オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#3
2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。
今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。
KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)
https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25
KNOTドラマパイロット版(YouTube)
Ⅲ_Pheromones
薄暗いカーテンの隙間から、朝の光が穏やかにゆっくりと差し込んでいた。眩しさで目がチカチカするほどではなかったが、PhatSaがここが自分の部屋ではないということに徐々に気づくには十分な淡い金色の光だった。
それは見慣れない天井だった。
辺りに漂う香りは嗅ぎ慣れないものだった。
自分の家にいる時の静けさとはどこか違って感じられた。
静まり返っていた。あまりにも静かすぎるほど。PhatSaには上手く説明できなかったが、この部屋のものは高価なものだけで設えられているように見えた。そこはすべてにおいて目障りなものが存在することは一切許されず、完璧なまでに計算尽くされて配置されていたからだ。
しかし彼の五感に真っ先に触れたのは、朝の光でも、ベッドでも、そして目の前に広がるクワイエット・ラグジュアリーでもなかった。
それは匂いだった。
オーク樽の温かみのあるウイスキー。
微かな煙の痕跡。
表面の下には、深く、重苦しく、そして奇妙に熱を帯びている。
PhatSaはすぐに眉を顰めた。
彼はまだ完全に覚醒していなかったが、首筋が熱い針で皮膚を何度も引っ掻かれるかのように、鋭く張り詰めたように再び酷く痛んだ。僅かにビクッと身体が震え、反射的に手を上げてそこに触れた。そ指先は生々しい傷に触れ、その瞬間、まだぼんやりとしていた彼の頭の中は真っ白になった。
昨夜の記憶が断片的にフラッシュバックのように蘇ってくる――駐車場、照らし出すヘッドライト、混乱、襲撃者たち、荒い息遣い、そしてまるで別世界からやってきたかのような闇の中から姿を現したあの男……。彼の牙が首筋に深く突き刺さった瞬間、すべてがプツリと意識が途切れたのだ。
PhatSaはカッと大きく目を見開いた。
彼はすぐに起き上がろうとしたが、少し身体を動かしたところで硬直した。何か温かくて重いものが、彼の腰にしっかりと巻き付けられていた。それは絶対に毛布ではないことはわかった。
彼は一瞬静止し、それからゆっくりと首を向けた。
その男はPhatSaのすぐ後ろに横たわっていた。
近すぎる。
温かい息が首筋にかかるほどの至近距離だった。
Phatsaが彼の顎のシャープなラインと、睫毛の影まで見ることができるあり得ないほどの近さ。
さらに悪いことにその男は上半身裸だった。
PhatSaはさらに一秒、完全に身動き一つせず固まった。
黒いシーツに映えるその美しい日焼けした肌は、腹立たしいほどに魅力的だった。広い胸板、重責を背負っているような肩、逞しい腕。寝ぼけた状態であっても、彼が意識的に世界を威圧するために鍛え上げた肉体であることは一目でわかるほど、その筋肉は見事に、そして鋭く隆起していた。彼の腹筋は平らで引き締まっており、縦に走る筋肉のラインは不快なほどに完璧。常に自分の肉体に自信を持っていたPhatSaでさえ『なんなんだ、その体は』と思わずにはいられないほどだった。
さらに追い打ちをかけたのは、頭の中ですぐに『ああ……すごくいいな』と思考が続いたことだった。
PhatSaは唇をきゅっと結んで即座にしまった、と自分を責めた。そして怒鳴り散らす前に尊厳を失わないようにと自分に言い聞かせた。
そこで彼はまず一番妥当な行動をとることにした。
PhatSaはその男の腕をぐいっと押しのけた。しかし、その腕は力を抜くどころか、無言の返事をするかのようにほんの少しだけ強く抱きしめてきた。まだここにいてと言うように。
PhatSaは素早く振り返り、彼を鋭く睨みつけた。
今度こそその男は目覚めていた。眠りから覚めたばかりだというのに、その漆黒の瞳は依然として静けさを湛え、圧倒されるような存在感を放っていた。彼の黒髪は少し乱れていたが、それがかえってその端正な顔立ちをより危うい色気となって引き立たせていた。彼は目覚めた直後のほんの僅かな瞬間でさえ、決して隙を見せそうにない相貌をしていた。
