように、その雨の香りだけは信じられないほど鮮明に記憶に残っていた。
「ああ」
彼はそれしか言わなかった。車はいつものように慣れ親しんだ静けさの中を走り続け、兄弟はいつも通り隣り合って座り、それぞれが思い思いの沈黙に包まれていた。それでも二人は、NaKhunが装っていたほどには夜がまだ終わっていないことを痛いほどよくわかっていた。
翌日、OngSaのカフェは静かで心地の良い空間が広がっていた。窓ガラスから淡いリボンのように差し込んだ朝の光が、ピカピカな木の床や温もりを感じる色合いのテーブルの縁に向かって伸びていく。出来立ての焼き菓子のほのかな甘い香りと、焙煎したコーヒーの香りが混ざり合っていた。その空間全体がまるでそこだけ時間の流れが穏やかになったかのように、いつまでも長居したくなるような心地良さに包まれていた。
Phatsaはいつものようにカウンターに座った。彼は頻繁にやって来るので、それは彼の日常におけるルーティンの一部のようになっていた。
それ以上何も注文しなかったとしても、ただOngsaのお店に座っているだけで、彼は不思議と安らいだ気分になった。
その前日の夜、帰宅後にSangnueaからお礼のメッセージが再び届いていた。やり取りはさほど長く続かなかったが、Sangnueaに『暇なときはいつもどこへ出かけているのか』と聞かれた。Phatsaは、大学の先輩の一人が経営するカフェによく座っていると正直に答えた。コーヒーも焼き菓子もおいしいし、それにオーナーから店を追い出されることは滅多にないからと。
PhatSaにとっては単なる世間話にすぎないことだと思っていた。
Sangnueaが実際にカフェまで自分を探しに来るとは想像もしていなかった。
ドアの上のベルが静かにチリンと鳴った。
PhatSaは本能的に顔を上げ、そこにSangnueaが立っているのを見て動きを止めた。
今日のSangnueaは前夜のように弱々しく見えたり、驚いたりすることはもはやなかった。
Sangnueaの淡い色の髪がガラス戸からの光を浴びて、彼の顔を普段よりもさらに明るく輝かせているように見えた。その切れ長の目には、相変わらず人を惹きつけてやまない強い魅力があった。唇は小さく控えめな、少しはにかんだような笑みを描いている。そして彼は、両手で小さな箱に入ったお菓子を、まるで潰してしまうのを恐れているかのように大切そうに運んでいた。
Sangnueaは本当に美しかった。
単に見栄えが良いというだけではない。彼は思わず二度見してしまうほど、息を呑むような美貌の持ち主だった。彼の肌はきめ細かく色白で、淡い髪色が全体に柔らかな印象を与えていた。そして、その柔らかさの下には静かに人を惹きつける何かがある。まるで彼は、一度でも彼を見た者の記憶に残り続ける運命であるかのように。
PhatSaは彼をしばらく見つめ、それから先に口を開いた。
「どうしてここにいるの?」
Sangnueaは少し歩み寄り、穏やかな声で答える。
「あなたに会いに来ました。PhatSaさん」
その率直さに、PhatSaは思わず眉を上げた。Sangnueaが手にした箱と、その顔に浮かんだ微かな笑みを交互に見比べ、聞き間違いではないかと確かめるかのように再び尋ねた。
「俺に会いに来たの?」
Sangnueaは頷き、彼にそっと手にしていた箱を差し出した。
「お礼にスイーツを持ってきたんだ」
PhatSaは箱に視線を落とし、それから再び顔を上げたが、自分にはそんなに堅苦しいものはまだふさわしくないと思っているようだった。
「そこまでしなくて良かったのに」
PhatSaはそれでもそれを受け取り、すぐにこう付け加えた。
「その気持ちだけで十分だよ」
Sangnueaは静かに首を横に振った。その瞳はどこか儚げに見せるほど真剣な色を帯びていた。
「君にとっては些細なことだったのかもしれないけど。でも僕にとっては……それはとても大切なことだったから」
