オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳_OPエピソード#1

2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。
今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。

KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)

https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25?r=user_page

KNOTドラマパイロット版(YouTube)



KNOT小説版 日本語訳

「I… Opening」

 その街は、夕暮れ時になると特有の光を纏った。昼と呼ぶには明るさが足りず、かといって夜と呼ぶには暗すぎない、そんな光に溢れていた。すべてが淡い金色と灰色に薄化粧されているようだった。

 バスが騒々しくタイヤの音を立てながら路面を擦り、人々が家路に向かって行き交う。埃と煙、そしてありふれた日常の匂いが、何年もそうしてきたかのように空気中に漂っていた。

 ありふれた退屈な日常のさなか、PhatSaは人混みの中を静かに通り抜けた。それは人々が思わず彼に目を留めてしまうような、そんな立ち居振る舞いだった。

 色白の肌に、夕日を浴びて煌めく薄い色の髪。その髪のせいで、周囲の者たちよりも少しだけ際立って見えた。彼は筋肉を自慢することが好きなタイプのようにがっしりとして、体を大きく見せたりするわけではなく、小柄だが引き締まった体躯で俊敏、常に無駄のない動きをしていた。

 飾り気のない白い無地のTシャツに普通のパンツでも彼が身につけるとなぜだか悔しいほど似合っていた。ただしそれらがハイブランドのアイテムだったからではない。もしボロ雑巾のような擦り切れた服を着ていたとしても、彼ならハンサムに見えただろう。

 PhatSaは迷いなく歩いているようだった。背筋を伸ばし、落ち着いた眼差しでゆったりと、しかしその歩みは止めない。その彼の様は誰もが必死で努力しても得られないような内から滲み出るようなスマートさがあった。そして彼が口を閉ざすと、その表情から窺える凛とした静寂は、年相応以上のものを背負える人間であるかのように彼を見せていた。

 PhatSaは他人のことには干渉しない性格だった。少なくとも彼はそうでありたいと思っていた。

 しかしあの日、古い建物の隣にある狭い路地から音が響いてきた。最初は言い争いをしているのかと思ったが、よく聞いてみると声の様子がどこかおかしい。ただ怒っているわけではなさそうだった。そこには恐怖も入り混じっていた。話し合いで終わるような話ではない、そう告げるような恐怖があった。

 PhatSaは立ち止まり、音のする方へ振り向いた。

 その路地は狭く、暗く、澱んだ空気が漂っていた。コンクリートの壁がすぐそばに迫り、空気が薄くなっているように感じられ、片隅には黒いゴミ袋が山積みになっていた。裏口の扉の上にある古い電球はチカチカと点滅している。

 そしてその薄暗い中で、誰かが壁際に追い詰められているのが見えた。二人の男が彼の両側に立っている。その男たちの表情は、関わるべきではない人間だと一目でわかるような、飢えたものだった。

 男たちに挟まれて動けなくなっている彼は、男たちを押し除けようとしていたが、明らかにまともに対抗できるだけの力はなかった。

「放して!」

 その声が響き渡った。短く、鋭く、有無を言わせぬものがあった。

 PhatSaは深く考えず動いた。少しの疑問も持たず、あれこれ思考を巡らすこともしなかった。

 PhatSaは動いた。

 次の瞬間、路地へ飛び込む。初手、男をぐいっと強く引っ張った。その男は壁にぶつかってよろめく。もう一人の男が激昂して振り返った。しかし、PhatSaは男に反撃の隙を与えなかった。男の肩を強く突き飛ばすと、そのまま男の腹へ強烈なパンチを真っ直ぐに喰らわせた。そして男はふらつきながら後ろへ倒れ込む。

 その混沌はわずか数秒だった。

 罵声が路地裏に響き渡る。コンクリートの上で靴が激しく擦れる音がした。Phatsaはその風貌からは想像できないほど、遥かに速く、そして精密に動いた。無鉄砲で愚かな戦い方はしない。タイミングというものを完全に理解している戦い方だった。いつ躱し、いつ反撃すべきか正確に理解していた。やがてその二人の男は劣勢に立たされていることに気づく。男たちは最後にいくつか悪態を吐き、醜態を曝しながら這う這うの体で逃げ出した。

 ようやく平静が戻った時、あたりに残っていたのは荒い息遣いと路地裏の湿った匂いだけだった。

 その時になって初めて、Phatsaは自分が助けたばかりの相手を振り返って見た。

 その瞬間、ひと目見ただけでなぜあの男たちが彼を手放したくなかったのか理解できた。

 彼は美しかった。

 単に美しいというだけではなく、不思議と人を引き寄せるような魅力があった。彼がそこにいるだけで、周りの空気が一変するほどの美しさだった。彼の肌は暗がりの中でさえ発光しているように見えるほど、白くきめ細やかだった。彼の切れ長の目はショックでまだ微かに震え、形良く整った唇は少しきつく引き結ばれていた。男たちとの揉み合いのせいで、薄い色の髪が乱れて頬にかかっている。その姿は彼を儚げで、繊細で、それでいて同時に危険な香りのする存在にも見せていた。