その男はしばらくPhatSaを見つめてから、低い、寝起きの掠れた声で話しかけた。
「目が覚めたんだな」
PhatSaは丸々数秒間彼をじっと見つめた後、我慢できずに最初に思い浮かんだ言葉を率直にぶちまけた。
「俺は何でここにいるの?」
NaKhunはその疑問が少しも難しいとは感じていないかのようにゆっくりと瞬きをした。
「ここに連れてきたのは私だ」
「じゃあ何で俺はあなたのベッドにいるんだ?」
「昨夜あなたが気絶したからだ」
PhatSaは一瞬凍りついたように動きを止め、それから再び部屋中を見渡した。ベッドが大きすぎる。部屋が物凄く広い。調度品や部屋の雰囲気が高級すぎて、ふらっと見ず知らずの人間を家に連れ帰りこんなふうにベッドに放り込む場所ではないように見えた。振り返るとその男がまだ自分の腰から腕を離していないことに気づいた瞬間、PhatSaは現実がどんどん遠のいていくような感覚に陥った。
「ちょっと待って」
PhatSaはゆっくりと一言一言区切るように話し、自分にまだしっかりと絡みついている腕に視線を落とした。
「放して」
その男は落ち着いた目でPhatSaを見つめながら答えた。
「駄目だ」
Phatsaは丸三秒間沈黙し、それから再び顔を上げた。
「え、何て?」
「絶対に離さない」
朝の部屋の静寂はさらに一段と張り詰めた。そしてPhatSaは、完全に目を覚ましているのかどうかすらもあやふやな状態のように、短く信じられないといった様子で短く笑い声を漏らした。
「俺まだ寝ぼけてる?それともあなたって生まれつきそんなに変わってるの?」
NaKhunの口元が微かに歪んだ。それは微笑みのようでありながら、微笑んではいなかった。彼はPhatsaをじっと見つめ、それから淡々とした口調で言った。まるでいかなるドラマチックな要素など必要としない、ただ明白な事実を告げるかのように。
「私は責任を取る」
PhatSaは微動だにしなくなった。
朝の静けさが一段と増したようだった。PhatSaの周りにはウィスキーと煙の香りがまだ色濃く漂っており、そのせいで彼の思考はますます曖昧になっていった。
「私があなたを噛んだ以上、責任は私が取る」
PhatSaはほんの一瞬彼を見つめていたが、その直後、意に反して声が上ずった。
「待って、それって普通なの?いきなり俺の首に噛みついておいて目が覚めたら『責任を取る』ってどういうこと?俺を破傷風や狂犬病の注射のためにここに連れてきたって言い訳する方がまだこの状況より筋が通ってるよ」
「私は犬ではない」
「へえ?じゃあ善良な人間ってのは普通に見知らぬ人に噛みつきながら歩き回るもんなんだ?」
「私は誰にでも噛みつくわけではない」
「だからって納得できるとでも思ってるの?」
「ああ」
「そんな答え正気じゃないだろ?!」
PhatSaは即座に爆発した。彼はもう一度NaKhunの腕を力任せに押しのけ、今度はより強く押した。そしてついに起き上がるのに成功した。しかしあまりに素早く動いてしまい、再び首筋に鋭い痛みが走った。思わずたじろぎ、苛立ちながら手でそこを押さえざるを得なかった。
「俺たちまだお互いのこと全然知らないじゃん!」
PhatSaは向き直り、その男をまっすぐ指差した。
「それなのに突然、あなたが『責任を取る』とか言い出すの?そもそもあなたが誰なのかすらわからないのに。名前も、住所も、どこの惑星の出身かなんて何もかも聞きたくない!」
初めて目の前の男がわずかに眉を顰めた。まるでその長々と語られた言葉によって、目の前の人物が手に負えないほど頑固であるということが確信に変わったかのように。
「今更あなたは他の誰かを好きになることはできない」
PhatSaはピタリと止まった。
すると彼の目はさらに大きく見開かれた。
「何だって?」
「もう他の誰かを好きになるのは駄目だと言ったんだ」
他人の人生の全条件を決定づけている時でさえ、その男の口調はまるで「雨が降る」とか「カフェが月曜日は定休日だ」とでも伝えるかのように、相変わらず穏やかだった。
「ねえ、聞いてよ。要するに俺はそもそも誰かを好きになるつもりなんてなかったってことなんだよ!」
「良いね」
「そんなの答えになってない!」
Phatsaは今、本当に頭が痛くなってきていた。
PhatSaの視線はその男の頭からつま先までをなぞり、そして抗うこともできずに露わになった引き締まった胸板に再び視線が止まった。目の前の男の身体がどうしようもなく魅力的であることなど絶対に認めたくなかった。それから彼は再び慌てて視線を逸らした。
