オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#4
2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。
今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。
KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)
https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25
KNOTドラマパイロット版(YouTube)
KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)
IV... Bonding
二人の唇が離れたばかりだというのに、彼らの吐息は近すぎる距離でまだ絡み合っていた。
PhatSaが男の体温の名残りを肌にまだはっきりと感じられるほどの近さ。彼らの鼻先は今にも触れ合いそうだった。目の前の男が纏う温もりのあるウイスキーと微かな煙の香りに、PhatSa自身の冷涼で雨上がりのような香りが混ざり合い頑なに離れまいとしていた。まるでほんの少し前の親密な時間を終わらせたくないと空気そのものが拒んでいるかのように。
Phatsaはしばらくの間荒い息をついていたが、やがて少しだけ顔を背けた。それはまるで、夢うつつから完全に覚めていないようだった。今起きたことが現実だったのか、まだ信じられないといった様子でPhatSaは手の甲を上げ、自分の唇に軽く触れた。しかし直に触れずとも、PhatSaはそこにある熱をまだ感じることができた。キスの余韻、唇が引き寄せられる感覚、そして胸の奥に留まり続ける震えるような甘さに、彼の鼓動はなかなか静まらなかった。
しばらく黙って座っていたが、やがてPhatSaはようやく口を開いた。彼の声は低かったが、おどけたようなお馴染みの響きは完全には消えていなかった。
「つまりこんなふうにフェロモンを出したら……近くにいる人はみんな寄ってきて、俺にキスしてくれるってこと?」
その質問はほんの束の間のごく一瞬だけ、これ以上ない自然さを装ってその場の空気に響いが、まさにその次の瞬間、目の前の男の眼差しが瞬時に変わった。
「誰にキスをするつもりだ?」
彼の声が一段と鋭くなった。強く響くような大声ではなかったものの、Phatsaが少しビクッと身体を強張らせるくらいには重みと鋭利さを含んでいた。
PhatSaは即座に顔を上げて男に視線を向ける。目の前にいる男が先ほどよりも険しい表情で眉間に皺を寄せ、僅かだが奥歯を噛み締めているのがはっきりと分かった。NaKhunはほとんど表情を崩していなかったが、あえて説明するまでもないほど彼の内側から強い独占欲がありありと窺えた。
PhatSaはぱちぱちと二度瞬きし、きょとんとした表情で小さく笑い声を漏らした。
「何でそんなに大声出すの?ただ気になっただけだよ」
その男は意図していた以上に声を荒げてしまっていたことに今ようやく気づいたかのように、さらにもう一拍置いて、彼をまじまじと見つめた。そしてゆっくりと息を吐き出し、まるで意識的にいつもの平静さを取り戻そうとするかのようにほんの少しだけ身体を引いた。
「フェロモンを嗅いでそれを好む相手なら可能性はある」
彼の声のトーンは今はより平穏になっていたものの、その響きに籠もる激しさは完全には失われてはいなかった。
「もしくはオメガがわざと誘惑するような香りを放てばアルファが近づいてくるかもしれないな」
PhatSaはその男に視線を向けたまま、黙って耳を傾けていた。男の言葉を聞いているだけでなく、先ほどの男の反応にも静かに思いを巡らせているかのようだった。なぜなら、PhatSaはアルファやオメガの世界についてまだほとんど理解していなかったものの、たった今目にした反応が単なる苛立ちから来るものなどではないことくらい十分に分かったからだ。
男はゆっくりと言葉を続けた。
「ただお互いの匂いを嗅いで抗えないほど夢中になりキスしたくなる段階に達したら……大抵の場合、それは運命の番だ」
PhatSaは微かに眉を顰めた。
「運命の相手?」
「運命の番だ」
そのたった一言がそっと放たれただけなのに、なぜか部屋全体が水を打ったように再び静まり返った。朝の光がベッドの端にまだ穏やかに広がっていた。二人の乱れた呼吸はまだ完全には元に戻っていない。さきほどの温もりがまるで少しも薄れていないかのように、まだ彼らの肌に纏わりついていた。
Phatsaはしばらく黙っていたが、自分でも気づかないうちにそれを知りたがってはいたものの、半信半疑でいるような口調で再び尋ねた。
「じゃあ、あなたはどうなの?」
男はPhatSaを見つめた。
「何だと?」
「あなたは抵抗できる?」
その質問は静まり返っていた部屋の空気を一変させた。
それは決して挑発するつもりで言葉にしたことではなく、少なくともわざとではなかった。しかし一度それを口にしてしまうと、まるで相手の目の前に火を放ち、そしてその中に足を踏み入れるよう促しているかのように聞こえてしまっていた。男の視線が僅かに止まり、口角がゆっくりと持ち上がった。それはとても笑みと呼べるものではなかったが。
「知りたいか?」
