オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#7

2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。


今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。


KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)

https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25



KNOTドラマパイロット版(YouTube)



KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)



VII... Stay 



 午前の遅い時間、OngSaのカフェは相変わらずぬくもりに溢れ、居心地の良い空気に包まれていた。背の高いガラス窓から柔らかな陽光が差し込み、淡い色の木の床に零れ落ちる。

 PhatSaがよく知る、淹れたばかりのコーヒーと出来立ての焼き菓子の香りが、あたり一面にふんわりと広がっていた。その香りはいつも安心感を与えてくれるものだった。それにも関わらず、いつもの隅にある席に座っている今でさえ、皮膚の下で何かがどうしても落ち着かないような感覚がまだ残っていた。まるで彼の身体が他の誰かの香りを鮮明に記憶しているかのようで、記憶が鮮明になればなるほど、それを無視することがもどかしいほど不可能になっていった。


 OngSaはPhatSaの目の前に熱いコーヒーのカップを置くと、安堵と疲労が入り混じったような表情を浮かべて向かいの席に座った。少なくとも、PhatSaはOngSaに会うためにわざわざ外に出てきてくれたのだ。Thewathitirat家の由緒ある屋敷に閉じ籠もり、枯れ果てるまで過ごしていたわけではなかった。目の前の年下の青年が、世界に対して心底うんざりしたような表情を浮かべられるだけの気力をまだ残しているのを見て、OngSaはほんの少しだけ胸を撫で下ろした。


 「調子はどう?」


 PhatSaはふーっと小さく息を吐き、手元のコーヒーに目を落とした。


 「あいつの家でじっとしてるよりはマシ」


 「少なくともまだちゃんとフルセンテンスで返事ができるじゃないか」


 「どんな状態だと思ってたの?」


 PhatSaは呟いた。


 「あいつに噛まれた人間として知らない男の家に連れて行かれたばかりなんだよ。バカンスに行ったわけじゃないんだからな」


 OngSaは含み笑いを漏らすと、背凭れに深く上体を預けた。その視線はPhatSaに向けられたままだった。しかし、OngSaの思考がすでにテーブルを挟んだ二人の距離を遥かに越えたところにあることを物語るような眼差しをしていた。


 「ねえPhatSa……自分が一緒に住むことになった相手が誰だか、本当にわかってるの?」


 PhatSaは片眉を上げた。


 「マフィアの闇金業者ってこと?」


 OngSaは静かに鼻で笑った。


 「そういうのやめてよ」


 「じゃあ他に何て呼べばいいの? 不動産開発会社の次期社長とか?」


 PhatSaは乾いた笑い声を漏らした。


 「そっちの方が聞こえはいいね。でもやっぱり他人の家を差し押さえる気満々の人間にしか見えないけど」


 「Thewathitirat家を本当に甘く見てはいけない」


 そうOngsaは言った。彼の声はより深刻な響きを帯びていた。


 「あの家は君が思っている以上に大きいんだ。名声、影響力、コネクション……それに君が……」


 彼はもっと穏やかな言い方を探すように言葉を飲み込んだが、結局ははっきりと言ってのけた。


 「君はピュアオメガで、そしてNakhunのようなトゥルーアルファに噛まれたのは事実なんだ」


 Phatsaは一度瞬きをして、それから眉を顰めた。


 「俺のことをなんだか限定版グッズみたいに言うじゃん」


 「あながち間違ってはないよ」


 「 Ongsa先輩」


 「僕は真剣だよ」


  OngSaはコーヒーを一度口にし、カップを置くとPhatSaをまっすぐに見つめた。


 「ピュアオメガであること自体がすでに信じられないほど稀なことなんだよ。その上NaKhunみたいなトゥルーアルファと番になった事実が加われば、突然多くのことが……より複雑になってしまう」


 PhatSaは再び頭痛がしてきたような顔をした。


 「どう複雑になるんだ?」


 OngSaは少しの間沈黙し、まるで自分自身がその事実を認めたくないかのように、ゆっくりと答えた。


 「Sクラスのアルファが生まれる確率が高くなるかもしれないね」


 PhatSaはピタリと動きを止めた。そしてすぐに顔を上げた。


 「ちょっと待て。待ってくれよ」


 OngSaは片眉を上げた。


 「何が?」 


 「それってすごい飛躍してない?」


 PhatSaはすぐにコーヒーカップを置いた。


 「そもそも誰と誰が子供を作るって? それにSクラスって何? なんで急に子供の話になるんだ?」


 OngSaは彼のあまりの狼狽ぶりに小さく笑いながらも、話を続けた。


 「可能性の話をしているだけよ」


 「ずっと先の話すぎるってば!」


 「PhatSa」


 「ダメ。絶対にありえない。俺、大学を卒業したばっかりなんだよ。まだ本格的に働き始めてもいないのにもう子供を持つところまで話を進めてるの?」


 今度こそOngsaは笑い声を上げた。しかし、彼はそれでもその話題を打ち切ろうとはしなかった。僅かに首を傾げ、いかにも学術的な響きを持たせようと必死に努めた口調で話を続けた。もっともその内容自体は、目の前の相手が呆れてどうしようもなくなることは間違いなし、というようなものだったが。


 「Sクラスだけじゃない」


 PhatSaは一瞬、疑わしい目つきで彼を見た。


 「まだ何かあるの?」 


 「エニグマ」


 PhatSaは一瞬動きを止め、それから眉を顰めた。


 「なんだって?」


 「エニグマだ」


 Ongsaが落ち着いた様子で繰り返した。


 「それは極めて稀少で特別な種、あるいは分類だと考えられているんだ。長い間、理論上では語られてきたけど、実際に出現したことが確認されたのはこれまで誰一人としていない」


