エロスとタナトス 10482字 小説
神戸から軽井沢を目指し、西日本に一台しか無いピンクシャンパン色のベントレーを、軽々と運転する彼の悦びに満ちた横顔を思い出す。
浅間山噴火の際、荒くれた溶岩が地面を這う事を一旦止め、その真っ赤に煮えたぎる流れを気まぐれにも天空へと矛先を変えてしまったとでも言うのか?
ゴツゴツと聳え立つ真っ黒な岩の群生地は、まるで地獄の様だ。
有名な観光地、その名も鬼押し出しである。
怪力を見せつけんが為、鬼が地底から岩石を押し上げ、奇怪なるテーマでもってアートギャラリーでも開いたかの様な景観だった。その唯ならぬ気配に一瞬でも飲み込まれたならば、間違いなく鬼魅魍魎達に弄ばれ、子猫が玩具にする虫ケラ同様、頑強な岩に何度もぶつけられ、手脚は捥がれ、哀れな操り人形さながらの姿で天空へと放り投げ出されるだろう。
そんな無惨極まりない事態に陥らない様、魔界から逃れられる救いの道が一本、幸運にもその場所にはあった。
地獄とは真逆の天国へと駆け昇るハイウェイ。
天女様が私達に微笑み、行き先を間違えない様に風や光の流線に淡い虹色の色彩を施し、目に見えぬ結界が張り巡らされて、手招きされているかのようだ。
草原や住宅地に大蛇の如く蛇行する川。高低差のない沈黙を装った川。
ヨーロッパの大河とは到底言い難いイメージしか、私の記憶にはなかったが、冬でもないのに表面張力によって盛り上がったドナウの川面に、そのハイウェイはあまりにもよく似ていた。行き先は、私達人間には想像もできない世界。
カエルの卵のような形状でありながら、知的レベルが半端ない生物がウジャウジャと繁殖してそうな惑星を、まるで目指している様な錯覚を覚えた。
真っ直ぐに、躊躇なく、その道路は伸びていた。路面スレスレ1センチ足らずの上空をリニアモーターカー並みに浮遊し、まだ見ぬ1秒先の未来に向かって颯爽と250k/h越えで突っ走る我が愛車。
この世の春を独り占めしたかの様な、お気楽そのものの2人は車内でMISIAのベストアルバムを聴くためにボリューム音量を最大に合わせた。そして、自動開閉スイッチが止まるまでオープンを押し続け、窓をいっぱいに開け放つ。
科学的ピッチ表記法で最高5オクターブの音域があると言われているMISIAの超マイクロボイスと風速28mはあるであろう台風クラスの強風にグデングデンに酔いしれる為だ。
気まぐれに肩を寄せ合い、互いの耳朶に軽いキスを交わし合った。
「もう、死んだって構やしないわ!」
「俺もだぁ〜」
冗談なのか?
シリアスなのか?
鷹を追い越し、突き抜ける小型ロケットの様に大空を滑空する私達のグロテスクな脳は、どんなに名医と呼ばれる精神科医だろうとも、既に手に負える状態ではない。
ドライブは、私達にとって単なる交通手段でも気晴らしなんかでもない。正常な最高血圧値を1分間に40から80上げなくては達することが出来ないオーガニズムを、シンプルかつ激しい運動量も要せず獲得することができる合法的なドラッグそのものだった。
深海魚と共に、息をする事さえ忘れて眠り
皿やコップや箸さえ、バリバリに喰い散らかし
穴ボコだらけになるほどエッチして
クシャクシャ、ヨレヨレになるほど笑い
マジで不毛な愛について会話した。
プロボクシングの試合に欠かせない1分間のインターバルも入れず、A級ライセンス保持者並みの8回戦24分間ぶっ続けの喧嘩をし、蔑み、罵倒し合った事もある。その生死を賭けたファイティングには仲介役のレフリーが、不幸中の幸い居なかった。
だからか?
