オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#5
2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。
今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。
KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)
https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25
KNOTドラマパイロット版(YouTube)
KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)
V... Heat
朝食を終えても、Thewathitirat家の空気は普段通りには戻らなかった。
廊下に、階段に、そして高い窓から淡い色の石の床へと射し込む午前遅くの陽光の筋の中に、しんとした静寂が立ち込めていた。まるで家そのものでさえも、何かが決定的に変わってしまったのだと理解しているかのようだった。
その日の朝は他愛のない会話も、食卓での穏やかな笑い声も、仕事やスケジュール、あるいは大邸宅における日々のちょっとした事柄についての何気ない会話も、一切なかった。すべてが静まり返りすぎていた。その静けさのせいで、何が起きたのかという事実が時間の経過とともにますます重く感じられるようになった。
NaKhunは一言も発せずにダイニングルームから出て行った。
彼の足取りはいつもと変わらず落ち着いていて、背筋は真っ直ぐ伸びたままだった。そして彼の表情からはほとんど何も読み取れなかったが、それでも周囲の者たちにはいつものNaKhunと何ら変わりないように見えた。それはすなわち、Thewathitirat家の長男であり、父親からすべてを受け継ぐべく育てられた真のアルファであり、常に冷静沈着で、毅然とし、自制心を保っているはずの男として。
しかし奥にある小部屋のドアが背後で閉まると、その長身の人物は部屋の真ん中で長い間、微動だにせず立ち尽くす。人の視線がなくなった途端、これまでのように平然と自分を保ち続ける気力はもう残っていなかった。
居室はひっそりと静まり返っていた。エアコンの風によって薄い色のカーテンが微かに揺れていた。
今朝、メイドたちがそこに飾ったばかりの生花のアレンジメントから漂う木々の柔らかな香りと花の芳香は、本来なら心を落ち着かせてくれるはずだったが、今のNaKhunにとってはそうはならなかった。
彼は額に手をやり、そっと目を閉じた。
Phatsaの姿がどうしても頭から離れなかった。
彼の唇のぬくもり。
腹立たしくも、澄み切った輝く真っ直ぐな瞳。
信じ難いほど美しいあのひんやりとした雨の香り。
あまりにも魅力的で、どうしても自制できなかった。
その記憶が蘇るだけでNaKhunの息は詰まった。胸の内にある何かを抑え込もうとするかのように、彼は無意識のうちに拳を握り締めていた。しかし、記憶を無理に忘れようとすればするほど、それはかえって鮮明になってしまう。
彼は後悔していた。
心の底からそう思っていた。
父親に怒鳴られたからではない。
家名の世間体のためでもない。
Phatsaを噛んでしまったからだ。
彼のような立場の人間が、そのような間違いを決してしてはいけなかったのだ。
背後でドアが静かに開き、Khamphiradaが中に入ってきた。
彼女はすぐには口を開かなかった。彼女はただしばらくの間、息子のことを見つめていた。
NaKhunはまだ彼女に背を向けて立ち、その影は窓辺の床に長く伸びていた。彼の広い肩は相変わらず逞しく見えたが、それはもうかつてのような穏やかな静けさではないということは母親の目から見て明白だっま。辛うじて平静を装っている、そんな静けさだった。
Khamphiradaはそっと彼の方へ歩み寄った。
「NaKhun」
彼女の囁くような声は、少しでも大きな声を出したら、息子の張り詰めた心が壊れてしまうのではないかと怯えているようだった。
NaKhunはゆっくりと目を開け、彼女の方を振り返った。
彼の顔を見た瞬間、彼女は彼のただならぬ様子を察した。
常にあんなにも鋭く、決断力に満ち、冷静なその黒い瞳には、今やあまりにも多くの感情が宿っていた。混乱、悲しみ、罪悪感。そのすべてが、一生涯強くあるべきと教え込まれたNaKhunの心の奥底にあまりにも痛切なまでに押し込められていた。
唇が微かに動き、そしてようやく彼から発せられた声は普段よりも低かった。
「ごめんなさい」
Khamphiradaは動きを止めた。
Nakhunは、まるで母親を直接見ることさえ今の自分には難しいというように視線を落とした。
「あなたの期待を裏切ってしまい、申し訳ありません」
言葉自体は静かだったが、胸に突き刺さるほどの重みがあった。
「皆の期待を裏切ってしまい、申し訳ありません」
