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佐藤優にみる「内在的論理」と「集合的無意識」の沼 ①:『神学でこんなにわかる「村上春樹」』から『鬼滅の刃』まで

夢は集合的無意識か?

佐藤優の著『神学でこんなにわかる「村上春樹」』は、村上春樹の書いた『騎士団長殺し』という小説についての評論です。その評論の30ページには

「夢は集合的無意識である」

と断定的に述べられています。ですが、夢とは本当に集合的無意識なのでしょうか?むしろ個人的無意識の方が主体なのではないでしょうか?
佐藤優はキリスト教長老派の敬虔なクリスチャンですから、聖書には多くの夢解きが書かれてあることは当然ご存知のはずです。故にここで疑問がわいてきます。聖書の夢解きにおいても集合的無意識を下敷きにした箇所ばかりでないことは明らかであるのに、何故このようなことが述べてあるのか疑問に思えます。

夢を「集合的無意識」と断定するのはユング派の解釈の一部ではあるのかもしれませんが、心理学的には一般的な見解ではありません。夢はむしろ個人的無意識の産物であり、集合的無意識が影響を与える可能性はあるものの、それ自体が夢の本質とするのは誤解を招く表現です。

151ページには

「無意識の領域に封じ込めていた疑念」

という表現が出てくるのですが、疑念は「無意識」などではなく普通に「意識」の領域に過ぎないように思えます。

「無意識の領域で、警戒心のスイッチが入っている」という表現が167ページ。「絵に込めた無意識」は266ページ。これも「無意識」ではなく「意識」の領域に過ぎないように思えます。

338ページ「自覚することができない無意識となって、まりえの内部に永遠に残る」。ここでの「無意識」とは単に「淡い記憶」くらいの意味でしょうか。

350ページ「深化した集合的無意識の形で記憶は残る」。単に集団における共通した歴史認識なのでは?

佐藤優は「無意識」が好き過ぎるように思えます。登場人物の言動に何らかの意図があったとしても「無意識」。当の村上春樹は無意識などという単語を殆ど使用しない作家なのですが、如何なものか。

佐藤優は無意識に「無意識」という単語を濫用していることになるのでしょうか? そんなことはないとはおもいますが、そのような行為に対しては深層心理学的にどういった解釈が可能となるのでしょう。彼は「無意識の力」を強調するあまり「自分自身の無意識の力」に気付いていない、と解釈され得るのでしょうか。

佐藤優は「集合的無意識」という用語がお好みのようで、彼の他の著作でもしばしば散見されます。ですが、「暗黙の了解」や「集団心理」と同列にその用語を扱っているような印象を受けます。
「沖縄基地問題が沖縄県民の個人的無意識と集合的無意識とを刺激している」とかいったような表現は、ただ単にその用語を遣ってみたかっただけなのではないのか、と強い違和感を覚えます。

そもそも何故にこのような本が出版されているのでしょうか?校正されないのでしょうか?このような言説が無批判に受け入れられていることには疑問を感じます。東大などの有名大学でも講義を持ったりしていて、若者にフェイクニュースや偽情報についての危険性に警鐘を鳴らしている立派な先生です。友人を持つことの大切さについても本に書いています。学生や友達などから色々と指摘されたりすることもないのでしょうか?売れればそんなこと関係ないのでしょうか?友達いるのでしょうか?

