【怪異四連作|一話読み切り】土公神の童歌 ― 秋土用の章 ―
――嘉永六年、黒船の影が迫り、江戸の風が終わりを告げようとしていた。
人々は空を仰ぎ、見慣れた空の青が、どこか遠い異国の色に変わったように感じていた。
遠くの湾から響いた砲声は、海風に乗って伝わったのだろうか。
移りゆく時代のさざ波が、人々の胸の奥を鈍く揺らしていた。
だが、土だけは沈黙を守っていた。
見えぬところで、ひそやかに時を抱え込んでいる――。
季節は移ろい、初秋の風が町を薄く包む頃ーー吉原の外れに「渡月楼」はあった。
改革を迫る異国の風は、呻きのように街を震わせたが、それでも楼の中では、変わらぬ夜が静かに続いている。
油の焦げた匂いと香の煙。軒下を漂う湿った風――
提灯の灯が雨上がりの水たまりに揺れ、そこに映る月がひとつ、またひとつと滲んでいった。
渡月楼だけは時の流れを拒み、未だ江戸の呼吸を閉じ込めていた。
女たちはいまだ“花魁”と呼ばれ、絹の裾を引き、長い夜の廊を、幻のようにすれ違っていく。
廊下の奥で秋虫が鳴き、行灯の灯が静かに消える。
誰かが笑い、誰かが泣いている。
その声もまた、この楼の一部であり、
夜の深みを支える、ひとつの物語のようでもあった。
楼主・岩瀬与太郎。遊女を酷使し、客を欺き、役人すら金と色で抱き込む。
人々は陰で「鬼の与太」と呼んだが、本人はその仇名をむしろ誇りとして、鼻で笑って受け流した。
渡月楼では、花魁・白菊の名が、夜ごと噂にのぼった。
月を映すような面差しに、不釣り合いなほどの儚さを纏っていた。
与太郎にとって白菊は、座敷を彩る花であり、手放すことのできぬ所有欲の象徴でもあった。
ある日、与太郎は耳にした。
白菊に羽振りの良い客から身請け話が出ている――と。
相手は商家の男だという。話がまとまれば、儲けの手駒をみすみす手放すことになる。
――よほどの条件でなければ、白菊はくれてやれぬ――と与太郎は奥歯を噛んだ。
思案に沈む与太郎の耳に、楼の裏手から童歌が聴こえた。
――夕暮れ四つの鐘が鳴る
春の森 夏の火轟々
秋には銭が尽き果てて
冬には水に流される
足もと見たら 蟻地獄
土公の神よ
歌をうたえば 四つの方角 道はなし
道が欲しけりゃ 歌を忘れて引き返す
来た道 急いで引き返す――
「何だ!ここは子どもがいて良い場所じゃないぞ。散れ!!」
苛ついた与太郎は裏口へ回り、声の主たちを追い払おうとした。
だが歌は風に紛れて消え、そこには誰の姿もなかった。
その夜、与太郎は身請け人の男の身の上を確かめるべく、後をつけた。男は屋敷の横を通り抜けた。
どうやら、屋敷裏の畑には、四方の方角に合わせたように壺が埋められている。割れた蓋の隙間からは金色の光がこぼれ、闇夜をゆっくり照らしていた。
――まさか、あれは、黄金か。
与太郎の喉が鳴る。その瞬間、地面がざわりと動いた。黒い蟻が帯のように這い出し、与太郎の足を這い登っていく。
「えぇい、ふざけるな!この蟻どもが!」
見つからないように、這い上る蟻を払い、踏み潰した。
「ははぁ……これは、面白ぇ」
恐れよりも、与太郎の熱を帯びた欲が勝った。
与太郎は楼に戻るなり白菊を呼びつけ、冷ややかに命じた。
「白菊。あの身請け人に毒を盛れ。事が成れば、甥の千次との縁談を取り計らってやろう。お前も、あながち千次を嫌ってはいないはずだ」
白菊は裾を握りしめ、噛みしめた唇を震わせた。
与太郎は決断できない白菊に苛つき襟を掴んだ。
「白菊。ーーやれ!」
「……はい」
「ほとぼりが冷めたら、戻ってこい。いいな」
白菊は乱れた襟を掴み、項垂れた。
拒めば与太郎に殺される。
従っても、失敗すれば客に殺される。
いずれにせよ、白菊が選べる道はひとつしかなかった。
白菊は、命じられた役をどうすべきか、静かに胸の奥で固めた。
秋土用の始まりの日――
田の畦に蟻の列が現れ、誰もいないはずの道を規則正しく渡っていく。
その日の黄昏、白菊は与太郎の命のままに毒を盛り、男は儚く息絶えた。
白菊が一人、袖で涙を押さえていると、葬儀には年老いた姉が現れ、「実家で埋葬したい」と亡骸を引き取っていった。
白菊が涙を隠して吉原へ戻ると知らせを受けた与太郎は狂喜していた。
――あの光は黄金に間違いなかった。親族が気づく前に早く掘り起こさねば。
「探し物があるから、出かけてくるぞ」
与太郎が鍬を持って出ようとすると、妻のお妙が心配そうに声をかけた。
「あんた、いくら捜し物でも、土用中に土を掘るのは禁じられているだろう?しかも、こんな夜半に罰当たりじゃないか!」
「なあに、心配するな。探す場所は見当が付いている。土を除ける程度だ」