PhatSaが返事をしようとする間もなく、男は再びフェロモンを放った。
今回は何の前触れもなかった。
オーク樽に染み込んだウイスキーと煙の温かみのある香りがこれまでより力強く、そしてゆっくりと広がってゆく。彼を取り囲むように忍び寄る熱は生易しいものではなかった。それはもっと奥底にある熱のように感じられた。そしてその熱はPhatSaの皮膚の下に潜り込み、足首、膝、腰、胸、そして呼吸にまで絡みつき、少しずつPhatSaを蝕み、身構える暇すら与えないほどだった。
PhatSaは小さく身を震わせた。
やっと整いかけた呼吸が再び激しく乱れた。ベッドに置かれた彼の指先は、抵抗する力を失っていくようにゆっくりと緩む前にぐっと握り締められた。PhatSaの視線は抗うこともできずにその男の唇へと引き寄せられ、その香りがどんどん強くなるほど、彼の思考はますます曖昧になっていった。
「あなた…」
PhatSaの声はとても弱々しく、聞いていて胸が痛むほどだった。
男はただPhatSaを凝視していた。男はPhatSaを急かそうとはしなかった。抱き寄せようともせず、再び触れることすらしなかった。男はまるでPhatSaの答えが自ずと導き出されるまで待つことを選んだかのようだった。
PhatSaは突然、どうしようもない熱さを感じ、同時に奇妙なほど体がふわりと軽くなった。彼はその現実を認めたくなかった。どんな皮肉な言葉で誤魔化そうと心が望んでも、もはやそれを口にする気力すら残っていないほど無防備で正直な身体であることがたまらなく憎らしかった。
結局のところ、PhatSaは自分の意思で彼に近づいた。
ゆっくりと。
まるで何かに怯えるように。
まるで何かに惹きつけられるように。
まるでとっくに自分の心に白旗を揚げていたことにも気づかないままに。
PhatSaはすぐにその男にキスしなかった。ただ自分の鼻先が男の吐息に触れるくらいまで身を乗り出した。あんなにも悪戯っぽさと茶目っ気に満ちていた彼の瞳は、その男の香りにすっぽりと包み込まれるにつれて、少しずつ和らいでいった。そしてついにPhatSaの唇は目の前にいる男の下唇に優しく触れた。
それはほんの少し触れただけだった。
ごく僅かな触れ合いだった。
それでもすべての疑問に答えるには十分だった。
PhatSaの目の前にいる男は、『わかったか?』と言うような態度は見せなかった。彼は微笑むことも、PhatSaを揶揄うこともしなかった。彼はただその危険なほど近い距離からPhatSaを見つめていた。一方のPhatSa自身は、自分が何をしてしまったのかということにようやく気づき始めたところだった。
PhatSaはほんの少し後退ったが、その僅かな距離ではその男の視線から逃れるには到底足りていなかった。
二人の唇はPhatsaが思っていたよりもずっと長く重なっていた。
最初はただの軽い触れ合いから始まったことだった。言葉にならない問いに答えるかのように触れただけだったものが、気づかぬうちに自然と驚くほど深いものへと変わっていった。
二人とも急がなかった。無理に進めようとはしかなった。それにもかかわらず、PhatSaの涼やかで瑞々しい雨の香りが、目の前にいる男の温かいウイスキーと微かな煙の香りと混ざり合えば混ざり合うほど、PhatSaの心の奥底にあるすべてのものが、理性の届かないもっと深いどこかへと沈み込んでいくようだった。
Phatsaは自分の手がいつ動いたのか、いつ男の肩をより強く掴んでいたのかすら、まったく自覚していなかった。その途端、目の前にいる男も同じように応えた。そうすることが必然とでもいうように男がPhatSaの口元へとゆっくりと動く。男の唇から伝わった熱は、まるで皮膚の下で小さな蝋燭の火が一本ずつ灯るように全身へと広がり、やがてPhatSaの心臓は制御できないほど激しい鼓動を刻み始めた。
部屋の中は静まり返っていた。
二人の呼吸が乱れ、荒くなり始めるのが聞こえるほど静かだった。
PhatSaがその男の唇の温かさを感じ取れるほど静かだった。
胸の内の震えが耳を劈くほど静かだった。
PhatSaは止まるべきだった。
身を引くべきだった。
もっとずっと前に我に返っているべきだった。
しかし問題だったのは、PhatSaはほんの少しもやめたいと思わなかったことだ。
それどころかキスが深くなるにつれ、PhatSaは何か危険なもの――危険でありながらも、あまりにも甘く、陶酔させられ、抗えないほど魅惑的で、逃れることなどできない何か――に沈み込んでいくような感覚を覚えた。自分自身ですら気づかないうちに、PhatSaは男のために唇をさらに小さく開き、口づけが少しずつ、より深く、より激しくなるのを許していた。そしてついには、その熱さがPhatSaの理性のほとんどを完全に奪い去ってしまうところだった。
そして次の瞬間、ふいに寝室のドアがバタンと開いた。
ドアが壁に当たる音はほんの微かなものだったが、張り詰めた空気を瞬時に一変させるには十分だった。
NaKhunは本能に突き動かされるように、考えるよりも先に手を伸ばした。
彼は素早くPhatsaを掴み、瞬く間にその長身を前に移動させ、完全にPhatSaの盾となった。片腕を回してPhatSaをしっかりと背後に囲い込む。人の目からPhatSaの姿を覆い隠し、視線が注がれる隙間を与えないようピタリと身体を寄せた。彼の鋭い眼光が侵入者へと突き刺さり、その視線から放たれる凄まじい無言の圧力に部屋の空気が凍りついた。
