オメガバースタイBLドラマ"KNOT"小説版日本語訳#5.5

2026年6月30日公開予定のタイBLドラマ"KNOT"(オメガバースもの)小説版の日本語訳です。素人翻訳ですので細かい表現などはご容赦ください。



今後週に1話程度のペースでストーリーが公開になるようです。



KNOT小説版はこちらから↓(タイ語ver.と英語ver.あり)

https://www.readawrite.com/a/d389afb1880fbbbe8055665f728c6a25



KNOTドラマパイロット版(YouTube)


KNOTオフィシャルトレイラー(YouTube)





V.V... Fate 




 NaKhunが車から降りたのとほぼ同時に家の前でエンジンが止まった。


 彼は周囲をキョロキョロ見回すことなど一切しなかった。SilaからPhatSaの状態について報告を受けてからというもの、車を走らせている間もずっと胸の奥を強く締め付けられるような思いだった。彼はすでに落ち着きを失い、どうにもならない不快感でいっぱいだった。Phatsaの状態が確実に悪化していると知ったことで僅かに残っていた忍耐力すら奪い去られていた。


 NaKhinは彼のすぐ後を追うように、ほぼ間を置かずに車から飛び出した。


 「兄さん、ちょっと落ち着いて」


 しかし、NaKhunは何も答えなかった。


 彼はとても普通の歩調とは言えないほどの激しい勢いで、家の中へ一直線に向かっていった。それは行く手を阻もうとする愚かな者がいれば誰であろうと容赦はしない、というただ一点のみしか頭にないような歩みだった。

 最初に到着していたSilaは直ちに道をあけた。 

 寝室に入るとOngSaがPhatSaの傍に座ったまま、ちょうど顔を上げるところだった。その時になってようやく他の者たちがどれほど早くやって来たかに気づいた。ただそれはあまりにも遅すぎたが。


 ほんの一瞬の後、バンッというけたたましい音が響き渡った。


 寝室のドアは激しく蹴破られ、壁に激突した。あまりの衝撃でドアフレームの木材にひびが入る。その威力は部屋中が揺れるほどだった。


 OngSaはビクッと身を竦め、音のした方へ素早く振り向いた。


 そこにNaKhunは立っていた。


 彼の黒い瞳は普段よりもさらに深く色づき、その表情はピクリとも動かなかった。その瞬間、人間らしさのほとんどすべてが削ぎ落とされたかのように見えた。彼はもはや名家の嫡男としての面影も、誰もが知る完璧な自制心を備えた男の姿も持ち合わせていなかった。


 彼はまるでついに番を見つけた捕食者のようだった。


 OngSaはほんの一瞬、固まった。


 意識を失ってベッドに横たわっていたPhatSaにとって、部屋に流れ込んできたその香りは昏倒した意識を呼び起こすには十分だった。


 先ほどまでの弱々しく反応のなかった身体が、まるで奥底に眠っていた本能が呼び覚まされたかのように、突然ピクリと動いた。彼はまともに目も開けられていない状態だったにもかかわらず、それでも無意識のうちにその香りの元へと引き寄せられた。


 「PhatSa──」


 Ongsaはギリギリのところで何とかPhatSaの名前を口にしたが、しかしNakhunはすでに先回りしていた。

 NaKhunは一瞬で駆け寄り、PhatSaがベッドの縁から滑り落ちる前にその力強い腕でしっかりと抱き留めた。Phatsaはまるでずっと探し求めていたものをついに見つけたかのように、真っ先に彼の腕の中へと包み込まれるように身を委ねた。PhatSaの火照った顔はNaKhunの胸に押し付けられ、まるで全身がそれを切望していたかのようにその吐息は荒く乱れていた。


 その光景に Ongsaは心臓が止まるほど驚いた。


 しかし驚きは一瞬で消え、弟を守ろうとする強い本能が湧き上がる。彼は跳ね起き、素早くPhatSaの手首を掴んだ。


 「PhatSaを離せ!」


 その瞬間、OngSaの頭の中は『こんな危険な人間にPhatSaをそう簡単に連れて行かせるわけにはいかない』という思いでいっぱいだった。


 しかし彼らに迫った刹那。


 NaKhunは顔を上げた。


 そして部屋の空気が変わった。


 それは単に目つきが変わっただけではない。


 ただの怒りだけではない。


 それは威圧だった。あまりにも重く、実際に手に掛けられていると感じるほどに。


 OngSaは狼狽した。


 彼はベータだった。アルファやオメガのようにフェロモンに敏感ではない。それでも目の前の男が意図せず、あるいはあえて分からせるように放った、途方もなく恐ろしい圧をぞっとするほど鮮明に感じ取ることができた。