その言葉を発した時、ほんの僅かだが彼の声が掠れた。感情を堪らえようとしていたがそれは十分ではなかった。
Khamphiradaはほんの一瞬そこに立ち止まったが、すぐに歩み寄り、NaKhunを腕の中に抱き寄せる。
彼女の抱擁は決して強いものではなかったが、信じられないほど揺るぎないものだった。それはNaKhunが子供の頃から知っているものと同じ抱擁だった。どれほど逞しく立派に成長した息子であっても、ほんの一瞬だけ、無邪気だった小さな子供の頃に戻るような抱擁だった。
ふと彼女に抱きしめられた瞬間、NaKhunはもう取り繕う気力をなくしてしまったようだった。
いつもまっすぐ張り詰めていたあの広い肩からようやく力が抜けた。彼は黙って母の肩口に顔を埋めるように項垂れ、次第にその吐息が震え出す。そして気づかぬうちに涙が零れ落ちた。
Khamphiradaは、急かさず、問い詰めず、叱責することもなく、優しく息子の髪を撫でた。彼女は彼が泣くのをただ黙って見守っていた。彼が抱えていた重荷が自然と言葉になって出てくるまで、彼女は静かな部屋の空気に委ねてじっと待った。
NaKhunは滅多に涙を流すような人間ではない。
年を重ねるにつれ、彼が泣く姿を見る者は誰一人としていなくなった。
だからこそNaKhunが涙を流した時、Khamphiradaは彼がどれほどの思いを抱えているのか、他の誰にも見えないほど深く胸に突き刺さっているのだと悟った。
「そんなつもりではなかったんです……」
彼は途切れ途切れの息の合間に、静かに言葉を紡いだ。その声色はザラついていた。
「自分をどうしても抑えきれなかった」
まるで記憶がまだまざまざと蘇るかのように、彼は固く目を閉じた。
「彼からはとてもいい香りがしたんです」
その一言はそれまでよりずっと柔らかく響き、Khamphiradaは一瞬動きを止めた。
NaKhunはさらに深く項垂れ、話すにつれて罪悪感が胸に重く募っていくようだった。
「こんなふうになるなんて思わなかった。本当にそんなつもりではなかったんです」
Khamphiradaは彼の頭を撫で続けた。彼女は依然として衝撃から立ち直れず、今後のあらゆる事態を危惧していたが、彼がこのような姿である以上、一つだけ明確なことがあった。それは今は責任を追及する時ではない、ということだ。
「わかっているわ」
そう彼女は穏やかな口調で言った。
NaKhunは何も言わずに耳を傾けていた。
しばらく間を置いてから、彼女は息子の顔を見つめ、何が起きたのかを頭の中でパズルのピースを繋ぎ合わせるように呟いた。
「もしかしたら…あの少年はあなたの運命の番なのかもしれないわね」
NaKhunは即座に顔を上げて彼女を見た。
Khamphiradaは手を伸ばし、彼の目尻の涙を拭った。
「あなたは常に自分自身をコントロールできていたわ。自分の感情も、本能も。そして、発情期でさえも」
彼女は手を止めた。
「あの少年があなたの身体や本能にとって不可欠な存在だからこそ、こんなに簡単に歯止めが効かなくなってしまったのではないかしら」
部屋は再び沈黙に包まれた。
運命の番という言葉だけでは、何もかもを解決することはできなかった。しかし、その言葉は起きてしまった出来事に、それほど悲惨ではない形を与えてくれた。少なくとも、これは単なる失敗に終わったわけではないということだった。みっともない自制心の欠如ではない。それはもっと深いものだったのかもしれない。それよりももっと古くからある、誰もが認めたくないほど抗い難いものだったのだ。
Khamphiradaは彼の頬を優しく包み込む。
「それでその男の子は今どこにいるの?」
NaKhunはしばし躊躇った後、正直に答えた。
「彼を見張らせるためにSilaを派遣しています」
Khamphiradaは小さく頷いた。
「正しい判断ね」
しかしNaKhunの表情は依然として穏やかではなかった。彼はKhamphiradaの腕の中から僅かに身を離し、無意識に自分の胸に手を当てた。彼の表情は未だに強張っていた。彼の中に湧き上がる奇妙な感覚は、いくら泣いたところで到底和らぐことはなかった。
「いつこの絆が悪化し始めるのかわかりません」
彼の声は低かったが、そこに混ざる不安の色はより濃くなっていた。
「調子がおかしい感じがするんです」
自分の体の中で何が起きているのかを明確に説明できないことに不満を抱き、彼は眉間に皺を寄せた。
「病気というわけではありません。しかし正常というわけでもないのです」
Khamphiradaは黙って彼を見つめながら、彼女の背筋に冷たいものが走った。
なぜなら彼女は、新たに結ばれた番の後に何が起こり得るかを十分に理解していたからだ。特にその絆で結ばれた二人が、本来あるべき姿で一緒にいない場合には尚更である。それは決して些細なことではなかった。
これほどまでに強く本能をコントロールできていたはずの息子のNakhunですらすでに異変を感じているのだとしたら――
あの少年はいったいどれほど辛い思いを抱えていることだろうか?