禁じられていようがいまいが、もはや、与太郎の目には黄金の壺しか見えていなかった。
夜半過ぎ、月の欠けた空の下。
与太郎は屈強な用心棒をふたり従え、畦道へ向かった。風は稲穂を揺らし、湿った土の匂いが鼻に刺さる。遠くで梟が鳴き、蛙の声が絶え間なく続いていた。やがて、そのざわめきに溶けるように、声がした。
――夕暮れ四つの鐘が鳴る
春の森
夏の火轟々
秋には銭が尽き果てて
冬には水に流される
足もと見たら 蟻地獄――
あの楼の裏で聴いた子どもたちの声が響く。
誰もいない田に、影のような声だけが残る。
「何の声だ?」
「こんな夜更けに、子どもだと?」
用心棒たちは提灯を掲げ、あたりを探った。影ひとつ見当たらない。ただ、湿った畦に小さな裸足の跡が二つ三つ、点のように残っていた。
「そんなことはどうでもいい!急げ。お前たちは東を掘れ。俺は西を確かめる」
与太郎は提灯を振り上げ、ひとり暗闇へ踏み出した。
与太郎が掘り返した壺の蓋を外すと、中から現れたものは、黄金ではなかった。
――壺には大量の白骨が納められていた。
歯の欠けた顎、黒ずんだ肋骨。泥に絡んだ髪が、白菊の簪さながらに月の光を細く返す。
そこは、男の屋敷裏ではなく、与太郎が病で使えぬ遊女たちを葬っている場所だった。
「この場所は、遊女の墓場!なぜだ……なぜ、この場所にいる……」
怒りに震える与太郎の耳に、再びあの童歌が触れた。
――秋には銭が尽き果てて
冬には水に流される
足元見たら 蟻地獄――
その瞬間ーー地面が呻いた。用心棒のひとりが悲鳴を上げる。
がたいの良い男が既に半身を砂に呑まれている。もうひとりも膝まで沈み込んでいた。畦が裂け、黒い泥が波のように揺れた。与太郎の足も、ずぶり、ずぶりと沈む。冷たい泥が骨へ沁み、背を汗が伝った。
這い上がろうとした刹那――泥の底から、白い骨の手が足首を掴んだ。
浮かび上がった骸骨の顔。絡まった髪に挿した簪が、息のあるうちに穴へ投げ捨てた遊女、お咲の面影を宿していた。空洞の眼窩、沈黙の唇。頬を伝う泥水は、まるで涙のように見えた。
「お、お咲だろ……助けてくれ。俺はお前を高く買い、親を救ってやった恩人だぞ。頼む、見逃してくれ!」
お咲の亡霊の口がわずかに開き、底冷えする歌が漏れた。
――土公の神よ
歌をうたえば 四つの方角 道はなし
道が欲しけりゃ 歌を忘れて引き返す
来た道 急いで引き返す――
――歌を忘れる約束で引き返す
きた道 いそいで引き返す――
童歌の言葉が、与太郎の胸に遅れて沈む。
「……この歌を忘れ、道を引き返せというのだな。わかった。このことも、歌も忘れる!約束だ!」
女はゆっくりと頷き、指をほどいた。
与太郎は必死に泥を掻き、草の根を掴んで這い上がる。右足を引きずりながら畦道を進む。夜露に濡れた薄が頬を打ち、息は荒く途切れた。
土を払っていると、再び怒りが湧いてきた。
「それにしても、なぜ俺は、死者を葬った土地へ来てしまったのだ……。あの不気味な童歌のせいに違いない。次に見つけたら、あの呪われた餓鬼どもを必ずや葬ってやる!」
唇から呪いのような言葉が零れた、その瞬間だった。
背後で、カラカラと笑う声がした。
振り返れば、地面から無数の手が伸びている。
泥に塗れた遊女たちの影が、夜の中に立ちはだかる。
「やはり歌を忘れてはおらぬようだな」
「与太郎。また騙したな」
「今度こそ、許さぬぞ」
黒い影が次々に与太郎の身体を絡め取り、地中へと引きずり込む。
与太郎の断末魔の叫びは、蟻地獄と化した土へと吸い込まれていった。
提灯の炎がジリリと揺れ、最後にひときわ赤く瞬いた。
その光が地に落ちる頃、与太郎のいた跡を、蟻の列が静かに渡っていった。
翌朝、渡月楼は騒然となった。
「与太は花魁と駆け落ちしたらしい」
「どうせ、恨みを買って殺されたに相違ない」
噂だけが広がり、真実を知る者は、誰ひとりいなかった。
ただひとり、渡月楼に戻った白菊は静かな安堵に沈んだ。
与太郎も消え、事実を知る者はもういない。白菊は鏡の前に座し、紅を引いた唇をかすかに噛む。紅の色が指先に移り、血のように滲んだ。
――夕暮れ四つの鐘が鳴る――
渡月楼の古井戸の方面から、童歌がかすかに聞こえた気がした。
白菊は振り返る。窓辺の月明かりに、蟻の行列が這い回っている。
黒い列は尽きることなく続き、やがて彼女の足元へとにじり寄ってきた。
夜風が障子を揺らし、子どもたちの歌が風に乗って響く。
その続きを聞くより早く、行灯の灯が揺れ、ふっと消えた。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)