 PhatSaは目の前の男が冗談を言っているのか、それとも希少な捕食動物を扱ったドキュメンタリーから抜け出してきたのかを判断しようとするかのように、しばらくOngSaの顔をじっと見つめた。しかし、OngSaがまったく真剣な表情を崩さないのを見て、PhatSaは渋々話を聞き続けた。   


 「それで、エニグマって何?」


 OngSaはカップを置くと、まるで禁忌の知識を明かすかのように答えた。


 「もしエニグマが実在するなら、彼らのフェロモンはあまりに強力で、一部のアルファをねじ伏せ、オメガとほぼ同じ状態にし、強制的に服従させてしまうとも言われているんだ」


 PhatSaはピタリと動きを止めた。そして、しばしその状態のまま固まっていた。


 それから彼は、話の内容に驚いているのか、それとも話し方に驚いているのかまるで分かっていないような表情を浮かべて、非常にゆっくりと言い放った。


 「まるでNaKhunと俺がブリーダーみたいに犬を繁殖させているみたいな言い方だね」


 OngSaは言葉を失い、微動だにできなかった。


 PhatSaはさらに感情のない、平坦な口調で言葉を続けた。


 「それってつまり、賞レースを勝ちまくる名馬のオスと100万頭に1頭みたいな希少なメスを掛け合わせたら、ものすごく優秀な子供が生まれるってそういうこと?」


 OngSaは吹き出し、思わず手で顔を覆った。


 「そういう意味で言ったんじゃないよ」


 「でも完全にそう聞こえるけど」


 「僕が言っているのは生物学的データの話だ」

 

 「どんな生物学的データ?それじゃまるで、血統書付きの犬に値段をつけてるみたいじゃないか」


 OngSaは肩を震わせて笑っていたが、しばらくすると落ち着きを取り戻した。和らいだ表情で再びPhatSaに視線を向ける。しかし、PhatSaがまだOngSaに向かって顰め面をしているのを見ると、彼は溜め息を吐いた。


 「分かった、認めるよ。確かに悪く聞こえるな」


 「悪い?俺からしたらゾッとするような話に聞こえる」


 PhatSaは繰り返した。


 「でも、問題はそこじゃない」


 OngSaは少し身を乗り出して言った。


 「問題はこれまでよりももっと気をつけなきゃいけないってことだ。君が何者で、NaKhunが何者か……そのどちらも、普通の存在じゃないんだから」


 PhatSaは黙り込んだ。今度はすぐに反論しなかった。しばらく手元のコーヒーを見つめていたが、やがて静かに言った。


 「なんか嫌だな」


 OngSaは彼を見つめた。


 PhatSaは言葉を続ける前に、ぐっと唇を引き結んだ。


 「突然、珍しいレアキャラみたいにみんなが噂する『何か』になってしまったのが嫌なんだ」


 彼は乾いた笑みを漏らした。そこにはいつものユーモラスさの影も形もなかった。


 「ピュアオメガ。エニグマ。そんな風に言われると、まるで自分が人間ですらなくなったみたいに思えてくる」


 その言葉に、OngSaはしばらく沈黙した。彼は見て分かるほどに穏やかな眼差しを向け、そしてゆっくりと答えた。


「それでも、君はPhatSaのままだよ」


 そのシンプルな言葉に、PhatSaは顔を上げた。


 OngSaは微かな笑みを覗かせた。


 「君がピュアオメガであろうと、トゥルーアルファの運命の番であろうと、あるいは人々がどんなにあり得ない未来を勝手に想像しようと、PhatSaがPhatSaであることに変わりはない」


 Phatsaの胸の真ん中あたりで締め付けられていたものが、少しだけ緩んだ気がした。彼はすぐには答えなかった。ただコーヒーカップを持ち上げ、喉の奥まで込み上げてきたものを抑え込むように、一口飲んだだけだった。


 PhatSaがカップを置いた頃には、彼の声はすっかり落ち着きを取り戻していた。


 「OngSa先輩」


 「ん?」


 「誰にも言わないでね」


 OngSaは少しの間彼を見つめてから、静かに尋ねた。


 「何について?」


 PhatSaはゆっくりと息を吐き出した。


 「俺がピュアオメガだってこと」


 PhatSaは思いを巡らせながら、指先でテーブルの上のカップをゆっくりと回していた。その顔には純粋な恐怖がそのまま表れているわけではなかった。しかし、ある情報が漏洩すれば単なる噂話では済まされなくなることを自覚しているような、そんな居心地の悪さが表れていた。


 「これ以上変人扱いされたくないんだ」


 そうPhatSaは声を潜めて呟いた。


 「俺の人生はもうすでに十分めちゃくちゃになってしまったんだから」


 Ongsaはしばらく彼を黙って見つめた後、頷いた。


 「誰にも言わないよ」


 Phatsaが顔を上げると、Ongsaはさらに念を押すように繰り返した。


 「誰にも知られたくないなら、僕も誰にも言わない」


 そのOngSaの言葉に、PhatSaは再び口を噤んだが、やがてようやく頷いた。PhatSaは『ありがとう』と声に出して言葉にすることは決してなかったが、それでもその瞳の奥の緊張は解かれていた。


 カフェのそのテーブルの空気は徐々に静けさを取り戻していく。コーヒーの香りはまだ温かく辺りに漂っていた。ガラス越しに差し込む陽光がゆっくりと動いていく。二人の周りではカフェの客たちがいつも通りの日常を過ごしていた。しかし周りの人々が、あるひとつの静かな片隅で、遺伝子、フェロモン、運命の番、そしてあまりにも非現実的に聞こえる未来について話していることについて気づくことはなかった。             