リング上には、マウスピースならぬブラジャーや、負けを意思表示する白タオルの代わりに、赤いレースのTバックのパンティーが25分後には、ちゃっかり散らばっていた。
収まり切れない情念の泡が、腐った水底からメタンガスを真似てプツプツと弾け散っていようとも、互いにマイナス30度の背中を向け合っている最中であっても、二つのモドカシイ肉体は、より一層の狂気の沙汰を渇望し始める。
場所は、問わない。
いつ人が入って来ても可笑しくない公衆トイレ。
ファーストクラスの横並びの座席、2人入れば身動き出来ない洗面所。
鮫の背ビレが海面をカットしてそうな海の中
マイコプラズマ肺炎に罹患していようともお構いなしで求め合った。
遊ぶ時間は、有り余る金で買えた。
若さと美しさは、言うまでもなく鼻持ちならない傲慢さを後押しした。
母親がふざける幼子を宥める際に使う言葉。
「"おいた"はそのくらいにしときなさい」
そんな忠告なんぞ、サラサラ聞く耳持たぬ我が身。
10本の指が血まみれになろうとも、自分の思い通りに生きる為なら迷うこと無く、幾多の薔薇の蕾や棘さえ握り潰すだろう。
桃源郷を7年間、大枚ばら撒き借り切って狂乱の舞いを踊った。
禁断の果実なんぞはモノともせず好んで齧った。
丸っぽい蓮の葉や黄色に色づく銀杏の扇をかき集め四角い寝床を創る。あどけない少年少女の様な寝顔でグッスリ眠り、来る日も来る日も極楽鳥や奇跡の蝶々を追いかけ裸足で走り回った。
あまりに恐れを知らない二人。
トチ狂った情熱は、想像するに神さえ目を疑い、口に手を当てたであろう。唖然とし立ちすくまれたであろう。
一年に一回、丸1日かけて交尾する蛇を嘲笑うかのようにそれ以上の執拗さで私達は絡み合った。
本気で、怒り、憎しみ、嫉妬もした。
殺されかけた事が2回
別れた事は3回
16歳も年の違う大学生だった彼の両親を呼び出し、無様にも泣き叫んた事もあった。
店でつかみ合いの喧嘩になり、店主や客に通報され何度か警察沙汰にもなった。
初めてした浮気がバレ、殺されかけた日を25年経った今でも鮮明に覚えている。愛の巣として借りていたワンルームの家具はメチャクチャに壊され壁に穴が3ケ所空いた。真っ裸にされたまま、24時間、眠る事も許されず、その荒れ果てた愛の巣に軟禁されながらも、刃物を持った彼は私を狂った様に何度も抱いた。
ー逃げなくては 殺されるー
強い睡魔に襲われた彼が、一瞬、私から目を逸らした。
「今だ!」
この瞬間を逃したら、私は死ぬ。
バスタオル一枚だけ持って脱出に成功した。
白昼、淫部と胸だけを隠し無我夢中で裸足のまま逃げた。そして近所の見知らぬマンションに駆け込み、泣きながらそこに住む女の人に助けを求めた。
友人が服と靴を持参し、憔悴しきった私を連れ帰ってくれた。
待ち伏せは、何十回もあった。
深夜、自宅マンションのエントランスで大の字になって酔い潰れた彼を見つけた時は流石にひっくり返りそうになった。
浮気は交際期間中、何回もし合った。それでも肌が肉体が、心が2人を決して離さなかった。
35歳から42歳迄、その関係は続いた。
知り合った当時の20歳の彼は、35歳の私にとって可愛いペットでしかなかった。
私の男では決して無かった。
何故?