Khamphiradaはそっと彼の腕に触れた。
「できるだけ早くその少年を見つける必要があるわ」
NaKhunは少しの間目を閉じ、それから一度首肯した。
彼はすでに知っていた。
PhatSaがこの家を出た瞬間から、彼にはずっと分かっていたことだった。
これからは何もかもが単純にはいかなくなるだろうということが。
PhatSaはじっと部屋にいることに長く耐えられず、結局また外へ出てきてしまった。
実際のところ、彼には特に行きたい場所などなかった。単に、自分の部屋に閉じ籠もっていることに我慢ならなくなったのだ。
ずっと親しんできたはずのその部屋が、今はなぜか息苦しく感じられた。気温は高くはなかったが、彼の身体はどうしても安定しなかった。急に寒くなったり、次の瞬間には熱くなる。胸の奥がひどく空虚だった。まわりのものは何もかも今までと寸分違わぬいつもの風景なのに、まるで胸の真ん中から何か大切なものが抜け落ちてしまったかのようだった。
それからPhatSaはあまり深く考えずに家を出た。
そして彼の行き先は一目瞭然だった。
その時間帯のOngSaのカフェはまだ静かだった。
穏やかな昼の光が大きな窓から差し込み、明るい色合いの木の床に零れ落ちていた。淹れたてコーヒーと出来立ての香ばしい焼き菓子の香りが、あたり一面にふわりと広がっていた。普段ならそこはまさにPhatSaにとってとても居心地の良い場所だった。ただそこに静かに座っているだけで、胸のつかえが半分下りたように感じられる日もあった。
しかし今日は違った。
今日に限ってはいつもの隅の席に座っていても、彼の身体を駆け巡る奇妙な感覚を和らげることはできなかった。
PhatSaはしばらく腕を組んだ状態で座っていたが、やがて再び奇妙な悪寒がゆっくりと肌の下を這い上がってくる感覚に気付いた。店内の寒さのせいではなかった。エアコンの効きすぎによる寒さとは違った。それはもっと根深い、骨身に凍みるような冷たい風が吹き抜けるような感覚。彼は思わず顔を顰め、自分の両腕を軽く擦った。
カウンター越しに、OngSaはすぐに顔を上げた。
「どうしたの?」
PhatSaは首を横に振ったが、その顔はどう見ても普通ではなかった。
「何かゾクゾクする」
OngSaはしばらく彼を見つめてから、背凭れに掛けてあった自分のジャケットを取ると、彼にふわりと投げかけた。
「まずはこれを着て」
Phatsaはそれを受け取り、文句も言わずに身に着けた。だが布地が肩と腕に触れた瞬間、彼はピタリと動きを止めた。それはOngSaの香りがした。
決して不快ではなかった。汚くもなかった。それどころか、とても清潔な良い香りがした。柔らかい布地と、微かな石鹸の香り、そして洗い立ての服から漂う太陽の匂い。普段なら、それはいつものOngsaのように、穏やかで変わらない安心感を抱かせてくれる香りだったはずだ。
しかし今は、その香りがPhatsaの頭をくらくらとさせた。
PhatSaはさらに眉を顰め、すぐさまジャケットを脱いだ。その様子を見て、Ongsaは思わず片眉を上げるほどだった。
「ん?」
PhatSaは申し訳なさそうに一瞬だけ上着を自分の膝の上に置いてから、OngSaに手渡した。
「着られないよ」
OngSaは戸惑いながらそれを受け取った。
「どうしたの?」
PhatSaは唇をギュッと結んでから、まるで自分の言っていることがどれほどおかしなことなのか、どうしても認めたくないかのように押し殺したような小さな声で答えた。
「その匂いを嗅ぐとめまいがする」
OngSaは手元のジャケットを見て、それからPhatSaの方を見返した。
「クリーニングに出したばかりだから臭わないはずだよ」
PhatSaは乾いた小さな笑い声を漏らした。
「臭いなんて一言も言ってないよ」
「それで?」
PhatSaは一呼吸置いてから言葉を濁すように答えた。
「ただ……求めている匂いじゃないんだ」
その一言に、Ongsaは思わず動きを止めた。
それは奇妙に聞こえた。どこか聞く者に言い知れぬ不安を抱かせるような、そんな奇妙さだった。
Ongsaにさらに問われる前に、Phatsaは慌てて話を逸らした。