そしてPhatSaは何事もなかったかのようにすぐに本題に戻った。
「それともう一つ。まともな人間がいきなり他人の首に噛みつく?普通!」
その男はPhatSaを一瞬見た後、呆れるほどあっさりと答えた。
「いい匂いがするな」
PhatSaは硬直した。
「…いい匂い?」
「ああ」
PhatSaは数秒沈黙し、それから眉根を寄せながら大真面目に答えた。
「それが原因なら俺が使っている香水を教えるよ?」
NaKhunは先に我慢の限界を迎えるか、それとももう一度説明すべきか、その間で揺れ動いているかのように一瞬沈黙した。結局、彼は小さく息を吐き出した。
「それは香水などではない」
「でも俺、香水つけてるよ」
「香水の話をしているのではない」
「じゃあ石鹸?」
「違う」
「シャンプー?」
「違う」
「それじゃあ柔軟剤だ?」
その男は、自分が少し迷惑をかけすぎているとPhatSaが自覚し始めるまで彼をじっと見つめていたが、PhatSaにはやめるつもりなどなかった。
やがてその見知らぬ男は、まるでどうしようもないほどに物分かりの悪い相手に言い聞かせるかのように、ゆっくりと、はっきりと答えた。
「それはあなた自身の香りだ」
その言葉によってPhatSaは少しの間黙り込んでしまった。彼はNaKhunをじっと見つめ、それからわずかに視線を落とした。あまりに現実離れしているのに、笑い飛ばすには深刻すぎるその言葉にどう反論していいか分からず、突然調子が狂ってしまった。
それからその男は再び口を開いたが、その話題からPhatSaを逃がすつもりは毛頭なかった。
「それなら、私の匂いを嗅いでみて」
「え?!」
「私の匂いを嗅いで」
「それが普通のことみたいに言わないで」
「そうだよ」
「あり得ない!」
PhatSaの口はまだ反論を続けていたが、結局は好奇心が勝った。Phatsaはほんの一瞬躊躇いを見せたが、まるで非常に疑わしい何かを確かめる人のように慎重に身を乗り出した。
それからPhatSaはゆっくりと息を吸い込んだ。
その香りが鼻腔をくすぐった瞬間、彼は身動き一つ取れなくなった。
それは本当に香水などではなかった。
それは衣服や髪に残る人工的な香りではなかった。まるでその男の皮膚から直接湧き出たかのように感じられた。オーク樽で熟成された温もりのあるウイスキーに、微かなスモーキーさ、深みがあり、濃く、そしてどこか熱を帯びた香りがした。そこに柔らかさはない。親しみやすさの欠片もなかった。それなのにまったくこれといった理由もないのに、なぜかPhatsaの心臓はドキッと高鳴った。
そして一番最悪だったのは、彼はそれが気に入ったことだった。
度が過ぎている。
Phatsaは一瞬凍りついたように動きを止め、それからすぐに身を引く。まるで騙されたかのようにその男をじっと見つめた。
「…どうしてそんな匂いがするんだ?」
NaKhunは冷静に彼に視線を向けた。
「たとえばどのような?」
「えっと…」
PhatSaは言葉を途中で切り、明らかにそれをはっきりとは言いたくなさそうにしていたが、やがてイライラした声で言った。
「俺の好み、みたいな感じ」
今度はその男の口元が以前よりも明らかに弧を描いた。まるでその答えに密かに満足しているかのようだった。
「だから言っただろう」
「いや。その香水のブランドを教えて」
「香水ではない」
「じゃあボディソープ?」
「違う」
「化粧水?」
「違う」
「で、実際には何を使っているの?」
その男はしばらくPhatSaを見つめた後、同じく淡々とした口調で答えた。
「これは私のフェロモンの匂いだ」
再び部屋中が水を打ったかのように静かになった…。
Phatsaは彼を見つめた。まるでここで起きたことすべてを理解しようと必死について来ようとしているかのようだった。しかし理解しようとすればするほど、前日にOngsaが語っていた不条理な世界へと自分が引きずり込まれていくような感覚に陥るのだった。
「香水とは違う」
その男はゆっくりと続けた。
「香水は外につけるものだが、フェロモンは内側から香ってくるものだ」
Phatsaは沈黙を保ったままだった。
するとNaKhunは再び少しだけ身を乗り出し、その黒い瞳でPhatSaを射抜く。その視線は決して妥協する気配を見せなかった。
「これから私の匂いに慣れてもらう」
PhatSaはすぐに言い返そうと口を開けたが、至近距離でその男の顔をまっすぐ見た瞬間、思わず息を呑み、押し黙った。