PhatSaはしばらくの間、彼の顔をじっと見つめた。
Sangnueaは本気だった。彼は相変わらず穏やかで柔和に見えたが、その奥底には不安の糸が張りつめていた。まるで昨夜の出来事がまだ彼の肌の下に生々しく残っているかのように。
そこでPhatSaは菓子の箱をカウンターに置き、単刀直入に尋ねた。
「それってそんなに重要なことだったの?」
Sangnueaは言葉を慎重に選んでいるかのように、僅かに唇を結んだ。
「もし首を噛まれていたとしたら、取り返しのつかないことになっていたよ」
PhatSaはたちまち顔を顰めた。
「それってどういうこと?」
Sangnueaは一瞬黙り込んだが、彼は目を背けなかった。それでもその視線は揺れていた。まるで相手には全く理解できないかもしれないことを、これから自分が言おうとしていたから。
「アルファとオメガの世界ではもしアルファがオメガの首を噛むと…二人は番になったとみなされるんだ」
PhatSaは一瞬、言葉を失って固まった。
「番?」
「そう」
「待って」
PhatSaはさらに眉を顰めた。
「ただ首を噛んだだけで?」
Sangnueaは小さく頷く。
「そうだよ」
信じられないといった様子でPhatSaは小さく笑った。
「それだけで?二人は…ペアになっちゃうの?」
Sangnueaは目を伏せる。
「そうだよ」
「たとえお互いに愛し合っていなくても?」
今度こそSangnueaは顔を上げてPhatSaの視線をまっすぐに受け止めた。
「うん」
PhatSaはさらに深く眉を顰めた。
「それはどういう仕組?愛のない二人がどうやって一緒に暮らしていけるの?たった一度噛まれただけでどうして人の人生を丸ごと変えられるんだ?」
「それはただの一噛みじゃない―」
店の奥からコーヒーカップを手に姿を現すと同時に、Ongsaの声が絶妙なタイミングで割り込んできた。恐らくその会話の途中から聞いていたのだろう。彼に驚いた様子はなく、ただいつもより真剣な表情をしていた。
彼はカウンターにカップを置き、Phatsaに視線を向けた。
「それは絆を生み出すことなんだ」
PhatSaはすぐに彼の方を向いた。
「OngSa先輩、もっとわかりやすく説明してよ」
OngSaは微かに笑みを浮かべた。
「僕はわかりやすく説明してるよ」
「まだ不十分だよ。ちゃんと理解できない」
カウンターに凭れかかりながらOngSaはゆっくりとした口調で、丁寧に説明した。
「アルファとオメガの間で交わされる噛み跡はただの傷なんかじゃない。アルファから相手へ、アルファの心から何かが伝わるんだ…。それはアルファの心臓から始まり、血液を通って唾液の一部となり、そして牙を通してオメガの首へと運ばれる。そこが番の絆を受け取るポイントになるんだ。そこから血液を通り相手の心臓に達する」
PhatSaは黙って耳を傾けていた。
OngSaは焦らずに続けた。
「それは本能から始まる絆だけど、肉体的なレベルで終わるようなものじゃない。それが起これば肉体と魂は自然と結びつき始め、その二人は抗えないほど深くお互いを求め合うことになる。そして番契約が成立するとオメガはアルファの所有物になる。彼らは決して他の誰のものにもなり得ない」
カフェの空気が一瞬静まり返り、奥でエスプレッソマシンだけがかすかな音を立てていた。しかしそれ以外のものはすべての音はどんどん遠のいていくような気がした。
PhatSaは表情を硬くした。
「それって理不尽だよ」
Sangnueaは薄っすらと微笑む。
「一度も公平だったことはないね」
その言葉はとても穏やかだった。しかしその姿によってPhatSaは彼をより長く見つめることになった。まるでSangnueaが単なる絵空事を話をしているわけではないことをふと思い出したかのようだった。昨日の夜、彼はその現実の脅威に呑まれそうになっていたと話していたのだ。