 彼には一言も発さずとも誰もが振り返って見てしまうほどの美しさがあった。 

 Phatsaは相手の男の手首にある赤い跡を見て、軽く顔を顰めた。

「大丈夫?」

 彼は荒い息を吐きながら、まだ気持ちを落ち着かせようとしていた。それからゆっくりとPhatSaを見上げた。

  その瞬間、彼――Sangnueaは心臓の鼓動がほんの一瞬止まったように感じた。

 Sangnueaの目の前に立っている少年は、これまでに出会った誰とも違う存在だった。日が暮れかかった薄暗がりの中でPhatSaはそこに立っていた。PhatSaの色白の肌が、顔のシャープな輪郭をより際立たせている。さきほどの出来事のせいで、彼の明るい髪は少し乱れていた。息はまだ完全には整っていなかったが、その眼差しは落ち着いている。とても穏やかで安心感があった。ついさっき大の男二人を何食わぬ顔で相手にしたばかりだということが馬鹿馬鹿しく思えるほどクールな佇まいだ。

 自分に救われる価値があるかどうかに関わらず、誰かに無条件に助けられたのは本当に久しぶりのことだった。

 「僕は大丈夫」

 Sangnueaは静かに囁いた。その声は澄んでいて穏やかだった。しかしさきほどのショックから抜け出せず、まだ微かに震えていた。

 PhatSaはもう1秒、彼を見つめた。 

 「あいつらは一体誰?」

 どこか他に怪我をしていないか確かめるかのように視線を走らせてから尋ねた。

 Sangnueaは躊躇した。彼のその美しい瞳は、どこまで話すべきか決めかねているかのように、揺れ動く。青白い指先は、まるで自分を落ち着かせるかのようにまだ軽く手首に触れている。しかし結局、恐怖心が完全に消えていなかったせいでつい真実の片鱗を口にしてしまった。

 「彼らのことは知らない」

 Sangnueaは静かに呟いた。それから一呼吸置くとさらに声を落とした。

 「でも、彼らは僕の首を噛もうとしていたんだ」

 PhatSaはたちまち眉を顰める。

 「君の首を噛む?」

 Sangnueaはゆっくり頷く。それを口にするだけでも、またぞっとしたかのようにほんの少し顔色が悪くなった。

 「ああ... もし来るのがあと少しでも遅かったら、僕は多分もう噛まれていたと思う」

 PhatSaはSangnueaを凝視し、困惑した。 Sangnueaの青白い喉をちらりと見て、それから顔を見つめ返す。少しでも納得できる説明を必死に探そうとしていた。

 「ちょっと待って。あいつらは変態なの?ヴァンパイアか何か?いきなり他人の首に噛みつくなんてどういうこと?」

 しばし沈黙し、そして真剣な面持ちでこう付け加えた。

 「それともあいつらは犬だったの?」

 その質問は本心からのものだった。あいにくとそれもまた、いかにもPhatsaらしかった。

 ついさっきまで全身を強張らせ、目は真っ赤なのに、Sangnueaは思わずふっと小さな笑みをこぼした。

 「彼らはどちらでもないよ」

 「それってなんか逆に余計に気味が悪いね」

 とPhatSaはぶつぶつと呟きながら息を吐いて再び目を細めた。

 「もし噛まれたとしてもそんなに大変なことになるの?」

 その質問はSangnueaの顔から微かな笑みを奪った。彼は少し目を伏せ、黙り込む。会って間もない相手にどこまで話すべきか計りかねているように。しかし、何が起きたのかという恐怖は、まだあまりにSangnueaの中に生々しく残っていた。そうして、真実の一部が口から滑り出た。

 「僕にとっては…それはすごく大きなことなんだ」

 そうSangnueaは静かに言った。

 PhatSaは眉を上げた。

 「どれくらい大事なの?」

 Sangnueaは一瞬唇を引き結び、それから低い声で答える。

 「僕の人生を変えるほど大きなことだよ」

 その言葉を聞き、PhatSaは一瞬言葉を失った。

 PhatSaはその言葉の意味をまだ理解していなかった――それどころか、まるで分かっていなかった。それでも、もうこれ以上冗談を言うべきではないということくらい、PhatSaにも十分に分かっていた。Sangnueaの美しさと静かな穏やかさの裏には本当の恐怖が潜んでいる。目に見える傷跡なんて比べものにならないほどの心の奥底まで深く残るような恐怖だろう。