私には40歳も違う年老いた旦那がいたからだ。
困ったもんで、彼の当時の資産は、推定価格にしたら、銀座4丁目交差点の縦横1mほどの正方形の広さの土地を2000ブロック相当所有していた計算になる。
笑いが永遠に止まらないほどのスネークマネー。
そんなモンスター級の旦那がソッと私の耳下で囁いた。
「一億円を手にした者には、一万円札の渋沢栄一は少しだけ微笑んでくれる」
「10億を稼いだ人間には、1分間だけならどんな質問にでも答えて下さる」
「100億を自由に使える強運の持ち主には、なんと! 寛容にも栄一さんは、毎月一回とびきりの夕食会にご招待してくださるんだよ」
「では1000億なら?どうなると思うか?」
と、ニヤニヤしながら、我が亭主はドヤ顔を私に向けた。迷わず「勿論、親友になって下さるのよね?」と、人を人とも思わない無表情の顔に思わず手を合わせてしまっていた。
意地悪な亭主は「さあ〜な〜」と呆れた顔をしたかと思うと、好物の明太子を箸で摘み、舌にちょこっと乗せ、熱燗をお猪口にタラタラと注いだ。
一口旨そうに舌を痺らせた後、真顔で私に放った言葉に思わず戦慄した。
「奴は、やっと本性を出すんだよ」
「その1000億まで増えた金を、本気で奪いに来る」
唸り、吠え、噛み付く膨大なマネーを手にした我が亭主は、金目当てで擦り寄る人々を狂乱させ、わざと踊らせもした。雁字搦めにし金縛りにする為だ。
決して他人に喰われることはなかった。
要は、怖いモノ知らずのモンスター。
そんな男にも、残念ながら天敵が現れた。
40歳も下の女に、何故か心を許してしまったのだ。
地球規模で例えるならば、マリアナ海溝より深くエベレスト山より高き彼の秘めたる世界にその女を招き入れた。
我が子を産んで貰うために。だから、子を儲けた時点で女房の浮気や破天荒な遊びなんぞ、彼にとってどっちゃでも良かった。お手玉のように右から左、左から右へと投げ放たれる巨大なマネー。このマネーをとことん増やすゲームに勝るエクスタシーは皆無だったからだ。
お手玉をするにも集中力が必要だ。邪魔になる事象は、我が領域から右手人差し指でピョンピョンと弾きだした。
当然、弾き出された私は、そのおかげで奔放な性を手に入れた。
40も年齢の離れた女房からセックスを夜毎せがまれて、それにいちいち応戦していたら寿命は縮むばかりだ。そんな事で機嫌を損ねられて顔を見る度、グダグダ言われでもしたら敵わない。
我が子にとって大事な母でもある。
年齢に相応しい性を満喫させなくては、負のスパイラルに家庭は巻き込まれる恐れがあるのだ。主人独特の人術によって、そのような不安は見事に解消された。
浮気上等!
自由バンザイ
世の非常識を常識にサッサとすり替え、私を煽り、最高のパフォーマンスで胴上げをし続けた。
「人生は一度きり」
「大いに楽しめ!」
「人から学ばぬ奴は、人に潰される」
「人を知るには、抱かれるのが一番てっとり早い」
「自分が幸せだと思う事をやれ」
「殺される一歩手前まで、憎まれたらええ」
「じゃないと、ホンマの事なんかわかりゃせん」
我が家に棲みついた精神年齢不詳の仙人は霞なんぞ喰わなかった。最高の肉を好んだし脂の乗ったマグロも食べた。そんな人間が齎す影響力たるや!
想像して欲しい。
20代の純真無垢な私を遠心分離機にかけて、幸せホルモンだけを抽出し毳毳(けばけば)しいピンク色の入れ物に入ったサプリメントにでもして、尊敬する栄一を真似、自分より金持ちのアラブの王にでも、高値で売りつけるつもりだったのかも知れない。
"地中で肥やすだけ肥やしガバージュされたガチョウの肝臓みたいに?"
浮気は最上と言い切る亭主が創り出した我が帝国では、当然のように奇異な法律が罷り通った。その法律は若さや時間、美しさ、健康、マネーを持て余した私にとって、まさに極上の密の味だった。
母親とは名ばかりだったが、携帯や固定電話で小学校に通う一人息子と気が向いた時くらいは話をした。
「こんにちは」
「元気?」
「学校はどう?」
「楽しい?」
我が家に現れてはすぐ消え、暫く経ってちょんの間だけ現れる血縁者の存在を "いとおかしくも" 通常、何処にでもいる母親像として息子は捉え、微塵も訝しげる事もなく真っ直ぐに逞しく育ってくれていた。
四六時中、ガン見されながら、あれしたらダメ、コレしなさいと鞭を手にした教育ママごんの配下に属することも無く、目尻を垂らし、無学を売りにした愛情だけが取り柄の祖父母に育てられてきた環境が却って良かったみたいだ。無邪気にはしゃぎ回る我が子の成長を、無論、嬉しく思った。母としての在り方に悩み、罪悪感に多少苛まれた事もあった。しかし華々しい女としての熟成期間の短さを本能的に察知していたおかげで、有難いことに人生の判断を誤らずに済んだ。
今、本当にやるべきことは?
a 育児?
b 恋愛?
