【ひとは複数形でできている】自分を研究してみよう

本日・今日は、2025年1月8日です。
Q1:
今年の残りの日数は何日?(2025年1月8日現在)
A1:
今年(2025年)の残りの日数は、あと357日です。
今日を含めると、あと358日です。
Q2:
今年は何パーセント消化した?
A2:
今年(2025年)は、8日が経過し、1年の1%を消化しました。
夢は、書くことで、見えてくるものだそうです。
Q3:
人生って、目的に向かって、突き進むものなのか。
もっと、ゆるく生きていいんじゃないか。
よく勉強や仕事でも、「予習」よりも、「復習」が肝心だと言われています。
そうであれば、一番、「復習」しないといけない「対象」って、「自分自身」ではないでしょうか。
内(過去)と外(現在)の刺激への反応によって、いつの間にか構成されてしまった幾つもの循環ルートに対して、「これ駄目じゃね?」と省みる作業(復習)を継続できる方策のひとつが「ログ(日記 等)」だと考えられます。
この様な日々の、本当にちょっとしたルートの補修作業(復習)をした事が、1年、3年、5年、そして10年後という長い目でみたときの自分自身を救ってくれるのだと考えています。
但し、何かの意義や目的を考えるときは、意義や目的が必ず存在するって考え方は、幻想にすぎないことを、忘れずにいたいなとも思っています。
夢と現実のあわいで、今も、こうしていられることを、「ありがたき不思議」と、まずは、ちゃんと感謝しておく。
目的を遠くへ置き過ぎてしまうと、現在が不確実な未来の手段になってしまいます。
そのため、明確な目的を持たないよりも、自分に「こうしたい」と思うものがあれば、別に、言葉にして言う必要はないとも思っています。
「現世実有」
「過未無体」
後から振り返って、何かに気づくくらいの心持で。
何事も、準備万端整えて始めるよりも。
半端な用意でOKなので。
どんどんやり始めてみて。
慌ててみたり。
焦ってみたり。
そして、驚いてみたりするのが、楽しいんだと。
そういった考えでいると、復習が、この時(今)を味わうスパイスになって、面白くなってきます。
人に言わなくても、やり続けて。
何年後か後に、うまくいったと言える物事に出会えれば。
面白いなって思える波に乗っている様な感じです。
だけど、人は、「つれづれ」を逃れようと、「なぐさめごと」を追い求めてしまう。
そんなことをしても、結局は、「はかなきすさびごと」にすぎないと、嘆いてしまう生き物。
「和泉式部日記」的に生きてみるか。
それとも、発想を転換し、「つれづれ」を楽しむ「徒然草」的に生きてみるか。
やっぱり、人それぞれだけど、「つれづれ」が怖くて、退屈しのぎで、何かするのではなくて。
不思議な巡り合わせで、これならばって思う方法を、それでも、どうしても探したい時。
心が折れない持続可能な「形」を探してみる。
その場合、ここが難しい点だけど、力を入れず、ゆるく適当に。
そして、小さく、身近なところから考えて、初めてみる。
そんなステップを、踏むといいんじゃないかな。
そう思うのは、平安時代に編纂された古今和歌集にある、この和歌の様に、
「世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」
夢と現実の境界のあいまいさに関して、1000年以上もの昔から、わたしたちの心はあいまいで。
現代に至る迄、そのあいまいさが続いているのだとしたら・・・
捨てようとしても、捨てきれるはずもない、と思いませんか。
大切なのは、「解決」ではなく「変化」だと考えられます。
そう考えるのは、「つれづれなるままに」という心の状態。
杉本秀太郎さんは、「『徒然草』を読む」(講談社文芸文庫)において、

人の本質にある「ざわめく心」と付き合っていくには、むしろ「つれづれ」でなくてはならない。
それは、一語で言うなら、未練がましさであり、その心は、心の持ち主を、往生させるほど厄介です。
そして、とても扱いにくい動き方をする生き物の如く、でもあります。
その未練がましさによる未練の自己証明を、「書く」ことで省みれば、人の心が、
■御しがたい生き物のように柵を破り
■埒を越えて動きまわり
■火中に投ぜられても灰にもされず
未練がましく、残されいることに気づくことが、可能となった時にこそ、逆に、おもねらず。
自由という危い均衡を保ち続けることにこそ。
それら幾多の未練を貫く決心を要するのだと。
知ることになるのではないかと、杉本秀太郎さんは、「徒然草」を、そう解釈していました。
「つれづれわぶる人」の迷いごときは、たかが底が見えている。
「徒然草」は、迷いをたのしむ覚悟のできている人の迷いの証なんでしょうね。
他に類を見ない。
世迷いごとの日記であると解釈してみれば・・・
何かの決意を実現するために。
「徒然草」的に、何かを「書く」行為が、効果的ではないかと考えられます。
「夢」等の「未来」に対して、確固たる理想や、目標を持って進もうとするのではなく。
純粋に、書くことで、考え続ける(自分を研究する)ことを、楽しんでいる状態に自分を置いてみる。
まずは、目の前の現実に、意味を求めず素直に受け入れ。
効果がどう出るか分からないけど、自分なりに工夫して、それに順応していく。
未来に対する分析の前提。
それは、今日、真実であることが、明日も真実(もしくは事実)であること。
但し、私たちの脳は、数列や正比例のような規則性を望むのですが、現実や事実は違います。
自分を含めた世界では、分析の精度より、変化に対する柔軟性が、より重要ではないかと考えられます。
その態度は、荘子の「遊」にまつわる以下の記述の様に、
「無窮に遊び、心に天遊を!」
「不測に立ちて無有に遊ぶ」
自然に身を任せた先の、たまたまの出逢いに「道」があるのだと考える姿勢の方が、色んな道を楽しめると思いませんか。
そして、その歩いてきた道の轍を残す(書く)、その大きな効果として、「カタルシス効果」があります。
古代ギリシャの医学では、病的な体液をカラダの外へ排出することをカタルシスと呼び、精神分析の世界では、無意識の層に押し込まれている心のしこりを外部に明らかにすることで症状を軽減、あるいは、消失する治療法のことをいいます。
つまり、書くことで、心の中に閉じ込められたイライラやモヤモヤなどのネガティブな感情が浄化されて、気分がすっきりするんだそうです。
ネガティブなものを封じ込めようとせずに、自覚したり、誰かに聞いてもらうことが、時には、必要なのだと思います。
その際に、意識しておきたい点として、日本語は、相手の言葉が頭で描けなければ、会話が成立しない言語であるといった視点です。
そのため、書くことで、それを再認識して、漫画の様な吹き出しも必要なのだと、そう理解しておくことでも良いと思います。
【参考記事】
「言語化」はそんなに大事なのか?