OngSaはSangnueaの方を向く。今はもう彼の声はずっと穏やかになっていた。
「いずれにしてもPhatSaが助けに入ってくれて良かったよ。まぁそんなところだね…、もし事前に防げるならそうすべきだった」
PhatSaはまるで勝ち誇ったかのように微かに身動ぎした。だが、彼が人助けをしたんだと口にするより前にOngSaは話を続けた。
「せっかく今日、わざわざ来てくれたんだから、これでようやくお互い顔馴染みになれたってことだ」
Sangnueaは穏やかに微笑む。
「そうですね。仲良くできたら嬉しいな」
言葉自体はシンプルだったが、そこには何か心のこもった誠実さが伺えた。PhatSaは先輩にちらりと視線を向け、それからSangnueaの方を振り返った。
「こちらはOngSa。大学の先輩でこのカフェのオーナーなんだ」
「こんにちは。僕はSangnueaです」
「はじめまして、Sangnuea」
Sangnueaは少し緊張が解れたようだった。彼はOngSaの方を向き、そして丁寧に尋ねた。
「あなたはアルファとオメガについて詳しいですね、OngSa」
OngSaは眉を上げた。
「ちょっとはね」
「あなたはアルファですか?それともオメガですか?」
その質問を耳にするやいなや、PhatSaは驚いて振り返った。まるで彼自身、今になって初めてその答えを求めていたことに気付いたかのように。
OngSaは微笑んだ。
「いや。僕の両親はアルファとオメガだったけど、僕はベータだよ」
PhatSaは目を瞬かせた。
「ほんとに?」
「もちろん。僕は誰の匂いも感じないし、フェロモンも持ってないよ」
そうOngSaは冷静に返した。
「なるほど」
Sangnueaは納得したように小さく頷いた。
PhatSaは咄嗟に自分自身を指差した。
「じゃあ、それなら俺も多分アルファにはなれないな。誰かの匂いを感じるなんて今まで経験したことないし」
Sangnueaはまるで自分にしか感じ取れない、空中にある何かを捕まえようとするかのように、PhatSaを長い時間見つめた。
「必ずしもそうとは限らないよ」
PhatSaは怪訝そうに眉を顰めた。
「どういうこと?」
「第二性の発達がまだ休眠状態にある場合もあるんだ」
Sangnueaは微かに笑みを浮かべた。
「冗談じゃなく本気で言ってるんだ。一部のアルファはその匂いが全く漏れないほど、自分のフェロモンを厳密にコントロールすることができる」
彼は一呼吸置き、それからより静かに、より真剣な面持ちで続けた。
「君は二次性徴検査を受けるべきだよ、PhatSaさん」
「なんでいつの間にか俺の話になってるんだ?」
SangnueaはPhatSaをじっと見つめた。
「だってもしある日、君が誰かを噛んでしまって大惨事になったらどうするの?」
「俺が誰かに噛みついたりするわけないでしょ?」
「そういうことも起こり得るんだよ。もしオメガのフェロモンを嗅いで発情してしまったら、オメガの首を噛んでしまうこともあるかもしれない」
PhatSaは固まり、それから助けを求めるようにOngSaの方を振り返った。しかし、彼の先輩は軽く微笑むだけだった…。
「この場合はSangnueaが正しいと思う」
Phatsaは即座にビクッと頭を後ろに引いた。
「OngSa先輩」
「ん?」
「あなたはもう俺のこと愛してないんじゃないかって思い始めてきた」
今度こそOngSaは本当に声を立てて笑った。
「そうだね。それでも検査を受けた方が良いと思うよ」
控えめに微笑んでいたSangnueaだったが、今はもう心からの笑顔を見せている。
「ぜひ行ってください」
PhatSaは二人がかりで詰め寄られ、もはや反論する気力すら残っていない男のような深いため息をついた。
「わかった。考えておくよ」
まさにその瞬間、まるで自分の出番を待っていたかのようにNileが店の奥からひょっこり顔を出した。