数分間だけ、瞑想し自問自答した。
しかし、答えは分かり切っていた。
性ホルモンの重大さに勝るものはない。
速攻で答えを弾き出した。
ーbー
幸か不幸か、そんな私に誰もブレーキをかける人間は周りに居なかった。
私が人を万が一殺めたとしても黙って匿ってくれるだろうお手伝いさんや、私の為なら死ぬ事を厭わぬ両親は、bを選択した私の冷徹な決断を当然のように応援してくれた。稀有と呼ぶべき、私を取り巻くザ、ファミリーのこうした面々はサカリノツイタ雌猫のセックス事情に対して宇宙を凌ぐ寛容さで見守って下さった。
日の丸の小旗を片手にかざし、遊びに出る時、帰る時「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」は常。主人を筆頭に誰もが笑顔で見送り、迎え入れてくれた。
誰一人として、淫らな風体で夜な夜な帰宅する私に怪訝な顔を見せることも無く非難などもっての外だった。
信じられないだろうが、本当の話だ。
「女盛りだから、当然だ」
「遊ばなくては、40歳も上の旦那では可哀想だ」
「セックスしないと病気になるかも」
本気で我が娘の身体やメンタルを心配する両親。
観音菩薩の妹ではないか?と疑惑の目を向け続けていた60を過ぎたばかりの温厚なお手伝いさんは、私の極端で理不尽な喜怒哀楽を我が家に持ち込もうとも決して慌てず、一喜一憂もせず全てを受け入れた。
主人はと言うと、呑気なもんで、私のアドベンチャー並みの恋愛話しを聞くことを、NHKの9時から始まるニュース番組以上に楽しみにしていた。帝国劇場で好きな役者の舞台でも鑑賞するが如く、私のエロ漫談?に手を叩き、大袈裟に驚き、誰よりも一際大きな歓声を上げた。
両親やお手伝いさん達は、主人が見せる奔放なリアクションとは少しだけ品性が違った。見て見ぬふりを一応はした。5本の指の隙間から恐る恐る盗み見を遠慮がちにしつつ息を潜めたり、時には深い溜息を人目につかぬ場所に落とした。
私達の軌道を逸した恋愛が常識の範囲を越えれば超えるほど手持ち無沙汰の友人達も、当然、興味を抱いた。語り部の私を中心に週一回はサークル状に集まって頬杖をつき、妬ましい吐息を漏らした。
監督、演出家でもあり、俳優、女優も熟す私と若い彼に罵声や喝采、悲鳴と野次が飛び交った。
近所の人や父兄等に指を差されようと白い目で見られようともお構いなしの私は、彼に首輪をし堂々と連れ歩いた。
私は、無敵だった。
圧倒的に無敵だったのだ。
怖いものはと言うと、枕元に忍びよる毒蛇以外、世の中に存在しなかった。
全て欲しい物は天から与えられ主人から授かった。 しかし、残念ながら刻だけは違った。私から容赦なく若さと美貌を奪い去っていったのだ。
無敵だった筈の私の裸体を隈なく舐めまわし、私の急所を知り尽くしてしまった彼が、有ろう事か枕元に忍び寄る毒蛇へと変身してしまったのだ。
私が欲する果てしない性欲、征服欲に、唯一 "ピリオド" を打てる存在へといつの間にか昇華してしまっていた。
後戻り出来るか?
彼を、今更、手放すことが果たして可能だろうか?
