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【読書】デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』❷:ブルシットジョブなお猿の電車かな忘れかけた愛そっと呼び覚ます

■今更ながらのブルシット

斎藤幸平や森永卓郎が本の中で何度もブルシットジョブと書いていたから読んでみた。タイトルからしてキツイ。どうせ世の中はどっちに転んでもブルシットだし、それが理論化されたものを読まされた日には余計にブルシットな気分になりそうだ。
ブルシットジョブには、警察の一時停止違反の取り締まりとか、ハンコとか、道路の中央分離帯や法面の除草作業とか、お役所仕事全般とか、官僚の天下り先での仕事の内容も含まれるのかな。本ではあまり触れられていなかったみたいだけど。
マックジョブなんて言葉が昔からあったし、混同されやすいのではないか。元々難しいことを更にややこしくして面白がっていても仕方がない。
ブルシットジョブは仕事している本人も無駄だと気付いている仕事と定義し直したということか。文芸の力だね。

ブルシットジョブ(グレーバーの定義)は、

給料はそこそこで、
肩書きもあり、
組織内で守られていて、
やっている本人が「これは無意味だ」と気づいていて、
「この仕事が明日消えても、誰も困らない」どころか「消えた方が社会はよくなる」

と当事者が感じている仕事。

この本がきっかけとなって行政改革が進むと良いのだが。
無駄な仕事が減り、税金の無駄が減り、庶民には減税となって還元されれば、それが良い流れだが、行政改革に逆行するようなことだって考えられなくもない。

理想のルートは、

無駄な仕事が可視化され、
官僚制の自己増殖が止まり、
税金の無駄が減り、
減税 or 本当に必要な分野に再配分される。

しかし、ブルシットジョブ論は実は行政改革と相性が悪い危険性もある。なぜなら、

「仕事が無意味だ」という感覚は主観的でそれを測る客観指標がなく、組織は「意味があるフリ」を強化する方向に動けば、その結果、

書類が増え、
KPIが増え、
チェック体制が増え、
「無意味でない証明」のための仕事が増え、
ブルシットジョブ批判が新たなブルシットジョブを生む。
これはグレーバー自身も半ば自覚していた。

カフカ的世界観などと言って、昔からお役所仕事批判はされてきたけれども、現代には面白いゲームやアニメがたくさんあるのだから、カフカなんて読む人はそんなにはいなさそうだ。今更カフカの『城』や『流刑地にて』なんて七面倒臭い本を読もうなどという奇特な心掛けの読者は少なくなってきているだろうから、「ブルシットジョブ」などという毒のある単語を使ったタイトルの本がキャッチーで必要とされる時代になったのだろう。
私も漫画などの軽いものを読んでいたい。読書は肩が凝る。

ブルシットジョブは新しい現象ではなく昔からあったし、カフカやゴーゴリやディケンズも描いている。それを、

「仕事している本人が無駄だと知っている仕事」

と一文で定義した。
これは社会科学というより、文芸的ネーミングの勝利だ。
だから斎藤幸平や森永卓郎の本で何度も引用され、便利な言葉として消費される。

昔は不条理に対して怒りや恐怖があった。今や

不条理はネタや世界観やジャンル。カフカ的世界観でさえも娯楽化しつつある。

だから、

カフカは「重い」
ブルシットジョブは「キャッチー」

毒のある単語でないと、誰も振り向かない。

官僚制は肥大化し、
無意味な仕事は増え、
それを批判する言説が流行り、
しかし構造は変わらず、
また新しい言葉が生まれる。

批判すら循環するブルシット。グレーバー自身も、この無限ループから完全には逃れられていない。
カフカの時代から遠く離れてもまだ人類は同じことを繰り返しているわけで、それはそれでブルシットなことだ。

官僚制の不条理は半ば「風景化」してしまっている。

だが、この著書は

「無駄だと感じているのは、あなた一人ではない」

ということを言語化した。そこに大きな価値がある。
行政改革の起爆剤というより、自己欺瞞からの解放、働く人の精神的救済であり、その意味では告白文学に近い。

■『車掌の本分』という短編小説がかつて中学校の国語の教材として使われていた

グレーバー的定義で言えばブルシットジョブとは、本人も「社会的に無意味だ」と感じ、失くなっても誰も困らず、しかし存在し続ける仕事。

『車掌の本分』の猿は、自分の仕事が本来は重要だと分かっているが、客が増えすぎて列車が長くなり、最後尾を見守るという本分を果たせなくなったが、それでも「車掌であり続ける」ことを求められる。
客が増えるほど本分が果たせないが、制度は止まず、役割は形骸化し、それでも「仕事をしている体裁」だけは維持される。

この話、今の教科書に載せると厄介になりかねない。

「本分を果たせなくても役割に忠実であれ」
「制度の中で悩みながらも耐えよ」

という読みもできてしまう。今の子供が読むと、

「それって無駄な仕事を我慢しろって話?」

と突っ込まれかねない。
昔は道徳教材だったが、今は制度批判の寓話に変質してしまった。

猿は

「意味を失った仕事に縛られる存在」

として描かれる。だから現代的には、ブルシットジョブの原型のようにも読めてしまう。

『車掌の本分』を読んだ子供たちは、その翌日から、お父さんもお母さんも学校の先生もテレビでニュースを読んでいるアナウンサーも鏡に映る自分自身の姿も、誰もが猿の車掌のように見えてくるのかもしれない。誰もがお猿の電車に乗せられて行き、もうどこへも戻れない。


ヒルトンナリタ

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