見出し画像

【白雨随感禄】文字から生まれる知恵は真実の知恵ではない

Kyon.Jさん撮影

■「パイドロス」(岩波文庫)プラトン(著)藤澤令夫(訳)

▶文字こそが記憶と知恵の秘訣

「たぐいなき技術の主テウト(文字を生み出した神)よ。

技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を与え、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。」


▶文字が真の知恵から遠ざける

「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられるだろうから。

それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。

じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。」

「あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。

すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう。」

「文字」

の発明こそが、

「記憶力」

の衰えの原点とも言え、そして、

「見かけだけの博識家」

を生むだけではないかと、タモスは諭している。


▶[メディア論]100年後の「本」 第9回 文字と記憶術


■「グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成」マーシャル マクルーハン(著)森常治(訳)

本書に依れば、写本によって本が読み継がれていたときは、

「音読による読書」

だったが、機械的に印刷されるようになって、人々は、本を、

「黙読」

しはじめたそうだ。

そのために、

「聴覚中心」

から

「視覚中心」

の世界への転換が起こり、

「音や旋律を記憶する能力」

が衰えていったのではないかと推定されている。

音読社会から黙読社会への転換点。

それは、技術の進歩(機械的に印刷するようになって)によって、人々が書物を黙読するようになり、ひとつの文化の終焉でもあった。

▶[メディア論]100年後の「本」 第1回 「本」を再定義する

▶[メディア論]100年後の「本」 第2回 印刷革命は何が革命的なのか

▶[メディア論]100年後の「本」 第3回 横すべりするコンテンツ


■「梁塵秘抄」(ちくま学芸文庫)西郷信綱(著)

今様は、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて流行した歌謡である。

今様とは、

「当世風」

という意味で、白拍子(*1)などが歌い、伴奏楽器には、鼓、笛や笙などが用いられ、貴族から庶民まで広く愛好された。

歌は、七五調の4句(*2)を基本としていることが特徴である。

今様歌謡の集成として、本書(*3)が知られている。

(*1)白拍子(しらびょうし):

平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。

また、それを演じる遊女。

今様などを歌い、水干・立烏帽子(たてえぼし)・佩刀(はいとう)の男装で舞ったので男舞といわれた。

のちの曲舞(くせまい)などに影響を与えたほか、能にも取り入れられた。

(*2)七五調の4句:

次の例のように、七五調の句を4つ連ねている歌のことである。

「仏は常に在(い)ませども  現(うつつ)ならぬぞあはれなる

人の音せぬ暁(あかつき)に ほのかに夢に見え給(たま)ふ」
(梁塵秘抄 巻第二 法文歌 佛歌)

(*3) 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう) 』:

1169年(嘉応元年)頃、後白河院(1127~1192)は、今様歌謡の集成である『梁塵秘抄』を編纂した。

現存する『梁塵秘抄』には、約560首の歌が収められており、『梁塵秘抄』という名を、そのまま現代語に意訳するならば、妙なる歌の響きで梁(はり)の上に積もる塵(ちり)さえも動く、それほどまでに、心を揺さぶられる歌だったことになる。

但し、梁塵秘抄が編まれてから約150年後の「徒然草」では、以下の記述があり、

「梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。

昔の人は、ただいかに言ひ捨てたる言種も、皆、いみじく聞ゆるにや。」(14段)

もはや梁塵秘抄の

「音楽」

ではなく、

「言葉」

への感心が描かれており、文学の中心が和歌から随筆に移った頃から現代に至って、文字と音の繋がりが極めて薄くなっている。

▶[メディア論]100年後の「本」 第4回 静的な「蔵書」から、動的な「蔵書」へ

▶[メディア論]100年後の「本」 第5回 「場」としての読書


■「外は、良寛。 」(講談社文芸文庫)松岡正剛(著)

かつては、言葉がもつ、

「音楽性」

は、重要だったことがうかがえる。

「たとえばオオヤマトトビモモソヒメ、ヒコホホデミノミコト、ホトタタライスズヒメ、タツツヒメ、ホノニニギノミコトといった神名には同じ音の連続があります。

またタキツヒメとタギリヒメ、ククツヒコとククツヒメ、ウサツヒコとウサツヒメといった一対の神名にも同音連鎖がある。

ぼくは、この同音連鎖の響きに何かの「言霊の力」をこめるやりかたがあらわれているように思うのです。」

「僕は良寛を思索したことはない。いつも良寛を感じてきたのです」
(松岡正剛)

「秋かぜに靡く山路のすすきの穂みつつ来にけり君がいほりに」

「秋の日に光りかがやくすすきの穂ここの高屋にのぼりて見れば」

「秋やまに咲きたる花をかぞへつつこれのとぼそにたどり来にけり」

「野べに来て萩の古枝を折ることはいま来む秋の花のためこそ」

「霞立つながき春日に子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ」

「淡雪の中にたちたる三千大千世界 またその中にあわ雪ぞ降る」
(良寛)

▶[メディア論]100年後の「本」 第6回 「体系」の近代から「身体感覚」の未来へ


■記憶はどこにあるのか?

福岡伸一さんの「動的平衡」に依れば、以下の通り。

「記憶はおそらく細胞の外側にある。

正確にいえば、細胞と細胞のあいだに。

神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連携を作って互いに結合している。

結合して神経回路を作っている。

・・・たとえ、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形づくる回路の形は保持される。」(P36~37)

「新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)福岡伸一(著)

▶[メディア論]100年後の「本」 第7回 永続化する瞬間

▶[メディア論]100年後の「本」 第8回 変貌する情報流通


■「茂吉を読む 五十代五歌集」(五柳叢書)小池光(著)

神田の古本街を歩くと茂吉歌集の現物はいくらでも安価で手に入る。

詩集歌集は全集やアンソロジーで読んでも十分には味わえるものでなく、やはり現物を手にすることが大事なようだ。」

物事を、

「味わう」

とは、

「文字テキスト」

を享受するということ以上の物事を、含んでいるのでしょうね。

「両手もて振れば函より出づる本いのち永らふ黄のパラフィン紙」篠弘『凱旋門』

▶[メディア論]100年後の「本」 第10回 原宿から「世界」へ


■記憶力の危機

自ら生み出した技術によって、人間が本来持っていた能力が失われていく。

①文字

②活版印刷

③Google

次は、生成AIか?

記憶力がなぜ大切なのか?

それは、過去・現在・未来と流れる時間の中で、私たちが、1人の人間として、連続していたことを保証するよりどころが、

「記憶」

だからである。

この記憶とは、単に、

「覚えている」

ことなのではなく、

「自らを見いだす」

ことでもあり、さらに言えば、前述の福岡伸一さんの「動的平衡」からも、

「心は記憶に宿っている」

と考えることもできるかもしれない。

▶[メディア論]100年後の「本」 最終回 コンテンツの文化からコンテキストの文化へ


いいなと思ったら応援しよう!