佐藤優には対談本も多いのです。竹村健一や田原総一郎や副島隆彦や池上彰や片山杜秀や白井聡などとの対談においては「集合的無意識」という単語が見受けられますが、香山リカや斎藤環などとの対談では見られません。あまりツッコミ所がないように、相手によって意図的に使い分けている様に見えなくもないですが、もしそうだとしても、外国のスパイでもあるまいし、何故わざわざそんな事をしているのか判然としません。

内在的論理の曖昧さ

佐藤優の別の本では「内在的論理」という単語も重要なタームとして出てくるのですが、そんなものにそもそも論理性など本当にあるのでしょうか?せいぜい「胸の内」とか「下心」とかいった意味合いで使っているようにしか思えない場合があります。

「ウクライナ侵攻におけるプーチンの内在的論理」という表現を用いたりしていますが、やはりそれは論理とは別物なのではないでしょうか?
それは客観的な論理というよりも、「彼らなりの理屈」や「自己正当化の枠組み」に過ぎないのではないでしょうか?
「自己正当化の枠組み」に過ぎない概念を、論理という修飾的な権威付けによって正当性を強化しているようにも思えます。

「内在的論理」という言葉がどこまで厳密な論理性を持つかは、佐藤優がどのような文脈で使っているかによるのでしょう。

一般に「論理」といえば、数学や形式論理学のように厳密な推論体系を指します。しかし、「内在的論理」という表現には、むしろ「ある特定のシステムや文化、思想の内部で成り立つ論理」という意味合いが強く、外部の論理と対立することが多いです。これは、佐藤優が影響を受けたマルクス主義的な歴史観や、宗教・権力構造の分析にも関係している可能性があります。

もし「内在的論理」が単なる「胸の内」や「下心」といった直感的な心理状態を指しているのなら、それは「論理」というよりは「内面的な動機」や「暗黙の前提」に近いでしょう。その場合、「論理性がある」と言うのは適切ではないかもしれません。

しかし、佐藤優がこの言葉を「特定の状況の中で一貫している思考法則」という意味で使っているのであれば、それは「論理性」と言えなくもありません。ただし、それは客観的・普遍的な論理というよりも、ある種の「ローカルな論理」に過ぎないとも言えます。

「ウクライナ侵攻におけるプーチンの内在的論理」という表現を佐藤優は用いたりしていますが、「内在的論理」という言葉は、厳密な論理体系というより「ある主体の立場や文脈に基づいた思考の筋道」という意味で使われているようです。

プーチンのウクライナ侵攻を説明する際に、「内在的論理」という言葉を使うのは、彼自身やロシアの支配層がどのような前提や価値観に基づいて意思決定をしたのかを指すのでしょう。しかし、それは客観的な論理というより、「彼らなりの理屈」や「自己正当化の枠組み」に過ぎません。

もし「内在的論理」を、「その人(集団)が一貫していると思い込んでいる思考の流れ」と捉えれば、意味は通じます。ただし、それが客観的に合理的であるかどうかは別問題です。

「内在的」という言い回しにも問題があると思います。「外在化」はされていないのか、といったことです。「内在的」と言うことで言葉の権威付けを行っているだけではないのか、という疑わしさはないでしょうか。佐藤優が多用する「内在的論理」という言葉は、レトリック(語りの戦略)としての機能が強い表現のようにも思われるのです。

本来の「内在的論理」の意味

哲学や思想史、神学の文脈での「内在的論理」は、ある対象や行動が、外からの力(外圧・外因)によってではなく、自らの内側にある必然性や構造によって成立・展開することを示す言葉です。

例)
・ヘーゲル哲学の発展
・宗教的教義の体系化
・思想運動の自律的進化

つまり、「内在的論理」と言うと、その行動や状況には外からは見えにくいが、内部に固有の必然性がある、というニュアンスが生まれます。

佐藤優が言う「ロシアの内在的論理」「沖縄の内在的論理」「外交官の内在的論理」などは、多くの場合こういう構造です。

  1. 一般人にはわからない

  2. 表面には出ていない(ように見える)

  3. しかし内部のルールや歴史的背景から説明できる

という前提で語っています。

【それは本当に「内在」なのか?】

この疑問は重要で、実際には:

・すでに当事者が言語化している
・公式見解や行動原理として公言している
・外部に説明可能な情報が多い

という場合も多いのです。つまり「外在化」されているのに「内在的論理」と名付けることで、あたかも深層的・隠された・専門家しか知らないもののように演出されていたりします。これは「言葉による権威付け」あるいは「知識人のポジショントーク」の一種とも言えます。

