大型ショッピングモールは戦場である!
家族それぞれの思惑が交錯し、欲望が隠された戦場では、緻密な計画すら混沌に飲み込まれる。
ここでは、無数の誘惑が罠となり、予測不能な一撃が戦局を覆す。
その戦場の名は――ショッピングモール。
序章:それぞれの目的
日曜の朝、沖田家のリビングは、一見穏やかな空気に包まれていた。しかし、その水面下では、家族それぞれの思惑が複雑に絡み合い、静かな火花を散らしていた。
「なあ、みんな。今日は家族全員で、新しくできたショッピングモール『クロスガーデン越野』に行かないか?」
口火を切ったのは、父・沖田龍之介(46)だった。
「やったー!ゲーム売り場、ある!?銀河クレープも食べたい」
真っ先に反応したのは麟(11)だ。彼の頭の中は、すでに最新作「スペースウォーズ・レジェンド」のことでいっぱいだった。
「ふーん。まあ、友達の誕生日プレゼント探さなきゃいけなかったし、ちょうどいいけど」
彩夏(17)はクールに答えつつも、その目は口ほどに物を言う。彼女のミッションは、予算3千円以内で、友人から「センスいい」と絶賛されるプレゼントを見つけ出すことだ。
(よし、食いついた…!)
龍之介は内心でガッツポーズを決める。彼の表情は、家族サービスに徹する理想の父親そのもの。しかし、その瞳の奥には、個人的な野望が燃え盛っていた。
(1万5千円のキャンプチェア…。これを真正面から購入申請しても、我が家の財務大臣である紀恵の厳格な審査を通過できる見込みはない。交渉という名の駆け引きを挑む前に、すでに結果は見えている。真の目的達成とは、相手に気づかれずして事を成すことにある。これぞ兵法の極意なり…!)
彼の目的はただ一つ。3階のアウトドア用品店で最新の軽量チェアを家族に気づかれずに購入し、後日自宅へ郵送する手続きまで完了させることだった。
「あら、いいわね」
妻の紀恵(46)は穏やかに応じつつ、スマートフォンを手に取った。
「どんなお店が入っているのかしら、ちょっと見てみるわね」
あくまで自然な流れで、彼女は情報収集を開始する。公式サイトをスクロールしていた指が、ふと止まった。そして、目の色が変わる。
「本日限定!パティスリー・ラ・シーム、『月光のフロマージュ・クリュ』特別販売!」
詳細を読み進めると、胸が躍るような情報が記されていた。
【※大変な混雑が予想されるため、購入整理券を配布いたします。配布場所:1階中央広場/配布時間:13時50分より/販売開始:15時00分より】
(なるほど…決戦の地と時刻は確定しているのね。問題は、そこに至るまでの行程、すなわち家族の誘導と時間管理ね…)
紀恵は瞬時に思考を切り替え、何食わぬ顔でスマートフォンを置いた。
「楽しそうなお店がたくさんあるわ。ええ、行きましょう」
龍之介が仕掛けたつもりの一日で、彼女はすでに、自らの目的を定め、動き始めていた。
第二章:計画通りの午前
巨大な駐車場を抜け、クロスガーデン越野に足を踏み入れた沖田家。ガラス張りの天井から柔らかな陽光が降り注ぐ、広大で開放的な空間が彼らを迎えた。
遠くには、このモールの心臓部である吹き抜けのイベントスペース『四季の広場』が見え、その規模の大きさに麟が「うわー、すげえ!」と声を上げる。
龍之介の指揮のもと、午前中の予定は順調に進んだ。彩夏(17)のプレゼント選び、麟(11)のおもちゃ売り場偵察…。龍之介は的確なアドバイスで、家族からの信頼を着実に積み上げる。しかし、彩夏はなかなか決定打を見つけられずにいた。