「そんなに考えすぎるなよ、兄貴。ある日目が覚めたら牙が生えていてパニックになる自分を想像してみて」
PhatSaは即座にぐるりと振り返った。
「また盗み聞きしてたな?」
Nileは悪びれる様子もなくにやりと笑った。
「盗み聞きじゃないよ。素直に聞いてたんだって」
「いつか絶対にお前のこと殴ってやるからな」
「口ではいつもそう言うけど絶対やらないよね」
PhatSaがまさに言い返そうとした瞬間、Sangnueaが先に笑い出した。そして今度はその声音にPhatsaが思わず一瞬動きを止めてしまうほど、澄んでいて鮮やかだった。
彼に笑われていたからではない。
Sangnueaが本気で笑うと、以前にも増して美しくなることに突然気がついたからだ。
Sangnueaはまた、このカフェに来てからPhatSaをあまりにも頻繁に見つめすぎていることに十分に気づいていた。その年上の少年は相変わらず信じられないほどのハンサムだった。変わらず自然体でかっこいい。そして二人の距離が縮まるほど、SangnueaはPhatSaの心の奥底に、本当に何かが潜んでいるような感覚をよりはっきりと覚えた。
まだ覚醒していない何か。
かといって完全に眠っているわけでもない。
そこでSangnueaは彼をもう一度見つめた。それから小さくに微笑んで、まるでその願いを彼に託すかのように、先ほどの頼みをより柔らかな声で繰り返した。
「本当に検査を受けるべきです、PhatSaさん」
PhatSaは再び溜め息をついたが、しかし今度は口元に微かな笑みを浮かべていた。
「はいはい、わかってるよ」
OngSaは二人のやり取りを静かに見守りながら、心の中で微笑んでいた。彼の小さなカフェにはまだコーヒーの香りが漂っている。店内には今も柔らかな光が満ちていた。それでも彼には理由ははっきりとはわからなかったが、その日、何かが僅かに前進したような気がした。
そして何が問題だったかというと彼らの方へゆっくりと近づいてくるものが美しいものになるのか、それとも近づけば近づくほど事態が好転するどころか、より複雑で解けない結び目になっていくのかは誰にも分からなかった。
その夜、街並みは再び緊張した面持ちを見せていた。通りの両側に並ぶ商店の明かりが、午後の日差しの温もりをまだ残すコンクリートの路面にぼやけた光の帯を伸ばしていた。車が絶え間なく通り過ぎていく。
警笛、エンジンの音、人々の声——それらすべてが空中で絡み合い、まるで街が毎晩その混沌そのもので呼吸しているかのようだった。
NaKhunは落ち着いた、何の感情も読み取れないような表情で、警察署の前で車から降りた。
彼が着ていたダークスーツは相変わらず非の打ち所がなく、まるで過酷な一日なんて知らなかったかのように、今まさに役員室から出てきたと言わんばかりのようだ。
警察署の無機質な白い照明が彼の顔の輪郭をくっきりと際立たせ、日焼けした肌をさらに色濃く見せていた。彼の周りには、オーク樽で熟成された温かみのあるウイスキーの香りと、微かな焚き火の煙の匂いが漂っていた。それは真のアルファだけが放つ、静かで紛れもない存在感そのものだった。Nakhunが口を開く前に、受付の係員がすぐに顔を上げた。
ひとりの警官が慎重な笑みを浮かべて立ち上がる。
「こちらです、NaKhun様」
NaKhunは軽く頷き、警官の後に続いて中に入った。彼は露骨に怒りを表しているようには見えなかったが、静かになればなるほど、迂闊に近づいてはならないことは明白だった。
先ほどNaKhunを呼び出した警官が前に進み出て、疲れた溜め息をついた。
「大変申し訳ありません、NaKhun様。ご面倒をおかけしたくはなかったのですが、弟さんが今夜は…少々騒がしかったものでして」
NaKhunは言葉を返さなかった。彼は部屋の反対側にある金属製のベンチの方をちらりと見ただけで、すぐにそのトラブルの原因に気づいた。
