見出し画像

第8話 『温度のわからないスープ』

第7話


第8話 「静かなる敗北」


 厨房にタイマーの電子音が、無機質に、規則正しく響いている。
 かつては高峰の包丁が刻むリズムこそが、この場所の拍動だった。だが今、その音は三浦が持ち込んだ数台のタイマーによって、均一な秒数に切り刻まれている。
 同じ音なのに、どこか温度のない響きだった。
 包丁の音が消えた分だけ、厨房の空気が薄くなったように感じられた。

 改装決定の一件以来、厨房の指揮系統は曖昧なままだった。
 高峰が明確な指示を出さなくなったことで、現場の調整役は自然と三浦に寄っていった。反発の声は一部にはあったが、具体的に止める理由を言語化できる者はいなかった。

 三浦は、あえて高峰と視線を合わせずに作業を続けていた。
 棚には、昨日までなかった既製品のベースや、精密な計量器が整然と並んでいる。三浦が独断で行った「改革」だ。
(これでいい。これで、この店は守れるんだ)
 自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、胃の奥には鉛を飲み込んだような重みが居座っていた。

「……佐久間君、そのタイマーが鳴ったらすぐ火を止めて。余熱の計算はマニュアルに入れてあるから」
「あ……はい」
 佐久間の返事は力なく、その視線はおびえたように高峰の背中を追っていた。

 高峰は、何も言わなかった。
 それは拒絶ではなく、判断そのものを保留し続けるような沈黙だった。
 三浦が工程を勝手に変えても、慣れ親しんだ素材をパウチの液体に置き換えても、怒鳴るどころか、眉一つ動かさない。
 ただ、自分の担当であるメインの肉を焼くときだけ、以前と変わらぬ精密な動きを見せている。だがその瞳からは、かつて三浦を射抜いたあの鋭い熱が、すっかり抜け落ちていた。
 それは、三浦が最も恐れていた「失望」という名の沈黙だった。

「……高峰さん、今日の予約分の仕込み、これで終わりました。一時間、短縮できています」
 三浦が、あえて明るい声で報告する。実績という名の正解を突きつければ、高峰も認めざるを得ないはずだ。

 高峰は、ようやく三浦に視線を向けた。
 だが、その視線は三浦の顔を通り抜け、背後の壁でも見ているかのようだった。
「……そうか。楽になったな、三浦」
 その声は、遠くから聞こえるように薄かった。
 同じ厨房に立っているのに、別の温度の世界にいるようだった。
 そこには皮肉も、憎しみもなかった。ただ、自分とは別の世界の住人を眺めるような、決定的な「断絶」の響きだけがあった。

 営業が始まっても、厨房の空気は冷え切ったままだった。
 オーダーが入り、三浦の指示通りに皿が仕上がっていく。動線は改善され、スタッフの動きに迷いはない。そこには、ステラが掲げる「誰もが迷わない最適解」という哲学が、冷徹に具現化されていた。
 客席からは「おいしい」という声が聞こえてくる。
 だが、三浦は知っていた。
 今、デシャップに並んでいる料理は、どれも「八十点」の顔をしている。
 皿は整っている。香りも、色も、形も崩れていない。
 だが、湯気の奥にあるはずの何かが、足りない気がした。
 かつて高峰が、射抜くような目で鍋と対峙し、ごく稀に生み出していた「百二十点」の爆発的な熱が、そこには欠けていた。

 佐久間が、三浦にしか聞こえないような小声で呟いた。
「……三浦さん。これ、本当にほむらの料理なんですかね」
 三浦は答えなかった。答えられなかった。

 営業終了後、かつてのようにまかないを囲む時間はなかった。
 高峰は、自分の包丁を丁寧に拭き上げると、三浦が置いたタイマーには目もくれず、一番に厨房を出て行った。
 残されたのは、清潔で、整然としていて、そして驚くほど「温度」を感じない、見知らぬ厨房だった。

 三浦は、一人でカウンターに座り、自分の手が作り出した「正しい静寂」に耳を澄ませた。
 勝ったはずなのに。
 ステラの哲学を証明し、店を「救う」準備を整えたはずなのに。
 三浦は、自分の輪郭が、煤けた壁の色に溶けていくような感覚に襲われた。
 整いすぎた厨房は、まるで誰かの気配を拒むように冷えていた。
 そこに立つ自分だけが、場違いな影のように思えた。
 厨房の灯りを消すと、暗闇の中にタイマーの液晶だけが、青白く、冷たく光り続けていた。



第9話へつづく




いいなと思ったら応援しよう!

バラクーダ いつもありがとうございます。