PhatSaは身動ぎひとつできなかった。
ついさっきまでPhatSaはこの男の腕の中で、お互い我を忘れるほど激しくキスを交わしていたのだ。しかし一瞬の内に、目の前の男はまるで鞘から音もなく抜かれた刀身のように、目にも留まらぬ早さで熱を帯びた状態から凍えるような冷たさへと変わっていた。
ドアを開けたのは他でもないNakhinだった。
彼はそこに微動だにせず立ち尽くしていた。その顔には普段はまず見せない、あるいは決して浮かべることのないような表情を浮かべていた。
衝撃。
困惑。
そしてそれは、目の前の光景を必死に理解しようとしているような表情だった。
その日の朝、彼がしようとしていたのは、ただ兄に朝食のために階下に下りてきてもらうことだけだった。ドアを開けた時、NaKhinは一瞬たりとも想像すらしなかった。いつも冷静で落ち着いている兄がベッドの上でシャツも着ずに、まるで世界中の誰も触れることを許さないかのように途方もなくハンサムな少年を背に庇って座っているなんて。
そしてさらに最悪だったのは、NaKhunの目に浮かんだ表情だ。
それは強い独占欲を露わにした眼差しだった。
常軌を逸した独占欲。
そのあまりの剣幕は激しく、そこに立っているのが実の弟であるにもかかわらず、その視線に込められた警告は微塵も手加減することもなく容赦なく浴びせられた。
NaKhinは数度瞬きし、それからすぐに降参するかのようにゆっくりと両手を揚げた。
「落ち着いてよ、兄さん」
彼の声は少し早口になり、先ほど受けた衝撃の中にあってもすでに楽しげな響きが滲み出ていた。目の前に広がっていたのは、ただただ信じられないような光景だった。NaKhinでさえそれが現実だと受け止めるまでにしばらく時間がかかった。
NaKhunはまだ完全に息が整っていなかったが、その瞳には依然として冷酷で厳しい光を宿したまましばらく弟を見つめ続け、それから低く落ち着いた声を発した。
「出て行け」
NaKhinは眉を上げた。
「わーお、ただ朝食に誘おうと思って声をかけただけなのに…」
冗談めかして言っていたが、その視線は兄の肩越しへと彷徨う。そこで目にしたもののせいで、真顔を保つのはさらに難しくなった。その少年はまだNaKhunの背後にいた。明るい色の髪は寝起きのせいか少し乱れ、唇は赤く火照っているようだった。彼はいかにも正気を失ったような、とても一度には受け止めきれない出来事に巻き込まれ、そこからやっと抜け出してきたばかりの者のような、呆然とした表情を浮かべていた。
NaKhinは3秒も耐えられず、笑い声を漏らしてしまった。
「でも兄さんにはどうやら…大事な用があるみたいだな」
彼は"大事な用"という言葉を、明白な意図を込めて一言一言ゆっくりと発した。
NaKhunの視線の温度がさらに下がった。
「NaKhin」
ただ名前を呼ぶ。それだけで十分だった。
NaKhinはニヤニヤと笑みを浮かべたまま、両手を上げた。
「わかった、わかった。もう行くって」
彼はゆっくりとドアの方へ向かいながらも、肩越しに最後の一言を揶揄うように投げずにはいられなかった。
「兄さんもなかなかやるね」
NaKhunはドアに向かって真っ直ぐに枕を投げつけた。NaKhinはギリギリのタイミングでドアを閉めたため、枕は彼の顔ではなくドアの木製部分に当たって終わった。
ドアを閉める音が消えた瞬間、部屋の中の空気が再び変化した。さっきまでまだ燻っていた熱は、今やひどく気まずい空気に侵食されていた。それはまるで美しく燃え盛る炎に突然冷水を浴びせられたようだった。立ち上った水蒸気と温もりだけが残り、二人の間にはどうしていいか分からない沈黙だけが訪れた。
ゆっくりとPhatSaがNaKhunの背後から姿を現した。
すべてがあまりにも目まぐるしく起きたため、自分がどれほど間近で守られ、どれほど強く引き寄せられ、どれほど完全に覆い隠されていたか、ということをようやく実感できたのは今この瞬間だった。二人の間に僅かの隙間もあってはならないかのように男の息遣いがPhatSaを包み込んでいるように感じられた。
そしてそのことに気づいたPhatSaは、すぐにそこから身を引いた。
PhatSaは散らばった意識をなんとか掻き集めようとしているかのように首筋にそっと手を当てた。そして視線を逸らし、固い決意を伝えるように言った。
「もう帰らなきゃ…」
その瞬間、NaKhunはすぐにPhatSaの方を振り向いた。
「帰るべきではない」
PhatSaはたちまち眉を顰めた。
「なんで帰っちゃダメなの?」
「私たちは番になったばかりだからだ」
NaKhunの声は再び平静を取り戻していた。彼の口調は、最初から分かりきっていたはずの事実を語るかのような、揺るぎない確信に満ちていた。
「番になったばかりのアルファとオメガは離れ離れになるべきではない」
PhatSaはしばらく彼を見つめた後、小さく笑い声を漏らした。それは彼の言うことなど微塵も信じていないことがはっきりと分かるような笑い方だった。
「ちょっと大袈裟じゃない?」
「大袈裟ではない」
「家に帰る。何が問題でもある?」
「影響が出る」
「大丈夫だよ」
PhatSaは即座に言い返した。彼はなんとかして自分の知っているいつもの世界に立ち戻ろうとしていた。そして次第に我に返るにつれ、彼の頑固さも完全にぶり返した。