Naphitはそこにだらりと座っていた。シャツは半分開けてボタンが2つ外れており、乱闘のせいで髪は少し乱れている。そしてその目にはまだ酒の濁りが残っていた。それでもそんな状態でありながら彼は驚くほどにハンサムで、酒に酔って理性を失っていてもなお、群を抜いて人目を引くような男だった。彼の肌の色はNaKhunよりも明るく、輪郭は同じようにシャープ。その眼差しには、自分が決して従順な子どもではなかったことを物語る、荒削りで頑なな光が宿っていた。
NaKhunが近づいてくるのを見るやいなや、Naphitは小さく嘲るような笑い声を漏らした。
「マジかよ、あんたが直接来るなんてな」
Nakhunは彼の前に立ち止まってしばらく見つめた後、冷静で抑揚のない口調で話しかけた。
「酔っている時くらい静かにできないのか」
Naphitはその質問がまるで可笑しいとでも言いたげに片方の眉を上げた。
「何も暴力的なことはしてないよ。あのバカどもが先にケンカを売ってきたんだ」
「それでやっとここに戻ってきて座る口実を見つけたというわけか?」
「俺にどうしろっていうんだ?ただここに座っていあいつらに頭を下げろって?」
Nakhunは年下の異母弟を黙って見つめ、やがて少しずつあのうんざりするような疲労感が再び込み上げてくるのを感じた。このようなことが以前もあった。そしてそれが初めてのことではなかったことにより一層疲れさせられる。
「Naphit」
NaKhunがはっきりとフルネームを口にしたためにNaphitはほんの一瞬動きを止めた。
「たまにはまともに振る舞え」
Naphitは彼の目を射抜くように見つめ、その表情にあった酒のせいでぼんやりとした濁りがより鋭いものに変わっていた。
「従順になれってこと?あなたみたいに?」
彼はあからさまに挑発するような目でNaKhunに視線を向けた。
「これ以上俺に関わらないでくれ」
短い一言だったが、その言葉ひとつひとつに棘があった。
NaKhunは一拍沈黙し、そして楽しさとは程遠い低い笑い声を漏らした。
「私がお前と関わり合いになりたいとでも?」
Naphitはぐっと唇を引き結び、押し黙った。
NaKhunは小さく息を吐き出し、事後処理をするために代わりに警官と話すことにした。
酔ってしまった弟を迎えに来るような態度ではなく、単なる厄介事を片付けるかのような淡々とした様子で必要な書類にサインを済ませる。
NaKhunはすべての処理が終わると、Naphitの方へ僅かに首を傾けた。
「行くぞ」
Naphitは明らかに気が進まないといった様子でゆっくりと立ち上がったが、それでも結局はついてきた。
外はすっかり日が暮れていた。警察署の外へ出ると夜風が一層涼しく感じられる。
二人は一言も言葉を交わさず、警察署のドアから車までの距離を歩いた。Naphitは肩を怒らせ半歩先を進んでいた。その姿はあまり深く踏み込めば噛み付いてきそうな空気を纏わせていた。
NaKhunはあえて多くを語らず、沈黙にすべてを語らせた…。
彼はとうの昔に話すことにうんざりしていた。
そして時として、何よりも腹立たしい事実はこれだった。Naphitがいくら「口出しするな」と言おうと、何かトラブルが起きる度に、毎回その後始末をしなければならないのはNakhunかNakhinのどちらかなのだ。それは彼らの父親が命じたことだった。
そして同時に、街の反対側では専門病院の冷たい白い光が、現実離れしたようにすべてを綺麗に見せていた。滑らかな壁。静かな廊下。消毒液の匂いが漂う空気。Phatsaはすでに自分がいるべきではない場所に迷い込んでしまったかのような気分に陥っていた。
PhatSaは診察室の外の椅子に深く腰掛けた。退屈半分、そしてそもそもこんな場所にいる自分自身へのイライラが半分だった。
それはSangnueaから始まった。
そのあとOngSaにも広がった。