 それは重かった。


 冷たかった。


 頭で考えるよりも先にOngSaの身体が反応してしまうほどの恐怖。


 彼の手が震え始めた。


 膝の力が抜けた。


 まるで見えない手に首を絞められたかのように、彼は息を詰まらせた。


 このような恐怖を彼はそれまで一度も味わったことなどなかった。


 ただの恐怖ではない。


 もっと奥底にあるもの。より根源的で容赦のない、強者の剥き出しの本能が弱者を圧迫するような、そんな圧倒的な何か。


 それでもOngsaは全身を震わせながらも必死に手放すまいと堪えた。


 「連れて行かないで…」


 彼の声は無意識の内に小さくなっていた。


 NaKhunは即座に眉を顰め、そのままPhatSaを無理やり連れて行ってしまうような構えを見せたが、その時、別の声が割り込んできた。


 「NaKhun兄さん!」


 NaKhinはまさに絶妙なタイミングで到着した。目の前の光景をひと目見ただけで、彼はもしこのまま数秒でも放置すれば、さらに最悪な事態が起こることを悟った。


 「まずは落ち着いて。彼の友人を傷つけないで」


 その言葉にNaKhunはほんの一瞬だけ動きを止めた。


 大層なことを言ったわけではなかった。


 しかし、部屋を押し潰すほどの重圧がほんの少し和らぐには十分だった。


 OngSaの身体は未だに震えていたが、再び大きく息を吸うことができた。


 NakhunはOngSaを一瞥してから、自分にしがみついて離れようとしないPhatsaに視線を戻す。Phatsaの身体は、自分が求めているのが誰なのかを痛いほど主張していた。それは『彼以外にはあり得ない』と言っているようだった。


 結局、NaKhunはこれ以上時間を無駄にすることはなかった。


 彼は少しでも悠長なことをしていたら手遅れになってしまうとでも恐れているかのように、絶対的な確信を持ってPhatSaを腕の中に抱き上げる。そして彼は踵を返し、一度も振り返りもせずに部屋から出て行った。


 男の腕の中に抱かれながら、PhatSaはなおもその香りに弱々しく身を委ねていた。たとえ意識が朦朧としていても、自分がいるべき場所をしっかりと分かっているかのように。


 OngSaは彼らの背中をただ見つめることしかできなかった。


 NaKhunが完全に姿を消すまで。


 そしてその瞬間、OngSaの身体からすべての力が一気に抜け落ちてしまったかのように感じた。


 OngSaはみるみるうちに床へ崩れ落ち、全身を激しく震わせた。両手は氷のように冷たく、胸の鼓動は激しく、まるで先ほどの威圧感が今もそのまま残っているかのようだった。


 彼はこれまでそんな経験をしたことがなかった。


 本能的な恐怖がこれほどまでに恐ろしいものだとは知らなかった。


 気が付くと彼の頬には涙が零れ落ちていた。


 恐怖のあまり。


 衝撃のあまり。


 そして、PhatSaが本当に連れ去られてしまったという現実のせいで。


 部屋にいたNaKhinは、OngSaの表情の変化にすぐさま気がついた。彼は素早く駆け寄り、OngSaの隣にしゃがみ込む。ほとんど無意識のうちにそっと優しくOngSaを抱き締めていた。


 「もう大丈夫だ」


 しかし、OngSaの震えはおさまらなかった。


 彼はNaKhinの肩に顔を埋め、荒い息遣いを繰り返していたが、やがて少しずつ正気を取り戻していった。そして我に返った瞬間、再び容赦ない現実を突きつけられた。


 PhatSaは連れて行かれた。


 OngSaの意識は一気に引き戻された。


 「PhatSa!」


 OngSaは立ち上がろうとしたが、NaKhinが彼の腕を掴んだ。


 「とりあえず落ち着いて」


 「落ち着けるわけない」


 恐怖と怒りで声を震わせながら、OngSaは感情を爆発させた。


 「あいつはPhatSaを連れて行った!」


 「あなたの友人は無事だ」


 「そんなの信じられない!」


 OngSaは即座に言い返した。彼の表情からは激しいパニック状態に陥っていることが見てとれた。そして自分の中で燃え盛る恐怖をこれ以上どこへぶつければいいのか分からなくなったように、彼はNaKhinを力いっぱい突き飛ばした。