肉体は拒絶し理性は可能だと穏やかに告げた。
「もう無理かも!」
「彼が居なくては、私は、もうダメかも知れない」
「否、別れなくては」
しかし、彼は赤いスピリットタンをチロチロと頻繁に出入りさせ私の性欲の強弱を伺った。冷たい肌でアソコの温度が急激に上昇するのを察知し、絶妙なタイミングで挿入行為を繰り返し私をトコトン狂わせた。
毒蛇に頚動脈を噛まれ、全身を縛りつけられる快感を一度味わってしまった肉体は、重篤なシャブ中患者となんら変わらなかった。淫部の襞は猛毒に侵され、滑稽なほどの武者震いを繰り返した。
傲慢極まりない私を必死に庇い支えてくれていた寛容なる守護神さえ、遂に呆れ果て目を背けた。
これ以上の我儘は許されなかったのだ。
すでに限界数値を超えてしまっていたからだ。
ー私は無敵では無くなったー
鏡は正直だった。
裸体のフォームは重力と刻によって一年毎に醜く修正された。年齢を誤魔化す為の卑怯なトリック画法が必要となった。
哀れだった。
メンタル的に落ち込む日が増えた。
破茶滅茶な生活もやめざるを得なかった。
家庭生活に救いを求めざるを得なかった。
老いる女が最後に縋り付く場所こそ家。
家族しかなかった。
7年付き合った彼は当然のように私から去って、運命の女性と出会い結婚をした。やっと27歳の成人男性としての野生を取り戻したのだ。それ以来、彼が私を振り向くことはなかった。
やはり、彼がこの恋愛にピリオドを打った。
彼の首に嵌められていた私の愛の呪文がかけられていた輪っかは、若い闘志溢れる牙で粉々に噛み砕かれた。私から放たれる妖しい匂いにあれだけ尻尾を振って纏わりついていた彼は、私の腰に手を回す事は二度としなかった。
これが、現実だった。
ほうれい線が目立ち、乳房は張りを失って微妙に垂れてしまった繁殖期を過ぎた43歳。
彼はフェロモンダダ漏れの27歳だった。
あの軽井沢の旅行こそが幸せの絶頂期だったのだ。あの天国へと通じるハイウェイ。
グデングデンに酔っ払ったあの日、あの時。
色気ムンムンで誰もが振り返る36歳の妖艶な美女と、方や男としてやっと入り口に立ったばかりの20歳の坊やが織りなした激しい恋物語。
あれから、残酷で執拗な時計の短針は一年で730回転した。その17倍の時があっという間に過ぎた。 その間、主人を看取り、たった一人の息子は我が家から巣立って行った。私をこよなく愛した両親やお手伝いの女性も天に召された。今や、教会に鎮座される聖母マリア像に跪き、頭を垂れ、手を合わせる日々。
あの夏の日の眩しい太陽と青い空、車の窓から入る台風並みの風を時折思い出す。その記憶は決して、私の心を癒しときめかせてくれる代物ではなかった。鋭利な大小様々のカケラとなって身体中のあちこちに突き刺さってきた。その先端は肉を剥ぎグイグイ骨髄へと食い込まれていく。
あの天国に向かうハイウェイとは真逆の地獄のような景観がフラッシュバックする。
すると、いつも決まって、その暗黒の世界へと吸い込まれそうになるのだ。
慌ててスマホからMISIAを検索する。"包みこまれるように" のメロディを早く聴かなくては、口が渇き手足が痺れ始めて、パニック症を発病しかねない。
天使の遣いのような声は老いに最後まで抵抗しようとする勇敢な細胞たちが、どうにか活力を漲らせ、弛んでしまった頬を一瞬だけ引き上げる。
彼の眼差しを思い出す。
最高の幸せを齎(もたら)してくれた記憶だけを甦らせ、一秒一秒をコマ送りしながら脳をスライドしていく。
チックタック、チックタック
過去へとタイムスリップ。
サーフィンで陽に焼けた裸が、真っ白な私の肌をチラチラ照らした。
お日様の香ばしい匂いと脇からプーンと放たれる甘酸っぱい汗のデオドラントは最高の媚薬だった。私の鼻腔から、そのポアゾンは侵入し脳を麻痺させて、猫じゃらしに溺れ切ったメス猫さながらの状態にした。
今だから正直に言おう。
20歳の彼を誘惑した日からこうなる事は全て分かっていた。
ー捨てられることを覚悟していたー
歳を取れば、肌の張りも美貌も活気も衰えてしまう。そんな惨めな私にサッサと見切りをつけ、若い家庭的な女性と幸せな家族を構築する為に、私の与えた贅沢で楽チンな巣なんかに見向きもせず、大きな翼を広げ颯爽と飛び立っていく彼の後ろ姿を、最初から予感していた。
飼い慣らすことなど最初から出来っこない野生動物だと言う事を知った上で、彼に抱かれてきたのだ。
ユラユラとピンク色に発光するクラゲの様に夢うつつの世界を漂っていただけだった。
「彼は私に飽きるだろう」
「私の元から逃げ出すだろう」
「明日?」
「一年後?」
「まさか?」
「今日?」
イラツイタ
彼が「愛してる」と私に囁く度に愛が1グラムずつ奪われていく感覚を覚えた。
そんな虚しさをコンコンと話したところで16歳も下の彼を引き留めることなど不可能だ。
惨めになるだけだ。
ならば、一体私に何が出来る?