彼がどんなに腹を立てていたとしても、どれほど混乱していようとも、心の奥底ではもう一つの真実がすでに静かに芽生え始めていた。
彼はその香りを単に気に入っただけではなかった。
彼の体はすでにそれを思い出し始めていた。それに反応し始めていた。
部屋は再び静寂に包まれる。カーテンの隙間から漏れる微かな朝の光と、あまりにも近くに座る二人の呼吸音だけがそこに取り残されていた。 Phatsaは警戒心と困惑の入り交じった視線を目の前の見知らぬ男に向けたまま座っていた。一方、Nakhunは自分の言ったことが少しもおかしなところはないというように、腹立たしいほど冷静なままだった。
PhatSaがまた言い返そうと何かを口にする前に、その男は僅かに身を近づけた。
ほんの微かな動きだったが、しかし、それはたちまち彼らを取り巻く空気を変えた。
PhatSaが身構える暇もなく、それまで仄かに残っていたウイスキーと煙の香りが、じわじわと濃密に漂い始めた。それは無遠慮に押し寄せてくることはなかった。きついものでもなく、無理強いされていると感じるほどの強引さでもなかった。それどころか、それは冬の暖炉から立ち上る暖気のように、あるいは喉を伝い落ちた上質な酒が体中に熱を広げていくように、もどかしいほどの遅さで広がっていった。
PhatSaは動きを止める。
彼は理屈よりも先に、それを肌で感じていた。
彼の呼吸が穏やかになった。
無意識のうちに、シーツを掴む彼の指先に力がこもった。
普段はあちこちに忙しなく回転している彼の思考でさえも、少しずつ落ち着いていくようだった。
「あなたは…」
彼が発した声は、予想していたよりもずっと弱々しいものだった。
その男はじっとPhatSaを見つめ続け、その黒い瞳はほとんど動くことがなかった。そしてその静けさが、彼をさらに危険な存在にしていた。なぜなら、それは自分が何をしているのかを完全に分かっている者の眼差しのように感じられたからだ。
「何かを感じるか?」
PhatSaは眉を顰め答えようとしたが、結局何も言わなかった。
何かを感じる?
それはもちろん。
彼はあまりにも多くのことを感じすぎていた。
その香りはあまりにもゆっくりと彼に浸透していった。鼻腔を通るというよりはむしろ皮膚に染み込んでいくかのように思え、彼の胸の奥が温かさで満たされるようなそんな気がした。理由は皆目見当もつかなかったが、彼の心臓は高鳴り始めた。そして何より腹立たしいことに、その男から少しも離れられなかった。
PhatSaは唇をぎゅっと引き結び、出せる限りのごく普通のトーンで話そうとした。
「もしかして…魔法を使っているんじゃない?」
NaKhunの口元が再び微かに動き、笑みを浮かべたかのように見えたが、やはり完全に笑うことはなかった。
「これは単にフェロモンのせいに過ぎない」
「俺にとってはどっちも同じようなものだよ」
Phatsaはその台詞を皮肉のつもりで言ったのだが、普段よりも柔らかい口調になってしまったことでますますイライラすることになった。目の前の男は相変わらず距離が近すぎる。彼から放たれる香りに逃げ場がないほどに全身が包まれるのを実感し、すぐそこにある彼の気配がひしひしと伝わってくる。すぐ目の前にあるその露わな上半身の熱に、PhatSaの集中力は毎秒ごとにかき乱された。
PhatSaは一歩下がるべきだ。
その男を激しく非難すべきだ。
今すぐこのベッドから降りて、出て行くべきだ。
しかし、彼の身体はそのどれも行動に移すことはしなかった。
それどころか、PhatSaは気がつかないうちに自らが引き寄せられているのを感じただけだった。それはまるで皮膚の下にある何かに少しずつ前へ引かれているかのように。そしてついには、それが自分の意思によるものなのか、それとも自分の内側で目覚め始めた未知なる新しい本能によるものなのか、彼自身にも区別がつかなくなっていた。
「まって…」
PhatSaは小さな声で呟いたが、その抗議も全く効力を持たなかった。
そのウイスキーと煙の香りはさらに一段と深みを増した。それは息が詰まるほどではなかったが、ただ人を陶酔させるには十分だった。それは危険な種類の酔いだった。感覚を鈍らせるのではなく、すべてを研ぎ澄ますような酔い。呼吸のひとつひとつ、目の前の体から伝わる一筋の温もり、そして自分の中に広がる寄せては返す不安定な感情の波、そのすべてがはっきりとわかるほどに。
PhatSaはゆっくりと唾を飲み込んだ。
そして意識しないうちにPhatSaの手が上がった。