https://note.com/mi_muramatsu/n/n5bef606e6d73
その他の書くことの効果としては、まず、事態を整理する効果もあります。
モヤモヤしていた気持ちは、
■怒りだったのか?
■不安だったのか?
■恐れだったのか?
自分は、何に対して、そう感じていたのか?など。
自分の感情を文字に変える過程で、人間は、無意識に「外の目」を使っています。
「外の目」で、自己を捉えると、客観的に物事が判断でき、事態を整理できるんですよね。
その結果、「何をすべきか?」が明確になり、解決への糸口が発見できる効果が期待できます。
そして、前述の振り返り効果。
書いた内容を、後日改めて見ることで、自分を再認識できます。
時間の流れと共に、忘れかけていた真の気持ちを振り返ること。
それは、本当に大切なことを思い出すための有効な手段です。
昔の自分を振り返ることが、次に進むための大切なトリガーになるんですね。
デカルトが自らの思考法を説いた「方法序説」には、「全体を見直して、何も見落としていないことを確信すること」の記載があるのですが、この思考法は、人の力では、とうてい手に負えません。
論理的思考が、過去に対する後付け解釈にしか、通用しなくなった現代。
努力を積み上げれば、成功に近づくなどと、欲を出せば生きづらくなるだけです。
この時代でも、人々は、未だ「胡蝶の夢」の中にいる。
そうであるなら、
「ユメ(夢)とウツツ(現実)」
「ウツ(空・虚)とウツツ(現実)」
の「間」に真実が眠っている様に感じます。
人は・・・
うまくいったとしても、過去の成功体験に縛られて、身動きできなくなったり。
想いを込めるほど、後々、諦めるべき時が来たときに断ち切れなくなり。
自ら強い意志を持って動くと、自分の判断に執着してしまいがちな生き物。
夢には、
■「これがいい」という強い想いを描いた夢
■「これでいい」と小さくあきらめた夢
そして、
■「やむをえず」選択した先の夢
等、このような受け身の生き方で、夢を抱いても、良いと思っています。
人間の知性に由来する言葉は、「分ける」ことを原点としているそうです。
そのため、
■理解・解釈:「解」は牛の角を刀で切り取る意味
■分析・解析:「析」は木を斧で切り分ける意味
の漢字の成り立ちから省みてみると、善悪や美醜等、物事を、二元的にとらえることにつながっていきます。
何かの課題に対して、何かしらの解決策があったとしても。
安易に、善悪二元論に走って、悪と見立てたものをつぶすのは間違いであり。
落とし所を見極めて、ある程度は、妥協するくらいの世の中の方が、平和だと感じられます。
そのためか、この方法論では、どうにもならない違和感が生じることも多いのではないでしょうか。
分けて考える知性は、今流行りの生成AIによる模倣が容易です。
だからこそ、現代においては、禅と同じく、言葉による論理よりも、体験による直感を重視してみても、良いと考えられます。
現代は、たくさんの情報に、たくさんの選択肢がある、豊かな時代。
だからこそ、過去も未来も追わず、「無有に遊ぶ」ことが、思わぬ変化への柔軟性を生むのだと、そう思えます。
人は、決意や迷いを文字にすることで、自分を励ましているのだと、言えないでしょうか。
わかったつもりが、人や物を遠ざける。
明日の自分は、きのうの自分の続き。
例えば、失敗なんて、書くことで、おかしな夢だったことにすればよくて。
「なるようになる」とは、あきらめてしまうことではなく。
想像した自分に近づくこととも、言えないでしょうか。
例えば、季節が巡る様に、ふりだしに戻れるって、ワクドキしませんか。
そんな時をつくる。
それは、心で創る必要があります。
新しい嬉しい。
新しいびっくり。
それらを、見つけてみたり。
新しいごめんね。
新しいありがとう。
それらを、伝えてみたり。
何度でも。
何度でも。
ふりだしに戻れる。
決して飽きない人生ゲーム。
つづけて行こうか。
さぁ、何やる?
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