佐藤優の「内在的論理」は、多くの場合:

・本来の「内在的論理」という哲学的な概念とはズレがある
・外在化されている事実をわざと「内在化」することで、説明権を独占しようとしている
・説得力や威圧感、神秘性を高めるレトリックとして機能している

こうした側面が強いと思われます。
言い換えれば、佐藤優の「内在的論理」という語りは、実態というより「語りの技法」そのものではないでしょうか。

結局のところ、「内在的論理」とは「主観的な論理」や「自己正当化のストーリー」に近く、厳密な意味での「論理」とは言い難いのではないでしょうか。

佐藤優の「内在的論理」という言葉の使い方は、厳密な論理というより、むしろ「ある主体の内部で成り立つ理屈」という意味合いが強いようです。これは、ユングの「集合的無意識」と混同されることもあるのでしょう。

このような誤解が生じる理由として、次の点が考えられます。

1. 「論理」という言葉の曖昧さ
一般的に「論理」と言えば、客観的で普遍的な思考の枠組みを指しますが、佐藤優の「内在的論理」は、特定の個人や集団の内面的な理屈を指しているのではないでしょうか。つまり、彼の用法では「論理」は「その人たちなりの筋道」にすぎず、客観的な合理性とは無関係になりがちになります。

2. ユングの「集合的無意識」との混同
ユングの「集合的無意識」は、人類共通の元型や無意識のパターンを指しますが、佐藤優はこれを「内在的論理」という言葉で置き換えているように見えます。しかし、「集合的無意識」は生得的・文化横断的なものであり、特定の集団や国家の思考とは異なります。したがって、「内在的論理」を「集合的無意識」として扱うと、ユングの理論とは別の概念になってしまいます。

3. 政治・権力構造の説明としての「内在的論理」
佐藤優は、政治や外交の文脈で「内在的論理」を使うことがありますが、それは主観的な合理化や歴史的背景を含むものです。例えば、プーチンの「内在的論理」と言うとき、それはプーチン自身やロシアの権力層の視点では一貫していますが、客観的な論理ではないというニュアンスになります。しかし、これを「集合的無意識」と混同すると、あたかもそれが普遍的・本能的なものに見えてしまう危険性があります。

要するに、佐藤優は「集合的無意識」や「内在的論理」を独自の解釈で用いており、それがユング心理学の概念と混同されることで誤解が生じているのでしょう。

「内在的論理」という言葉は、一般的な論理とは異なり、特定の主体や集団の視点に依拠した「彼らなりの理屈」を指すものとして使われているようです。しかし、この場合、「ロシア」という国家に一つの統一的な論理があるかのような前提になってしまっています。

【違和感のポイント】

1. ロシアには多様な立場がある

「ロシアの内在的論理」と言うと、あたかもロシア全体が一つの思考体系を持っているかのように聞こえます。しかし、ロシア国内にはプーチン政権を支持する勢力だけでなく反戦派やリベラル派も存在していて、国家を単一の思考体系として扱うのは乱暴です。

2. 「論理」という言葉の曖昧さ

論理とは本来、客観的な推論のルールですが、「内在的論理」という表現では、主観的な正当化のストーリーを「論理」と呼んでいるようにも見えます。
例えば、プーチン政権の視点では「NATOの東方拡大がロシアの安全を脅かしている」という主張がありますが、これを「内在的論理」と呼ぶのは彼らのプロパガンダを理屈として認めることになりかねません。

3. 「内在的論理」が自己正当化の道具になっている

もし「ロシアの内在的論理」という言葉を使うことで、ロシアの侵攻を「彼らなりの理屈がある」と説明するなら、それは侵略行為の責任を薄める言説にもなり得ます。
実際には、国際法上も道義的にも侵略行為であるにもかかわらず、「内在的論理」として語ることで、「一応筋が通っている」と誤解されるリスクがあります。