気がつけば、PhatSaは専門病院で診察を受けることになっていた。
考えれば考えるほど、それはバカバカしく思えた。
二次性徴検査。
その言葉を思い浮かべただけで、彼は溜め息をつきたくなった。
しかしSangnueaがそれを言った時のあまりにも真剣な表情に、結局のところPhatsaは彼らから言われた通りの場所にちゃんと現れたのだ。そもそも自分の体内に何かが隠されているなんてまだ完全には確信が持てない。
看護師がカルテを手に持って診察室から現れ、PhatSaの名前を呼んだ。気が進まないといった様子でPhatSaは立ち上がった。
採血され、頭を痛くするほどの次から次へと続く問診。すべてが終わると、彼は肘の内側にアルコール綿を押し当てたまま立ち尽くした。まるで自分の血液がこのすべての馬鹿げた事態の原因であるかのように、自分の血管を見つめていた。
「ありがとうございました」
PhatSaは儀礼的に口にした。
看護師は事務的な笑みを浮かべる。
「結果が出るまでに少々お時間がかかります」
PhatSaは立ち止まった。
「どれくらいかかりますか?」
「本日中のお受け取りをご希望の場合、数時間ほどお時間をいただくかと」
PhatSaは数秒ほど沈黙してから、すぐに返答した。
「それならもう帰ります」
その看護師はまるでそれを予期していたかのように微かに笑みを浮かべた。
「それでは検査結果を病院から郵送いたしましょうか?」
「はい。お願いします」
PhatSaは待つ気になれなかった。自分らしさが微塵も感じられない、冷ややかな白い建物の中でどうしても座って待っていられなかった。そして何より、これ以上ここに座って検査のことを考え続けなければならないとしたら、結果が出るまでもたないんじゃないか、と彼はそう本気で思っていた。
すべてが片付くとPhatSaは看護師に改めてお礼を言い、一人で病院を後にした。
外では夜空が一段と深まり、黒に近いほど濃い青になっていた。駐車場がだだっ広く感じ、そして彼自身の足音が平らなコンクリートの地面にやたらに響き渡った。
PhatSaはスマホを取り出して時間を確認し、それからまたそれをポケットに滑り込ませそのまま歩き続けた。しかし、ほんの数歩進んだだけで何か胸騒ぎがした。
誰かに見られているような気がした。
彼はすぐには振り返ろうとしなかった。少しだけ歩調を緩め、耳を澄ませた。
風が吹く。
遠くで行き交う車の走行音。
そして……彼のものではない、もう一つの足音がした。
PhatSaは途端に鋭い眼光を向けた。先ほどまでの気怠さなどすっかり消え去り、危険を察知する感覚が研ぎ澄まされていく。過去に戦いの経験がある者なら、これが偶然起きたことではないとわかるはずだ。
PhatSaは立ち止まった。
それから振り返った。
最初の男がすぐにPhatSaに飛びかかった。
PhatSaは本能的に身を躱した。最初の攻撃が彼の肩を数インチの差で掠めた。襲撃者は悪態を吐き、Phatsaは反射的にパンチを打ち返した。男はよろめきながら電柱にぶつかった。二人目の襲撃者が背後から突進してきたが、Phatsaは体を回転させて相手の鳩尾に強烈な蹴りを浴びせ、男は地面に崩れ落ちた。
「この野郎…」
その災いは予想外のところからやってきた。
Phatsaは周囲をざっと見回し、そこに二人以上いることを瞬時に悟った。少なくともさらに三人の人影が暗闇の中から姿を現した。
「いいだろう」
PhatSaはひとりごちてから一度肩を回して腕の力を抜いた。
「さあ、一斉に来い」
もしサシの勝負であったら、Phatsaは怖がらなかっただろう。彼は素早く、正確で、その端正な容姿から受ける印象よりも遥かに強かった。しかしそれが問題だった。今夜やって来た男たちは、最初から正々堂々と戦うつもりなど毛頭なかった。男たちは一斉に群がり、四方八方から掴みかかる。殴りつけ、身動きが取れないように押さえ込み、PhatSaが態勢を立て直すための十分な隙を決して与えなかった。
