倫理の非言語領域
倫理・道徳の感覚が一体いつからサピエンスに芽生えたのだろうか。それはおそらくサピエンスが言語を獲得するよりもずっと前の話だろう。(「サピエンス」とは、私たち人間のことです。)
犬や霊長類をはじめ、他の動物たちを見ていても倫理は存在している。自分の子供が他の動物に捕獲されそうになれば、母親は守ろうとするし、時には戦いもする。これは動物が本来持つ倫理である。つまり、「守りたい」「助けたい」という気持ちは、言葉で考える前に、体や感情が先に動いてしまう反応だ。
サピエンスが倫理を言語で表記し、その意味を言語化した時、その実態は虚構になってしまう一面がある。言語化には常に真実と嘘の二面性が存在する。たとえば「私は常にうそしか言わない」と言う人がいたら、その言葉は正しいのか、うそなのか、わからなくなってしまう。この人が本当に真実を語っていれば、本当のことを言っていてうそしか言わないという意味が通らなくなる。逆にうそをいっていれば、真実を言っているので、意味が矛盾する。言葉はとても便利だが、同時に矛盾を生み出してしまう。
言語は時空を超えて意味を伝達することもできるが、一方で事実を虚構化し、悪に正当性を与えもする。政治家が明らかな侵略や欺きを行っていても、レトリック(うまい言い回し)によって正当化していくプロセスは、言語の二律背反性を利用している賜物である。難しく聞こえるが、要するに「言葉の使い方次第で、悪いことも正しいことのように見せられる」ということだ。
言語によって説明がなされる限り、必ず悪はその居場所を獲得する。
倫理的行動を行う時に、その行動が言語によって定義される場合がある。法の支配などがそれにあたる。法とは倫理を言語化した存在であり、正義の定義でもあるが、逆に悪に居場所を与える根拠にもなってしまうという事だ。
現在の世界情勢を見ていると、法の支配が揺らいでいる。それは言語によって、正義が定義されているからともいえる。「国際法に違反している」「法律を犯している」と言われる悪事は、言語によって区切られることで、逆に“議論の対象”として居場所を与えられてしまう。
仮に言語化できない倫理によって秩序が維持されようとするのであれば、悪事は誰かの倫理によって排除されるはずだ。誰かを痛めつけようとするものがいれば、ほかのだれかが止めに入る。これは説明されなくても、多くの人が「おかしい」と感じる感覚だ。
しかし、言語によって秩序が作られている限り、言語化以前の倫理によって悪事を排除することができなくなる。要するに、ある悪人が特定の人間を殺害しているときに、言語がなければ、その悪人を排除しようとする倫理が私たちの中には自然に生じる。ところが、言語的な秩序があると、「法律上はどうか」「手続きは正しいか」と考えるうちに、その衝動は抑え込まれてしまう。
結果的に言語的秩序を逆手にとる悪人を正当化してしまうことになる。倫理と言語には、そういった悪を増幅させてしまう関係性があるという事になる。仮に言語がなければ、殺人者がいれば、周りの人間がすぐに取り囲み、危険を排除しようとするだろう。これは原始的だが、命を守る方法でもある。
現在の世界情勢の不安定化の裏には、インターネットを媒介とした言語的秩序の急拡大という側面があるだろう。SNSやニュースによって、言葉が一瞬で世界中に広がり、感情よりも「説明」や「正当化」が先に立つ社会になっている。今私たちはこの非言語領域の倫理に注目していくべきだ。言葉にする前に感じる「かわいそう」「助けたい」「それはおかしい」という感覚である。
私たちは言語に慣れすぎてしまったので、この非言語的な感覚について軽視しがちである。しかし実際に社会が保たれているのは、こうした感覚のおかげでもある。人々は不平等な社会にあっても、隣人を助け、人を助けることで心が満たされる。これは法律に書いてあるからではなく、体がそう反応するからだ。これはつまり倫理というものが、私たちの奥深くに刻み込まれていて、言語的な秩序がいかに歪んでも、身体が自然な状態に戻ろうとする力が働くからだ。
カント的な法の支配では、人間は全員が自己利益だけを追求する存在(いわば悪魔)だと仮定される。だからこそ、法で縛る必要がある。
しかし、もし人間が完全な悪ではなく、むしろ善意を持つ存在だとすれば、そこには別の問題が生まれる。悪意を持つ人が、善意を持つ人を利用する構図だ。
その結果、貧富が生まれ、法がその不平等を正当化していく。
言語的秩序がなければ、そのような正当化は成立しにくい。悪いものはただ悪いと感じられ、理由づけは不要になる。非言語的秩序の構築が課題に見える。言葉で説明する前に、悲しみや怒り、助けたいという感情が自然につながっていく仕組み。困っている人を助けるのに、理由はいらない。誰かが傷つけられているとき、正当化など必要ない。
言語による国際法は戦後の平和を支えてきた。しかし今、テクノロジーと情報の拡大によって、その矛盾が限界に達しつつある。サピエンスは、危機に陥るたびに新しい仕組みを生み出して生き残ってきた。
今私たちは、言葉だけに頼らない、新しい世界秩序を模索する局面に立っているのだろう。
