【1秒の世界】映画『関心領域 The Zone of Interest』
■あらすじ
空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。
そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。
時は、1945年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。
スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。
しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。
壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?
平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?
そして、あなたと彼らとの違いは?
■生きることは、知ること。
アウシュビッツ強制収容所のすぐ隣に住む、所長一家の生活を描く、ホロコースト映画。
アカデミー賞2冠 5/24公開『関心領域』予告編
虐殺の様子は、なにも映さず。
美しい庭園の向こうから流れてくる小さな銃声や叫び声だけを観客に感知させ続ける105分。
5月24日(金)公開『関心領域』特別映像
まさに、
「板子一枚下は地獄」
を地で行く作品。
5月24日(金)公開『関心領域』特別映像_リアルを追求した撮影舞台裏
絶賛上映中『関心領域』特別映像 _監督らが明かす“本編に込めた希望”
絶賛上映中『関心領域』特別映像_俳優が明かす撮影の裏側
■悪の凡庸さ
画面に映らないだけで、1本の映画内で、殺された人間の数で言えば、最多クラスです。
その結果、最後には、アーレントが言う
「悪の凡庸さ」(※)
が、強烈に立ち上がってくるあたりが、見どころになっています。
※印:
「悪の凡庸さ」
とは、ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントが、ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンを形容した言葉です。
「悪の凡庸さ」
とは、動機や信念、悪魔的な意図を持たない、ごく平凡な人間が、思考や判断を停止して、外的規範に盲従することで、世界最大の悪を犯すことを指します。
アーレントは、アイヒマンが、歯車のように、命令に従っただけという理解を、否定していましたが、多くの人が、誤解し続けています。
▶参考図書①
「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告【新版】」ハンナ・アーレント(著)大久保和郎(訳)

「〈悪の凡庸さ〉を問い直す」田野大輔/小野寺拓也(編著)香月恵里/百木漠/三浦隆宏/矢野久美子(著)

「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」(岩波ブックレット)小野寺拓也/田野大輔(著)

「精読 アレント『全体主義の起源』」(講談社選書メチエ)牧野雅彦(著)

「悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える」(NHK出版新書)仲正昌樹(著)

▶参考記事
特集「ホロコーストはなぜ起きたのか?~『悪の凡庸さ』を問い直す」田野大輔(甲南大学教授)
https://www.tbsradio.jp/articles/83720/
▶参考資料
■無関心な人びと?
人は、
「自分自身の関心」
を持つ範囲の中で生きている。
「関心のないこと」
は、例え、目の前に置かれていたとしても、気がつかないものである。
▶参考図書②
「無関心な人びと 上下」(岩波文庫)A. モラーヴィア(著)河島英昭(訳)

「無関心な人々の共謀」ヤセンスキー(著)江川卓/工藤幸雄(訳)

「ナショナリズムとナショナル・インディファレンス 近現代ヨーロッパにおける無関心・抵抗・受容」マールテン・ヴァン=ヒンダーアハター/ジョン・フォックス(編著)金澤周作/桐生裕子(監訳)

「危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて」(文春新書)若松英輔/山本芳久(著)

「おれは無関心なあなたを傷つけたい」村本大輔(著)