 だからPhatSaは無理強いはしなかった。ただ小さく頷くと、半歩後ろに下がりSangnueaがもっと楽に息をつけるよう十分なスペースを与える。

 「わかった」

 PhatSaはもう一度路地に視線を走らせてから、Sangnueaの方を振り返った。

 「もし歩けるようならここから出よう」

 Sangnueaは彼を見つめ続けた。よく見れば見るほど目の前にいるその少年がただ柔和で優しいだけのハンサムではないということがはっきりとわかる。彼は頭が切れる。少しのユーモアさ。静謐な物怖じしない様子。しかしその静かな雰囲気は冷たい印象を与えなかった。そのせいでますます彼から目を離せなくなる。

 Sangnueaはもう一度手首に触れ、微かに笑みを浮かべた。それは嵐を生き抜いたばかりの花のような、美しい顔を彩る細やかなものだったが。その小さな笑みで路地裏の空気はすっかり変わった。

 「ありがとう。本当にありがとう。あなたが助けてくれなかったら、本当に大変なことになっていたよ」

 とSangnueaは言った。

 Phatsaは大したことはしていないかのように肩を竦めた。

 「大丈夫だよ」

 彼はSangnueaがちゃんと立っていられるかどうか、頭からつま先までをもう一度ちらりと視線を走らせた。怪我がないことを確認し、これで終わりと言わんばかりに身体の向きを変え始めた。彼の助けは終わったのだ。事態は収束した。これでおしまい。

 しかしSangnueaは彼をほんの1秒ほど見つめた時、この人に何も残さずに立ち去ってほしくない、という突然の確信にも似た思いを抱いてることに気づいた。

 「待って…」

 彼の声は微かなものだったが、PhatSaが立ち止まり再び振り返るには十分だった。

 二人の視線が絡む。

 頭上の淡い光がPhatSaの顔に薄い光を落とし、その顔立ちをいっそう際立たせていた。Sangnueaはきゅっと唇を引き結び勇気を振り絞る。普段、誰かと話すくらいで緊張するようなタイプではなかったが、今は違った。

 「まだあなたの名前を聞いてない」

 そのストレートさに少し驚き、PhatSaは眉を上げた。そして口角を少しつり上げ、いたずらっぽく小さな笑みを浮かべた。その途端、彼の表情が一気に生き生きと輝く。

 「いきなり名前を聞くなんてちょっと展開が早くない?」

 Sangnueaは思わず笑みを浮かべた。

 「もちろん。知らなきゃダメでしょ。あなたのおかげで命拾いしたんだから」

 無駄な言葉を紡ぐことを避けるPhatSaは一瞬Sangnueaを見つめ、あっさりと答えた。

 「PhatSa」

 彼が口にしたその名前は、とりわけ特別な感情を持たせるものでもなく、ごく自然に零れ落ちた。しかしSangnueaは、その名が彼に奇妙なほどしっくり合っていると思えた。率直で覚えやすく、そしてなぜかあの少年自身が持つ静かな重みと通じるものを感じたからだ。

 「PhatSa…」

 Sangnueaは自分の中のどこか深いところにしまっておくかのように静かに繰り返した。それから再び顔を上げた。

 「僕はSangnuea」

 「良い名前だね」

 PhatSaは頷いた。

 それはまるで何でもないことのようにさらりと告げられた短い褒め言葉だった。それでもSangnueaの胸は少し高鳴るのを感じた。それがPhatSaが発した言葉のせいなのか、それともそれを言っているPhatSa自身のせいなのか、彼には判別できなかった。ただわかっているのはここに長く立てば立つほどPhatSaを最初に見た時よりもさらに魅力的に感じられるということ。そのクールさ、ユーモアさ、自然と滲み出る自信。それらすべてが相まって、見る者を危険なほど惹きつけるものになっていた。

 Sangnueaは口に出すか決めかねる様子で少し躊躇する。それから自分でも驚いたことについ思い切って尋ねてしまった。

 「じゃあ…LINE教えてくれない?」

 PhatSaは瞬きした。

 「僕のLINE?」

 「うん」

 相変わらず柔らかく丁寧な口調ではあったが、Sangnueaは早口で言う。

 「ちゃんと改めてお礼が言いたくて。もし今日あなたが来てくれなかったら…本当に大変なことになるところだったから」

 Phatsaは少しの間、Sangnueaをじっと見つめた。一方のSangnueaは、普通ではまずあり得ないほど妙に緊張している自分に気づいた。普段の自分はこれほどまでに他人の返答を気にするタチではなかったのに。

