【雀始巣随感禄】自己満足と正義と矜持のはざまに

正しさとは、一体、何であろうか。
人は、人に、勝手に、期待して、勝手に、失望する。
世間には、常に、
「世界が、自分たちに、都合のいいものであってほしい」
という、大衆の欲望が、渦巻いている。
誰しもが、育った環境や経験に基づいて形成された正義を持っていて、この世で、暮らしているように見える。
例えば、ある人は公平性を重視し、別の人は、結果の正当性を重視するかもしれない。
このように、正義は、個々の視点によって、180度変わることがある。
とは言え、この私の思いも、私の正義に過ぎず。
世間でよく見かける、匿名で、他人の過ちを糾弾し、ひとときの快楽を得る
「白黒をつける正義」
は、所詮、
「正義」
を、
「他者を攻撃する材料」
にしてしまい、単なる
「自己満足」
に過ぎないのに、
「中毒性」
があり、罰する対象を、常に、探し求めてエスカレーションして行く。
白黒をつける正義に対する我々の思考や反応は、脳の働きと深く関連している。
これは、正義感や価値観に基づいて物事を判断し、他者を評価する際に、脳がどのように機能するかによって影響を受けることになる。
脳は、他者を攻撃する材料として、正義を利用する傾向があり、これは、自己満足をもたらす場合がある。
特に、
「白黒をつける正義」
を持つ人々は、自分が、正義側に立っているという感覚を通じて、安心感や優越感を得ることが多い。
このような思考パターンは、自己の正義感を強化するだけでなく、他者との対立を助長することもある。
さらに、白黒思考は、脳の特定の領域において、中毒性のある快楽を引き起こすことが知られている。
このような思考が強まることで、自分の価値観に合わない意見や見解に対して不快感を覚え、結果として、コミュニケーションの断絶が、生じることがある。
このような関係は、精神的に疲れやすい人々に、特に、顕著であり、彼らは、白黒をつけたがる傾向がある。
白黒を明確にしようとすることで、他者との絆が弱まる場合が多い。
このような思考スタイルは、ストレスや不安を引き起こす要因となり、結果的に、人間関係を破壊する原因ともなりえる。
以上のように、白黒をつける正義は、脳の働きと密接に関連しており、自己満足やコミュニケーションにおける問題を引き起こすことがあるため、これを理解することで、より健全な対話や関係構築に向けたアプローチを考えることが求められるのではないだろうか。
相手の正義を、私は、本当に、理解できたのだろうか?
その真意は、どこにあるのだろう?
白黒つけられるほどに、
「わかった(分かった/解った/判った)」
のだろうか?
そう自身に問える
「余白」
を持っていたいものである。
白黒をつける正義に関連して、特に、人間関係においては、
「グレーのままで良いこと」
が多いと指摘されている。
物事をはっきりさせることが、全ての場合において適切ではなく、対立を避けるためには、柔軟な思考が必要とされるからである。
白黒に分ける思考が強いと、特に、自己の正義を守るために、他者を攻撃的に評価し、結果的にストレスを増加させることが、知られているからである。
また、脳が他者を攻撃する材料として、正義を利用する傾向があることは、精神的に疲れやすい人々に顕著であるそうだ。
これらの人々は、グレーな状況を無理に白黒つけようとすることで、心理的な負担を感じやすくなる。
結果として、彼らは、実際の人間関係や価値観の多様性を理解する能力を失いがちだそうだ。
つまり、白黒をつける正義の思考は、自己中心的な快楽を伴う反面、より豊かな人間関係や多様性を享受するためには、その柔軟性を持つことが大切であるにも関わらず、真逆の思考パターンに陥っているためであり、それを回避するためにも、それに気づければ、対話の質を高め、理解を深める手助けになる。
自身の正義を、盲目的に振りかざすのではなく、他者の視点を尊重し、共に学び合う姿勢を持つことが求められるのが、SNS世代の処方箋なのかもしれない。
とは言え、
「正義」
というのは、
「矜持」
であり、
「生き方」
であり、
「情熱」
だったりするから、厄介な思考ではあるけど、誰かを守ったり、世界を豊かに変えたりする、可能性を秘めてもいるから。
どうも、世間では、多様性や心理的安全性などの言葉が踊っているけれど、実情は、いったいどうなのだろうか?