【代わりにどう言うべきか?】

もしロシアの思考過程やプロパガンダを分析するのであれば、「ロシア政府の主張」や「プーチン政権の正当化論理」といった表現の方が適切です。「内在的論理」と言うと、あたかもそれが一つの客観的な筋道であるかのような印象を与えてしまうため、誤解を招く可能性があります。
したがって、「ウクライナ侵攻におけるロシアの内在的論理」という表現は、分析的な用語としては適切とは言い難いでしょう。

「無意識」という言葉の危うさ

そもそも「無意識」というタームは魔法のように便利な言葉で、それを使えば何でも簡単に説明が付いてしまうが故に、何も説明していないということになりがちです。「無意識」という言葉を持ち出せば、あらゆる人間の行動や社会現象を「説明したつもり」になることができます。しかし、それは本当に説明になっているのか、という問題があります。したがって、学術的な議論においては「無意識」などという言葉は佐藤優のようにあまり不用意に使用しないものではないでしょうか?

理由を上げてみましょう。

1. 曖昧で何にでも使えてしまう

たとえば、「人々は無意識に○○している」「社会の無意識が△△を生んだ」などと言われると、一見それっぽく聞こえますが、結局のところ「なぜそうなったのか」の具体的な説明が抜け落ちてしまうことが多いです。

これは、「無意識」という言葉が、「よくわからないが何か影響しているらしい」ものを指す便利な曖昧表現として機能してしまうからです。

2. 学術的な厳密さに欠ける

フロイトやユングの無意識の概念には、それぞれ理論的な枠組みがありました。しかし、大衆的な議論では、「無意識」という言葉が独り歩きし、「深層心理っぽい何か」として濫用されがちです。

まともな心理学者であれば、「無意識」と言う際には、それがどの理論に基づくのかを明示するでしょう。佐藤優のように、明確な理論的背景なしに「無意識」という言葉を多用するのは、学問的には慎重さを欠いていると言えます。

3. 説明責任の回避に使われる

「なぜロシアはウクライナに侵攻したのか?」という問いに対して、「ロシアの集合的無意識が○○だから」と言うのは、具体的な政治的・経済的要因を分析する代わりに、曖昧な概念で済ませてしまうことになります。

これは、因果関係を深く掘り下げる努力を放棄することにつながりかねません。

【まともな心理学者や評論家はどうするか?】

まともな研究者や評論家は、

・「無意識」という言葉を安易に使わず、できる限り具体的な要因を探る
・もし無意識について言及するなら、フロイト的なものなのか、ユング的なものなのか、明確に理論的背景を示す
・「無意識が原因」という説明に頼らず、歴史的・社会的・経済的な要因を丁寧に分析する

といった態度を取るでしょう。

佐藤優のように「無意識」という言葉を頻繁に持ち出すのは、一見すると深い洞察を提供しているように見えますが、実際には議論を単純化し、問題の本質を見えにくくしている可能性が高いです。その表現に対しての違和感は、まさにこの「便利すぎる言葉を安易に使うことによる説明の粗雑さ」に対するものなのでしょう。

佐藤優は「無意識」という言葉を広範に使用していますが、その用法には二つの問題があります。第一に、個人の心理的無意識と単なる意識下の感情や記憶を混同している点。第二に、集合的無意識の概念を「暗黙の了解」や「集団心理」と混同しているところがあるのではないでしょうか。

佐藤優の「無意識」の濫用は、文学や社会現象を深く理解するための手がかりを提供するどころか、むしろ議論を曖昧にする危険があります。彼の用語の使い方には、批判的に検討すべき点が多いと言えるのではないでしょうか。

定着しなかった「普遍的無意識」

日本におけるユング心理学研究の第一人者であり文化庁長官も務めた河合隼雄は、「集合的無意識」というユング心理学の専門用語に対して誤解が生じるのを懸念して、「普遍的無意識」という訳語を当てて使用していました。