 PhatSaに関して言えばもちろん、依然としてそれまでのすべてのことに頭を悩ませていた。それでも少なくとも、こうしてカフェのテーブルに座り、愚痴を言い、悪態を吐き、Ongsaがその話題には不釣り合いなほど真面目な顔で、とんでもない説明をしているのを聞いていると、この世界が少しだけ何とかなりそうな気がしてきたのだった。


 ほんの少しだけ。


 だが、その少しでも十分に大きな意味があった。


 Phatsaがようやく少し呼吸を楽にできるようになってから、まだ30分も経っていなかった。その時、彼がどうにかして見つけたばかりの脆い平穏は、再び突然奪い去られることになる。


 カフェに座ってコーヒーを飲み、また普通の人のようにOngsaに愚痴を零すという穏やかな時間が、PhatSaの胸にようやく落ち着いたのも束の間、現実が彼を連れ戻しに現れた。


 ダークスーツを着た長身の男が、完璧なまでに礼儀正しく、非の打ち所がないほど制御された動作でカフェに足を踏み入れた。あまりにも人間らしさとは程遠い無表情さと、まるで定規を背骨に貼り付けつけられながら訓練したかのような直立不動さがなければ、コーヒーを飲みに立ち寄った普通の客に見えたかもしれない。


 しかし、Phatsaは彼にすぐに気がついた。


 Nakhunのボディーガードの一人だ。


 彼の姿を見ただけで、PhatSaの頭痛がぶり返しそうだった。


 男はテーブルの傍で立ち止まり、僅かに頭を下げて、反論するのが不可能に思えるほど丁寧な声で言った。


 「いつお戻りになりますか、PhatSa様?」


 PhatSaはゆっくりと顔を上げた。彼の最初の反応は驚きではなく、むしろ額をテーブルに押し付けてそのまま動きたくなくなるような、骨の髄まで染み渡るような疲労感だった。


 「あとで」


 その答えは非常に素っ気なく、それ以上何も尋ねる余地が全くないほどだった。しかし、そのボディガードはまさにこのような反応を予想していたかのように、ただ静かに頷いた。彼は食い下がりもせず、反論もしなかった。彼はただ脇に退いてカフェの一角に立ち、無表情のまま静かにスマートフォンを取り出して何かを打ち込み始めた。


 PhatSaはその光景を見て、思わずこめかみを押さえたくなった。


 「ほらね?」


 彼はOngSaに弱々しく不満を漏らした。


 「言ったでしょ。コーヒーを飲みに来たというより、監視付きで外出許可された囚人みたいな気分だよ」


 OngSaはくすくすと笑い、ボディーガードの方へ視線を向けた。


 「少なくとも、彼は丁寧に接してくれてたじゃない。どうしてほしかったの? わざわざここまで来て、お店の真ん中で僕にヘッドロックでもかけてほしかったの?」

 

 OngSaは尚も話し続ける。


 「まあ、君はもうThewathitirat家の第一継承者の未来の配偶者なんだから。彼はおそらく上司の奥さんがいなくなってしまうんじゃないかと心配しているんでしょう。だから君を監視するための人間を寄越したんだよ」


 「OngSa先輩!ふざけるのもいい加減にして!」


 「そうだね。それとも、彼が君を蔑ろにしていたの?」


 PhatSaは苛立たしげに舌打ちをすると、コーヒーカップを手に持ち、完全に反抗心から再びそれを呷った。OngSaと一緒に座っていれば、ようやく一息つけるだろうと彼は思っていた。それなのに程なくして、NaKhunの部下の一人がまるでPhatSaが後ろの壁を掘って逃げ出すのではないかと恐れているかのように見張りに立つのだ。


 そしてそれから間を置かずに、状況はどういうわけかさらに辟易するものになった。


 ドアの上の小さなベルが静かに鳴り響き、NaKhinは途轍もなく気楽な様子でカフェに入って来る。それはまるで自分のせいで誰かの人生に新たな混乱を引き起こそうとは露ほども思っていないかのように。相変わらずその出で立ちは完璧で、表情はいきいきとし、そして腹が立つほどに陽気だった。どう見ても、誰かを『確保』して連れ帰るためにやって来た人物にはおよそ見えない。何より最悪なのは、ただ遊びにふらりと立ち寄っただけのように見える、そんな笑みを浮かべていたことだ。


 しかし、真っ先に表情を変えたのは、PhatSaではなかった。


 OngSaだった。               


 NaKhinが店に入ってくるのを見た瞬間、OngSaは明らかに動揺していた。カップを持つ手がほんの一瞬宙で止まり、慌てて視線を逸らして席で身動ぎする様子は、まるで背凭れと同化して消えてしまいたいとでも言いたげに。


 PhatSaはそれに即座に気づき、片眉を上げた。自分の心の中で疑問を抱き始めたその時、NaKhinがテーブルに到着した。


 「やあ」


 その声は、この状況に対してあまりにも朗らかすぎた。


 Phatsaは瞬時に唇をへの字に曲げる。


 「着くのが早かったね」


 Nakhinは笑みを少し深めた。PhatSaその皮肉を威嚇というよりもむしろ愛らしく感じているかのようだった。


 「ええ、それは当然でしょ。なぜって?義理の姉を連れて帰るために来たんだから」


 義理の姉という言葉に、Phatsaはもう少しでコーヒーを吹き出しそうになった。彼はすぐにカップを置くと、信じられないといった様子でNaKhinを見つめた。


 「そんなふうに呼ばないで」


 NaKhinは眉根を寄せながらも、相変わらず腹立たしいほど無邪気な表情を浮かべていた。


 「どうして?君は兄さんの未来の恋人だろ?」


 「誰が未来の何だって?」


 「え?」


 NaKhinは心底不思議そうな顔をした。


  「じゃあ、義兄さんって呼んだ方がいい?」


 PhatSaは丸一秒間、動きを止めた。


 彼の隣で、Ongsaは死にそうなほど激しく噎せていた。隅にいるボディーガードは、聞こえていないはずがないのに、どういうわけかそんな会話は一切耳に入っていないような態度を崩さずにいた。