「無関心にいる」
と書いたけれども、
「気がつかないふり」
をしているのかもしれないし、
「気がついていないふり」
をしていることすら、隠しているのかもしれません。
映画を観ていて、思い出したのが、2006年に、ロサンゼルスで開催されたバンクシーの個展
『Barely Legal(かろうじて合法)』
には、37歳のインド象
「Tai」
が展示物の1つとして設置され、象の身体に、周囲の部屋の壁紙にあわせて絵柄が描かれていました。
展示では、多くの人が無視している貧困などの重要な問題に目を向けることを意図しており、
「問題があっても、誰もその問題について触れようとしない」
という英語の慣用句
「Elephant in the room」
のメタファーとして、象を設置していたそうです。
なお、Oxford英英辞典は、
「the elephant in the room」
を、次のように説明しています。
ー
A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion
ー
つまり、
「elephant」
は、そこにいる人が、みな重要と問題と認識していながら、
「敢えて触れずにいる」
そういう議題を指す比喩のことであり、日本語だと、その場の雰囲気や相手の感情、態度などを察して、適切な行動をとることを意味する
「空気を読む」
に近くて、特に、協調性を重視する日本では、強く求められる技術であり、互いに、空気を読みながら会話をすることで、コミュニケーションが円滑に進むことができます。
「空気を読む」
能力は、心理学では、
「社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)」
と呼ばれ、習得可能なものとして捉えられていましたね。
▶バンクシーの絵一覧35選とその意味を解説
動物管理局から、事前に、象の展示に出品する許可を得ていたものの、動物保護団体の活動から苦情を受け、展示の最終日には、象のペインティングは消えていたそうです。
象の所有者は、虐待の主張を拒否し、この象は、さまざまな映画に出演しており、身体を化粧されていることに慣れていると話していました。
また、ロサンゼルス滞在中のバンクシーは、アナハイムにあるディズニー・ランドでも作品を設置していました。
バンクシーは、乗り物の1つビッグサンダーマウンテン鉄道の敷地に、グァンタナモ米軍基地の拘留キャンプの赤い囚人服を着た人形を設置。
関係者が気づくまで、90分ほど、そのままだったそうです。
バンクシーの広報は、この人形について、キューバで物議をかもしている、拘留所内にいるテロリスト容疑者の苦境を、表現したものだと話していました。
また、展覧会では、バンクシーが、実際に、テーマパーク内に、人形を設置しているところを、撮影したビデオも上映されていたそうです。
■「Zone of Interest」とは?
第二次世界大戦時に、ナチス・ドイツが設置した強制収容所。
その強制収容所設置の際に確保される周辺地域「Zone of Interest」は、基本的に、強制収容所の周囲40平方km(4000ヘクタール)の区画で、そこに、もともと住んでいた人たちは、排除され、農地も接収されました。
ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市に設置されたアウシュヴィッツ強制収容所の「Zone of Interest」は、そのエリア内を、親衛隊が厳重に監視し、現場指導していたのが、ルドルフ・フェルディナント・ヘスです。
映画は、ヘスと、その家族の「Zone of Interest」での日常を描いています。
アウシュヴィッツ強制収容所の凄惨な様子は、直接描かれていないけれど、時に微かに、時にはっきりと、遠くの叫び声や銃声、犬の吠える声でスクリーンは満たされ、鑑賞しているこちら側は、否応なしに、その場面を想像させられます。
にもかかわらず、壁一枚隔てた家に住むヘスの家族たちは、前述のバクシーの「象」を見ていません。
いや、収容者たちから搾取した物品(口紅、香水、義歯までも)を生活の中で使っているヘスたち一家は、気づいていないわけではなく、そこに意識を向けないことに集中しているかのようでした。
ジョナサン・グレイザー監督が、物語の唯一の希望の光として描いたりんごの少女が出てきます。
収容者のために林檎を土に埋めていた少女は、実在のモデルがいて、アレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェックという人物です。
アレクサンドラは、12歳の時に、ポーランドのレジスタンスの一員として活動し、度々、収容者に食事を与えていたそうです。
その話を聞いた監督が、アレクサンドラの物語を書くことを決意したとのことでした。
この映画で考えさせられるのは、わたしは、わたしたちは、どちらにもなりうるはずであること。
ヘスにも、アレクサンドラにも。
戦時下という異常な状態で、その選択によって、生きるか、死ぬかが決まるような状況でもない、とは言え、日常にも、危険はあることも承知しているけれども、わたしは知っています。
自分が、どれだけ、危険に晒されようとも、わたしを守ろうとしてくれる存在のことを。
きっと、彼は、娘のわたしだけでなく、隣り合った人のためにも、同じ行動を取るだろうと、そう思いました。
何をよしとしていて。
そこに生きているのか。
そうなのだろうと思います。
彼は、たくさんの「りんご」を、わたしの人生に差し出してくれた。
では、わたしはどうするのか。
人は、自分自身の関心を持つ範囲の中で生きています。
例え、そうだとしても、世界に共感だけを、望むのではなく。
誰もいない夜道より、人ゴミのほうが、孤独かもしれない世界が、存在していることを。
わたしの無関心に、誰かが、苦しんでいるかもしれないことを
人は、互いが、まったく、違う人間であること。
伝わりっこない部分を、互いに、持っていることを。
それを、当たり前のように、受け取れる世界を、伝えていくことが必要だと感じます。
さて、映画で、りんごの少女が楽譜を見つけてピアノで弾いた音楽は、実際に、アウシュヴィッツの収容者であったヨセフ・ウルフが、1943年に書いた
「Sunbeam」
という楽曲であり、映画中で、唯一表現された収容者の音でもあり、とても静かだけれど、力強く響いていました♪
■『関心領域』は「耳で聞く」映画だった
ところどころに挟まる
「アート系の演出」
もキマっていて、且つ、開始から3分にわたって
「真っ暗な画面」
が延々と続くシーンは、
「この作品は音に注目せよ!」
と、促す意図が感じられて効果的でした。
また、収容所の人たちのために、食糧を隠す少女を、
「ナイトビジョン」
で捉えた映像も、
「地獄にも希望はある!」
ってところを、視覚的に表していて良かったです。
なかでも、没入感のあるサウンド・デザインがすばらしく、
収容所から漏れ聞こえてくる惨状は、
「常に聞き手にストレスを与えつつも、意識しなければ見過ごせる」
という絶妙なレベルをキープしていて、注目の音響効果でしたね。
最後まで、
「抑制が効いた演出」
を貫いており、エンドロールでは、
「犠牲者の思念」
を煮詰めたようなサウンドトラックを爆発させる演出が、夢に出てきそうな勢いを感じさせてくれるぐらい、素晴らしかったです。
■自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にして思考を停止しない
考えつづけることが、今、求められています。
映画『ハンナ・アーレント』
は、アーレントの生涯ではなく、彼女の著作で言えば
「エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告【新版】 」ハンナ・アーレント(著)大久保和郎(訳)