昼食時、フードコートはすでに満席状態。席を確保できずに右往左往する家族連れを尻目に、龍之介は動かない。
「慌てるな。全体の動きをよく見ろ。12時30分を過ぎれば、第一波が引く。我々が狙うのは、窓際の4人掛け。あそこの家族は、すでに食後のデザートに手をつけている。タイムリミットは5分と見た。それまで付近でさりげなく待機だ。」
彼の予測通り、5分後には絶好のロケーションの席が空いた。龍之介はすばやく滑り込み、座席確保に成功。その完璧な采配に、家族の満足度は高まっていく。この時点では、まだ誰もが、それぞれの目的を達成できると信じていた。
第三章:伏兵の奇襲
昼食後、紀恵は家族に宣言した。
「じゃあ、ここからは少し別行動にしましょうか。私は麟と一緒におもちゃ売り場をもう一度見てくるわ。お父さんは…」
「う、うむ。俺は少し上の階を見てこようと思う」
龍之介は、あくまで自然を装い、3階へと向かうエスカレーターに足をかけた。
「じゃあ、私は友達のプレゼント、探してくるから」
彩夏もまた、一人で雑貨店が並ぶエリアへと消えていく。紀恵は麟を連れて、1階の子供服売り場や玩具店を巡っていた。麟の興味を惹きつけながら、彼女の視線は常に時計と店内の案内図を往復している。
(13時50分まで、あと1時間…。麟の注意を逸らさず、いかにして中央広場へ誘導するか…)
彼女は、麟が好きそうなキャラクターのポップアップストアを見つけると、そこに立ち寄ることを提案した。計算通り、麟は目を輝かせて駆け出す。しかし、その一瞬の隙だった。紀恵が店員と商品の在庫について尋ねている、わずか数十秒の間に、麟の姿が忽然と消えた。
「麟?…麟!」
紀恵の顔から、さっと血の気が引いていく。
一方、3階に到着した龍之介は、新進気鋭のアウトドアメーカー『ヒャクテンフラッグ』へと足を踏み入れた。ウッド調の落ち着いた店内には、玄人好みのギアが整然と並んでいる。
(よし…!)
彼は一直線にキャンプ用品コーナーへ向かう。目当ての軽量チェアは、まだ棚に鎮座していた。安堵した龍之介が、まさにそのチェアを手に取ろうとした、その時だった。
「おお、沖田さんじゃないか!奇遇だなあ!」
背後から響いた地響きのような声に、龍之介の心臓が跳ね上がる。
(この声は…!まさか…!)
振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた男が立っていた。沖田家の隣人、轟雷太(47)その人であった。龍之介の顔が引きつる。悪人ではない。むしろ好人物だ。しかし、その豪快で細かいことを気にしない性格が、これまで幾度となく龍之介の緻密な計画を(本人の無自覚のうちに)破壊してきた。いわば、歩く天災のような男。
「と、轟さん…!奇遇ですね…」
龍之介は冷や汗をかきながら、なんとか笑顔を取り繕う。
「いやあ、驚いたぜ!こんなところで会うなんてな。沖田さんもしかして、キャンプ用品でも見に来たのか?」
「え、ええ、まあ、そんなところです。轟さんは、お一人ですか?」
「おうよ!嫁さんと子供たちにフラれちまってな。せっかくだから、新しくできたモールを偵察しに来たってわけよ!」
(まずい…!よりによってこのタイミングで、歩く天災に捕捉された…!)