 PhatsaはゆっくりとNakhinの方へ振り返った。まるで人前でテーブルを飛び越えて彼を絞め殺さないよう、全身のありったけの自制心を振り絞っているかのように。


 「揶揄ってるの?」


 NaKhinは無邪気な笑みを浮かべた。


 「ただ本当のことを言っているだけだよ」


 「どこが本当のことだって?」


 「じゃあ、『義姉』という言葉が気に入らないなら、残る選択肢はひとつだけだね?」


 PhatSaは彼を真っ直ぐに指を差した。


 「話すのをやめて。今すぐ」


 「了解」


 NaKhinがすんなりと従ったため、PhatSaは一瞬拍子抜けした。だがNaKhinは軽い調子で話を続けた。


 「それじゃあ、とりあえず名前で呼ぶことにするよ」


 PhatSaは疑わしげに目を細めた。


 「それで俺をいったい何て呼ぶつもりだ?」


 NaKhinは真剣に考えているように首を傾げ、急ぐ様子もなく答えた。


 「PhatSa……サン」


 今の、もっと上手く言えたはずでは。


 それでもやはり、腹立たしいことには変わりなかった。


 なぜなら、NaKhinの口調には本気で降伏するのような響きが微塵もなかったからだ。ただ単にその場凌ぎに発しただけのように聞こえた。


 PhatSaは深く息を吐き出し、コーヒーカップの縁に額を押し当てた。   


 「あなたの家族なんて大嫌いだ」


 Nakhinはたちまち笑い出した。


 「Nakhun兄さんがこれを知ったらひどく傷つくだろうね」


 「いい気味だ」


 「でも、母は君のことを気に入っているのに」


 その言葉にPhatsaはほんの一瞬躊躇い、そして、その家の誰かに対して自分がこんなにも簡単に心を許してしまうところを誰にも見られたくないと言わんばかりに、さっと顔を背けた。


 「あなたのお母さんは例外だよ」


 PhatSaは小声でそう呟いた。


 NaKhinはPhatSaを見つめながら、口元を微かに緩めた。目の前にいる相手が、本人が強がって見せるほどには恐ろしくとも何ともないと、確信を深めているかのようだった。


 テーブルを挟んだ向かい側で、OngSaは相変わらず身を潜めて座っていた。NaKhinが入ってきてからというもの、彼はほとんど口を開いていなかった。普段なら、PhatSaを庇う必要があれば、今頃はとっくに会話に割り込んできているはずだった。しかし今の彼は、まるで自分の人生の答えがコーヒーの中にでも浮かんでいるかのように、不自然なほどの集中力でコーヒーカップから目を離さずにいた。


 Phatsaもそれに気づいていた。今回は何かがおかしいと確信していた。しかし、尋ねる隙もなかったせいで、その疑いを心に留めておくしかなかった。


 NaKhinはこれ以上揶揄いすぎると本当にPhatSaが逃げ出してしまうかもしれないと察し、ようやく悪ふざけをしまい、少し真面目なトーンに声を戻した。


 「家に帰ろう」


 Phatsaはすぐに不満そうに唇を尖らせた。


 「まだ帰りたくない」


 「兄が君に戻ってきて欲しがっている」


 「あの人がどうしたいかなんて聞いてない」


 Nakhinは、すべてを完全に把握しているかのように頷いた。


 「だが俺は君を迎えに行くように言われている」


 「あなたは本当に兄の言うことを忠実に聞くゴールデンレトリバーみたいだね」


 「ありがとう」


 「褒め言葉じゃない!」


 「でもそう受け取っておくよ。ゴールデンレトリバーは愛らしいからね」


 その時点もうPhatSaは言い返す気力を完全に失っていた。彼は椅子に深く座り込み、NaKhinと口論するのはまったくのエネルギーの無駄だと悟ったようにしばし目を閉じた。一方のNaKhinは、PhatSaがいずれ折れることを最初から分かっていたかのような静かな自信を抱きながら、落ち着いた様子でただそこに座り続けていた。   


 なぜなら、今Phatsaがどんなに不機嫌そうに見えても、最終的には戻ってくるからだ。


 Nakhinに負けたからではなく——


 あの邸宅で、彼を待っている人がいるからだ。


 そしてそれこそ、PhatSa自身がまだ口に出して認めるつもりのない真実だった。






 Phatsaが家に戻って来たまさにその時、Silaが居間の入り口に姿を現した。


 彼は少しも急いでいるような様子を見せなかった。以前と変わらず背筋を真っ直ぐに伸ばし、落ち着き払った身のこなし、非の打ち所がないほど礼儀正しくそこに立ってる。それはまるでビジネスの会議だろうと、会社のニュースだろうと、ちょっとコーヒーを買いに出てそのまま連れ戻されてきた人間の話だろうと、まるで世の中のあらゆる事柄がまったく同じトーンで報告されるべきであるかのように淡々としていた。   