その指先は、最初は自分の体を支えるためだけのちょっとした動作に思えるほど、ごく軽く目の前にある広い肩にそっと触れた。しかし、手の下にあるその熱い肌を感じた途端、PhatSaは離れるどころかさらに身を寄せた。まるで、触れれば触れるほどもっと近づきたくなるかのように。そしてまるで、NaKhunの肌からそこから離れたくないと思わせるような穏やかな熱が放たれているかのように。
その男は一言も発せず、すべてを黙って受け入れた。
その黒い瞳はずっとPhatSaに向けられていた。
依然として深く、まるでPhatSaがどこまでやるのか、ただ見守っているかのようだった。
PhatSaの呼吸が荒くなる。するとほとんど意識しないうちに、両腕がゆっくりと滑るように上がっていく。そして両腕がNaKhunの首に回った。その動きは躊躇いがちでぎこちなく、まるで彼自身、自分が何をしているのかまだ気づいていないかのようだった。ただ、もっとその男に近づきたい、それだけが頭の中でいっぱいだった。その香りにすっぽりと包み込まれていたかった。
PhatSaはもう少しだけ、その腕の中にいたかった。
「…すごくいい匂いする」
それは囁くような声だった。
目の前の男は何も言わなかった。その男の呼吸の温もりだけが、ほんの僅か変化していた。目の前にいる氷のように冷静さを崩さない男が、見た目ほど平然としているわけではないことを証明するには、それだけで十分だった。
PhatSaはほんの少し顔を近づけた。彼の頬がそのシャープな顎のラインに今にも触れそうだった。煙とウイスキーの香りがさらに濃さを増し、胸が締め付けられるほどにもっと強く抱きしめたいという衝動に駆られた。
PhatSaの中で何かが最も危険な形でタガが外れかけていた。頭の片隅にある声が『ちょっとでもこんなことをすべきじゃない』と、微かにではあるがまだ警告を発していたのにもかかわらず。
しかし彼の体はそれよりもずっと正直だった。
彼の鼻先がNaKhunの顔にゆっくり近づいた。
危険なほど近づいた距離で、二人の吐息が重なった。
息が触れるほどに彼らの唇は近づいていた。
あと1インチの距離。
そして次の瞬間、すべての香りがふっと消え去った。
それは徐々に薄れたわけではない。まるで誰かが火を完全に吹き消したかのように、それは一瞬でピタリと止んだ。
PhatSaの体を包み込んでいた靄は、一瞬にして消え失せた。彼はその場でほんの数秒ほど凍りつく。やがて、顔が真っ赤になるほどの激しい動揺とともに我に返った。
彼はビクッと体を震わせ、一瞬で距離を取った。
「…クソ」
PhatSaは浅い呼吸を繰り返しながらショックと恥ずかしさで目を見開き、ヘッドボードまで後ずさる。Nakhunの方をまともに見ることが全くできなかった。先ほどの光景が、彼の頭の中に生々しく焼き付いている。自分の両手がその男の首に絡みつき、身体に覆いかぶさるように身を乗り出す。そしてあわやキスでもしそうになるほどに二人の距離があまりにも近づきすぎていた。
PhatSaは咄嗟に額を押さえた。
「ああ、ちくしょう…」
彼は最後まで言わなかった。その必要もなかった。ただNakhunは彼が何を言わんとしているのかをはっきりと正確に理解していた。
部屋がしばらく静寂に包まれたあと、それまでと変わらない平坦で落ち着いた声でその男が話し始めた。
「あなたは何も間違ったことはしていない」
びくっと上げたPhatSaの顔は明らかに赤らんでいた。
「どうしてそれが間違っていないって言えるだ?ベッドの上で危うくキスするところだったのに!」
「フェロモンのせいだからだ」
Phatsaが思わず枕をその顔面に投げつけたくなるほど、とんでもなくあっけらかんとその男は言ってのけた。
「他人事だと思って。ここで恥をかいているのは俺なんだ」
その男は少しの間PhatSaを見つめてから、再びゆっくりと口を開いた。
「私の言うことが信じられないなら、自分で香りを出してみればいい」
Phatsaはすぐに眉を顰めた。
「そんなのどうやってやればいいの?自分の中にそんな力があるなんて思いもしなかった」
「あなたこそ」
その男の冷静で揺るぎない様子が癪に障って仕方がなかった。
男はもう一度少し身を近づけたが、今度は自身の匂いを放つことはしなかった。彼の裸の上半身の温もりと、その黒い瞳の重みだけがある。それだけで、Phatsaは再び息をするのも苦しくなるほどだった。
「あなたは以前に出したことがある」
PhatSaは止まった。
「俺したことある?」
「ああ」
「いつ?」