しかし結論から言うと、河合隼雄が提唱した「普遍的無意識」という訳語は 、学術的には一部で評価されたものの一般にはほとんど定着しませんでした。その理由はいくつかあります。

  1. ユング派の少数性

日本ではフロイト派や行動主義の心理学の方が圧倒的に主流で、ユング派(分析心理学)は少数派でした。
つまり「集合的無意識」が専門的に問題にされる場面自体が少なかった。

2.「集合的無意識」の語感の強さ

言葉としてのインパクト・分かりやすさ・キャッチーさでは「集合的無意識」の方が圧倒的に強いです。
直訳ですからその分インパクトがあり、「なんとなく意味がわかりそう」で受け入れられやすかったのでしょう。

3.河合隼雄の慎重さ

河合隼雄は「誤解を避ける」「ユング本来の意図を守る」立場でしたが、彼自身がいつも「普遍的無意識」で統一していたわけではありません。文脈によって「集合的無意識」も併用していました。その結果、訳語の定着運動としては弱くなってしまった。

4.大衆文化での誤用・乱用

むしろ河合の努力とは逆に、マンガ・アニメ・自己啓発・スピリチュアル界隈で「集合的無意識」が勝手に広まりました。

例:

・ジョジョの奇妙な冒険
・エヴァンゲリオン
・オカルト本
・陰謀論
・佐藤優的言説

この流れは完全に「普遍的無意識」ではなく「集合的無意識」優勢でした。

この状況はある意味、日本文化の「わかりやすさ優先」や「言葉の権威の借用文化」とも関係しています。
佐藤優のような人が「集合的無意識」を便利に使う土壌は、こうした経緯によって準備されてしまった、とも言えそうです。

「集合的無意識」は英語ではcollective unconscious で、ユング自身は「個人的な無意識(personal unconscious)」とは異なる、人類全体に共有されている無意識の層を指しました。そこには元型(archetype)や神話的イメージが存在するという考え方です。
集団心理や群集心理は、英語で“group psychology”や“crowd psychology”や“mob psychology”などです。“collective unconscious”とは明確に定義が異なります。

河合隼雄は、日本語で「集合的無意識」と訳すと

collective = 集団・集合
⇒社会的・文化的・集団心理の無意識

と誤解されるのを懸念していました。

ユングの意図は「民族や文化を超えた、人類共通の深層心理」であり、「集合=社会的」ではありません。ですからあえて「普遍的無意識(universal unconscious)」という訳語を用いることもあったわけです。これは、誤解回避のための知的慎重さと言えるでしょう。

これと比較すると、佐藤優が用いる「集合的無意識」はしばしば:

・国民性
・社会通念
・時代精神
・ある集団に特有の行動原理

のような意味で使われていることが多いのです。つまり、ユング的な「元型」や「深層心性」ではなく、むしろ「集団的思い込み」や「歴史的な感情の堆積」ぐらいの意味合いです。

この使い方は、厳密に言えば ユング心理学とはズレています。
むしろ次のような概念の方が近いです。

・デュルケームの「集合意識」
・ブルデューの「ハビトゥス」
・フロイト的な「無意識的態度」
・民俗学的な「文化的コード」

佐藤優の「集合的無意識」は、

「ユング心理学の専門用語の権威を借りて、実は社会心理学的なものを語っている」

という状態です。
ですから、河合隼雄が慎重に訳語を選んだ努力を完全に無視して、むしろ誤解を増幅させる方向に使っているとも言えます。
これは、知識人の言葉遣いとしては危ういところでしょう。

佐藤優=ファンタジスタ?