龍之介の焦りをよそに、轟は目当てのチェアにどっかりと腰を下ろした。
「いやあ、このチェア、座り心地いいなあ!俺もキャンプ始めようかなあ。なあ、沖田さん、キャンプの魅力って何なんだ?」
早く会計を済ませたい龍之介を捕まえ、轟の質問攻めが始まった。龍之介は冷や汗をかきながら、当たり障りのない返答を繰り返すしかない。
その時、轟が店内の別の商品に目を輝かせた。
「おお、沖田さん!見てくれよ、この頑丈そうなタープ用のポール!」
轟は長さ2メートルのポールを手に取ると、あろうことか、その強度を確かめるように豪快に振り回し始めた。
ガシャーン!という轟音。ポールは商品棚に激突し、大量のクッカーが床に散乱する。
近くでプレゼントを探していた彩夏も、その音に驚いて駆けつけてくる。
「お父さん、何してるの…」。
龍之介は、天を仰ぎ、静かに目を閉じた。
(終わった…)
今日ショッピングモールに来た本来の目的が、この男の無邪気な一振りによって、不達に終わった瞬間だった。店中の視線が突き刺さる中、龍之介のスマートフォンが鳴った。紀恵からの連絡だった。
紀恵の切羽詰まった声が、電話口から響く。
「お父さん、大変!麟がいないの!」
第四章:時すでに遅し
「なにっ!?」
チェアのことなど、一瞬で頭から消し飛んだ。
「分かった、すぐ行く!今、彩夏も一緒だ!」
龍之介は叫ぶと、店員に平謝りする轟を残し、彩夏を連れて紀恵のもとへ急いだ。
沖田家は、それぞれの目的を諦め、麟の捜索という最優先事項のために、合流した。
「まずは落ち着こう。麟の行動原理を考えれば、活路は開けるはずだ」
龍之介は、パニックになっている紀恵を制し、冷静に情報を引き出す。
「紀恵、最後に麟が何をしていたか、具体的に教えてくれ」
「『探検、探検』ってしきりに言ってたわ…。」
そのキーワードに、龍之介の脳内のデータベースが閃光を放った。
(子供の行動パターン、麟の『探検』という言葉、そうか…。間違いない)
龍之介は断言した。
「あいつは、はぐれたのではない。自らの欲望に基づき、親の監視を突破したんだ。最終目的地は、きっとあそこだろう。全速力で確保に向かうぞ」
彼の推理通り、1階の銀河クレープ屋の前で、メニューをうっとりと眺めている麟が発見された。一家が安堵したのも束の間、紀恵は本来の目的を思い出し、子供たちを龍之介に任せ1階中央広場へと疾走した。
しかし、ポップアップストアの前には、無情にも「本日の整理券配布は終了いたしました」の看板が。彼女はがっくりと膝から崩れ落ちた。
エピローグ:予期せぬ戦果
意気消沈した沖田家は、作戦の失敗を認め、モール内の休憩エリアに集っていた。テーブルには重苦しい沈黙が流れる。
龍之介はチェアを失い、彩夏はプレゼントを買いそびれ、紀恵はチーズケーキを取り逃がした。麟だけが、銀河クレープを手に入れ満足そうだ。
その時、彩夏が、口いっぱいにクレープを頬張る麟の胸ポケットから、くしゃくしゃの紙片がはみ出しているのに気づいた。
「麟、それ、何?」
「ん?ああ、これ?」
麟は口の周りをクリームだらけにしながら、その紙を彩夏に渡した。
「なんかさっき、人がいっぱい並んでたからレアカードかと思って貰ったんだけど、全然違った。ただの紙切れ」
彩夏が何気なくその紙片を広げると、その目に信じられない文字が飛び込んできた。
【パティスリー・ラ・シーム 『月光のフロマージュ・クリュ』 購入整理券 No.7】
「お母さん、これ…!」
彩夏から手渡された整理券を見て、紀恵は言葉を失う。絶望の淵から一転、最も予測不能なメンバーの、最も意図せざる一撃によって、沖田家は奇跡的な勝利を手にしていたのだ。
その夜、沖田家の食卓には、家族の誰もが夢見た『月光のフロマージュ・クリュ』が鎮座していた。
「うまっ!なにこれ!」
「本当…とろけるわね…」
家族の幸福な笑顔の中心で、龍之介は手帳を取り出し、今日の出来事を記録した。
【日曜日・ショッピングモールにて:個人的目標は未達。しかし、予期せぬ支援により、一部目標は達成。総合的評価、A】
そして、彼は新たな教訓を書き加えた。
【物事の成否は、時に最も予測不能な要素の、意図せざる支援によって決まることもある】
すると、紀恵がすっと小さな紙袋を差し出した。
「はい、今日のMVP報酬よ。麟を見つけてくれてありがとう」
中身は、龍之介が欲しがっていたアウトドアのメーカーの、チェアを象った小さなキーホルダーだった。
「本物は、次のボーナスが出たら、要相談ね」
龍之介は、キーホルダーを手に取り、照れくさそうに笑った。
「なんだ、お見通しだったのか」
計画が崩壊した先で手に入れた、ささやかで、しかし何物にも代えがたい一日の終わりに、彼は満足感を噛みしめていた。
ー完ー