その男はPhatSaが受け入れようとしない真実を突きつけるかのように、じっと見つめた。
「あなたがそんなふうに私を見たとき」
PhatSaは一瞬にして黙り込んだ。
その一言にPhatSaはまたしても耳の先を赤くした。彼は恥ずかしさと苛立ちで頭がいっぱいになり、どこから否定していいか全く分からなかった。しかし、彼が返事をまとめるより先に、男は彼から視線を逸らさずに言葉を続けた。
「私も影響を受けた」
PhatSaはハッと顔を上げた。
その男は依然として同じような視線をPhatSaに向けている。その表情に大きな変化はなかったものの、その双眸は僅かに険しくなっていた。
「もしそれがフェロモンのせいだと思わないなら、もう一度自分の香りを出してみて」
そう彼は言い、一呼吸置いた。それから低く落ち着いた声で付け加えた。
「そしてあなたも自分の目で確かめることになる…。私ももう少しであなたにキスしそうになったということを」
再び彼らの間に静寂が訪れた。
今回の沈黙は混乱によるものではなかった。
それは熱がもたらす静寂であり、空気の表面の下に小さな火花を潜ませているかのような沈黙だった。
Nakhunは何もしていないにも関わらず、Phatsaは普段よりもずっと激しく心臓が鼓動するのを感じながら、じっと座っていた。PhatSaは文句を言うべきだったし、反論すべきだった。これは完全に狂っていると言うべきだった。だが一番腹立たしかったのは、心の奥底ではPhatSa自身、少なくともすでに半分以上を信じてしまっていたことだった。
自分の呼吸がおかしいままだったために、それを信じた。
まだ肌の奥が熱を持っていたから。
もしあの香りが再び自分に触れたら、もうじっとしていられる自信がなかったから。
PhatSaはしばらく沈黙してから、手のひらで首の後ろをゆっくりと擦った。まるで肌の下にまだ残っている熱を撫でて鎮めようとするかのように。
しかし、噛み跡に触れれば触れるほど、何が起ころうとしていたのかがより鮮明に思い出された。自分を抱きしめる力強い腕、身体を包み込む温かい煙の香り、そして見知らぬこの男の唇に自分の唇がもう少しで本当に触れそうになったその瞬間が。
彼はそのことを思い出すたびに、またしても恥ずかしさで耳が熱くなった。
PhatSaはその場を誤魔化すために喋った。それが自分にとって当たり前にできる唯一のことだった。
「たとえやってみたくても」
そうPhatSaは眉根を寄せて言った。
「俺はまだフェロモンの出し方なんてわかんない。どうすればいいの?おならみたいに捻り出せってこと?」
その部屋は一瞬静まり返った。
そこで初めて、目の前の男は心底呆れ果てたように眉間に皺を寄せた。まるでその言葉が彼の理性に耐え難いほどの衝撃を与えたかのように。
「馬鹿馬鹿しい」
PhatSaは即座に肩を竦めたが、その瞳には依然として警戒の色が残っていた。
「もう、本当に分からないんだってば! こんなのどうやって一人で理解すればいいんだよ? こっちは普通の人間として育ってきたんだから」
PhatSaは一呼吸置き、それから同じように腹立たしいほど気楽な口調で付け加えた。
「高校でフェロモンの出し方入門編みたいな授業があるわけじゃないんだし」
男はPhatSaをしばらく凝視していた。まるで彼を無視するか、それとも両肩を掴んで我に返るまで揺さぶるべきか、決めかねているようだった。やがて男は静かに息を吐き出した。
「あなたのようなオメガには今まで会ったことがない」
PhatSaは間髪入れずに言い返した。
「いいね。特別扱いされるの好きだから」
「あなたの方がよっぽど厄介だ」
「それはあなたの見方によるんじゃない」
その言い分に男の口の端が再びピクリと引き攣った。まるで苛立ちと可笑しさが同居しているかのように。その表情がPhatSaをさらに苛つかせた。なぜならその男は笑みを浮かべてさえいないのに、それでも狡いくらい格好良かったからだ。
その男は少し距離を詰め、それから低く落ち着いた声で言った。
「フェロモンは無理に出すものじゃない」
「いいね。少なくても苦しそうな顔をしなくて済む」
そうPhatSaは呟いた。
その男はPhatSaに冷ややかな視線を送り、そのくだらない冗談に決して取り合おうとはしなかった。それから男は手を上げ、PhatSaの顎を軽く掬い上げる。二人の視線が真っ直ぐに交わるまで彼の顔を上へと向けた。
「力を抜けば出せる」
PhatSaは黙り込んだ。