 しかしPhatSaは不審がる様子をまったく見せなかった。

 彼はほんの少し考えただけで、それから喉の奥で小さく笑った。

 「何かそれ取り立て屋みたいな言い方だよ。怪しいな」

 Sangnueaも笑い出す。

 「僕は何も取り立てないよ」

 「ほんとに?」

 「もちろん。せいぜいお礼のLINEをするくらいだよ」

 PhatSaはもう一度Sangnueaに目を向けた。そして結局、本当に何でもないことのようにただスマホを差し出した。彼は見るからに無害そうに見えた。さらに気づかぬうちに人々を油断させてしまうほど美しい。

 Phatsaはたった一つだけ、この男がとてつもなく綺麗だということだけは明確に分かっていた。彼が男であるということがどうでもよくなるくらいには十分に可愛い。正直なところ、もしこれほどまでに見目の良い人がいつか恋人になったとしても悪いことではないように思えた。

 「はい、入れて」

 Sangnueaはまるで貴重なものを渡されたかのようにPhatSaから慎重にスマホを受け取った。すぐに自分のLINEを登録する。さっきのショックで手はまだ少し冷えていたが、胸の奥には静かに何か温かいものが広がり始めていた。

 PhatSaにスマホを返した時、Sangnueaのその顔に浮かぶ笑みは先ほどよりも明るかった。

 「ありがとう。PhatSaさん」

 Phatsaは画面にちらりと目をやるとスマホをポケットに滑り込ませた。

 「うん。でも寂しいからって夜中の3時にLINEしてこないでね?」

 Sangnueaは半秒ほど固まったが、それから今度は心からの笑い声を上げた。路地裏でのあの出来事ですべてが狂ってしまってから、初めて出る心からの笑いだった。

 「僕はまだそこまで大胆じゃないよ」

 「まだ?」

 PhatSaはまたあの小憎らしいほどのからかうような表情を浮かべてすぐに言い返し、Sangnueaはさらに声を上げて笑った。

 そしてその瞬間、SangnueaはPhatsaに対して深く感銘を受けているということを以前よりもはっきりと自覚した。それは単に自分を助けてくれたということだけでなく、それと同時に安心感を与えてくれたから。ほんの数分前まで呼吸もままならないほど動揺していたにもかかわらず、PhatSaが自分を笑わせてくれたのだ。

 そして何よりも、見れば見るほどPhatSaを気に入ったから。

 「そろそろ行かなくちゃ」

 Sangnueaは小声で呟いたが、すぐにPhatSaから目を離すのは名残惜しそうだった。

 「うん。気をつけて帰って」

 PhatSaはいつものように簡潔に答えた。

 Sangnueaは身を翻し歩き始め、そしてほんの数歩離れたところでまた振り返った。彼の美しい顔にはまだ微かな笑みが浮かんでいた。

 「PhatSaさん」

 「ん?」

 「今日あなたに会えて本当に良かった」

 そう言うとSangnueaはもう一度PhatSaに微笑みかけてから今度こそ立ち去った。Sangnueaの鼓動は先ほどよりも激しく高鳴っていた。

 PhatSaはこれといって何か深いこともあるいは哲学的なことも考えるでもなく、そこに立ち尽くしてSangnueaが去っていくのをほんの少しの間眺めていた。

 たったひとつ、ごく単純なことが心の中に残る。

 あの男は本当に美しかった。

 Sangnueaと別れたあと、PhatSaは不思議な感覚を胸に抱えたまま、路地裏を歩いて出た。

 PhatSaは他人の事情をいつまでも頭の中で気にし続けるような人間ではなかった。殊に手助けをしたとしても別れた瞬間に終わっているはずの出来事ならば、なおさら気に留め続けるような性格ではなかった。とはいえ結局あの男の姿が何度も脳裏に蘇る。言葉を失うほどの美貌、恐怖と警戒が入り混じったような瞳。そしてその"首に噛みつく"とかいう現実離れした、メロドラマチックなファンタジー小説がそのまま現実世界に放たれたかのような、そんな話も。

 PhatSaはいつも通りの落ち着いた表情で歩き続けたが、内心はちっとも冷静ではいられなかった。

 あの男はただ偶然出会しただけの見知らぬ人だ、と自分に言い聞かせようとした。たとえ彼の相貌が、人々が思わず振り返るほどに綺麗だったとしても、いつまでも深く考え続ける必要はないのだ。