そう、まだ100%の情熱を私にぶつけて来る内に、彼を痛ぶり極限の状況下で愛し合うことだった。一生残るであろう深い傷を負わせるために。
滅多に手に入らないこの肉体を決して忘れさせないために。しかし、こんなカモフラージュも長くは続かなかった。罠を仕掛ければ仕掛けるほど、実際は自分がその罠にハマっていた。
ーお笑い草だー
「もう、耐えられない!」
「もう、プライドはズタズタだった」そして、完全に捨てられた事を悟った私は7日間だけ思いっきり泣いた。自らの首を締め付ける鎖を引きちぎる為に、全ての爪を剥ぎ血だらけになった。
3年掛かってやっと外れた重い鎖を海の底深くに捨てた。他の男達に身を任せ、彼を必死で忘れようとした。心を宿さぬ海の波しぶきに暫し身を委ねた。
あれから16年、私達は一度も会わなかった。互いに一切の連絡を絶ったのだ。
美しすぎる7年間を思い出すスイッチを叩き壊した。
私が60歳の時、彼から連絡が入った。いつも、2人でよく行っていた焼き肉屋で夕食を食べ、場末の飲み屋に行き世間一般の話をした。
61歳の時は2度会った。
62歳の現在、3度目のデートの約束を1カ月前に交わした。
肉体関係は持たなかった。
手も握らなかった。
主人が亡くなって8年近い。その間、母と4年暮らした。その母も亡くなった。それ以来、1人暮らしを4年間している。息子は35歳。彼は46歳になっていた。
相変わらず彼は優しい。
「私を愛している」と言う。
「抱きたい」とも言ってくれる。
「嘘じゃ無いだろう」
しかし、何千年も気管支を拗らせ空咳が止まらぬ浅間山を背景に、真っ暗な伽藍で何百人もの修行僧が一心に念仏でも唱えているかの様な怒号が聞こえる鬼押出しを横目に、素知らぬ顔で天国に向かうハイウェイを突っ走った頃の彼の狂おしい愛は当然ながら感じられなかった。その代わり、私を労わり、老いの気配を気遣ってくれる暖かな情愛へと変わっていた。
不思議と抵抗はなかった。
それでも、十分嬉しかった
その気持ちに癒された
3度目のデートの日が訪れた。
私は、髪を洗い歯を磨いた。
新しい下着を身に付けた。
彼が大好きだった香りを数滴、小指に落とし、首筋に這わせた。
部屋を、普段より、少しだけ念入りに片付けた。
息子に宛てた薄っぺらい手紙を机の上に置いた。
玄関の扉を閉め、深呼吸を一回して、見慣れた六甲の山々に向かい、静かに呟いた。
➖今までありがとう
マンションのエントランスで、彼は待っていた。
彼がエンジンを入れ、優しく囁く。
「やっと、あの頃に戻れたね」
「俺が20歳」
「祐子が36歳」
「祐子と居ると何も怖くなかった」
「祐子さえいれば、それだけで幸せだった」
彼は、私の目を見ずに言った。
「わかるよ!」
「私も一緒」
涙が溢れる。
彼も泣いていた。
「あゝ」
「彼は、やはり、私と死ぬ事を選んだんだなあー」
あの天国に繋がるハイウェイのカーブを曲がり切ったところで、あの時、静かに彼は私に告げた。
「俺が死ぬ時、おまえを連れて行くから」
昨日の事のように思い出された。
六甲山の中腹にある、見覚えのあるカーブ。
何度も、何度も、この美しい山のドライブを楽しんだ記憶が蘇る。
「スピードを上げるよ」
「いいね?」