 「NaKhun様、PhatSa様がお戻りです」


 その言葉をはっきりと聞いたPhatSaは、即座にぷくっと膨れ面をした。


 「いちいちお知らせいただき、ありがとうございます。感激しました」


 Silaは瞬きひとつすらしなかった。彼はそれ以上の過酷な状況をこれまでにも生き抜いてきたかのように、ただ静かに首を傾げてその皮肉を受け流し、音もなく元の位置へと下がった。


 しばらくして、NaKhunが階下にやって来た。


 彼は仕立ての良いシャツとダークトーンのパンツをきちんと身に着けたままだった。袖口のボタンは軽く外されており、まるで仕事から帰ってきたばかり、あるいは山積みの書類からやっとの思いで抜け出してきたかのようだった。彼が初対面の時ほど冷たい表情を浮かべることはもうなかった。しかし、それでもまるで強固なコンクリートの壁の前に立たされているような静かな威圧感を依然として周囲に醸し出していた。


 Phatsaがそこに立っているのを見た瞬間、NaKhunの瞳の奥の暗闇がほんの僅かに和らいだ。その変化はあまりにも微かで、見逃してしまいそうなほどだったが、一日中背負い続けていた重荷のひとつを、少なくともその瞬間だけは下ろせたかのような眼差しだった。


 「お帰り」


 Phatsaはその口調に深く苛立った。その声のトーンは、彼を『数時間外に出かけていた人物』というよりも『たった今保護された迷子』に掛けるような声色を響かせていたからだ。


 「ん」


 PhatSaは短く答える。


 「ね?いなくなったわけじゃないでしょ」


 続けてPhatSaは呟いた。


 NaKhunはそれに対して何も答えず、ただ少しの間彼を見つめてから、落ち着いた声で言った。


 「上に上がって来て」


 PhatSaは即座に眉を顰めた。


 「なんで?」


 「君の部屋を案内する」


 その言葉を聞いて、PhatSaは思わず口を閉ざした。自分がもう少しここに留め置かれることになるなんて、勿論すでに分かっていたことだ。それでも、『部屋を案内する』という言葉を明白に耳にしたことで、すべてが一段と現実味を帯びて感じられた。


 PhatSaは反論しなかった。少なくとも今すぐには。

 彼は気乗りしない気持ちと諦めが入り混じった状態で、NaKhunの後について2階へと上がった。

 2階の廊下はこの邸宅の他のすべての場所と同様に静寂が保たれ、広々としていた。磨き上げられた木の床はあまりにも完璧で、音を立てて歩くことすら無作法に感じられるほどだった。淡い色の壁、厳選された絵画。どんな細かな部分も、PhatSaが慣れ親しんできた生活からはあまりにもかけ離れていると感じられるほど高級感に溢れていた。NaKhunの後ろをついて行きながら、彼はもし少しでも荒く息をしようものなら、この邸宅がまるで自分を躾に来るのではないか、という思いが脳内で渦巻いていた。


 NaKhunはついに、あるドアの前に立ち止まり押し開けた。


 奥に見える部屋はあまりにもだだっ広く、世間一般の人間が使うような場所ではないことがひしひしと伝わってきた。その中央には、シーツが皺一つなく完璧に整えられた大きなベッドが置かれている。磨き上げられた床に午後の遅い光を取り入れるように、濃い色のカーテンが開け放たれていた。部屋は清掃が行き届いていたが、そこにはNakhunのものと感じ取れるほどの煙とウイスキーの微かな残り香が紛れもなく漂っており、Phatsaはみるみる内に胸が締め付けられるような耐え難いほどの喉の渇きを覚えた。


 Nakhunは彼の方を向いた。


 「今日からあなたにはここで過ごして欲しい」


 Phatsaは一瞬沈黙した後、その大きなベッドを訝しげに指差した。


 「ちょっと待って。この部屋?」


 「ああ」


 「ここはあなたの部屋でしょ?」


 「そうだ」


 PhatSaは一度瞬きをすると、間髪入れずに言った。


 「俺は別々に寝るからな」


 「ダメだ」


 NaKhunがあまりにも早く返答したため、断ることが既に決まっていたことは明白だった。


 「なんで?」


 「私が許さないと言ったからだ」


 PhatSaは一瞬あんぐりと口を開け、それからまた眉間に皺を寄せた。苛立ちが再びふつふつと湧き上がってくるのが分かった。


 「自分がものすごく独裁的だって自覚ある?」


 「ああ」


 「それを直すつもりはこれっぽっちもないわけ?」


 「ない」


 その端的すぎる言い方を聞いて、PhatSaは一番近くにある枕をひっ掴み、その顔に投げつけてやりたい衝動に駆られた。彼はまるで逃げ道を探すかのように部屋のあちこちに視線を走らせたが、やがて新たな決意を胸に振り返った。


 「別の部屋で寝るよ」


 「君は今まだ一人では眠れない」


 「またそれか」


 Phatsaは自嘲気味に笑いながら呟いた。


 「今なら寝てても言えるくらいそのセリフを暗記したよ」


 NaKhunはそれ以上距離を詰めなかった。ただその場に立っていただけ。だが、その視線は彼が冗談を言っているのではないということを間違いなく悟らせるのには十分なほど揺るぎないものだった。  


 「夜中に何か起きたら、すぐに知らせて欲しい」


 その言葉を聞いた瞬間、Phatsaはほんの束の間、言葉に詰まった。心の片隅ではとことんまで言い争いたい気持ちが残っていた。しかし、彼の身体には昨夜の記憶があまりにも鮮明に刻み込まれたまま、そんなことは知ったことではない、なんていう振る舞いは到底できなかった。