「これまで何不自由なく生きてきたんだ。もう帰る。別に死ぬわけじゃあるまいし」
NaKhunは黙って彼を見つめたが、今や苛立ちがよりはっきりと露わになり始めた。NaKhunはすでにこの世界の論理を使って説明しているにも関わらず、目の前の彼は自分の信じて疑わない世間の常識を振りかざして反論し続け、その説明をまったく信じようとしなかった。
「頑固者だな」
PhatSaはすぐに片眉を上げた。
「俺は頑固者じゃない」
「まともな人間は自分が頑固だとは決して認めないものだ」
「それじゃあ、あなたに言わせればまともな人間ってのは見境なく他人の首に噛みついて回るような奴ってこと?」
NaKhunは一瞬、沈黙した。
彼にはこんなにも容赦なく反発し、相手の言葉に間髪入れず言い返すような人物にはこれまで出会ったことがなかった。もしPhatSaが自分の息子、あるいは年下の親戚の一人であったなら、彼が快適に座れなくなるまで尻を叩いていたことだろう。
束の間、NaKhunはわかってもらうまで説明を続けるべきか、それとも堪忍袋の緒を切ってしまうべきか思案した。
結局、彼は後者を選んだ。
言い争うことに心底うんざりしている様子で彼はゆっくりと息を吐き出した。
「帰りたいなら帰ればいい」
彼の声の抑揚のなさに、PhatSaはほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。
しかし、その男が明らかに苛立ちを露わにして言ってきたせいで、Phatsaもすぐに同じエネルギーをそのまま投げ返した。
「ああ、もう絶対帰る」
PhatSaは顎を上げ、男を真っ直ぐに見据えた。
「まともな人間ならこんな変わった奴と一緒にいるわけないだろ」
その言葉が部屋に落ち、重い空気が立ち込める。
NaKhunは口を開かなかった。
PhatSaもそうした。
二人の間に息苦しいほどの沈黙が満ちた。ほんの少し前まで、お互いに呼吸を忘れるほど激しくキスを交わしていたというのに。しかし今や、彼らの心はすれ違い、決定的に分断されていた。一方は何を考えているか全く読み取れないほど静まり返り、もう一方は激しく反発していた。もっとも、後者の心臓の鼓動は依然として正常なリズムを取り戻せずにいたのだが。
結局、二人は険悪でどんよりとした気分のまま別れた。
別れの言葉もなく、これ以上の弁明も一切なく、かと言ってお互いに折れるつもりもなかった。
それなのに背中を向けてもなお、雨の香りとウイスキーと煙の香りが、すでに起こってしまった出来事の痕跡のように、そして決して簡単には消し去ることができないもののように、互いに色濃く纏わりついていた。
寝室のドアは閉まっていたが、その後に続いた静寂はありふれた静けさとはどこか違っていた。
空気中に、ベッドの上に、そしてNaKhunの微かな息遣いの中に、何かの気配がまだ漂っていた。まるでPhatsaが残した雨の香りの微かな痕跡が、彼が完全に立ち去った後でさえ消え去るのを拒んでいるかのようだった。
NaKhunは以前と同じ状態でベッドの傍らに立っていた。シャツは着ておらず、眠りとその後に起きたすべてのことによって髪はまだ少し乱れている。彼の黒い瞳は閉ざされた扉に注がれたままだった。彼の表情から読み取れるものはほとんどなかったが、顎や肩を強張らせていることだけは一目瞭然だった。
それは彼の朝の時間が邪魔されたからではなかった。
NaKhinがドアを開けるタイミングを間違えたからでもない。
Phatsaが怒ったような様子で出て行ってしまったからだ。
頑固者で。
聞く耳を持たず。
すぐに言い争う。
それにもかかわらず、何食わぬ顔で振る舞い続ける。
事態はすでに手遅れと言えるほど進みすぎていたにもかかわらず。
Nakhunはしばしそのまま突っ立っていたが、やがて身を屈めてシャツを拾い上げ黙って袖を通した。まるできちんと身だしなみを整える余裕すらないかのように、上2つのボタンは外したままだった。彼がちょうどベッドサイドのテーブルに置いていたスマホに手を伸ばした時、ドアが再び少し開いた。
NaKhinはまず用心深く顔を覗かせた。タイミングを誤れば、相手の鋭い一瞥だけで生きたまま皮を剥がれかねないことを承知している者のように用心深かった。しかし、兄がもはや殺気立っていないと分かると、NaKhinは完全に部屋の中へと足を踏み入れた。
NaKhinの手にはオレンジが握られていた。
彼が本気で兄を朝食に誘うつもりで来たのであって、単に厄介事を起こしに来たのではないことは明らかだった。
NaKhinは後ろ手に静かにドアを閉めると、丸々2秒間じっと兄の様子を窺ってから、いつもの単刀直入な口調で尋ねた。
「あの子は誰だったの?」
NaKhunはすぐには答えなかった。彼はただ手元のスマホに視線を落とし、無言で指を動かしている。彼の表情は平静さを保ったままだったが、それは張り詰めたような静けさであり、生まれてからずっと彼を知るNaKhinには兄が実はかなり気を張っていることが十分に分かった。ただ、本人がそれを表に出そうとしなかっただけなのだ。
NaKhinは少し近づき、好奇心を滲ませながらも先ほどより声を潜めて言った。
「知らない人間を家に連れ込むものではないんじゃない」