「ホットコーヒーちょうだい」
OngSaはそれ以上追求しなかった。彼は振り返り、手早くコーヒー淹れた。カップからは白煙が細く立ち上っていた。コーヒー豆の豊かな香りが心を落ち着かせてくれるはずとPhatsaは願った。
PhatSaはカップを持ち上げ、ゆっくりと口に運んだ。その温かさが喉を滑り落ちて胸に広がり、体内の奇妙な冷たさを追い払ってくれることを願っていた。
しかし、それは全く効果がなかった。
むしろそこに座り続けている時間が長くなるほど、まるで風が皮膚の下に入り込むかのように、冷えがより深く染み込んでいくようだった。そして同時に、彼の身体の奥深くからそれまでとは違う種類の熱がじわじわと、そして心をかき乱すように高まっていった。
PhatSaは身動ぎもせず、完全に固まった。
最初はただ体調が悪いだけだと自分に言い聞かせていた。だが、その感覚がはっきりしてくるにつれ、はもはやじっとしてなんていられなくなった。それはただの寒さでも暑さでもなかった。何と呼べば良いのかわからない、漠然とした衝動が、彼を激しく苛立たせ、何かをこの手で握り潰してしまいたいと思わせるほどだった。
クソッ!
全身がさらに強く強張ってしまうような反応をしていることに気がついた。
彼は自分が思っていたよりもずっと強く、乱暴にコーヒーを置いた。
ずっとPhatSaを見守っていたOngSaは、すぐに彼に視線を向けた。
「PhatSa」
PhatSaは大きく息を吸い込み、すぐに立ち上がった。
「俺もう帰る」
OngSaは眉根を寄せた。
「待って…」
「もうこれ以上ここに座ってられなくて」
PhatSaは捲し立てた。その顔は、自分に何が起きているのかまだ理解でないような苛立ちで強張っていた。Ongsaが引き止めたり、さらに質問を重ねる前にPhatsaはすでに立ち去っていた。
OngSaは彼の後ろ姿を胸を痛めながら見つめていた。
カフェからそれほど遠くない道路の反対側に、一台の車が停まっていた。Silaは運転席のシートに深く体を預け、冷静な表情のまま感情を一切表に出さず、カフェのドアをじっと見つめていた。PhatSaが店の外に出た瞬間、Silaは素早く自分のスマホを取り出し、仲間に短いメッセージを送る。
彼は干渉しなかった。
彼は近づかなかった。
彼はNakhunが命じた通りに、ただ遠くから見守っていた。
そして長く見ていればいるほど、Silaはすべてが想定以上のスピードで狂い始めているということに確信を強めていった。
PhatSaが家に着く頃には、彼は以前にも増して苛立っていた。
彼には自分自身のことが理解できなかった。
なぜ自分がこんなにも冷えているのか分からなかった。
なぜ自分の身体がこんなふうに熱くなったり冷えたりを繰り返すのか理解できなかった。
なぜ些細なことで自分の胸が高鳴るのか分からなかった。
そして何よりも腹立たしいことに、PhatSaは猛烈にNaKhunの香りを求めていた。
それをどうしても欲している自分自身に腹が立った。
PhatSaは自分の居場所を見つけられないかのように部屋の中をうろうろと歩き回った。彼は枕の匂いやブランケットの匂いを嗅いだ。クローゼットや引き出しを開け、何かしら、あるいはどんなものにせよ、どうにかすれば失われたあの香りを取り戻せるかもしれないという、根拠のない期待を抱いてシャツを次から次へと引っ張り出した。
しかし、何も変わらなかった。
石鹸の匂い。
柔軟剤。
お日さまの匂いがするコットン。
いつも使っているボディソープ。
どれも違ったったせいで何もかもが苛立たしかった。
オーク樽で熟成されたの温かみのあるウイスキーの香りもない。
微かな煙の香りもない。
NaKhunもいない。
歯軋りをしながら、PhatSaはついにベッドの端に腰を下ろし、片手で額を強く押さえた。
「何やってんだ、俺は…」
PhatSaの息遣いはまだ乱れていた。考えないようにしようとすればするほど、胸の中の空虚感はますます鮮明になった。
そしてすぐ傍にあった服の山に手が触れた時、彼はシャツを1枚見つけた。
それは彼がNaKhunの邸宅から着て帰ってきたシャツだった。