その男の声はとても低かった。あまりにも低く、まるで耳元で話しているとはまったく感じらない。それはずっと深いところから響いてくるようだった。
「最初から上手くやろうとしなくていい。ただ力を抜いて。自分の存在を相手にどう感じてほしいかを想像してみて」
PhatSaはゆっくりと瞬きをして、その言葉を反芻する。
その男は、PhatSaから目を離さずにじっと見つめた。その黒い瞳は優しさも厳しさもなかったが、そこには簡単に目を逸らすことのできない何かがあった。
「あなたが誰なのかをどう相手に知ってほしいか。あなたの香りをどんなふうに覚えておいてほしいか。あなたの存在をどう感じ取ってほしいか」
一言一言が、ゆっくりと、重々しく、あまりにも鮮明に響いた。その瞬間、PhatSaは息をすることも忘れてしまった。そんな風に見つめられただけで、その男は自分の心の奥底まで誰よりも深く見透かしているような気がした。
「もしわからなかったらどうなるの?」
PhatSaは静かに尋ねた。
「自分のことすらどんな人間か分かっていなかったらどうする?」
その男は即答した。
「それなら体で答えを示せ」
再び部屋に沈黙が落ちた。
今度はPhatSaはすぐに言い返さなかった。ただ黙って男を見つめ、それから言われた通りにゆっくりと息を吐き出した。肩の緊張が少しずつ解れていき、シーツを握り締めていた指が徐々に緩む。
PhatSaはほんの一瞬だけ目を閉じた。まるで自分自身の声に——体の中を巡る血液の音、心臓の鼓動、そして次第に鮮明になっていく目覚めたばかりのあの奇妙な感覚に——耳を傾けているかのように。
PhatSaにはオメガであるということがどんな感覚なのか、まったく見当もつかなかった。
そのような人がフェロモンを出すために何をすべきなのかすら分かっていなかった。
しかし相手に自分をどう思ってほしいかについて本当に深く考えなければならなかったのだとしたら――彼はもう実は何か分かっていたのかもしれない。
NaKhunに自分がここにいることを教えたかった。
記憶に残りたいと思った。
自分を見てほしかった。
自分がNaKhunの香りを感じたのと同じようにNakhunにも自分の香りを感じてほしかった。
そしてその瞬間、PhatSaの中で何かが静かに目覚めた気がした。
それは激しく噴き出すことはなかった。
それは彼が恐れていたようには爆発しなかった。
それはまるで、長い干ばつの後に焼け付くように熱くなった大地に恵みの雨が降り注ぐかのように、内側からただ自然と湧き上がっていった。
最初は涼やかで瑞々しい香りがほんの微かに漂い、それから徐々に深みを増していき、ついにはPhatsaまでもが驚いて目を見張るほどになった。
PhatSaは生まれて初めて、自分の匂いを嗅いだ。
それはまさに雨のようだった。
嵐の後の湿気を含んだ重苦しさなどではなく、清々しく澄み渡り、一瞬で心をふわりと軽くしてくれるような、最初の汚れのない雨。それはベチバーと湿った苔、そして雨上がりの大地の緑の息吹の香りを漂わせていた。清涼感があるのに深みがある。冷涼でありながら、あまりの美しさに思わず近づきたくなるような香りだった。
PhatSaはそこに座ったまま、しばし我を忘れていた。
「へえ、これが……俺の匂い?」
彼の声はいつもより柔らかかった。
答えの代わりに受け取ったのは、NaKhunの瞳の色の変化だった。
その男はそこに座ったままでいたが、しかし彼は微かに奥歯を噛み締めていた。彼の呼吸は深くなり、そしてその黒い瞳は隠そうともせずにPhatsaを真っ直ぐに見つめていた。まるで、部屋に広がり始めた雨の匂いが、彼の冷静さを本気で打ち砕くほどの衝撃を与えたかのように。
PhatSaはその様子を見て、一瞬息を呑んだ。
その時、彼の心の中で何か、純粋な悪戯心がむくむくと頭をもたげた。
からかいたい衝動。
試してみたい衝動。
最初からすべてを思い通りに操っているように見えた男に、どうしてもやり返してやりたいという衝動。
そこでPhatsaは身を引く代わりに、自分の匂いをより意図的にゆっくりと漂わせた。
あまり多くは語らず。
しかし明確に。
挑発するには十分なわかりやすさで。
誘い込むには十分なほどに。
言葉にしなくても十分伝わるくらいに。
そんなに自信がもっと近づいて見せろと。
悪気はなかったのだろうが、それはタチの悪いの挑発だった。
なぜならPhatsaの放つ雨の香りが鼻腔を突き抜けた瞬間、目の前の男がごく一瞬だけ目を閉じたからだ。まるでその場で感情を爆発させないよう、ありったけの自制心をかき集める必要があったかのように。自分自身の葛藤と激しく闘っているようだった。そして彼が藻掻けば藻掻くほど、PhatSaはますます面白がって意地が悪くなった。