 しかし、考えまいとすればするほど、Sangnueaが自分を見上げた瞬間のことをPhatSaはますます思い出してしまうのだった。

 結局、PhatSaは方向転換して、ほぼ無意識に足の赴くままOngSaのカフェへと向かった。

 そこはPhatSaがいつだって理由もなしにふらっと立ち寄れる場所。特に目的がなくても行くことができるカフェだった。そして今日、彼はまるで雷に打たれたのに火傷もしていない人のように、ただ呆然と立ち尽くしているよりも、この奇妙な状況を説明できる誰かを強く求めていることは痛いほど明白だった。

 PhatSaがカフェのドアを押し開けた瞬間、ドアの上にある小さなベルが優しく鳴った。炒りたてのコーヒーと温かい焼き菓子の香りが、真っ直ぐ彼の元に漂ってきた。その店は、心地よい静けさに包まれていた。店内のテーブルにはごく少数の客しか座っていない。窓から差し込む淡い光が木の床と隅にある小さな本棚を照らしていた。

 カウンターの向こうでOngSaが忙しそうにグラスを並べていた。

 ドアベルが鳴る音でOngSaは顔を上げる。そして誰が来たのかを見た瞬間、いつもの落ち着いた瞳の色が和らいだ。

 OngSaは自然体で清潔感のあるハンサムな男だった。強烈な印象を与えるタイプでも、ただそこにいるだけで周囲を緊張させるようなタイプでもなかった。——けれど、彼にはなぜか自然と周囲の心をふと和ませるような、不思議な雰囲気があった。PhatSaより少し背が高く、まさに理想的なスレンダーな体型、頼りがいを感じさせる十分な肩幅をしていた。相貌は滑らかで端正、そして人一倍優しい。こうして自分自身のカフェにいる時、OngSaはあらゆるものをあるべき場所へきっちりと収めた人物であるかのように見えた。

 そのお馴染みの光景を目にした瞬間、PhatSaの胸のつかえが少し解れた。

 「今日はどこにも行かなかったの?」

 PhatSaはこちらにやってくると、まともに立っていられないほど疲れている人のようにカウンターに凭れかかった。

 「してない。ダラダラしてた」

 OngSaは眉を上げて見せた。

 「本当にダラダラしてたの?それとも何かあった?」

 この男には何も隠し通せそうにない、とすでに悟っていたPhatSaは小さく苦笑した。ただすぐには返事をしなかった。彼はカフェの中をさっと視線を巡らせてから、ふうっと深く息を吐く。

 「OngSaサン……実はさっき人を助けたんだ」

 OngSaは次のグラスに手を伸ばすのをやめ、今度はPhatSaにしっかりと向き直った。

 OngSaの目が真剣なものになった。

 「どんなふうに助けたの?」

 「何人かに襲われそうになってる人を助けた」

 「それで君も巻き込まれたの?」

 PhatSaはすぐに振り返った。

 「え?誰かを助けたことがお節介みたいに言われるの?」

 PhatSaは少しむっとした様子で首を振ったが、結局はOngSaにすべてを話した

 路地裏で妙な音が聞こえたことに驚き、二人の男が誰かを追い詰めていたことをOngSaに話した。そしてPhatSaはどうやって助けに入ったかを伝えた。それから無意識のうちに助けた男のことを、思っていた以上にずっと詳しく語ってしまっていた。その男がいかに美しく、顔面蒼白で儚げに見えるのに、それでも決して弱々しくなかったということを。

 OngSaは口を挟まなかった。彼はただ両手をカウンターに軽く添え、PhatSaが話し終えるまでそのまま黙って聞いていた。それから話しの中で彼が唯一引っかかったこと尋ねた。

