【こえのちから】不思議な感覚

童話や散文、詩、短歌、いずれを見ても、きわめて特異な感覚的世界をもつ宮沢賢治は、一方で、殉教者の面影をもつ。
私は、その作品のごく一部を、自分勝手に読んだ読者にすぎないのだが。
あるときは、寂しい天上の草原に導かれるような。
また、あるときは、暗黒宇宙のブラックホールに吸い込まれるような。
なんとも言いようのない感じの世界が、そこには広がっている。
なんだかこわい感じ。
なんだか不思議な感じ。
なんだか悲しい感じ。
そんな「感じの世界」に包まれてとまどうのだが、その「気配」を言葉にするのは、とても難しい。
この「感じ」とは何か。
それは、「触覚」、「聴覚」、「視覚」、「第六感」、「味覚」、そして「共感覚」なのだと言われている。
共感覚というのをご存じであろうか?
共感覚とは、ある刺激を受けたときに、本来の感覚に加えて、他の感覚が伴って生じる現象で、声に色を感じる「色聴」もそのひとつである。
10万人に1人とも2万人に1人ともいわれ、圧倒的に女性が多いそうである。
色聴は、共感覚の中で最も発生率が高く、音程や和音、単語、音楽自体が聴こえることもある。
共感覚には、次のような特徴がある。
・無意識的に起こり、自分でコントロールすることはできない。
・個人ごとに異なり、個人内では一貫性がある。
・日常生活に支障をきたすような病気でも、超能力でもない。
また、共感覚の例としては、次のようなものがある。
・印刷された言葉や数字が色となって感じられる。
・香りが形を伴う。
・話し言葉が虹色に見える。
・痛みを感じると色が見える。
・何かを味わうと手に形を感じる。
共感覚者の有名人には、作曲家であるドビュッシー、画家のカンディンスキー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、音楽家のマイルス・デイビス、スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、そして、日本人童話作家である宮沢賢治も、そのひとりである。
例えば、「嗅覚」について。
賢治文学には、かぐわしい「匂い」が登場する作品がいくつもあるが、「臭」は、隠蔽されているという。
そして、「臭」の隠蔽は、賢治の人生における「性」の隠蔽と深く結びついているそうだ。
なるほど、妹トシが臨終の床で気にした体臭(「それでもからだくさえがべ?」詩「無声慟哭」より)は、花の匂い(「ちひさな白い花の匂でいつぱいだから」同)に昇華され、『銀河鉄道の夜』でも、死者であるはずのカムパネルラに「苹果(りんご)の匂」や「野茨(のいばら)の匂」をもたらしている。
十八歳で肥厚性鼻炎の手術をし、入院中に同年の看護婦に初恋をする。
嗅覚と声は、どちらも鼻が関係する器官であるため、鼻の症状が原因で嗅覚や声に影響を及ぼす場合があったのかもしれない。
また、目と耳が不自由だったヘレン・ケラーは、「においで人格がわかる」と語ったことがあるという。
この思春期をはじまりとして、賢治の「臭」と「性」の問題は興味深い。
さて、賢治の感覚の中で、私がもっとも魅力を覚えたのは、前述の「共感覚」についてである。
賢治が死の際まで推敲を重ねた『銀河鉄道の夜』における「共感覚」。
それは、一つの刺激によって、それに対応する感覚と、それ以外の他の感覚とが同時に生ずる現象(シネステジア)であったそうだ。
その点に関して、思い出さるのは、松尾芭蕉に「海くれて鴨のこゑほのかに白し」という句があったことだ。
この句は、約三百年前、愛知県の熱田で作られた。
当時は、熱田あたりまで海が入り込んでいたらしい。
芭蕉は、十二月に、そこで舟遊びをした。
冬は日暮れが早く、気がつくともう視界は、夕闇につつまれてぼんやりしている。
そのとき、鴨の声が聞こえたのだ。
芭蕉は、鴨の声を聞いて白しと感じている。
つまり、本来聴覚を刺激する声に、視覚も同時に反応していることになる。
これは、共感覚の表現の大変、早い例ではないだろうか。
話しを戻すと、「きれいな音いろ」を聴くジョバンニの目に、「明るい野原か敷物」や「蝋(らふ)のやうな露」が見えてくるような場面に象徴される、五感が交錯し共鳴する、『銀河鉄道の夜』の根底に、闇(夜)の存在が考えられると、山下聖美氏は、「宮沢賢治のちから」(新潮新書)の中で指摘していた。
そういえば、作品のタイトルは、「銀河鉄道」ではなく、「銀河鉄道の夜」なのだ。
「夜をこめて硫黄つみこし馬はいま朝日にふかくものを思へり」
賢治のこんな歌を不意に思い出した。
夜を越えたこの馬は、何を見たのだろうか。
ほとんどの人は、こえ(音等)にも、文字にも、色が見えない。
なのに、時折、あわいに浮かびあがる感覚という問題系を、どう捉えるべきであろうか。
それを理解するには、「こえ」をキーワードにして、眼差す、触れる、嗅ぐこと等から歌い、踊る身体まで、日本の近・現代化のなかで変容していく、それらの感覚表象を通じて、人間の感覚の側からの追究が、必要なのではないかと考える。