Phatsaは一瞬動きを止め、まるで急に動いたら残されたものが消えてしまうのではないかと恐れるかのように、ゆっくりと慎重にそれを持ち上げた。
そしてそれを胸に引き寄せた瞬間、その香りが彼をふわりと包み込んだ。
ほんのりと微かに。
それでもまだそこに残っていた。
PhatSaはそっと目を閉じた。
NaKhunの香りが確かにそこに残っていた。
NaKhunの香りはあまりにも微かでそれを感じ取るには、顔をぴたりと近づけなければならないほどだった。だが、PhatSaにとってその瞬間、それだけで十分だった。長い間失われていたものをほんの僅かでもようやく取り戻したかのように、全身からふと力が抜け、深い安堵の溜め息が漏れた。
PhatSaはすぐにそのシャツを胸に抱き寄せた。
まるで誰かに取り上げられることを恐れているかのように。
まるでその香りが消えてしまわないかと怯えるように。
PhatSaはシャツに顔を埋め、自分がどれほど渇望していたか自覚しないまま、何度も深く息を吸い込んだ。先ほどの苛立ちが、ほんの僅かだが和らいだ。胸にぽっかりと空いた穴は消えることはなかったが、安堵感で泣き出してしまいそうなくらいには和らいでいた。
それは本当に腹立たしかった。
見知らぬ男のシャツにしがみつき、じっとしていなければならなかったなんて本当に腹立たしかった。
さらに腹立たしかったのは、それをどうしても手放すことができなかったことだ。
結局、PhatSaにできたのはそれを抱きしめることだけだった。
きつく抱き締める。
かけがえのない宝物のように、呼吸とともに深く香りを感じる。
やがてそれを胸に抱いたまま眠りに落ちていった。
喧騒渦巻く街中がそうであるように、NaKhunもまた酷く落ち着かない様子だった。
この世界の何もかもが、彼の肌には馴染まないと感じさせるような違和感を抱かせた。
着ていたシャツが肌に密着しすぎて、彼は不快感を覚えた。普段は決して彼を煩わせることのないその生地が、今では肌に擦れて我慢できないほどだった。部屋は暑くないにも関わらず、彼はその身になぜか息苦しさを感じ、まるで常に何かが皮膚の下から圧迫しているかのようだった。
ついに彼は力任せにシャツを剥ぎ取った。
彼の手が触れた拍子に、ボタンがいくつか弾け飛そうになる。彼はシャツを無造作に放り投げた。上半身裸で部屋の真ん中に立ち尽くし、いつもより軽く息を荒げていた。その黒い瞳は確かに静まり返っていたが、しかし、そこに漂う静けさは限界まで張り詰め、今にも壊れてしまいそうだった。
部屋にはメイドが今朝生けたばかりの花が飾られていたが、NaKhunはそれを見ただけで気分が悪くなるほどだった。
あまりに甘すぎる。
あまりに柔らかすぎる。
彼が求めていたものではない。
雨の香りでもない。
NaKhunか立つ場所からそれほど遠くない位置に座っていたNakhinは、小さく溜め息を吐き、顔を手で擦った。
「あの少年のところに行ってください」
NaKhunは彼の方を見ようともしなかった。
「行かない」
NaKhinは呆れたやら可笑しいやらで、苦笑いを漏らした。
「本当に彼と意地の張り合いをするつもりなの?」
Nakhunはその場に立ち尽くしたまま、抑揚のない声で答えた。
「あの子は自分の意志でここに戻って来なければならない」
NaKhinはしばし彼を見つめていたが、やがてこの宇宙は巻き込まれた第三者になど何の情けもかけてくれないと悟った男のように、小さく呟いた。
「兄さんも彼に負けず劣らず頑固だと思うよ」
部屋はまたしても沈黙に包まれた。
彼らのうちの一人は、シャツを抱き締め、自分が切望していたその香りを吸い込みながら眠りについた。
もう一人は、部屋の中央で上半身裸で佇み、苛立ち、落ち着きがなく、その少年と同じくらいの頑固さで彼を待っていた。
どちらも先に動こうとはしなかった。
どちらも先に譲歩しようとはしなかった。
彼らの身体はすでに同じ真実を物語っていた。つまり、二人ともが平気なふりを装えるほど、この別れが決して簡単なものではないということを。
PhatSaは真夜中にハッと目を覚ました。