彼は言葉を途切れさせ、手の中でオレンジを手持ち無沙汰に転がした。
「もし誰かをどこかへ連れて行くつもりなら、普通は別の場所へ連れて行くものだよ」
最後の言葉は冗談めかしていたが、NaKhinの瞳は真剣そのものだった。なぜなら彼が目撃したものは決してありふれた出来事などではなかったからだ。NaKhunが引きずるように背後に回し、ほとんどその姿を隠していた少年は、どこからどう見てもただの通りすがりの者には到底見えなかった……。
NaKhunは眉を上げた。
「彼は…私にとって特別な人らしいが」
その時になって初めてNaKhunはようやく視線を上げた。その黒く鋭い瞳をしばらく一点に向けたまま動かさない。それから彼は淡々と答えた。
「彼が本当に特別なのかどうか分からない」
彼は一呼吸置いた。
「しかし私は彼を噛んだ」
NaKhinは手に持っていたオレンジを落とした。
ボトッと音が響く。
それはフローリングの床に強く打ち付けられ、僅かに転がって止まった。しかしNaKhinはそれに見向きもしなかった。彼は凍りついたように立ち尽くし、目を見開いた。いつものふざけた笑みは一瞬にして消え失せ、そこにはただ衝撃だけが残っていた。
「……何だって?」
NaKhinは自分が耳にした言葉が正しく聞き取れたのか、もはや完全に確信が持てないかのようにゆっくりと言った。
NaKhunは弟を見つめ、先ほどと同じ口調で繰り返した。
「私は彼を噛んだ」
NaKhinはもう1秒ほど硬直した後、それまでの洗練された物腰をすべて捨て去り、思わず悪態を吐いた。
「なんてこった」
そして部屋は水を打ったように静まり返った…。
NaKhinは混乱した頭をなんとか正常な状態に戻そうとするように顔を乱暴に擦った。彼の視線はじっと兄に向けられた。その衝撃はまだ薄れていなかった。事態はただより深刻で、より厄介なものへと変わってしまっていた。なぜならNaKhinは、これがもはや軽い混乱で済む問題ではないと悟っていたからだ。
これはただの言い争いなどではなかった。
ちょっとしたスキャンダルでもない。
兄が連れて帰ってきたのはただの少年ではなかった。
番となる噛み痕……。
一度でもそれをしたら、二人の人生が二度と以前と同じものではなくなるということ。
NaKhinはさらにもう一歩踏み込み、先ほどとは打って変わって真剣な表情を浮かべた。
「これからどうするつもりなんだ?」
NaKhunはしばらくの間、黙り込んでいた。
それは答えのない問いではなかった。
しかし答えが多すぎてどれも単純には解決し得ない問題だった。
結局、NaKhunは赤裸々なまでに正直に答えた。
「わからない」
NaKhinは彼をじっと見つめた。
兄からそんな言葉を聞くなんて、NaKhinにとって滅多にないことだった。NaKhunは大抵、次に何が起きるか常に把握しているような人物だった。どれほど事態が混迷を極めようと、誰よりも早く事態の先を見通して行動するのがNaKhunであった。しかし今回は違った。
NaKhunの言葉によって、事態がどれほど深刻であるかがより一層浮き彫りになった。
NaKhinは一度生唾を飲み込み、それからさらに問を重ねた。
「それで…彼と結婚するつもりなの?」
その質問にNaKhunはほんの一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに低い笑い声を漏らした。楽しさを感じさせるような笑い声ではなかった。ただでさえ理不尽だったこの状況に、さらに理不尽さを感じさせる質問を突きつけられたような響きを持っていた。
「一体どうやってそれを実現しようというんだ?」
彼は平坦な口調で答えた。
「私は彼の名前すら知らない」
NaKhinは再び押し黙った。
そこには議論の余地すらなかった。
それはありのままの事実だったからだ。
事態はすでにこれほどまでに深刻になっていた。
兄はその少年を噛んでしまった。
それにも関わらず、NaKhunはまだ少年の名前すら知らないというのだ。
部屋は再び静寂に包まれ、やがてそれを打ち消すようにスマートフォンをタップする音が微かに聞こえ始めた。
NaKhunは再び視線を画面に落とし、その指は素早く、かつ正確に動いていた。自分が何をしているのか口にしなかったが、NaKhinには十分に察していた。彼は密かにボディガードに指示を出しているのだろう。おそらくその少年を追跡させるか、身元を特定するよう動けと。
NaKhunの表情からはほとんど何も読み取れなかった。
彼の様子は落ち着いたままだった。
しかしNaKhinは、すべての緊張が単に水面下に抑え込まれているだけだと明確に悟っていた。
あまりにも静かすぎる。
あまりにも平穏すぎる。
そしてそれは、NaKhunが実際に表に出している以上に、このことが彼に深刻な影響を与えていたということに他ならなかった。
NaKhinは無意識に身を屈めて床からオレンジを拾い上げる。まるでその存在を今になって思い出したかのように、そのままそれを手に持った。彼はしばらく兄の様子を眺めてから、テーブルの端に腰掛けた。
「これから大変なことになりそうだな」
呟いた言葉は特に返答を求めてはいなかった。単なる事実を口に出しただけだった。
NaKhunの指が、ふと止まった。
それから彼はスマホの画面を暗くし、Phatsaがほんの少し前に通り過ぎたドアの方へと視線を向けた。