 「待って」

 「何?」

 「彼は首を噛まれそうになったって言ったの?」

 PhatSaはたちまち眉をひそめた。

 「そう。俺もそれに困惑して。初めはただの不気味な奴らだなと思ったけど、彼があんなことを言うから一気に変な感じになった」

 OngSaは頭の中でパズルのピースを組み立てているかのように、しばし沈黙した。再びPhatsaの方を見た時、その表情は明らかに一層険しくなっていた。

 「彼はどんな外見だった?」

 PhatSaは目を瞬かせた。

 「彼は…綺麗だった」

 「綺麗?」

 「うん、綺麗。かなりの美人。色白で華奢で俺より少し背が高い感じ。思わず振り返っちゃうよなさ。そして彼は殴られるより首を噛まれることの方を怖がってるように見えた」

 こんな質問は難しくない。聞かれるがままに答えた。

 OngSaは数秒間彼を見つめ、それから可笑しさと心配が入り混じったような溜め息をついた。

 「彼はオメガかもしれない」

 PhatSaは固まって言った。

 「え、今何て?」

 「オメガ」

 「オメガって一体何?俺が知ってるオメガはオメガ3脂肪酸くらいしかないよ。それを食べたら賢くなるってこと?」

 カウンターに寄りかかりながら、OngSaはPhatSaの完全に途方に暮れた顔を見てあやうく笑いそうになった。

 「君は本当に何も知らないの?」

 「俺が知ってるわけないでしょ」

 PhatSaは間髪入れずに言い返した。

 「突然、首を噛まれたら人生終了みたいなことを言われて。混乱するなっていう方が無理でしょ」

 「それくらいの混乱するのも無理はないか」

 「それなのにまだそんなふうに喋ってる」

 OngSaは優しく笑うと、カウンターの裏から出てきた。彼はPhatsaの目の前で立ち止まると、その表情をはっきりと観察できるほど近づき、それから何かもう一つ確認するような様子で尋ねた。

 「彼、君の匂いを嗅いだ?」

 PhatSaは瞬きをする。

 「…いや、わかんない」

 「君はどうだった?彼から何か匂いがした?」

 「ない」

 PhatSaはすぐに答えた。

 「今まで生きてきて誰からも変な匂いとか感じたことない。香水、コーヒー、埃、汗……とかはまあ分かる。変な神秘的な運命の香りみたいな?ないな」

 OngSaはその答えに驚きはないかのように、小さく頷いた。それから彼は振り向き、水の入ったグラスを掴むとPhatSaの前に置いた。

 「わかった。じゃあよく聞いて」

 PhatSaは訝しげに彼の目を見た。

 「何か今から生物の授業が始まりそうな感じなんだけど」

 「世の中の家庭で面と向かって教えないことを今から学んでもらうことになるから」

 「何かその言葉だけでもっと怖くなった」

 「怖がらせたいわけじゃないよ」

 OngSaは穏やかに言った。

 「君に分かってもらおうとしてるんだ」

 PhatSaはグラスを手に取り、どうやら誰かの管理下に置かれているように感じて水を飲み、グラスを置いて腕を組んだ。

 「よし。話して」

 OngSaはすぐには口を開かなかった。彼はどう切り出すべきか思案するような様子で、一瞬だけPhatSaを見つめた。これは二言三言で端的に説明できるような話題ではなかった。Phatsaのように世間知らずで純粋に育ったような人物が相手となると、一度にすべてを曝け出してしまうことはかえって彼を混乱させてしまうかもしれない。

 カフェはしばし静寂に包まれた。店内に響く唯一の音は、カウンターの奥にあるコーヒーメーカーの音と遠くのテーブルから聞こえるカトラリーが触れ合う微かな音だけだった。

 午後の光がOngSaの表情を和らげていたが、その眼差しは会話を始めた頃もずっと真剣なものになっていた。PhatSaは静かにOngSaを見つめた。PhatSaは相変わらず然程関心がないふりを装っていたが、心のどこかではこれから耳にする何かが自分の人生の在り方を永久に変えてしまうかもしれない、ということをすでに悟っていた。

 OngSaは椅子を引いて座り、PhatSaはその向かい側に座った。そしてOngSaは目を上げ、こう言った。

 「これをちゃんと説明するとなると、あの伝説から話さないといけない」

 PhatSaはすぐに眉根を寄せた。

 「まって、伝説まであるの?」

 OngSaの口元にふと薄く笑みが浮かんだ。

 「もちろんある。この話は君が想像してるよりずっと古いものだよ」

 OngSaは少しのあいだ口を閉じ、頭の中で言葉を選んでいるようだった。それからグラスの縁を指で軽く叩いた。

「遥か昔に…」

 遥か昔――人間が星々に名前をつけるよりも、火が夜の友となるよりも、王国や血筋、あるいは運命といった言葉を人々が知るよりも、もっとずっと前のこと。

 世界はただ森と山と川、そして暗闇を吹き抜ける風の音だけで成り立っているにすぎず、誰かがそれを恐れているかなど到底どうでも良いことだった時代。

 あの頃、人類は自然と比べるとちっぽけな存在だった。彼らは嵐に恐怖し、冬を畏敬の念を持って過ごし、そして骨の髄に宿る疑問を抱きながら月を見上げていた。夜空に浮かぶたった一つの銀色の光が、人々や獣、そして世界の空気までもをこれほどまでに完全に変えてしまうのはなぜなのだろうか、と。

 雲の上、山々の上、嵐の上、そして人間の視界が届かない遥か彼方に、別の種族が存在していたということを人々は決して知る由もなかった。

 語り継がれる伝説よりも古きもの、祈りより強大であり、そして人々が生み出すいかなる悪夢よりも悍ましき種族。

 彼らは狼の神々だった。

 世界の理を護る者。狩猟、潜伏、餓え、渇望、そして生命そのものの創造を司る者。

 狼の神々は王座や王冠でその世界を支配したのではない。彼らは誰にも跪くことを求めず、人間から送られる称賛などには関心がなかった。彼らは皮膚の下に埋もれた見えない衝動、漂う匂い、心臓の鼓動、そして人間でさえ決して完全には説明できない荒々しい古の本能という、目に見えないものを通して支配していた。

