見出し画像

【連載小説】記憶の星暦盤 (最終話) 第九話「星に守られた記憶」

時を経て、雪割草が再び咲く。記憶を失った敦史と、彼を見守る葉子。輝朗の気配が優しい風のように、優しく包み、星が光り続けていた。


あれから幾数カ月が過ぎ、谷の村には穏やかな日々が戻っていた。辛い記憶に向き合った人々も、もう悪夢にうなされることはなかった。

ただひとつだけ、語り草が残った。

雪の夜、山上の天文台。誰も住んでいないはずの館の窓に、赤い燈火が一度だけ揺れたという。吹雪の切れ間には、誰かの影が立っていたとも、名を呼ぶ声が谷に響いたとも言われた。

やがてその館は「氷の城」と呼ばれ、村人たちは近づかなくなった。若者は笑い話にしたが、年寄りはただひと言だけ呟く。

「氷の城には近づくな。あそこには、まだ心を喰らう獣がいる」

真実か虚構なのか。誰も確かめぬまま、赤い燈火の噂だけが、吹雪の夜にかすれていった。

だが、その噂とは別に――ひとりの生還者がいた。

あの夜、観測室で倒れた敦史は翌朝病院に運ばれ、一命を取り留めた。ただし、目覚めた彼の瞳には、かつての輝きが戻らなかった。

恋人の葉子が名を呼んでも、敦史は首をかしげるばかり。笑ってもぎこちなく、すぐに不安そうに目を伏せた。

「ごめん……」

彼が口にする言葉は、それだけだった。

輝朗は姿を消し、敦史は記憶を失った。東京で知らせを受けた葉子は、生きた心地がしなかった。研究に没頭し、互いを支え合って生きていた二人。葉子が嫉妬するほど仲の良かった日々が、すべて彼の中から消えてしまった。

自分を愛した記憶さえ、敦史には残っていない。それなのに、自分がそばにいることは敦史の負担にならないのだろうか――葉子は何度も自問自答した。

だが、今の敦史には、そばで献身的に支える人間が必要だった。
たとえ私を思い出せなくても、その時必要な存在でいよう。
葉子はそう決めた。


敦史が信州に赴任する前日のこと。葉子を送る途中の道で、敦史はふと足を止めた。

「暫く離れるけど、戻って来たら、君を幸せにする」

葉子が微笑むと、敦史は続けた。

「でも、もしも俺に万が一のことがあったら……葉子には、俺のことを追わずに幸せになってほしい」

「なぜ、そんなこと言うの? 敦史さんのいない世界で、幸せなんてないわ」

「輝朗が、戦地に向かう時にそう言ったんだ。大切な人がいると、その気持ちを理解できるんだ」

責任感の強い敦史らしい言葉だと思う。
しかし葉子には、それが不吉に思えてならなかった。

茜色の夕陽が部屋に射し込む。窓の外を眺める敦史の目がわずかに揺れた。右手には、小さな隕石が握られていた。

敦史は記憶を失っていて、それが何か分からないはずなのに――外を眺める時は、いつもそれを持っていた。

葉子はその隕石のことを、よく覚えていた。
輝朗が戦地に行く前の週、葉子は敦史から頼みごとをされたのだ。

「葉子。お守り袋を作ってくれる? 輝朗に持たせたいんだ」

敦史の手のひらには、小さな隕石があった。

敦史さんが帰還のお守りにと、輝朗さんに持たせたはずだ。
……じゃあ、輝朗さんは――!