 結局のところ、PhatSaにできることと言えば唇をギュッと引き結び、少し声を潜めて答えることだけだった。


 「変な感じ」


 「何が? 」


 「…あんな経験をしたばかりの人と同じ部屋で寝るなんてさ」


 PhatSaは僅かに言葉を途切れさせた。それを口に出して言うことには、まだどうしても慣れなかったのだ。


 「つい昨日…一緒にあんなことまで共有したのに。やっぱり変な感じだ」


 NaKhunはしばらく彼を見つめてから、落ち着いた声で返した。


 「あなたをこの家に連れ帰ってから、普通のことなど何一つなかったと思うが」


 その言葉にPhatsaは一瞬黙り込み、彼を凝視するしかなかった。それは揺るぎようもない事実であり、腹立たしいほどに反論するのは難しかった。結局、彼は息を長く吐き出し、ぶつぶつと呟くに留まった。


 「俺の生活はもうめちゃくちゃだよ」


 NakhunはPhatSaの言葉を聞き届けたが、結局何も答えなかった。彼はただドアの方を向き、そこにいる人物に声を掛けた。


 「Ai」


 しばらくして若い青年が滑らかで無駄のない動作で部屋に入ってきた。身なりはきっちりと整えられており、肩幅は広く、長年鍛えてきた者特有の確かな強靭さを感じさせた。彼の視線は鋭かったが、過度に厳しいという印象を与えるほどではなかった。彼はまずNaKhunに挨拶し、それから振り返ってPhatsaに敬意を込めて会釈した。


 「初めまして、PhatSa様」


 NaKhunはその男へ軽く視線を向けた。


 「Aiは私のボディガードの一人だ」


 PhatSaはぱちくりと瞬きをした。


 「もう一人いるの?」


 「ええ」


 「あなたの家は警備部隊丸ごと2階にでも待機させてるの?」


 Aiは職務に忠実なボディーガードとしてじっと姿勢を保っていたが、彼の表情が微かに引き攣ったように見えた。一方、NaKhunは平常通りの無表情で落ち着き払った声音で答える。


 「これからはAiがあなたの世話をすることになる」


 PhatSaは咄嗟に目を細めた。


 「どういうこと?」


 「何か必要なことがあれば、Aiに伝えてくれ」


 そしてAiはNaKhunから淀みなく会話を引き継いだ。


 「何か必要なものやお手伝いできることがあれば、いつでもお申し付けください。私が対応いたします。さらに調整が必要な場合は、Silaさんに報告します」


 Phatsaは言葉を区切り、何とか自分の運命を理解しようと痛切なほどに真剣な面持ちで尋ねた。


 「ちょっと待って。俺はただこの家に引っ越してきただけ?それとも証人保護プログラムに入ったの?」


 Aiは唇を固く引き結ぶ中、Nakhunが即座に答えた。


 「それはどう考えるかによるさ」


 「俺は恐ろしいことだと思うけど」


 「すぐに慣れる」


 PhatSaはNaKhunをキッと睨みつけた。


 「俺が逃げ出さないって随分と自信たっぷりじゃん」


 「どこへ逃げるというんだ?」


 「元の普通の生活に決まってるでしょ」


 「あなたの普通の生活は今はここにある」


 その言葉によってPhatsaは再び言葉に詰まった。それは甘いセリフなどではなかった。どちらかといえば、強引なほどに支配的だった。それにも関わらず、どうしようもなく苛立たしいことに、それでもPhatSaの心臓はほんの少し高鳴ってしまっていた。


 PhatSaはふいっと顔を背け、代わりにAiに話しかけた。


 「コーヒーが飲みたい時はどうすればいい?」


 「私がお淹れします」


 「夜中にお腹が空いたら?」


 「私にお申し付けください」


 「枕がもっと欲しかったら?」


 「寝室までお持ちします」


 PhatSaは風変わりなサービスシステムの限界を試すかのようにゆっくりと頷き、それからNaKhunの方を向き直った。


 「もし俺が一人で寝たいって言ったら?」


 NaKhunが即座に答える。


 「ダメだ」


 PhatSaはどこから文句を言い始めればいいのか決める気力すら持ち合わせていないかのように、ぐったりと目を閉じた。部屋の隅では、Aiが自分の表情を悟られないよう目を伏せなければならなかった。


 一瞬、再び静寂が訪れた。そしてPhatSaは誰にともなく言うでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。


 「つまり、俺が本当に欲しいもの以外なら、何でも頼めるってわけか」


 今度ばかりはAiの肩が僅かにピクリと動いた。一方のNakhunは、微動だにしなかったが、その眼差しは凪いでいた。


 「それ以外のすべてのことなら譲歩しよう」


 NaKhunはゆっくりと言葉を紡ぎ、Phatsaをまっすぐに見つめた。


 「だが、これだけは譲れない」


 PhatSaはしばらくの間、彼と視線を交わしていたが、やがて再び息を吐き出した。それは半分が降伏で、半分が苛立ちの混じったものであった。そして、彼は黙って部屋の中を見回した。


 少なくとも今、この邸宅には監視役のSila、身の回りの実務をこなすAi、そして個人的な理由で理不尽さを発揮するNaKhunがいるのだということをPhatSaは理解していた。


 そのことを考えると、さらに頭が痛くなった。


 それでも……。


 それにもかかわらず、ここではPhatSaが少なくとも安心して一緒に過ごせるような相手が一人、また一人と増えていく場所に変わりつつあった。


 Phatsaは腕を組んで部屋の真ん中に立ち、この状況にどう対応すべきかまだ正確には決めかねている様子で、すべてを見渡すように視線を走らせた。引き留められていることと過保護に扱われていることの狭間で、その状況は定義するのがもどかしいほど曖昧な状態に終着していた。