部屋は暗闇と静寂に包まれていた。部屋を照らす明かりは外からカーテンの隙間を縫って漏れる、微かな一筋の光だけだった。PhatSaの呼吸は、まるで溺れかけている中ようやく水面に顔を出したばかりかのように途切れ途切れだった。心臓がドクドクと激しく跳ね、肋骨を突き破るのではないかと思うほどだった。
そのシャツはまだ彼の腕の中にあった。
PhatSaはまるで生き残るために必要なものを必死に探しているかのように、それを即座に自分の顔に引き寄せた。しかし、息を吸い込んだ瞬間、彼は凍りついた。
NaKhunの香りが薄れていた。
まだ残ってはいる。
しかし、ごく僅かだ。
今となっては何の慰めにもならないほどに。
彼の胸の虚無感は、たちまち痛切なものとなった。それはもはやあの男に対する単なる憧れでも、単なるフラストレーションでもなかった。それは言葉では説明できないほどの深い飢えだった。全身のあらゆる部分が何かを切望しているように一斉に叫び、ますます大きくなるそれはもう耐えられないほどになったいった。
PhatSaはシャツをさらに強く握りしめた。それが一時凌ぎにしかならないと、とっくに分かっていたにもかかわらず。
彼の肌の下を奇妙な熱が駆け巡った。
呼吸はさらに荒くなった。
指先はわなわなと震えた。
あらゆる感覚が、異常なまでに研ぎ澄まされていった。
ようやく、彼はOngSaの言いたかったことを理解した。
発情期。
その言葉が脳裏を過ぎった瞬間、彼の心はさらにどん底へと沈んだ。彼はその言葉が嫌で堪らなかった。自分が完全に自分自身のものではなくなってしまった感覚に嫌悪した。自分の身体がこんなにも露骨に自分を裏切っているように思えるのが、たまらなく憎らしかった。彼の理性はまだそれに抵抗しようとしていたが、それ以外のすべての感情は別の方向へ向かおうとしていた。
PhatSaは歯を食いしばり、無理やりベッドから身体を起こした。おぼつかない足取りでバスルームに入り、明かりをつけるとその眩しさに目を細めた。そして鏡に映る自分を見上げた時、目を逸らしたい衝動に駆られた。
頬は紅潮していた。
瞳は潤んでいた。
明るい色の髪は乱れていた。
呼吸は何kmも走ってきたかのようにひどく荒かった。
いつもの彼とは全くの別人のようだった。
PhatSaは洗面台の縁をきつく掴んで項垂れ、深呼吸をして、自分自身に落ち着くように言い聞かせる。これは単なる発作であり、すぐに過ぎ去ってしまえると言い聞かせようとしていた。しかし、戦えば戦うほど、事態は悪化していった。抵抗しようとすればするほど、身体はますます言うことを聞かなくなる。
そして彼は泣きたくなった。
なぜならそれは、彼の本心から望んだものではなかったからだ。
それは彼が自ら選んだことではなかった。
彼がなりたかった姿でもなかった。
それにもかかわらず、彼の身体は容赦なくそれを求めていたのだ。
Phatsaはきつく目を閉じ、背中を震わせた。彼はまるで発情期の動物も同然で、その屈辱感が喉をひどく締め付けた。
「いやだ…」
彼自身のものとは思えないほど、掠れて擦り切れた声でその言葉は発せられた。
止めようとする間もなく、涙が溢れ出した。
こんなことを望んではいなかった。
こんなふうに弱くなりたくなかった。
自分の身体が自分自身のコントロールを失い、別のものになってしまうことを望んでなんていなかった。
それなのにどれほど抗おうと、どれほど厳しく立ち向かおうとも、彼の身体は依然として言うことを聞こうとしなかった。
Phatsaは激しい混乱の中で平静を保ち、自分を抑えようと必死だった。再び落ち着きを取り戻すために先のことは一切考えずに、ただこの状況を耐え抜こうと藻掻いていた。だが、身体はどんどん重くなっていくばかりで、ついには全身の力が抜け落ちていった。PhatSaには何をすべきか分かっていたが、ただそれは彼の望むことではなかった。
彼はとうとう自分を抑えきれず、細い指で硬くなった陰茎をゆっくりと扱いた。ヒリヒリと痛み、締め付けられるようだった。彼の指が優しく撫でるたびに痛みは和らいでいき、代わりにゾクゾクする感覚が広がっていった。それでも高まる欲望を静めることはできなかった。