彼はじっと見つめている。
しかし、あたりが静まれば静まるほど、NaKhinはこのような状況はどれも単純には終わらないだろうという確信をますます強くした。
兄が誰かを噛んだからというだけではない。
しかし、その"誰か"がすでに、かつて誰も成しえなかったような形でNakhunの心を揺さぶることに成功していたからこそ……。
そして、もしそれが本当なら――
ここから先は、すべてが今までとは比べ物にならないほど複雑になっていく運命にあるのだった。
Phatsaはどう考えても、気分が良いとは言えない状態で帰宅した。
PhatSaは背後でドアを閉めるやいなや、しばらくドアに背中を預けたまま立ち尽くしていた。まるで全身がようやく馴れ親しんだ場所に辿り着いたことを実感したかのように。
自分の家の匂い、ほのかな木の香り、カーテンやソファに残る柔らかな陽だまりの温もり――これらは本来、彼を癒やしてくれるはずのものだった。それにも関わらず奇妙なことに、その日の朝になってもPhatSaはあの男の寝室から少しも抜け出せていないような気がしていた。
ウイスキーと煙の温もりのある香りが、最も腹立たしい形でまだ彼の五感の片隅に纏わりついていた。
それは彼の頭から離れなかった。
それは彼の服にこびりついていた。
それは彼自身の息にさえ染み付いていた。
PhatSaはぶつぶつと悪態を吐き、それから疲れ切ったようにソファに身を投げ出した。彼の淡い色の髪は乱れ、衣服の乱れも直さぬまま。息をつく暇さえ与えられず、とんでもない騒動をかいくぐってきたばかりの人のようなまさにそんな有り様だった。彼は顔を手で強くゴシゴシと拭ってから、クッションに頭を預けて目を閉じた。
シャワーを浴びに行くべきだったのに。
あの男の匂いを洗い流すべきだったのに。
あの瞬間について考えるのをやめるべきだった。
あの時彼はほとんど……いや、ほとんどじゃない。
PhatSaはあの男とキスをした。
本当にしたんだ。
その記憶が頭を過ぎった瞬間、Phatsaは再びイライラとした溜め息を吐いた。
「クソッ…」
PhatSaはそのドアベルが鳴るまで、起き上がることすらできなかった。
PhatSaはたちまち眉根を寄せた。
彼は立ち上がると、とても人に会えるような状態ではないといった様子でドアを開けに行った。しかしドアを開けて、そこにOngsaが立っているのを見つけると彼は一瞬動きを止めた。
OngSaは軽やかなカジュアルシャツを着て玄関に立っていた。相変わらず清潔感があり、無理のない自然体なかっこよさだった。片手には何か小さな袋が握られている。彼は用事があって来たというより、ただふらっと立ち寄っただけのように見えた。しかし、Phatsaの状態をまじまじと見た途端、彼のリラックスした表情が一瞬にして消え失せた。朝一番から明らかに憔悴しきった様子の後輩を前にして、兄貴分にしか出せないような呆れと心配がないまぜになった表情へと変わっていった。
「何かあったの?」
PhatSaは瞬きをした。
OngSaは悪びれもせずに彼の全身を上から下まで見回した。
「髪、全然梳かしてないじゃない。シャツはしわくちゃだし。まだ寝起きみたいな感じだし。まさかまだシャワー浴びてないなんて言わないよね?」
OngSaはそっとため息をついた。
「PhatSa、もう大人になったんだから。こんな姿で帰ってくるほど遅くまで遊び歩くべきじゃないよ」
PhatSaはすぐに顰め面を晒して、OngSaを中に入れるために脇へ退いた。
「夜遊びしてたわけじゃないって」
「じゃあ、何してたの?」
その質問を聞いて、PhatSaは再びソファにドサッと倒れ込み、どこから説明していいのかわからいといった途方に暮れたような表情を浮かべた。
「面倒なことに巻き込まれた…」
OngSaは背後でドアを閉めると部屋の中へ足を踏み入れたが、その曖昧な答えには明らかに納得していなかった。しかし、彼がさらに詳しく問い詰めようとする前に、Phatsaは何かを思い出したようだった。
彼は突然身を乗り出し、テーブルに置きっ放しにされていた封筒を掴むと、すぐにそれをOngsaに差し出した。
「ああ、そうだ。これ。病院の検査結果」
OngSaが一瞬動きを止めた。
「検査結果?」
「そう」
PhatSaは淡々と答えた。
「俺の第二性の結果」
OngSaは咄嗟にその封筒を受け取ったが、彼の瞳に浮かんだ驚きがみるみるうちに色濃くなる。彼はなぜそもそも急に検査を受けに行ったのか尋ねようと、一瞬Phatsaの方を見た。しかし最終的には、彼はまず封筒を開けることにした。
OngSaは手の中で素早く結果の紙を広げた。
PhatSaはソファに座りながら黙ってOngSaを見つめていたが、特に心配しているようには見えなかった。どちらかといえば、彼は自分の人生に思い悩むエネルギーすらとっくに失ってしまった人のように見えた。
しかし、OngSaにとっては話は別だった。
検査結果の最も重要な一文にOngSaの目が留まった瞬間、彼の表情は一変した。彼の目があまりにも鋭く見開かれたため、背もたれに寄りかかったままだったPhatSaでさえ、軽く姿勢を正さざるを得なかった。
「どうしたの?」
OngSaはゆっくりとPhatSaの方へと視線を上げた。その表情は信じられないものでも見たような目をし、ほとんど現実を受け止めきれずにいる者のようだった。