 彼はドアの傍に姿勢を正したままで立つAiを見やり、続いて人間のような頑丈なコンクリートの壁のような堂々とした佇まいのNakhunに視線を向けた。そして最後に、ふとある重要なことに思い至り、小さく息を吐き出した。


 「働きたい」


 その言葉にNaKhunは瞬時にPhatSaに視線を向けた。


 彼は聞き返そうとはしなかった。特に驚いた様子さえ見せなかった。まるでそこには何の疑問も存在しないかのように、ただ同じ短く平坦な口調で答えただけだった。


 「その必要はないよ」


 PhatSaは言葉を切り、すぐに眉を顰めた。


 「え?」


 「その必要はないと言ったんだ」


 NaKhunは落ち着いた様子で答えた。


 「今はここでじっとしていて欲しい」


 PhatSaは信じられないものを見るような目で彼を見つめた。


 「俺にじっとしてろって?」


 「ああ」


 「随分簡単なことみたいに言うね」


 「簡単ことだ」


 Phatsaは乾いた笑いを漏らし、すでにまた苛立ちを募らせる。彼は部屋を横切ってベッドの端に腰を下ろすと、不信感を露わにした表情で彼を見上げた。


 「もう俺は卒業したんだ」

 

 「知っている」


 「それに働きたいんだ」


 「それも分かっている」


 「それでもまだじっと座ってろって言うの?」 


 Nakhunは少しの間、PhatSaを見つめた後、変わらぬ落ち着いた声で答えた。


 「今は働く必要はない」


 その瞬間、Phatsaは目を眇めた。彼はその口調が嫌いだった。まるでNakhunが自分に相談もなく、すでにPhatSaのために何もかもを考え尽くし、何が必要で何が必要でないかについて都合の良い結論を出しているかのように聞こえる、そんな口調が。


 「でも、俺はやる」


 NaKhunは僅かに片眉を上げた。


 「どうやって?」


 「だって、こんな風に何もしないで座って終わるなんて退屈すぎて枯れ果てちゃうよ」


 その答えを耳にするやいなや、Aiは何かを悟られまいとしているかのように、ドアの脇で僅かに視線を落としていた。NaKhunは微動だにしなかったが、彼の瞳の眼光は鋭さを増した。


 一度勢いに乗ったPhatSaは、そのまま話を続けた。


 「俺はただ一日中ここで食べて、寝て、君の家をうろうろするために卒業したわけじゃないんだ」


 彼はまるでNaKhunが理解できないのではないかと心配しているかのように、ゆっくりと、はっきりとそう言った。


 「自分で何かやってみたいんだ。仕事で疲れたってなってみたい。仕事で悩んでみたい。上司の愚痴を言ってみたいんだ。家に帰って、みんなと同じように『生きている』って実感したい……ここに座ってまるで……」


 PhatSaは言葉を区切ると、自分自身に対する明らかな苛立ちを滲ませながら呟いた。


 「……籠の中の鳥でいるなんてごめんだ」


 Aiの口元が微かに動いたが、すぐに表情を取り繕った。一方のNakhunは、意外にも黙り込んでいた。即座に反論しようとはしなかった。ただそこに佇み、何かを心の中で思案するようにPhatsaに視線を注いでいた。


 返答がないのを見て、PhatSaはさらに追及した。


 「今はどこにも自由に動けないことは分かっている」


 そう話したPhatSaの声は柔らかくなっていたが、芯の強さは失っていなかった。


 「でも、ここにいなくちゃいけないなら何かをしていたいんだ。そうじゃなきゃ本当に頭がおかしくなりそうだよ」


 そしてまたしても沈黙に包まれた。


 涼しい風が広い部屋を通り抜け、カーテンを小さく揺らした。Aiは持ち場に留まった。NaKhunは微動だにせず立ち尽くしている様子からは、彼が何を考えているのか全く読み取れなかった。


 そしてついに、NaKhunは口を開いた。   


 「それなら、私の仕事を手伝ってくれ」


 PhatSaは目をしばたたかせた。


 「え?」


 「仕事がしたいんだろう?」


 NaKhunは淡々とで答えた。


 「だったら、私が担当している不動産開発プロジェクトを手伝いに来ればいい」


 今度こそ、PhatSaは完全に静止した。彼はNaKhunを数秒間じっと見つめた。それが揶揄いなのか、皮肉なのか、それとも本気の申し出なのかを見極めようとしているかのようだった。しかし、いくら見つめても、NaKhunの表情はまったくもって真剣なままだった。


 「待って」


 PhatSaはNaKhunの目の前に手を上げた。


 「本気で俺にあなたと一緒に仕事をしろって言ってるの?」


 「そうだ」


 「さっき、俺に働く必要はないって言ったばかりなのに?」


 「正直なところ、今でも君には働いてほしくない。ただじっとしていてほしいくらいだ」


 「じゃあ、今はどうなの?」


 「君は何かをしていたいんだろう。だったら何か仕事を与えないと、その分よからぬことをしでかすだろう」


 PhatSaは激しい怒りを込めて丸々1秒間彼を睨みつけ、それから枕をひったくって彼に投げつけた。


 「そんなことしない!」


 Nakhunは、勿論何事もなかったかのように簡単にそれをキャッチした。


 「じゃあ証明してみせてくれ」


 「あなたって本当に……」


 Phatsaは言葉の途中で口を噤んだ。腹立たしいことに、その意見に言い返すことができなかったからだ。


 それは腸の煮えくり返るような思いだった。


 だが、考えてみる価値のあることでもあった。


 PhatSaはちょうど、自分自身で何かをやり遂げたいと言ったばかりだ。その方法をNaKhunが現実に提案してくれた今、彼に断る理由などあるだろうか?腹が立っていたから?相手がNaKhunだから?それとも、心の奥底ではまだ自分自身を信じきれていないから?