 「あんなに恐ろしい人をどうやって信用しろっていうの?」


 Nakhinは半歩よろめいたが、それでもOngSaがNaKhunたちを追いかけるのを許さなかった。NaKhinは彼を引き止めようと再び手を伸ばしたが、ひどく動揺し冷静さを失っていたOngsaは反射的にNaKhinを殴っていた。


 それは本気ダメージを与えるほど強くはなかった。


 しかし、それはOngSaが本当に限界を迎えていると言っても過言ではなかった。


 「放して!」


 OngSaは恐怖と激しい怒りに駆られ、NaKhinの肩に華奢な手を何度も何度も打ち下ろした。 NaKhinはOngSaの両手首を掴もうとしたが、押さえつければ押さえつけるほどOngSaは激しく抵抗した。まるで胸の内のあらゆる感情が一気に爆発し、それをどう制御すればいいのか自分でも分からなくなってしまったかのように。


 「まずは話を聞いて」


 「嫌だ!」


 OngSaは目に涙を浮かべながら言い返し、その拳はNaKhinの胸をもう一度叩いた。


 NaKhinは打つ手がなくなったように深呼吸をした。


 そして次の瞬間、彼は両手でOngSaの顔を包み込み、そして彼に口づけをした。


 OngSaは硬直した。


 それは荒々しいキスではなかった。


 深くもなかった。


 しかしそれはあまりにも素早く、そして鮮やかな手際で、すべてを一度に停止させるには十分だった。


 混乱も、涙も、ほんの数分前まで彼を打ち叩いていた拳すらも、まるですべてが一刀両断されたかのようだった。


 OngSaの目は大きく見開かれた。


 NaKhinがゆっくりと身を引いて自分をまっすぐに見据えるまで、彼は全身を強張らせ微動だにしなかった。


 「まずは落ち着いて」


 そのNaKhinの声は普段より低く、いつもの揶揄い混じりの気軽さはすっかり失われていた。


 「PhatSaは死なない。もし兄がわざわざ自ら彼を迎えに来たのなら、あなたの友人を危険な目に合わせるなんてことは絶対にあり得ない」


 OngSaはまだ呆然としていた。瞳には涙を溜め、恐怖と衝撃で顔面は青ざめていた。しかしあの口づけのせいで、その瞬間の圧倒的な力に呑み込まれたせいで、完全に抵抗する気力を失っていた。


 NaKhinはゆっくりと、OngSaの両頬から手を下ろした。


 部屋は水を打ったように静かになった。


 乱れた呼吸と、早まる鼓動、そして二人が決して口に出そうとしなかった真実だけがそこにあった。


 事態はすでに収拾がつかないところまで来ているのだと。






 NaKhunはすぐにPhatSaを自分の部屋に連れ帰った。


 二人の背後でドアが静かに閉まったが、室内の静寂は二人の間に渦巻く波乱を鎮めるには全くの無力だった。むしろ無音の空気の中で、NaKhunの腕に抱かれたPhatSaの荒い息遣いがより際立って聞こえていた。朦朧とした意識の中で彼の瞳は虚ろで頬は心配になるほど紅潮していた。薄く開いた唇から漏れる吐息はあまりにも熱く、抱きかかえる男の肌を焦がしてしまいそうなほどだった。


 NaKhunがPhatSaをベッドに寝かせた途端、PhatSaは反射的にNaKhunに手を伸ばした。


 か細い手が驚くほどの力でNaKhunにしがみつく。

 

 PhatSaは身体ごとさらにぐっと身を乗り出した。


 まるでほんの僅かでも隙を見せたら相手が姿を消してしまうのではないかと怯えているかのように、彼は火照った頬をNaKhunの広い胸板に押し付けた。


 NaKhunはピタリと動きを止める。


 PhatSaの雨の香りは、かつてのようなものではなくなっていた。それは甘さを増し、より温かく、さらに危険なほど人を惑わすものになっていた。常に自身の本能を完全にコントロールしてきた男でさえ、忍耐の最後の糸が焼き切れていくのを感じるほど、それはあまりにも巧妙に誘い込んできた。