に焦点を絞ったものです。
1960年、数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンが、イスラエルによって捕らえられます。
アーレントは、雑誌『ニューヨーカー』に、裁判の傍聴記を書きたいと申し出て、イスラエルに向かいます。
裁判でアイヒマンは、
「命令に従ったまでです」
と語ります。
アーレントは、
「アイヒマンは想像したような凶悪な怪物ではなく、平凡な人間だったのではないか」
と考え、
「悪の凡庸さ」
について書きました。
「数百万人のユダヤ人を強制収用所に送り、殺害したナチスドイツ。
その一翼をになったアイヒマンはさぞかし冷酷無比な悪魔のような男に違いない。
だれもがそう思いたがった。
イスラエルの検察官もその悪魔としてのアイヒマンのすがたを暴こうと躍起になった。
ところが裁判を通して浮かび上がったのは、組織の歯車として働く小役人のような男だった。」
と、アーレントは語っていましたね。
記事は、
「アイヒマンを擁護するのか」
とバッシングを受けることに・・・
それにたいして、アーレントは、学生に対する講義のかたちで反論を試みます。
講義の中でアーレントは、
「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。」
「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。」
と語ります。
アーレントが、アイヒマンの中に見た
「悪の凡庸さ」
は、私たちの中にもあることなのだと。
例えば、日々の生活の中で、
「自分自身の驚きや疑問や違和感」
という感覚を、私たちは、日頃、どうしているだろうか。
「おかしい」
と感じても、
「自分ひとり悪者になりたくない」
「皆がそういっているなら、私もそうしよう」
そうやって、その感覚に蓋をして、何事もなかったかのように同調していく日々ではないのか、と。
そして、そのようにすることが、美徳のようにさえ考えている自分がいやしないか。
自己保身のために、ただ、大きな流れに身をゆだねていく。
しかし、そこに、アイヒマンと同じ
「思考を停止して、考えることを止めた」
者が誕生してしまう脅威が潜んでいる事実。
このことは、突然、
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」
という法律ができたことで起こる変化を描いた反ファシズムの寓話である
「茶色の朝」フランク・パヴロフ(物語)ヴィンセント・ギャロ(絵)藤本一勇(訳)高橋哲哉(メッセージ)

の物語にも描かれていましたね。
アーレントの訴えた
「悪の凡庸さ」
への危機感は、そのまま、現代の日本に通じているのだと、そう考えています。
「政治への無関心」
は、
「投票率の低下」
が物語ているし、生きることは、知ることでもあり、たぶん、挨拶をしない、他人ばかりじゃ、長生きは、辛いと思いませんか?