 物語はとある特別な夜に始まった。

 満月が空をまるで鮮血のような赤に染めた夜。

 北風が想像よりも激しく吹ている。世界そのものが他の誰よりも先に何かを察知したように森が戦慄いた。

 そしてその夜、雲の上の領域から人間界を観察するために降りてきた若き狼の神、Lycaonは過ちを犯した。

 Lycaonは山脈の裂けた谷間から生える聖なる棘に貫かれた。

 それはただの棘ではなかった。世界最古の力から生まれた禁忌の存在。神の血を引く者ですら無傷では触れることは叶わぬほどの強大な力を持っていた。

 Lycaonは倒れた。

 彼は霧と風を切り裂き、木々の梢を駆け抜けたあと、人間界の地表に激しく墜落した。

 人間界の大地に狼の神の血が零れ落ちたのはかつてないことだった。

 Lycaonを見つけたのは、王でも司祭でもなく、魔術師でもなく、偉大な歌に歌われるような伝説の戦士でもなかった。

 彼女は、谷に住む戦士部族のごく普通の娘だった。

 名前はCallistaと言った。

 そしてその名前は「最も美しい人」という意味を持っていた。

 それは誇張ではなかった。

 彼女は美しかった。――しかし、その美しさはよく賛美されるようなただ座って愛でられるだけのお人形のような美しではなかった。

 彼女は宝石を身に纏わずとも、称賛する観客がいなくとも、冷たい風の中でただ裸足のまま立っているだけで人々が思わず足を止めてしまうほどの美しさを持っていた。

 しかし、彼女の本当の魅力は決してその容姿だけにあるのではなかった。その瞳の中には知性と勇敢さ、そして優しさが共生していた。その精神は見知らぬ人を救うためなら血に汚れることも厭わない手の中に宿っていた。目の前で死にゆくものが人か、獣か、悪魔かさえ分からぬ時でも、慈悲を選ぶ心を身の内に秘めていた。

 CallistaはLycaonを助けた。

 彼女はLycaonの肉体から棘を取り除いた。止血のために山の薬草を使い、火を織こし、寒さから彼を守るために毛布で包んだ。そして彼を見捨てることなく一晩中傍に寄り添っていた。

 時々彼の瞳の色が変わっていたとしても。

 Lycaonが再び目を開けた時、最初に目にしたものは雲の上の神聖な空でも、自分の同胞でも、ずっと見知っていた血のように赤い月でもなかった。

 火のそばで眠っていたのは人間の女だった。傷ついた見知らぬ男が夜明けとともに消えてしまうのではないかと恐れているかのように、彼女の手は今も男の包帯の端をしっかりと握り締めていた。

 Lycaonにとって人間ほど脆い生き物がこの世界でどうやって生き抜いてきたのか、これまでの人生で理解できたためしがなかった。

 LycaonがCallistaの手のぬくもりを知るまでは。

 Lycaonが無条件の慈悲を目にするまでは。

 そして真の勇敢さとは、殺すことではなく、たとえ恐怖に慄いていたとしても誰かを守ることを選択することにあるのだと理解するまでは。

 いつしか数日が過ぎた。

 傷ついた者を看病することがお互いに言葉を交わすきっかけになった。

 最初に抱いていた不信感がしだいに親しみに変わっていく。

 CallistaはLycaonを人間の世界へと導いた。彼女は彼に教えた。笑い声の響き、炊きたてのご飯の味、乾いた大地に降る初雨の匂い、そして自らの手で人生を築き上げた人々の心地良い疲労というものを。

