【怪異四連作|一話読み切り】土公神の童歌 ― 冬土用の章 ―
新年を迎えた吉原の「渡月楼」は、静まり返っていた。
門松は立てられ、表通りには晴れ着の人影もあるが、楼の奥まで祝いの気配が届くことはない。
女たちは新しい小袖に袖を通し、いつもより丁寧に紅を引く。
それは寿ぎというより、年が改まったことを自分に言い聞かせるための仕草のようだった。
三が日の朝、廊下に射し込む冬の光は淡く、障子の影を薄く伸ばすだけで、長居はしない。
盃に注がれる屠蘇の香りも、すぐに消え、残るのは畳に染みついた古い夜の匂いだけだった。
冬の夜は、目に見えぬ重さを帯び始める。
冷えのせいではない。
風が止まないせいでもない。
ただ、空気の底に、沈殿したものが静かに溜まっていくような、息苦しさがある。
表通りから外れた路地は、人影もまばらだった。
行灯の灯が風に揺れるたび、地に落ちた影が伸び、また縮む。
かつて楼が肩を寄せ合うように並んでいた一角には、今は名を変えた店がぽつりぽつりと残るばかりで、華やぎはすでに剥がれ落ちていた。
それでも夜が深まれば、女たちの息づかいだけは、昔と同じように、どこからともなく滲み出してくる。
吉原の裏手、使われなくなった路地の突き当たりに、古井戸がひとつ残っていた。
昼間は誰の目にも留まらない。水桶もなく、綱は擦り切れ、ただ闇へ向かって口を開けているだけの井戸だった。
だが、夜になると、そこだけが闇を深く吸い込み、月を映した水面が、わずかに揺れる。底の見えぬ揺らぎは、まるで何かを待っているかのようだった。
白菊は、その井戸をたまに眺めた。
誰に教えられたわけでもない。この町に戻った夜、気がつけば、足がそちらへ向いていた。
踏みしめた土が、ひどく冷たかった。冷たさは足裏から這い上がり、まるで胸の奥まで届くようだった。
白菊は、渡月楼に迎えられた時から、すぐに楼一の花魁となった。
かつては、身請け話が立ち、この吉原を一度離れた女でもあった。
吉原を出るその日、廓の門を振り返らずに歩いた自分を、どこか他人事のように思い出す。
あれは自由への一歩だったのか、それとも、ほんの短い猶予にすぎなかったのか――今となっては分からない。
身請け人の男は、白菊を丁重に扱った。
新しい着物を与え、昔の名で「お雪」と呼び、女としてではなく、人として迎え入れようとした。
しかし、その時間は長くは続かなかった。
男は極悪人の楼主――与太郎に目を付けられ、白菊は再びここに戻ることとなった。
いや、――戻るしかなかった。
選択肢は、最初から用意されていなかった。
出戻りであろうと、かつて稼ぎ頭だった女に、情けは与えられない。
この楼は、白菊を自由にはさせなかった。
白菊には、すぐに客が付いた。
それは期待であり、同時に、逃げ場のなさを示す印でもあった。
髪型を変え、袖の香も替えた。
鏡の前で、何度も自分の顔を確かめたが、そこに映る女は、以前とそう変わらなかった。
一度、身請けしてくれた男のためにも、名を変えたいと願った。
しかし、それだけは許されなかった。
新しい楼主となった与太郎の妻――妙は、金に聡く、情には疎い女だった。
与太郎が行方知れずとなったあと、妙は迷いなく楼を継ぎ、その甥の千次が元締めとして表に立った。
妙は言った。
「白菊は白菊だよ!名前を替えたら、値が落ちるだろ」
その一言で、すべてが決まった。
白菊は再び、白菊として生きるしかなかった。
自由を夢見た日も、暮らしも、すべては短い間の出来事だったかのように、畳の下へ押し込められていく。
吉原は、女の過去も希望も、等しく土へ埋める町だ。
白菊は黙って、それを受け入れた。
抗えば、さらに深く沈む女たちを散々見てきた。
再び同じ部屋を与えられ、外を眺める。
それでも、与太郎に「身受け人に毒を盛れ」と命じられた、あの夜のことだけは、思い出そうとはしなかった。
思い出してはならない――そう、どこかで知っていた。
白菊の身請けが決まった日。
与太郎は、白菊に身請け人を毒殺し、楼に戻って来いと指示した。
しかし、あの夜、白菊は毒を盛らなかった。
祝言の盃を運び、笑みを作り、膳を整えたが、毒だけは落とさなかった。
震える手で、自ら毒を呑もうと盃を取った瞬間、男が異変に気づき、白菊の手を取った。
「どうした。お雪」
生まれたときの名で呼ばれ、白菊は泣き崩れた。
毒を持たされていたこと、与太郎に命じられていたこと、すべてを打ち明けた。
今まで良くしてくれ、祝言を挙げてくれたこの男を、自分の手で殺すことなどできなかった。
「私は戻っても殺されるでしょう。でも、ここにいれば、あなた様も再び狙われる。どうか、どこかへ身を隠してください。私はここで死にます。あなた様だけは生き延びてください」
男は、しばらく黙って泣き崩れる白菊を見つめていた。
そして、静かに言った。
「では、私は、毒を呑み、死んだことにしよう。お雪は言われた通り一度戻りなさい」
「でも……戻れば、二度とここに戻る道はありません。それなら、ここで死ぬほうが幸せです……」