葉子の胸を冷たい風が吹き抜けた。

たとえ敦史さんの記憶が戻っても、輝朗さんがいない現実を、今は受け入れられないのではないだろうか。
それなら、記憶が戻らぬ方が、彼は楽なのかもしれない。

そう思えば思うほど、葉子の祈りは深くなった。

その夜、灯りを落とした寝室で、葉子はそっと敦史の隕石を手のひらに包んだ。
不意に、石が微かに温もる。

吹雪の夜の冷たさではなく、手を差しのべるような穏やかさだった。

葉子は目を閉じ、静かに祈った。

「輝朗さん、ありがとう。敦史さんを守ってくれて。どうか、あなたも無事で戻ってきてください」

返事はない。
けれど葉子は、熱を灯した隕石に触れ、不思議と胸が軽くなるのを感じていた。


やがて春の兆しが訪れた頃。療養も兼ね、葉子は敦史を北関東の故郷へと連れ帰った。雪が薄く剝がれ、土がのぞき、川のせせらぎは氷片を割りながら流れていた。

穏やかな日差しの中、森林を散策する。敦史は眩しそうに空を見上げている。その横顔には、以前と変わらない優しさがまだ残っていた。

帰り道、敦史は急に立ち止まり、白い地面に目を落とした。
そして、しゃがみ込む。

「どうしたの? 敦史さん」

「……花」

掠れた声が風に溶けた。

小さな白と紫。雪割草が、雪の裂け目から息づいていた。葉子は黙って見守った。

その瞬間、敦史の瞳がかすかに揺れた。
長い空虚の奥に、ほのかな光が差し込む。

やがて彼は、震える唇でたった一言を洩らした。

「テルアキ……」

葉子は胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。敦史がもっとも大切にしていた親友の名。遠い記憶の欠片が、雪解けのように戻りはじめていた。

「踏まないようにしないと」

敦史は花を踏まないよう、小石を拾って花を囲った。

「そうよね。一生懸命咲いたんだもの」

葉子は涙ぐみ、そっと敦史の手を握った。その手先には、かすかに温もりが戻っていた。

雪解けの風が吹き抜けるたび、雪割草は小さな身体を震わせ、二人を見守るように揺れている。

葉子はその花を見つめながら、ふと気づいた。
自分はもう、敦史の“過去”を取り戻そうとしなくていい。

彼がかつて何を想い、何を失ったのか。
そのすべてを理解したうえで、いま目の前にいる“現在の敦史”を選んでいるのだから。

失われた記憶の空白は、これから共に新しい記憶を積み重ねていけばいい。
過去を抱きしめるだけではなく、未来に光を見出すこと。

隕石をそっと握ると、輝朗がふたりの歩みを促してくれているような気がした。

さらに二年の月日が流れた。敦史はゆっくり記憶を取り戻しつつあった。縁側に座り、谷を渡る風を受けるたび、胸の奥に誰かの声が触れる。

――観測を続けろ。

その声はいつも穏やかに、敦史の心を満たした。敦史は小さく笑い、呟いた。

「あぁ……わかってるよ。今日も忘れず星を見る」

「敦史さん、今何か言った?」

「ううん。独り言」

天空の星々が、まるで彼を守るように瞬き、そっと照らしていた。

「良かった……」

葉子は敦史を見て、安堵のため息を漏らす。敦史の未来も、あの雪割草のように、春を迎えようとしていた。


そして、時は流れ――現代の東京。

煤に曇る空の隙間に、わずかに星が見える夜。ひとりの青年がノートを抱え、空を仰いでいた。

彼の名は、水沢悠麻。

胸元には、祖父の遺品整理で受け継いだ古い記録帳がある。最終頁には震えるような筆跡で、遺書のような短いメッセージが残されていた。

これは、輝朗という人に伝えたかった言葉――。

悠麻はゆっくり頁を閉じた。
その瞬間、古い紙片がひらりと落ちる。

拾い上げると、そこには読めない記号のような文字と、たった一行だけ言葉が刻まれていた。

「記憶を継げ」

悠麻の背筋に、微かな熱が走る。風がビルの谷間を抜け、頬を撫でた。それは冷たさに混じる、誰かの息遣いのようだった。

「どうか……教えて下さい。あの獣を止める方法を」

悠麻の祈りは夜の闇に溶け、まるで返事をするように、一つの星が流れた。

それは、氷の城から届いた百年越しの“観測者のまなざし”のように。

まだ誰も知らぬ、新たな記憶の物語――その最初の灯が、静かに点った。

「記憶の星暦盤」―黒獣の章―(完)

◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
最後まで、読んでくださり、本当にありがとうございました。
その後、盤を持ち出した野口がどうなったのか、12月から短い章をお届けする予定です。需要があれば、現代編、―赤獣の章―まで書き終わっているので、来年の新しい連載小説を挟み、いずれ、お届け出来たらと思っています。ご興味があれば、続きをまた読みに来ていただけたら大変嬉しいです。

❖───────────────❖
🔖 本作は小説家になろう「秋の文芸展2025」(テーマ:友情)に参加しています。
作品の感想やスキ♡がとても励みになります。             どうぞよろしくお願いいたします。
❖───────────────❖