 そして今度はLycaonがCallistaに別の世界を見せた。

 そこは風が単なる風というだけではない、意味を持つ世界。雨を呼ぶ力を持つ花々が存在する世界。

 人間には決して聞くことができない、あらゆる獣がそれぞれの言語を持つ世界。

 いつしか二人はゆっくりと恋に落ちた。

 あまりにも緩やかな変化だったので、二人は確かに恋に落ちた瞬間を気づけなかった。

 それは燃え上がるような情熱から始まったわけでもなく、運命の雷が落ちるような劇的な出会いから始まったわけでもなく。大げさな誓いから始まったわけでもなかった。

 ほんのささやかなところから動き出した。

 CallistaはLycaonが寒い夜を嫌っていたことを覚えていた。

 LycaonはCallistaの帰りが遅くなるたびに今か今かと彼女が帰路につく足音を待っていた。

 片方がそばにいる時、もう片方の心は不思議と穏やかになる、というシンプルで恐るべき真実がともにあった。

 そしてそれこそが、おそらく何よりも危険なことだった。

 なぜならゆっくりと育んだ愛は、一瞬で燃え上がる愛よりも、引き裂くことがずっと難しいから。

 言うまでもなく、世界は容易くそれを許しはしなかった。

 狼の神々は、人間は脆く、短命で、不安定すぎる生き物である、と自分たちの血筋を受け継ぐ資格はないと考えていた。

 一方で人間は神の力を恐れていた。なぜならあまりにも異質なものは、常にその身を脅かすものだと見なされていたからだ。

 そうして二人の恋は、影の狭間、月明かりの下、谷間の小さな洞窟の中で隠れて生きるしかなかった。まるでその幸せそのものさえも世界から気づかれないよう声を潜めなければならないように。

 しかし愛は育っていった。禁じられれば禁じられるほど、それは強く募った。そして世界が彼らを引き裂こうとすればするほど、二人の絆はより深く強くなった。

 そしてある夜、再び血の色に染まった月の下、お互いの感情を隠すことができなくなった時、LycaonとCallistaは契りを結んだ。

 二人の愛から新しい命が生まれた。

 その子どもは他の子とはまったく違っていた。

 人間の身体を持って生まれてきたが、その血には太古からのより深い何かが流れていた。

 生まれた子どもは並の人間を超えた強さを備え、匂いや感情に対して極めて敏感であり、その心臓は本能の赴くままに鼓動していた。言葉に頼らずとも、その身体から何かを醸し出しているかのよう。

 それはフェロモンだった。

 単なる香りではなく、古代からの言語そのもの。

 惹きつける力。

 これは警告。

 誘い。

 そして人々の人生を永遠に変えてしまうほど強い、運命のシグナル。

 年月が経つにつれ、その子の末裔たちは密かに人間世界へと散っていった。純粋な血統を受け継ぐ者もいれば、血筋が薄まった者もいた。ごく普通の人間と見分けがつかない者もいれば、生まれながらにして神性を示す明らかな兆候を持つ者もいた。

 やがてその血筋は3つの系統に分かれた。

 まずはアルファ。

 彼らは群れのリーダーの本能を完璧に受け継いでいた。恵まれた体格、強靭な意思、決断力を持ち、統治し、守り、そして支配の本能を備えている。彼らが群れの中に現れると、他の者は本能的に道を譲る。彼らの欲望は激しく燃え上がり、たった一噛みで、他者の運命を永遠に自らの運命に縛り付けることができる。

 次にベータ。

 ごく普通の人間に最も近い。彼らは古い世界と新しい世界を繋ぐ架け橋のような存在だった。彼らには圧倒的なフェロモンや、他の者たちのように発情期が押し寄せるようなことはないかもしれない。しかし、だからといって彼らが弱いということにはならない。それどころか、ベータこそが最も着実に二つの世界を渡り歩くことができる者たちだった。人間、そう人間である――しかし、神の血の影を、今もどこか深いところに隠されているのだ。

 そして最後はオメガ。

 天がこの世の優しさをすべて集めて、命ある姿に形作ったかのような存在。ある面ではより繊細だったが、別の面では不思議なほどの力強さを持っていた。彼らは色香、人を惹きつける力、そして命そのものを生み出す能力を秘めていた。それは、神の血を引く者が何よりも尊ぶものだった。

 その結果、オメガたちは保護され、かつより切望される存在となった。

 時によって称賛を浴びながら、同時に抑圧される。世界中が我先にと手に入れたがり、どこで咲きたいかなど一度も聞かれることのない花々のように。

 ある日を境に、人間世界は一変した。二度と元の世界に戻ることはなかった。

 Lycaonの血脈はあらゆる時代、あらゆる都市、あらゆる家系に混ざり合っていった。いくつかの家系ではその血を王冠のように守り続けていた。あるいは秘匿すべきものとして隠し通す者もいた。自分が何者であるかを幼い頃から完全に理解して育った者たちもいるが、一方で赤い月の影が自らの血の中でずっと眠っていたことを知らぬまま人生の大半を過ごした者たちもいた。

 これがこの世界の始まり。

 アルファ、ベータ、オメガ。それらは単純に分類されるためだけのものではなかった...。

 それらは神からの贈り物だった。

 それらは呪いだった。

 それらは渇望だった。

 それらは鎖だった。

 それこそが、この世のどんな縄よりもきつく人の心と心を結びつける、運命の結び目だった。


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