「土公神様に、お任せしよう。何としてでも、お雪のことは取り戻すから安心しなさい。あの楼の悪人たちは、簡単に引き下がらない」
そう言ってから、男は白菊の手を取り、低く囁いた。
「いいか、お雪。歌が聴こえても、覚えるな。覚えなければ、必ず戻ってこられる」
男は筋書き通り、白菊の盛った毒を呑んだことにしてくれた。
男の姉が協力し、白菊を吉原に連れ戻す役目を引き受けてくれた。
しかし、白菊が戻った時には、与太郎は消えていた。
白菊は、自分が何もしていないとは思えなかった。
誰かが消えることでしか、道は残らなかったのかもしれない。その結果の上に、今も立っている。
井戸のそばを通ると、喉の奥が詰まる。
水の底から、何かが上がってくる気がする。
音ではない。声でもない。ただ、続きを待つ、あの沈黙。
――歌が聴こえても、覚えてはいけない。
男は、以前座敷でも同じことを言っていた。
羽振りの良い客で、商家の裏方だと名乗った。
常に優しく、酒に酔うこともなく、情を語ることもない。
ただ、杯の縁を指でなぞりながら、淡々と口にした。
――歌を覚えた者から、道がなくなるんだ。
白菊の胸の奥で、何かが音もなく嵌まった。
ある日、千次が白菊の部屋にやってきた。
与太郎に身請け人を毒殺するよう指示されたことを知っていると白菊を脅した。
白菊が震えていると、唐突に「亡くなった男の土地の所有者は誰か」と切り出した。
与太郎の一族が真に狙っていたのは男の金ではなく、土地だった。
「お前が所有者なら、その土地を差し出せ。もし違うなら、もう一度、所有者の身内を毒殺してこい」
そう迫った。
白菊は、もうこれ以上、誰も巻き込みたくはなかった。
やっとの思いで、身請け人の男を逃がしたのだ。自分はもう、どうなっても良かった。
冬土用の夜、白菊は再び千次に、庭先へ呼び出された。
「白菊、お前、よくも自分が土地の所有者だと嘘つきやがったな」
千次の手には短刀が光っていた。
足に違和感を覚えると、蟻の行列が庭先から這い回っていた。
白菊は逃げるが、行き止まりにあの古井戸があった。
刺されるか、井戸に落ちるか。
白菊に残された選択肢はそれだけだった。
千次は、まるで、与太郎が乗り移っているかのような鬼の形相をしていた。
月が水面に滲む。
井戸の縁に、黒い点が並んでいる。
蟻だった――規則正しく一列になり、井戸を避けるように、静かに通り過ぎていく。
そのとき、白菊の口が勝手に動いた。
声にならない音が、喉を抜けかける。
その時――どこからか、子どもの声が聴こえた。
――夕暮れ四つの鐘が鳴る
春の森 夏の火轟々
秋には銭が尽き果てて
冬には水に流される
足もと見たら 蟻地獄
土公の神よ
歌をうたえば 四つの方角 道はなし
道が欲しけりゃ 歌を忘れて引き返す
来た道 急いで引き返す――
千次の目が鋭くなる。
「どこの餓鬼だ」
その瞬間、白菊の足元に、冷たいものが広がった。
枯れかけている井戸のはずなのに、水が溢れ出している。
引き潮にさらわれるように、白菊の身体は井戸へ傾いた。
冷たい水と土の匂いが、一気に押し寄せる。
水に巻き取られ、白菊は水中で何度かもがいた。
――このまま、死んでしまう。
そう思った瞬間、白菊を引き上げたのは、あの男だった。
迷いのない手つきだった。
何度も、そうしてきた者の動きだった。
――歌を覚えるな。
――思い出そうとするな。
抱きとめられ、白菊は闇に沈んだ。
目を覚ますと、世界は薄暗かった。
闇ではない。ただ、視界がぼやける。
白菊は、自分の目が見えなくなっていることを悟った。
罰とも、救いとも思えなかった。
ただ、あの地獄から、やっと切り離されたのだと感じた。
白菊は吉原を去り、男の庇護のもとで、静かに暮らした。
視力を失っても、不幸ではなかった。
男は白菊に優しく手を差し伸べ、花が見えなくても香りを届けてくれた。
光が全て見えなくても、陽の暖かさが感じられることを教えてくれた。
足元の土だけは、自身で確かめることができた。
「少しずつでいい。お雪は、きっと良くなる」
そう言ってくれるこの人の笑顔をいつかこの目でもう一度見たい――白菊は強くなろうと決意した。
ある日、屋敷の外で、子どもたちが遊んでいる声がした。
白菊には輪郭しか見えない。
しかし、歌が聴こえた。
――夕暮れ、四つの鐘が……
知らない節だった。
白菊には、それがあの時の歌だとは、もう分からなかった。
目の前がふっと暗くなる。
「お雪、今日は団子を土産にした。寒くなる前に、中に入ろう」
今の白菊には、暗い影さえも、優しいものだった。
男に手を引かれ、白菊は微笑んだ。
春が近づく季節だというのに、その日吉原には雪が積もり始めていた。
白菊が落ちた井戸を忌々しく眺めていた千次は、次の悪事を思い立った。
枯れたはずの井戸から風が吹き、蟻の列が、静かに井戸の縁を横切っていった。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
(終)