PhatSaはそれでも何度か効果的な打撃を浴びせた。男たちの一人が顔面への肘打ちを受けて後ろに仰け反った。もう一人は、腹部への膝蹴りを受けて苦悶しながら蹲る。
しかし敵の数がじわじわと戦局を圧迫し始めた。PhatSaは後ろから腕を強く引かれ、片方の手首を感覚がなくなるほど捻られる。そしてPhatSaが完全に抜け出そうとする前に、もう一つの体が彼に激突しその場に羽交い締めにして動きを封じた。
「こいつを押さえつけろ!」
敵の数によりその場を掌握される。
Phatsaは歯を食いしばり肘を引き抜こうと力を込めたが、背後から押さえつける力はさらに重く締めつけてくる。彼の呼吸が荒くなった。怪我をしたせいではなく、自ら退くことを選ぶ前に劣勢に立たされる感覚がたまらなく嫌だったからだ。
その時だった。駐車場の奥からヘッドライトが煌々と照りつけ、その眩しさに全員が一斉に振り返った。
Naphitと別れた後もNaKhunの機嫌は少しも回復していなかった。
NaKhunは年の離れた異母弟をSilaとKongphopと一緒に戻らせ、その後は自分だけで車を走らせた。今、自分が何を言ったところでNaphitにはどうせ届かないと、彼は痛いほど分かっていた。
彼はそのまま黙って車を走らせ、意味を持たない夜の街が窓の向こうを滑り過ぎていくのに任せた。
今日のその苛立ちは、今も彼の中に幾重にも層をなして横たわっていた。Naphitのこと、襲撃。彼らが依然として誰の差し金なのか全く分かっていないという事実。そしてあの雨の堪らなくいい香りが、彼の記憶にまだ色濃く残っていた。
黒い高級車が道路脇に斜めに横付けされた。運転席側のドアがゆっくりと開き、ダークスーツを着た背の高い人物がヘッドライトの光の中に降り立った。
光の下でNaKhunの顔は無表情で、その浅黒い肌は周囲の闇に妙に馴染んでおり、まるで影とこの男がずっと前から一体であったかのようだった。彼は他人の揉め事に首を突っ込むようなには見えなかった。それどころか、いかにも見て見ぬふりをしてそのまま車を走らせていきそうな見た目をしていた。
実際のところ、彼はもう少しでそうするところだった。
もし彼が通り過ぎるその瞬間に、揉み合いの最中に押さえつけられている少年の顔をあまりはっきりと目撃していなかったら——
色白の肌。
淡い色の髪。
不利な状況にあっても依然として反抗的な激しさを宿した瞳。
雨の匂いが、彼の記憶の中で一瞬にして鮮やかに蘇った。
それはもはやコーヒーカップに残された微かな名残りなどではなかった。
それは生き生きとした、同じあの香りだった。
涼やかな。
すっきりとした。
もっとずっと危険な。
Nakhunは車のドアをドスン!と重い音を立てて閉め、一言も発せずに男たちの方へまっすぐ歩いて行った。
PhatSaを押さえつけていた男に反応する時間をなかった。NaKhunの最初のパンチが男の顔面を直撃し、男はよろめきながら後退した。もう一人の男が横からNaKhunに向かってきたが、NaKhunは僅かに体を躱しただけで、男が地面に崩れ落ちるほどの強烈な肘打ちをボディに叩き込んだ。
彼の動きはすべて、無駄なことにエネルギーを費やすことをとうの昔にやめた人間のように、簡潔で、正確で、そして冷淡だった。
Phatsaはその好機を捉え、背後から掴む腕を振り解いて自由になった。PhatSaは激しい息を吐き、乱れたシャツ姿で立ち回っていたが、一瞬でも態勢を立て直す間ができると誰に言われるでもなくすぐさま反撃に転じた。彼の膝は男の鳩尾にその場に崩れ落ちるほど強烈に突き刺さった。
一方NaKhunは、同じく冷静かつ効率的に他の男たちを片付けていった。その動きは目の前の乱闘に時間を奪われることそのものに苛立っているかのようだった。