 「私を見て」


 NaKhunの声は低く、どの言葉も、もはや自分では完全にコントロールできなくなった吐息の下に押し込められていた。


 だがPhatsaは決して目を向けようとしなかった。


 PhatSaはずっと求めていたその香りに包まれて安らごうとするかのように、額をNaKhunの胸に軽く擦りつけながら、ぴったりと寄り添うように鼻先を埋め続けていた。普段はあれほど即座に言い返してくるはずの唇は、今はただ半開きになったまま。彼の呼吸が柔らかく不規則な波となってNaKhunの胸の真ん中を擽り、NaKhunはたまらず一瞬だけ強く目を閉じずにはいられなかった。


 NaKhunはほとんど自制が効かなくなっていた。


 それでもなお、自分を抑え込もうと必死だった。


 NaKhunはPhatSaの肩を優しく掴み、顔が見えるように少し距離を取った。


 「私の言うことを聞いて」


 ベッドの上の瞳がゆっくりとNaKhunに向けられた。その目はまだぼんやりとしている。熱と混乱、そしてPhatSa自身にもまだ理解できていないであろう欲求に揺れていた。


 「あなた…」


 その言葉は掠れて弱々しく、その強靭な男の理性を打ち砕くには十分だった。


 NaKhunは深く息を吸い込み、まるで熱に浮かされ夢の中にいる人を宥めるようにゆっくりと話しかけた。


 「私はここにいる。大丈夫。まずは落ち着いて」


 Phatsaはその言葉の意味を頭の中で反芻するように僅かに眉根を寄せた。しかし、NaKhunがさらに少しでも距離を取ろうと身動ぎした瞬間、PhatSaはすぐに身体を寄せ、腕の力を強めた。


 「やだ…」


 NaKhunは微動だにできなかった。


 PhatSaの唇が震える。熱く火照ったその相貌には、胸が張り裂けそうなほどに傷ついたような色が浮かんでいた。それはまるで二人の間にできたほんの少しの距離ですら、彼の世界を完全に崩壊させてしまうかのように。


 「いかないで…」


 その言葉は辛うじて聞き取れるほどの囁きだった。


 それでもその夜の中で何よりも強烈な一言だった。


 NaKhunはPhatSaを見つめた。その目の前の彼によって、無理強いされたわけでもなくじわじわと抗えない魅力に侵食されていくのを痛いほど明確に悟った。

 NaKhunは平静を保とうとした。屈服しないよう自制心を働かせた。Phatsaの意識を失わせないよう、落ち着かせ、安心させるよう努めた。しかし、彼が理性を保とうとすればするほど、Phatsaの顔はますます歪んでいき、これ以上追いつめられたら本当に泣き出してしまうのではないかと思えるほど、彼の瞳は真っ赤になっていた。


 その姿にNaKhunの理性は崩壊させられた。


 NaKhunは長く息を吐き出すと、手を伸ばしてPhatSaの額に張り付いた柔らかな髪をかき上げた。


 「わかった」


 それはほとんど囁くような声だった。


 「もうどこにも行かない」


 その言葉にPhatSaの興奮状態は少し落ち着きを見せたが、それでもNaKhunを離そうとはしなかった。


 NaKhunは額が触れ合うほどさらに顔を近づける。そしてPhatSaの心の奥深くにまで届くよう、一言一言諭すように意識的に柔らかな口調で囁きかけた。


 「だがそんなに私にしがみついていると……どうなるか分からないよ」


 まるでその警告が事態を悪化させるのを望んでいるかのように、目の前のひねくれた小さな生き物はまったく怯える様子を見せなかった。それどころか、その見上げられた瞳はどうしようもないほどに切なげに潤み、頑ななまでの眼差しはただ甘えているかのようだった。

 PhatSaの細い指がNaKhunの顔をなぞる。かつて二人が口づけを交わしたその唇、その口角に沿って指先が辿っていく。


 あの口づけを思い浮かべただけで、Nakhunの身の内を焼き尽くすような衝動が胸を張り裂けんばかりに鋭く込み上げてくる。


 「なんでキスしてくれないの?」


 NaKhunに拒絶されたと不満を抱いているかのように、柔らかくはあるが少し不機嫌な様子でPhatSaから発せられた。


 そうすることがあたかも当然だというように、PhatSaの指先がNaKhunの唇にそっと触れた。


 NaKhunの自制心は今にも限界を迎えそうだった。


 「あなたは私とキスしたいの?」


 「したくないの?」


 PhatSaの悲しそうなしょんぼりした表情。


 ほんの微かな、PhatSaの今にも泣き出しそうな震える声に、NaKhunの頭の中の理性は完全に吹き飛ばされた。待ち切れない様子で男の肉厚な唇に悪戯をしている指先。NaKhunはそのPhatSaの手に唇を押し当てた。


