ゾーンに入る
ゴルファー保険というものがあるそうですね。
打った球が誰かに当たって怪我をさせてしまったり、自分の道具を壊してしまったり、そうした際に補償を受けることができるそうなのです。
私自身は、まったくゴルフをしないので、加入はもちろん気にしたこともないのですが。
この保険には、他にも補償がついていて、ホールインワンを達成したときに使えるらしいのです。
これも聞いた話ですが、ホールインワンしたときは、 祝賀会やパーティーを開いて、仲間を招いて盛大にお祝いしないといけないそうなのです。
この時の費用負担はホールインワンした人らしく、その辺、門外漢からすれば逆と違うの?なんて疑問を持ってしまうのですが、まぁ、そういう風になっているらしいのですね。
ホールインワン達成日を印刷したタオルを配ったり、費用負担が大きくて、そこに対応した保険に需要があるんですって。
平成があと数日で終わり、新元号、令和の始まりを迎えようとしていた 2019 年 4 月の終わり、突然、母が他界しました。
世間的には 10 連休で盛り上がっていましたが、私にとっては、葬儀やら、実家の片づけやらで、追い立てられる 10 日間でした。
連休明けに仕事が始まった時には、日常が戻ってきたことがうれしく感じられたことを覚えています。
父にとっても、思いもよらない展開であり、食事も、身の回りのことも、お金の管理も、すべて母任せでやってきていましたから、慣れない一人暮らしに戸惑ってばかりでした。
他に頼る人間もいませんから、分からないことがあると、すぐに電話をかけてきます。
お金のおろし方、洗濯機の回し方、掃除機のパックの替え方、電話では伝わらないことも多いのですが、その都度、できるだけ説明していました。
ある日の夕方、父からの着信がありました。
その頃は、毎日のように電話がかかってきていましたので、また、電池がないとか、保険証の置き場所とか、そういった類の連絡だろうと思いながら出ますと、少し興奮した口調で父が言うのです。
「ちょっと、大変なことになった」
ちょっと前に、母の死を経験していますから、それ以上の大事なんてないだろう。
何を改まって連絡してきたのだろう。そう思いながらスマホを耳に当てていました。
「エージシュートを達成してしまったんだよ」
その時まで、まったく知らない言葉、概念だったのですが、「エージシュート」というものがゴルフ界にはあるそうなのです。
ゴルフって 18ホールを72打で終えるのを、だいたいの目標にしています。
そんで、 プロなんかは、もっと少ない打数で終えることができるようしのぎを削っているわけですが、アマチュアだと100打とか、それよりもっと打っちゃったりするらしいのですね。
そういう条件の中、 自分の年齢以下の打数で終えるという「エージシュート」というゴルファーの憧れとされる目標があるんですって。
そりゃ20代から50代で達成するのは難しいでしょう。
可能性があるとするならば、60代後半からなんでしょうけど、年齢を重ねれば、体力的にも厳しいでしょう。身体の動きも鈍ってくるでしょうし。
一回もゴルフやったことのない私にとっては、どれだけの重みのあることなのかは、全くわかりませんが、とにかくすごいことらしいのです。
それを父は80歳で達成したとのことでした。
「タオル作ったり、パーティーしたり。あと植樹もするらしくて」
ホールインワンと同じように仲間うちでのお祝いをしないといけないそうです。
母の死に際しても取り乱すことなく葬儀を取り仕切った父が、たいへん慌てている様子が伝わってきました。
パートナーを亡くして落ち込んでいるであろうとゴルフ仲間たちに誘われて参加した大会での出来事でした。
ただ、電話を受けた私としては、そのすごさもわかんないし、とにかく、まだ母が死んでひと月しか経っていないわけです。
なにしてんの?って思っちゃうわけですよ。
植樹してる場合じゃないですよ。
「いやぁ、思い浮かべたイメージ通りに、ずーっと進んでなぁ」
「ああいうのがゾーンに入るって言うのかな」
ゾーンに入る…、80歳を過ぎた父の口から放たれた予想外の言葉に絶句してしまいました。
あれから、7年が経ちましたが、父は今もゴルフを続けています。
健康のためにはもちろん、仲間との時間は何よりのリフレッシュですから、応援しているのですが、しかし、あんまり頑張りすぎないで欲しいなとも正直、思っているのです。
くれぐれもゾーンにだけは入らないようにしていただきたいと心より願っています。