そこでPhatsaは見るからにわざとらしく、腹立たしいほど完璧な無邪気な表情を浮かべながら、少しだけ後ろに身を反らせた。
「ん?どうしたの?」
PhatSaは何も分かってない表情を装い、何気なく尋ねた。
その男はゆっくりと目を開けた。その瞳の色はより暗くなり、漆黒に塗り潰されていた。
「そんなことはするな」
PhatSaはわざとらしく無邪気なふりをして瞬きをした。
「なんて言ったの?」
「あなたはわかっているはずだ」
「本当にわかんないよ」
PhatSaにそのつもりがあったかどうかに関わらず、その答えはもはや彼に対するあからさまな挑戦だった。そして、Phatsaが依然として自分のフェロモンを引っ込めようとしなかったため、Nakhunの自制心は限界寸前まで追い詰められていた。
やめるように言われれば言われるほど、PhatSaはかえって反発しているように見えた。
そしてとうとうその男は自分のやり方を行使した。
NaKhunの体からウイスキーと煙の香りが再び広がる。しかし今回は以前のように優しくなどなかった。それは今や、より深く、重く、より豊かなものになっていた。灰の下のゆっくりとした炎が、あたりに燃え広がる前に熱を溜め込んでいるようで、PhatSaは思わず息を詰まらせた。
至近距離で二人の香りが完全に混ざり合った瞬間、何もかもが変わってしまった。
まるで二つの磁石がようやく引き寄せられるように。
PhatSaはぴくりとも動かなくなった。
それは目の前の男も同じだった。
二人は一言も発しなかった。
なぜならその時を境に、言葉などもはや不要なものになっていたからだ。
PhatSaの涼やかな雨の香りが、NaKhunの温かみのあるウイスキーと煙の香りに絡み合い、どこか危険な色香を漂わせていた。冷たさと熱さがほんの一瞬だけ交わり、やがて溶け合う。それは抗うことなど到底できないほど強烈で陶酔的な引力へと変わっていった。
PhatSaはゆっくりと彼の方へ近づいた。
NaKhunもそれに倣った。
ゆっくりと。
音もなく。
まるで二人ともこの状況の行き着く先を、お互いにとっくに分かっていたかのように。
二人の鼻先が最初に触れ合った。
二人の温かい吐息が、至近距離で混ざり合った。
まるで無言の合意があったかのように二人の目はほんの一瞬だけ微かに開かれ、やがて揃って静かに閉じられた。
そしてついに二人の唇が重なった。
最初のキスは、恐る恐る交わすような優しいものではなかった。
しかし感覚を失うほど荒くもなかった。
それは互いに理由もわからぬまま強く惹かれ合うような、深い飢えに満ちた口づけだった。なぜこれほどまでに互いの温もりを求めてしまうのか、頭では説明できずにいたが、彼らの身体は理性よりも遥かに深くその答えを知っているかのようだった。
男の引き結ばれた唇が、最初はそっとPhatSaに触れた。しかし、それはヒリヒリと熱のように焼けつくようで、PhatSaは思わず唇を開いてしまった。唇が赤く敏感になるまで、NaKhunが自分の下唇を吸うままにさせていた。まるで誰の許しをも必要としないかのように、何度も口づけが繰り返された。やがて熱はさらに高まり、男は深くPhatSaに口づけし、世界が揺らぐほどの感覚の中、彼を味わい尽くした。
PhatSaは、無自覚なままNaKhunの後頭部の髪を強く掴んでいた。口づけはさらに深まる。全身に熱いものが込み上げた。二人の息は乱れ、ほんの短い、驚きから始まったはずのキスは、どちらも終わらせたくないかのように深く長引いていった。二人の唇は募る飢えのままに何度も重なり、やがて彼の全身の神経が一斉に覚醒したかのように感じられた。
ただただ熱かった。
くらくらするほどに。
危うさを感じるほどに。
そして危険になればなるほど、そこから逃れられなくなった。
ようやく離れることができた頃には、PhatSaの呼吸は完全に乱れていた。顔が火照り、その瞳は想像をはるかに超える何かに心をかき乱されたばかりの人のように仄かに煌めいていた。
NaKhunの顔が鼻が触れ合いそうなほどまだ近くにあり、その黒い瞳は依然としてPhatSaを見つめ続けていた。
まるで二人は全く同じタイミングで悟ったかのようだった。どんなに必死に否定しようとしても、自分たちの間に起きたことは、もはや『なかったこと』にはできないほど、誤魔化しきれない現実だったのだと。
#3_END