 そしてさらにもう一度。PhatSaの頬がぶわっと熱くなるのが分かるくらい、ゆっくりと。


 そして二人がそれ以上言葉を交わす前に、NaKhunは彼に深く口づけをした。


 彼が素直に負けを認めたからではない。


 わざとそうしたわけではない。


 しかしその時には、すでにどうしようもなく欲しくて堪らないという思いが抑えきれなくなっていた。


 PhatSaの唇は柔らかく、小さく、信じられないほどにひどく甘かった。NaKhunはこれまでの人生で、こんなふうに誰かとキスをしたことは一度もなかった。まるでその行為自体が、自分の心を狂わせてしまうのではないかと思えるほどに。

 キスを重ねるほどにもうここでやめるなんてことは不可能だった。熱、吐息、自分の下にいる彼の繊細ですべてを受け入れるような反応。そのすべてが混ざり合い、世界が彼だけに夢中になっていくかのように狭まっていった。


 キスはさらに深まり、どんどん熱を帯びていく。


 Phatsaは無垢で何も知らなかった。しかしそれを感じさせないほど、純粋で圧倒的な本能を持ち合わせていた。その方が却ってタチが悪かった。PhatSaがこんなにも心を開き、無防備な状態でNakhunに出会ってしまったことで、さらに取り返しのつかないところまで来ていた。そして何よりもタチが悪かったのは、すべてがあの雨の香りに満ちていたことだった。そのせいでその口づけはまるで肉体を越えて心臓の奥深くにまで染み込んでいくようだった。


 その時、PhatSaの胸の内の衝動が再び波のように押し寄せてきた。


 彼はその押し寄せる衝動に身体を強張らせ、喉の奥で小さな声を漏らした。目尻に涙が滲む。再び抑えきれない渇望が込み上げ、彼は震えながら自分が自分ではなくなってしまうような感覚に陥った。今の彼を突き動かしている本能は、どんなものであれ、恥やプライドを遥かに凌駕していた。PhatSaは震える指でNaKhunの手に触れ、恥じらいと必死さが入り混じった切実な様子で自分の方へと引き寄せた。


 NaKhunは即座に察した。


 それでもなおNaKhunの心の片隅で、まだ名残惜しさを感じていた。Phatsaの顔に浮かんだ、簡単には形容し難いほどの愛らしい表情を、もう少しだけ見ていたいという願望が過ぎっていた。


 「ここは痛くないか?」


 NaKhunの触れるその手つきは、じれったいほどに慎重で、PhatSaはすぐに身を竦めた。


 その反応は、純粋で、必死で、痛々しいほど正直なものだった。そのせいでNaKhunは自制心を失った。


 「お願い…」


 その懇願はか細く、今にも消え入りそうだった。


 PhatSaは完全に我を失っており、自分が今求めているものが一体何なのか、その本当の意味を理解できずにいた。ただ何とかして楽になりたい、彼にはそれしか分からなかった。自分の身体を襲う苦しさを消し去ってほしいと切望していた。目の前にいる男にその手で何でもいいから、とにかくこの状況から解放してほしいと願った。


 そして、誰に対しても決して自分を曲げたことのなかったNaKhunは、それまでの人生においての自戒がすべて無に帰したことを悟った。


 NaKhunは激しく募る衝動を必死に抑える。 本能が貪欲にもっともっとと求めていたが、慎重に、時間をかけて、できる限り優しく彼を宥めた。こんな時でさえPhatsaの反応は胸が締め付けられるほどに愛らしく、NaKhunはもう少しで正気を失いそうにだった。すべての小さな物音、苦しげな息遣い、そしてなすすべのない仕草が、彼をさらに狂わせるばかりだった。


 PhatSaがアルファの気配を纏っていると最初に思い込んでいたNaKhunにとって、今目の前に突きつけられる現実はあまりにも受け入れ難いものだった。彼が見せるあどけなく無防備な姿と同時に、どうしようもなく人を惹きつける魅力は、世界中のどこを見渡してもこれほど心をかき乱されるものはなかった。