襲撃者たちはすぐに体制を崩した。一撃で落とす。男が一人退散する。さらに二人がほんの一瞬視線を交わしたが、結局は身の安全を優先した。
男たちは逃げ出した。
混乱は信じられないほどあっという間に終わり、その場には荒い息遣いと、駐車場の薄暗い明かり、そして暴力の後に必ず訪れる不気味な静寂だけが残された。
PhatSaはその場にしばらく立ち尽くし、依然として肩で息をしていた。彼は顔を上げ、助けに入ってくれた男性にお礼を言った。
それから二人は立ち止まった。
目の前に立っている男性は今まで出会ってきた誰とも違っていた。
長身。
褐色の肌。
決して柔らかな印象を与えない、ある種の美しさ。彼の顔立ちは彫りが深く、落ち着き払っており、その冷静さは恐ろしささえ感じるほどだった。彼を包むスーツの洗練された佇まいをもってしても、その奥底に潜む野性味を覆い隠すことはできなかった。それどころか、彼は完璧な物腰の、まるで獲物を狙う捕食者のように見えただけだった。
「あの…」
PhatSaの言葉が途切れた。
NaKhunが一瞬のうちに距離を詰めてきたからだ。
NaKhunのその黒い瞳の奥の何かが変わった。
彼の呼吸が深くなっていることにPhatsaが気づくほどに、二人の距離は近づきすぎていた。予兆もなく、彼から真のアルファのフェロモンがぶわっと放たれる。温かみのあるウイスキーと燻る煙の香りが、凄まじい勢いで空気中に立ち込める。
そして突然、目の前にいるその男は、もはやPhatSaを救ってくれただけの人物ではなくなっていた。
彼は全く別のものに呑み込まれつつある男だった。
それを目覚めさせたもの——それはPhatSaの匂いだった。
PhatSaの身体から漂う雨の香りが、堪らなく魅力的だった。
清涼、清潔、爽やか。破滅的。何ヶ月もの猛暑の後に降り注ぐ、乾いた大地を潤す最初の雨のように。その香りは至近距離からNakhunの本能を強烈に打ち抜いた。その結果、彼が一日中保ち続けていた鉄の自制心は、一瞬にして粉々に砕け散った……。
発情。
それは突然来た。
あまりにも暴力的に。
その動きはあまりに速く、思考が追いつくよりも先に身体が勝手に反応したかのようだった。
Phatsaもまた彼の様子に違和感を覚えた。目の前の男が一言も発さず、その場から動こうともせず、ただ不気味なほどの鋭い視線で自分を見つめる姿にPhatSaは眉を顰めた。
「待って…どうしたの?」
NaKhunは答えなかった。
彼はその少年の心臓の鼓動が匂いとして感じ取れた。
その色白の肌の下から温かい血の匂いがした。
あの雨の匂いを感じて、それを丸ごと飲み込んでしまいたい。
PhatSaは無意識の内に半歩下がった。しかしその程度では不十分だった。
次の瞬間、NaKhunはPhatSaの腕を強く掴み、胸元へ引き寄せた。全てがあまりに急すぎて防ぎようがなかった。
Phatsaの瞳は大きく見開かれ、やがてNakhunの頑丈な胸板が二人の間の距離を埋めた。煙とウイスキーの匂いが熱く圧倒的な勢いでPhatSaの感覚を満たし、何が起きているのか理解する間もなく首の後ろを力強い手で掴まれた。
それからNaKhunは頭を下げた。
残忍なほどの力でPhatSaの首にNaKhunの牙が沈み込んだ。
暴力的なまでの痛みがPhatSaを突き抜け、それと同時にまるで何かが相手の男の身体からPhatSaの体内へと直接注ぎ込まれるかのように、奇妙で焼け付くような熱が血潮を伝って流れるのを感じた。PhatSaは身を捩る。彼は無意識の内に両腕を強張らせせ、彼の息が途切れた。
一瞬、世界中が止まった。
車もない。
風もない。
すべてがない。
しかし痛みだけはある。
そして熱さ。
否定しようのないほど速く訪れた真実。
そしてPhatSaは、その牙が自分の首の皮膚を突き刺したまさにその瞬間、自分の命がすでにそれまで知っていた世界から完全に引き裂かれてしまっていたことにまだ気づいていなかった。
#2_END