「PhatSa…」
その声音にPhatSaはみるみる内に眉間に皺を寄せた。
「どうだったの?何?それってまずい感じ?」
OngSaはまるで読み間違えていないか確かめるように、もう一度手元の書類に視線を落としてからとてもゆっくりと答えた。
「君はピュアオメガだ」
一瞬、沈黙が流れた。
PhatSaはぱちくりと目を瞬かせた。
「それで?」
今度はOngSaが鋭く顔を上げ、驚きと心底信じられないといった様子を見せた。
「それでって?」
「うん、そう。それって何かおかしいの?」
PhatSaは顔を顰めながら尋ねた。
OngSaはただじっと彼を見つめた。
それの何がおかしかったか。
すべてだ。
この世界でピュアオメガは非常に希少であり、もはや伝説と言っても過言ではなかった。百万人に一人現れるかどうかの存在。彼らはアルファと似たような性質を非常に多く備えており、ほとんどの人は一目見ただけではその違いを見分けられない。それは力強く、威厳があり、人を惹きつけるものがあり、オメガという通常のイメージを完全に覆す何かを彼らは内に秘めているのである。一般的なオメガは通常、美しく繊細で、身体的により弱く、さらに脆かった。特に出産時や発情期に耐える時などは、容易に生命に関わる事態になり得ることもしばしば見受けられた。
しかし、OngSaの前に座っているPhatsaは――
ハンサムであり。
体格も良く。
頭も切れる。
そしてスポーツ万能だ。
口が悪く、生意気で、とてつもなく頑固で、あらゆる面でオメガというより遥かにアルファらしい顔を持つ。
Ongsaは答える前にゆっくりと息を吸い込み、声が震えないように最善を尽くした。
「これは本当に稀なことだよ、PhatSa」
PhatSaはさらに困惑した様子を見せた。
「でも俺は俺のままだよね?」
OngSaは言葉を慎重に選んだ。
「そうだね、でも…君は本当に百万人に一人の存在なのかもしれない」
Phatsaはしばらく彼を見つめていたが、それから小さく乾いた笑い声を漏らした。
「宝くじに当たったみたいじゃん」
「冗談言わないで」
Ongsaの口調が突然鋭くなったために、Phatsaは思わず言葉に詰まった。
OngSaはその数枚の紙が突然本来よりもずっと重くなってしまったかのように、大袈裟なほど慎重に書類をテーブルに置いた。
「これからは気をつけて生活する必要があるよ」
彼はPhatsaの目をまっすぐに見つめ、わざと一言一言ゆっくりと話した。
「細心の注意を払わなきゃいけない。そして絶対にアルファに噛まれてはいけない」
その最後の言葉にPhatSaは凍りついたように動けなくなった。
ほんの一瞬だけ。
しかし、OngSaはそれに気づいた。
彼はPhatSaの目にほんの僅かな躊躇いを見逃さなかった。指先の微かな不自然な震えに目を留めると、彼の中の本能がすぐさま鋭く研ぎ澄まされた。彼の視線はPhatSaの全身をさっと鋭く一瞥したまさにその瞬間、PhatSaが不快感から首を動かした拍子に片方の襟がちょうどずり落ちた。
それを明らかにするには十分だった。
OngSaは血の気が引く思いだった。
彼は微動だにしなくなった。
PhatSaの首筋の噛み跡は、まだはっきりと残っている。
それは前夜ほど赤くはなかったが、それでも見間違えようのないものだった。
その瞬間、OngSaは全身の血が凍りつくような思いがした。彼は素早く詰め寄り、いつもの冷静さをすっかり失ったような声で尋ねた。
「誰に噛まれたんだ?」
PhatSaは逡巡し、そしてか細い声で答えた。
「…わかんない」
OngSaは彼を凝視した。
「わからないって、それどういうこと?」
「本当にわからないんだ」
OngSaは聞き間違いかではないかと思ってるような表情でPhatSaを見つめた。
「噛まれたのに、誰に噛まれたか分からないっていうのか?」
OngSaに問い詰められ、PhatSaはたちまち苛立ち始める。
「今すぐ彼のところに戻るべきだ」
PhatSaは即座に顔を顰めた。
「何だって?」
「今すぐそのアルファの元に戻りなさい」
「俺は行かない」
OngSaはPhatSaの両肩を掴み、激しく揺さぶりたい衝動に駆られているようだった。
「PhatSa、まずは僕の話を聞いて」
今やOngSaの声色は完全に変わってしまっていた。張り詰めて、切迫し、PhatSaが彼から聞くことなど滅多にないような種類の恐怖を帯びていた。
「番ったばかりのアルファとオメガが離れすぎると本当に危険だ」
Phatsaはまだ腑に落ちない様子だったが、Ongsaは彼に口を挟む隙を与えずに話を続けた。
「絆熱を引き起こす可能性がある」
「絆熱って?」
OngSaは間髪入れずに答えた。
「絆熱っていうのは絆が結ばれた後に生じる状態だ。早すぎる段階で離れ離れになると体に不調が現れ始める」
Phatsaは、Ongsaが冗談を言っているのではないと気づくとさらに黙り込んだ。
Ongsaは唾を飲み込んでから、まだ少し震えを残した声で話を続けた。
「最初は節々の痛みや悪寒から始まり、常に自分の体調がおかしいと感じるようになる。火照ったり寒気がしたりして、まるで熱があるように感じるけど、普通の発熱とは違う。そしてその後は何もかもが満たされないような感覚になるんだ。まるで自分の体から何か大事なものがぽっかりと抜け落ちているみたいにね」
PhatSaはゆっくりと瞬きをした。