 あの衝動がまたぶり返した時、PhatSaはより一層NaKhunにしがみついた。


 彼の声は小さく、はっきりしなかった。彼の全身が、今やただの慰めやNaKhunの香りだけでなく、もっと深く、より確かなものを求めていた。嵐を完全に静めてくれるような何かを。


 NaKhunにはそれが何を意味するのか分かっていた。


 そして彼は、それがどのような変化をもたらすかも分かっていた。


 もし彼が完全に流されてしまえば、これが一時的な関係だという誤魔化しは効かなくなり、二人の間にはもう何の隔たりもなくなってしまうだろう。その絆は、あらゆる意味で完全なものとなる。


 それでもPhatSaは縋るような瞳で彼を見つめた。


 そしてその眼差しがすべての終わりの始まりだった。


 「起きたことは気にするな」


 NaKhunの全身の筋肉は極度に緊張していたが、その声は低く落ち着いていた。


 「私が責任を取る」


 彼は一呼吸置き、それからさらに強い確信を込めてそれを繰り返した。


 「もう二度とあなたをこんなふうに一人にしたりしない」


 彷徨っていた意識がようやく言葉をひとつひとつ噛み砕いていくかのように、PhatSaはゆっくりと瞬きをした。


 彼は全てを理解していたわけではなかった。


 彼はまだ、この男が誰なのかすら知らなかった。


 それでも何故だかその声を聞いただけで、少なくとも半分くらいは信じずにはいられなかった。


 そしてPhatSaは再びNaKhunの腕の中に身を委ねた。


 それまでの焦燥感は残っていなかった。


 切羽詰まった様子もなかった。


 ただ傍にいてほしいという思いだけがあるかのように。


 ただ抱き締められていたいだけであるかのように。


 あの香りが二度と消えないことを確かめるかのように。


 NaKhunは目を閉じ、彼をそっと腕の中に抱き寄せた。


 彼の体はまだ熱を帯びていた。


 本能がまだ、容赦なく疼いていた。


 それでもその瞬間、NaKhunが何よりもまずすべきことは欲望に囚われることではなく、腕の中のPhatSaから怯える理由をすべて取り除いてやることだと、かつてないほどはっきりと悟っていた。


 彼が見捨てられることはないと。


 彼がこれを一人きりで抱え込む必要はないと。


 そして、二人の間で何が始まったにせよ、彼に噛み跡をつけた者がその重圧を背負うことになるのだと。


 NaKhunがPhatSaを引き寄せ、二人の間の少しの隙間も完全になくした瞬間、PhatSaに強くしがみつかれ、NaKhunは歯を食いしばった。


 それは単なる喜び以上のものだった。遥かに大きなものだった。


 温もり、柔らかさ、熱。腕の中にいる彼の何もかもが、無邪気でありながらも同時にどうしようもなく魅惑的に感じられる。Nakhunは、あれほど純真無垢でいながら自分を完全に狂わせてしまうPhatsaとはいったい何者なのかと思わずにはいられなかった。


 彼らは思考からではなく本能的に鼓動を合わせた。


 息を切らすたびにPhatSaの声は甘さを増し、その無力な響きは、どれも堪らなく人を酔わせた。そしてNaKhunが奥深くまで突く度にPhatSaは身を震わせ、その唇から漏れる声は胸を締め付けれるほどNaKhunの心を激しく揺さぶった。


 この部屋もこの夜もベッドの外にある世界も、何もかもが消え失せたかのようだった。


 そこにあったのは、熱と吐息、震える指先、そして抗う力も残らぬまま、ひとつの運命へと引き寄せられていく二人のどうしようもなく切実な絆だった。


 ついにその終わりが訪れた時、それはまるで彼らのうちのどちらか一人が望んだとしても、止めることなど決してできない波のように押し寄せた。


 NaKhunは歯を食いしばり、全身の筋肉を張りつめながらその間ずっとPhatSaを抱き締めていた。PhatSaも同じくらい激しくNaKhunにしがみつき、二人を圧倒する感情の波に震えていた。そして肉体も本能も、そして渇望もすべてが一度に限界を迎えたその最後の瞬間、二人の絆は完全に確固たるものとして定まった。


運命の采配は下された。






#5.5_END