必死に撫で続けてもその衝動が薄れることはなかった。Phatsaは悲鳴を上げた。彼はあまりの痛みに、快感を得る余裕などなかった。肌が粟立つような感覚が込み上げてどうしようもなかったが、まだそれは終わらない。終わらせることができなかった。その苦しみが、今もなお彼を完全に蝕み続けていた。
そしてその時、彼は発狂寸前になるほどの衝撃を受けた。彼の手付かずの後孔にはとろりとした透明な液体が溢れていた。PhatSaはそこに軽く指を伸ばすと、まるで電流が走ったように快感に震え、背中を弓なりに反らせた。そこは温かく外からの刺激にすぐに反応を返した。彼の細い指が少し触れただけで奥深くまで沈み込み、まるで絶頂に導かれるかのように後孔は激しく収縮したが、結局達することはできなかった。
彼は最悪の事態の間も必死に気丈に振る舞おうとした。意識を保とうとした。ただその局面を乗り切ろうと努めた。しかし、何もかもが激しさを増すばかりで、ついには苦悩と疲労、そしてどうしても手の届かない救いを求める耐え難い苦しみだけが残された。
いつからか彼の視界がぼやけ始める。
部屋の音がだんだんと遠のいていった。
洗面台を掴む力さえも、徐々に失われていった。
そしてとうとう、PhatSaは抵抗する気力すら底をついた。
彼の体はゆっくりと崩れ落ち、意識は一瞬で途切れた。
残されたのは、煌々と明かりが灯る浴室と静寂、そして彼が倒れた場所のすぐ傍に転がっている古いシャツだけだった。それにはNaKhunの香りが仄かに残されていた。
翌日の朝、OngSaは再びPhatSaの様子を見に訪れた。
最初は、ただその頑固な少年が無事でいるか確認したかっただけだった。Phatsaは昨日の午後から夜にかけて不自然なほど沈黙しており、メッセージの返信も、LINEの既読も、電話に出ることもなかった。普段ならたとえ腹を立てていたとしても、せめて何かしら送り返してくるはずだった。それがたった一つのイライラした絵文字だったとしても。
この沈黙がOngSaを不安な気持ちに駆り立てた。
OngSaが家の鍵を開けて中に入ると、その静まり返った様子にさらに彼の心を沈ませた。部屋は静寂に包まれていた。テレビの音も、足音も全くしなかった。普段Phatsaが一人で家にいる時にはするはずの、部屋からの物音がほんの少しも聞こえなかった。
「PhatSa?」
Ongsaは部屋の奥へ進みながら声を掛けた。
返事はない。
彼は今度はより大きな声で再び呼びかけたが、返ってきたのは総毛立つほど息苦しい沈黙だけだった。彼は急いでPhatSaの部屋に向かい、ドアを強く押し開けた。
中の光景を見て、彼は恐怖で足が竦む思いがした。
PhatSaはバスルームの床で意識を失っていた。ドアは開けっ放しにされていた。頭上の白いライトがやけに眩しく、その光景がさらに恐ろしく感じられた。彼の服は乱れており、明るい色の髪は汗で湿って額に張りつき、顔は不安を覚えるほど赤く紅潮していた。彼の呼吸は激しく乱れ、まるで全身で見えない何かに抗っているかのようだった。
「PhatSa!」
OngSaはすぐにPhatSaの傍らに膝をつき、彼の腕に触れた瞬間、OngSaは凍りついたように動きを止めた。
彼は熱かった。
ただの微熱ではなく——
燃えるように熱かった。
OngSaは信じられない思いで再び額に触れ、冷たい恐怖が背筋を駆け巡った。彼はベータだったため、PhatSaのフェロモンを嗅ぎ分けることはできなかった。しかし、彼にはその必要はなかった。彼が見たものは、すでに十分すぎるほどだった。
彼の体温は危険なほど高かった。
彼は荒く息をしていた。
何もしていないのに、全身から汗が噴き出していた。
その身体は小刻みに震えていた。
そして彼の意識は朦朧としていた。
発情期。
その言葉が瞬時にOngsaの脳裏に浮かび、手が冷えていく。彼はPhatsaの身体を、自分から離れられないようにしっかりと引き寄せ、頬を軽く叩いた。そのすべての動作に鋭い焦りが滲んでいた。
「PhatSa、起きて…!PhatSa、僕の声が聞こえる?」
PhatSaは半分無意識の状態で顔を顰めた。呼吸はまだ荒く、胸は激しく上下していた。普段は言い争うとなると人一倍弁の立つその口元は、今や悪夢の中から譫言を漏らすかのように、僅かに開いているだけだった。