家に帰ってきてからずっと皮膚の下に潜む奇妙な感覚のせいで、彼は以前のように間髪入れずに口を挟むことに怖じ気付くようになっていた。
OngSaは続けた。
「場合によってはアルファが発情期に入ることもあるし、オメガが発情期に入ることもある。そしてもし事態が悪化すれば…」
彼は最後の一文を発する前にほんの一瞬だけ言い淀む。そして部屋全体がひんやりと寒くなったと感じられるほど、静かに、しかし十分にハッキリと言葉にした。
「死ぬ可能性もある」
彼らの周囲は重苦しい静寂に包まれていた。
PhatSaは一言も発することもできずに微動だにしなかった。
もしこれが昨日のことだったら、PhatSaはこのことを笑い飛ばしていたかもしれない。しかし問題は、彼自身の体が今日に限っていつも通りではないということだった。帰宅してからずっと、奇妙な感覚が皮膚の下を蠢いていた。不規則に熱が襲ってきたり引いたりした。忙しない心臓の鼓動。胸の奥に広がる空虚で落ち着かない感覚。それはまるで、自分の胸のなかに何か大切なものが欠けているかのような感覚だった。その今の状態すべてが、想像以上にOngsaの言葉をずっと現実味のあるものにしていた。
それでも、やはりPhatsaはPhatSaだった。
いかにも不満そうに眉を寄せて、即座に言ってのけた。
「強面のマフィアみたいな男の元に戻れって言うの?」
OngSaはぱちくりと瞬きをした。
「マフィア?」
PhatSaはイライラとした様子で手を振った。
「そんな感じの奴。あいつは近寄りがたそうな空気を出してて、人に指図するのが好きで、手当たり次第に人の首を噛むのが好きで、そして自分だけが全部わかってるような口を利くんだ」
「PhatSa」
「俺は行かない」
今度は、PhatSaからさらにきっぱりとした答えが返ってきた。
「絶対に無理。あんな奴のところには二度と戻らない」
OngSaは凍りついたように動かなかった。検査結果がテーブルの上に置かれている。噛み跡はまだPhatsaの首に残っていた。そして、彼が誰よりも大切に思っていたその年下の後輩は、絶対にそんなことをすべきではない状況にも関わらず、真正面から対立するように頑なな態度を取り続けていた。
OngSaは本当に泣きたい気分だった。
それは彼が弱かったからではない。
この頑固な愚か者にどう説明すれば分かってもらえるのか、彼にはさっぱり見当もつかなかったからだ。
彼はゆっくりと瞼を閉じ、まるで必死に自分を保とうとしているかのように、長く息を吐き出した。
「PhatSa…」
彼はまるで懇願するかのごとく、声を和らげた。
「今回くらいは……どうか意地を張るのはやめてくれないか?」
PhatSaは彼のその声を聞いて一瞬動きを止めた。
それ以外のことを頼まれたのなら、OngSaのあんなに困った顔を見ただけでPhatSaは態度を軟化させていたはずだ。しかし、今回は違った。あの鋭い瞳の、威圧的な男のところへまた戻らなければならないと考えるだけで、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき乱されるようだった。苛立ち。恥ずかしさ。フラストレーション。そしてその奥底で、自分でも名前のつけられないような奇妙な感情が、絶え間なくざわめきながら渦巻いていた。
そしてその感情に説明をつけられなかったからこそ、PhatSaはますます戻りたくなかった。
PhatSaはぐっと唇を噛みしめ、それから小さくだがきっぱりと首を横に振った。
「何があっても絶対に戻らない」
まるでその一言が、この最悪な朝の重圧にとどめを刺す最後の一撃であるかのように、OngSaは再びゆっくりと目を閉じた。彼はもはや怒っていなかった。彼は今、PhatSaを叱る気さえ起こらなかった。残っていたのは、このどうしようもなく頑固な少年が何を言おうとやはり聞く耳を持たないだろうことへの途方もない疲労感だけだった。
「PhatSa…」
「行かないって言ったら絶対に行かない」
PhatSaの声は少し小さくなっていたが、なぜか先ほどよりもさらに強い決意が感じられた。
「本気で言ってるんだ。あんな奴のところには絶対に戻らないよ」
OngSaは長い間、黙って彼を見つめた。家の中は静まり返り、時計の秒針が動く音さえも妙に大きく広がっていくように響いている。彼にはこの先どうなるのか、全く皆目見当もつかなくなっていた。ただ本来なら簡単なはずだったことが、自分が関わりたくない方向へゆっくりと道を踏み外していることだけはわかった。
OngSaは思わず神に祈りたくなった。
しかしあいにくと彼は仏教徒だったが。
結局のところOngsaは、しばらくは弟の頑固さに降参したかのように、長く疲れ果てた溜め息を吐くことしかできなかった。彼はPhatSaから視線を逸らさず、依然としてじっと見つめていた。まるでPhatSaのその珍しい特徴をすべて記憶に刻み込もうとしているかのように。
もしPhatsaがそのアルファのところへ戻ることを拒み続けるのならば、Ongsaにできることは片時も目を離さず彼を見守ることだけだった。
いつ症状が出始めるか注意深く観察しておこう。
この意地っ張りな態度が事態をどこまで悪化させるか、とくと見せてもらおう。
そして仏教徒として静かに祈るのだ。せめてこれ以上事態が悪化しないようにと──
#4_END