 PhatSaは軽く唇を引き締めてから、慎重に尋ねた。


 「具体的にはどんなことを手伝えばいいの?」


 NaKhunは答える前に、投げつけられた枕を綺麗に元の位置へ置き直した。


 「まずは簡単な仕事からだ。基本書類の確認、スケジュールの調整、プロジェクト情報のチェック。最初はあまり表舞台に出なくてもいいようなことだ」


 PhatSaは話を聞き、それから片方の眉を上げた。


 「秘書みたいなものだね」


 「いや、少し違うな」


 「じゃあ、アシスタント?」


 「それに近いものだな」


 「つまり、まあアシスタントってことだね」


 NaKhunはしばらくPhatSaを見つめてから答えた。


 「君がそう言うならそれで構わない」


 Phatsaはそこに座り、さらに少しの間考えを巡らせたが、今度ばかりは本当にその提案を受け入れるつもりでいた。もはやただ単に気を引くために拗ねていたわけではなかった。Nakhunが冗談を言っているわけではないことは伝わってきた。さらに重要なことは、ただ大人しくさせるために無意味な雑用を押し付けるのではなく、本気でPhatSa自身に実際に挑戦させようとしていることだった。


 そのことによって、事態はますます不可解なものに感じられるばかりだった。


 なぜならこの男は指図するのが好きだったからだ。他人の物事を決めるのが好きだった。あらゆる状況において自分が一番よくわかっているかのように振る舞うのが好きだった。それなのに、ある瞬間には、思いがけないほど現実的な形で、Phatsaを受け入れる余裕を持つ人物のようにも見えるのだ。


 PhatSaは再びNaKhunを見上げた。


 「もし俺が何か失敗したらどうする?」


 「一緒に直せばいい」


 「もし俺の仕事が遅かったら?」


 「その時は急かしてあげよう」


 「もし俺があなたに対して仕事で頑固な態度を取っちゃったら?」


 NaKhunは一瞬沈黙し、それから一層癪に障るほど平然とした声で言った。


 「それはすでにやっているよ」


 PhatSaはすぐに別の枕を掴んだ。隅に立っていたAiは、この時ばかりは零れそうになる笑みを堪えるのに必死になった。


 Aiでさえ面白がっているのを見て、PhatSaはこれまで以上に激しく唇を尖らせた。しかし結局は枕を投げなかった。僅かに残された自分の尊厳を守るかのように、ただ枕を強く抱き締めていただけだった。


 「わかったよ」


 PhatSaはとうとう半ば降伏するように、そして半ば苛立った様子で言った。


 「やってみる」


 Nakhunの瞳の奥の何かがふっと和らいだが、あまりに一瞬のことで、ほとんど見逃してしまうほどだった。


 「いいだろう」


 「でももし退屈だったら辞めるからな」


 「さあ、どうだろう」


 「それにもし俺をこき使ったら文句言うからね」


 「もうすでに文句を言ってるだろう」


 「NaKhun様!」


 「本当のことを言っているだけだ」


 AiはPhatSaの顔に浮かんだ表情――枕を凶器として使おうとする男の表情――を見た途端、すぐさま顔を背けた。しかしNaKhunは、まるで自分がわざと彼を挑発していることなど全く意に介していないかのように、完全に平静を保っていた。


 それにもかかわらず、どれほど苛立ちを募らせていても、Phatsaは心の奥底のどこかで、以前よりも自分の心が軽くなっていることを、はっきりと感じ取ることができた。少なくとも今のPhatSaには頼れるものができた。何かに打ち込むこと。朝、自分が他人の家をただあてどもなく彷徨っているように感じることもなく、ベッドから起き上がるための理由ができたのだ。


 PhatSaは小さく吐息を漏らし、誰に言うでもなく独り言のように呟いた。


 「じゃあ結局、俺は本当にマフィアの闇金で働くことになるのか……」


 NaKhunはその言葉のすべてを聞いていたが、反論はしなかった。ただほんの一瞬PhatSaを見つめながら言った。


 「明日から仕事だ」


 PhatSaはパッと顔を上げた。


 「早すぎる!」


 「じっとしていたくないと言ったのはあなただ」


 「明日の朝からなんて意味で言ったんじゃない!」


 「なら、朝のもう少し遅い時間に」


 PhatSaは丸々1秒間硬直した。再び言い争いを始めそうに見えたが、結局彼にできたのは、抱えていた枕に顔を埋めることだけだった。


 部屋にいた二人の男は、その様子を黙って見つめていた。一人はほとんど表情を変えずにそれを見つめており、もう一人は笑い出しそうになるのを堪えるため、唇を噛まなければならなかった。


 そしてあらゆる疲労、あらゆる口論、あらゆる憤りの中で、PhatSaはある一つのことに静かに気づいていた。


 声に出してどれだけ文句を言おうと——


 彼は知りたいと思い始めていた。


 Nakhunの世界がどのようなものかを知りたいと。


 不動産開発の世界がどのようなものか……。


 どこへ行っても権威を纏っているように見える男の世界が、どのようなものなのかを。


 そしてその好奇心は、どれほど煩わしいものであろうと、すでに現実のものとなっていた。






#7_END