「んん…」
掠れた声が微かに響いた。
OngSaは固唾を飲んで、もう一度口を開いた。その答えがどれほど重要であるかをすでに知っていながら。
「誰が君を噛んだの?」
Phatsaは、辛うじて目を開けるほどの気力しか残っていなかった。それでも簡単には屈しまいとするかのように、力なく首を横に振った。彼の呼吸はさらに乱れ、聞き取れないほど小さな声で何かを呟いた。
OngSaはその声を聞き取ろうと身を屈めた。
「やだ…やだ……」
「PhatSa、僕に話して」
「…わかんない……」
今でさえ意識がほとんどない状態なのに、OngSaが泣きたくなるほどPhatSaの頑固さは健在だった。彼は恐怖、どうにもならない無力感、そして必死の愛情が入り交じった感情でその赤く火照った顔を見つめた。
「この期に及んでまだ意地を張るつもりなの…?」
PhatSaは答えなかった。彼はただ荒い呼吸を繰り返し、眉間には深く皺を寄せている。まるで高熱と悪寒に同時に襲われているかのように、波打つように身体を強張らせていた。彼の目尻には涙が浮かんでいた。息も絶え絶えになりながらもなお、彼は苦しみ続けていた。
Ongsaにできることは彼をさらに強く抱き締め、震える手でスマホを探すことだけだった。
彼は何から手をつければいいのかも全く分からなかった。
救急車を呼ぶべきか?
誰か他の人に助けを求めるべきか?
それともPhatSaをこんな目に遭わせた危険な男のところへ、そのまま連れ戻すべきか?
しかし一つだけ確かなことがあった。それはこのまま放置すれば、事態はさらに悪化するということだ。
一方その頃、SilaはPhatSaの家のすぐ外からまだ見張りを続けていた。
PhatSaが前日から翌朝までずっと家にいたため、Silaは彼が姿を現すところをほとんど目撃していなかった。家の中は不自然なほど静かだった。寝室の明かりがしばらく点いたが、やがて消えた。あまりにも長い時間が経過していた。過剰反応しないように訓練されている者でさえ、さすがに異常だと感じざるを得ない状況になっていた。
それから間もなく、彼はOngsaが急いで建物の中に入っていくのを見た。
その後しばしの間、何事も起こらず静かだった。
家の中で人の気配が動き始めるまでは。カーテンが揺れた。その影の動きはあまりにも急いでいるように見えた。そしてその後、Silaは窓からかすかに漏れ聞こえる声を聞いた。一言一句までは聞き取れなかったが、事態を把握するには十分だった。
Ongsaの声。
いつもの彼の声ではなかった。
心から怯えている人間の声だった。
Silaは即座に動いた。すぐにスマホを取り出して電話を掛ける。
まるで電話を握りしめて待っていたかのように、呼び出し音が鳴ってすぐに相手が出た。
「はい」
NaKhunの声は相変わらず落ち着いていたが、それは普段よりも低かった。
Silaはいつも通り、簡潔かつ正確に報告した。
「PhatSa氏は部屋から全く出てきていません」
スマホの向こうは沈黙していた。
Silaは話を続けた。
「OngSa氏が今、家の中にいます」
彼は一拍置き、先ほどと同じく抑制された口調で最後の台詞を告げる。ただし、その声には僅かに鋭さが混じっていた。
「NaKhun様、彼の状態は思わしくないようです。OngSa氏が彼を呼ぶ声が聞こえます」
今度は、電話の向こう側の沈黙がいつもより長く続いた。
話を聞いていた男がそれまでの考えを変えることを悟るのには、Silaにとって十分な時間だった。
やっとNaKhunは再び口を開いた。その声は低く、ゆっくりと、そして反論の余地がないほど冷徹だった。
「私も行く」
Silaは一瞬だけ間を置くと、すぐさま答えた。
「畏まりました、NaKhun様」
通話が切れた。
そしてその瞬間、Silaはこの事態が完全に別の段階へと移行したことを悟った。
なぜなら、もしNakhun自らが足を運ぶと決めるほどの事態に陥っていたのだとしたら――
その絆で結ばれた番はすでに、これ以上待つことが安全な段階はとうに過ぎているに他ならなかった。
#5_END