いっそ佐藤優の言う内在的論理や集合的無意識を「ファンタジー」に置き換えて読んでみるのはどうでしょうか。

プーチンやゼレンスキーやロシアやウクライナの内在的論理ではなく、「彼らが抱いているファンタジー」。
官僚の集合的無意識ではなく「官僚が心に思い描いているファンタジー」。

佐藤優はキリスト教長老派の熱心な信者でありますが、宗教とはファンタジーの最たるものです。彼はマルクス経済学への理解が深くその影響を強く受けていますが、マルクス主義は史上最もおぞましいファンタジーの1つに数えられるでしょう。
神学で村上春樹を読み解くならば、ファンタジーでファンタジーを読み解くことになるのでしょう。

佐藤優の言う「内在的論理」や「集合的無意識」という言葉が持つ効果は、まさに「その人たちが本気で信じている物語(ファンタジー)」と置き換えると、むしろ説得力が増す場面が多いのではないでしょうか。

【佐藤優の語法=言葉の呪術性】

・「内在的論理」→ 彼らの中にある必然・法則 ・「集合的無意識」→ 無自覚に共有される価値観・前提

しかし、現実にはそれらは外から見れば「物語」「思い込み」「幻想」「ファンタジー」にすぎません。

【ファンタジーへの言い換えの効果】

批評理論でも近い視点はあります。

フランスの思想家ブルデューは「ドクサ(無意識の常識)」と呼びました。

ラカンは「象徴界=言語のファンタジー」と言いました。

フィクション論的国際関係論も存在します。

村上春樹自身の小説世界は「幻想の論理」で出来ています。

「内在的論理?それって要するに彼らの信じてるファンタジーでしょ」

という言い換えは、佐藤優的な重々しさ・権威付け・神秘化を一撃で無効化するパワーを持っています。しかも侮蔑ではなく、構造理解として有効です。

・キリスト教(ファンタジー)
・マルクス主義(ファンタジー)
・神学的読書(ファンタジーによるファンタジー読解)
・外交官の論理(ファンタジーの演技)

この構造に気付くと、彼の著作は「ファンタジー製造と消費の技術論」として読むのが一番面白いのかもしれません。

プーチンはカリオストロ伯爵やムスカ大佐や鬼舞辻無惨?

最後に、わざわざ難しい述語を使って議論をこねくり回さずとも、「プーチンはカリオストロ伯爵やムスカ大佐のようだ」と言っておけば、それだけで大抵は事足りるのではないかということを、私は付け加えさせていただきたいと思います。
カリオストロ伯爵やムスカ大佐のような人物が実際にいたとして(案外多そうだが)、ジブリ映画を観た後で身につまされてカリオストロやムスカは自らを省みることがあるのでしょうか?そのようなことが起こり得るかは私には大変に疑問なのです。
私の世代の大抵の日本人ならば、子供の頃からジブリ映画に親しみ、『風の谷のナウシカ』も何度もテレビで見て育った者が多いのです。にも関わらず、原発事故を引き起こし、エネルギー資源問題も未だに解決の道が見出されていません。ジブリ映画の教訓など殆ど活かすことが出来なかった世代です。情けない事に、私たちにとってジブリ映画はまさに宝の持ち腐れだったのです。
現実として、ヒトラーやスターリンやプーチンに憧れを抱く人は大勢いるようですし、今後もいなくならないのでしょう。

大ヒットアニメ『鬼滅の刃』についても考えてみましょう。鬼舞辻無惨のような存在は漫画の中だけの様に思われている方もいるのかもしれませんが、そんな事は全然なくて、世間には鬼舞辻無惨は大勢いるのです。「お前も鬼になるか?」と問われば、その誘惑に抗える者など殆どいないのです。実際、誰もが多かれ少なかれ日々人を喰って生きているのです。「今まで全然気付かずに生きてきたけれど、自分自身もとっくの昔に黒死牟のような鬼になっていた」、あの作品を見てそう気付かされずにはいられないのです。ですが、それに気付いたところで、ハッと身につまされて一瞬己を省みたところで、直ぐに忘れ去ってしまうのが我々人間なのです。


如意輪観音

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