私は、3度目のデートに誘われた時、この瞬間を予感していた。
彼は、私と会わなかった間に様々な経験をし幸せも感じた時もあったが、予期せぬ事態に巻き込まれ身動きが出来ない状況に陥っていた。
この世の中に絶望してしまっていたのだ。
さまざまな苦難が彼を一度に襲い、彼は死を決意したのだろう。
私は、彼が抱える問題の重さを知り悲しくなった。
寄り添ってあげたかった。
一カ月前に、私は覚悟した。
今日、彼は私を連れてあの輝かしい2人だけの世界に旅立つだろう。
「まぁ」
「それならそれで仕方ない」
「彼と一緒なら、全然嫌じゃなかった」
「寧ろ、あの青い空、爽やかな風の中に、2人で飛び込んで行きたかった」
実は、旅立ちに、最も相応しい車を急いで買っていた。
その理由?
それは?
その車のボンネットの先に付けられたスピリット オブ エクスタシーだ。
このシンボルは、私達を祝福してくれるだろう。
何故なら、このシンボルが発案された影に、男女の悲しい物語があったからだ。
愛し合う男女のエロスとタナトスが、秘められていたのだ
当初の呼び名は、 "ザ ウィスパー"
シンボルの形も、現在とは違い、女神が、唇に人差し指を当てて、「内緒にしててね!」
と、暗黙のサインを送っているキュートな物だった。
男女の秘密の情事を物語っていたのだ。
女神が纏うローブを羽の様にして、今にも飛び立とうとしているシンボルを、誇り高きロールス・ロイスの象徴に今はしている。
私が、どうしても、購入したかった理由は、その残酷なストーリー性にあった。
淡い泡が揺らめくグラスに耳を近づけると、微かだが、ぴちぴちと弾ける音が聴こえてくる。
そして、その芳香な香りを含んだ粒達は一瞬で空中に消え失せていく。
男女の性を彷彿とするのは私だけ?
若かりし頃、乗り回していた車の色は、暖色系のピンクシャンパン色だった。
怖いもの知らずの若い二人には似合いすぎていた。
今、私達を乗せて、堂々と北に向かい山間を走る車は、寒色系だけどキラキラ太陽に反射し、吸い込まれそうな空の色だった。シャンパングラスの中の、細かな泡がいっぱい散りばめられたブルーシャンパン色の、この新しい車こそ、今の私達にはおあつらえ向きだった。
「祐子、俺たち、やっぱ、離れられなかったなぁ〜」
「お前を、忘れた事は一日も無かった」
「そうね」
「私も、あの美しすぎる七年を忘れた事なんか無かったわ。魂だけはどうしても離れられなかったのねー」
「ありがとう」
「祐子」
「こちらこそ、ありがとう」
買ったばかりのブルーシャンパン色のロールス・ロイスは、時速300を優に超えていた。
標高250メートルの高さに造られた高速道路の柵をものともせずに、悠々と乗り越えた。
ボンネットの、最前中央に立つ女神は驚き、瞳孔を大きく開いた。彼女の纏うローブは、この時を待っていたかの様に瞬時に大きな翼へと変わり、真っ青な天空に向かい羽ばたいた。
ハンドルをゆっくりと離した彼は、助手席にいる私を愛おしく見つめた。
そして、二十歳の頃と変わらぬ屈託の無い笑顔を向けた。
私も、あの夏の日の太陽に負けない無邪気さで笑った
白い雲に吸い込まれていく
19年ぶりに、やっと、彼は,照れながら私の手を優しく握りしめてくれた。