多様性や心理的安全性という
「正義」
を謳いながら、
「同じ価値」
「観同じ意見」
以外は、淘汰される場面を、何度も見てきた。
正反対のことを言ったら
「黙ってて」
と言われたこともある。
自分と異なる考え方や意見は、時として、不快な思いを抱くこともあるかもしれない。
けれども、それに気づければ、見えていないものを、見せてくれる。
視野を広げ、新しい視点を見つけ、私たちを発展させ、成長させてくれるものでもある。
自分の思う
「正しさ」
にばかり目をやってしまうと、せっかくの機会に気がつくこともないだろう。
「不快だ」
という感情のみで、そこへ向き合ってしまえば、
「世界が自分たちに都合のいいものであってほしい」
という、どこかのコメント欄と同じパターンに陥ってしまいかねないと思う。
心理的安全性というのは、
「同調された正しさ」
だけがある世界ではなくて、どれだけ
「異なることを表現」
しても、
「マイノリティな発言」
をしても、
それが、感情の対立にならない場だと、私は、そう考えている。
人が、心の内面に持っている感情や思考は、とても、多様で複雑なものであり、
・人生において、何を、一番大切にしているか。
・どんなときに、仕事での喜びを、感じるのか。
・それは、どんな体験に、基づくものなのか。
・許せないときの感情は、何に、由来するものなのか。
・何をもって、その意見を、持ちえたのか。
等々、自分のことですら、明瞭に、答えられないのに、いわんや他者をや、ではないだろうか。
人は他者と生きている。
仕事でも。
プライベートでも。
親や子ども。
友人。
そして、自分自身ですら、本当は、よく分かっていない。
だからこそ、知りたい。
分かってるつもりは、一旦、脇において、判断せずに、向き合いたい。
思えば、地球上のあらゆる
「事」
「物」
「事象」
それら、全てが、
「変化」
を余儀なくされる。
「変化」
しなければ、
「存在」
すら脅かされるという世界で、生きているという現実。
「眼」
には見えねども、生物の
「ゲノム」
さえ
「変化」
を経験しているそうで、地球上のあらゆる
「生命体」(ウイルス〜アメーバ〜植物~動物)
の、ただひとつの共通する価値感は
「生存至上主義」
ということなのだろう。
多くの生命体は、
「食して」
「排泄して」
「眠る」
ことが、生きることの本質である。
人類とて同一である。
但し、今を生きる人類は、恐ろしいほどの
「欲望」
を満たすため、自らの生存すら危うくすることさえ構わない程の
「変化」
を求めており、そんな世の中で、
「変化あらざるとは?」
の問いは、不適切なのだろうか。
それとも、何万年先、
「どんな人類が生き残っているのだろうか?」
の問いを立てて、
「今、出来ることは何か?」
を考えた方が、適切だろうか。
そういえば、室町時代の禅僧、一休宗純禅師は、人生と心の移ろいやすさについて、次のように述べていた。
「いずれの時か夢のうちにあらざる
いずれの人か骸骨にあらざるべし」
この言葉は、人生が、すべて夢まぼろしのようであり、私たちの体も、結局は、骸骨にすぎないことを示している。
つまり、すべては、常に、変化し、固定された状態で留まることはないという真理を、表現している。
さらに、禅の修行においても、変化を受け入れることの重要性が強調されていた。
例えば、修行者の衣の色が時間とともに褪せていくことは、修行の長さを示すと同時に、執着しないことの象徴でもあると。
このように、仏教や禅の教えでは、変化こそが、常であり、
「変化あらざる」
状態は、幻想にすぎないと考えられている。
むしろ、変化を受け入れ、それに、適応していくことが、重要とされているのであれば、今の世の趨勢は、理に叶っていることになる。
結局のところ、世界が変化するべきかどうかは、その変化がもたらす影響によるとも言えるのだろう。
持続可能な発展や環境問題に対する意識は、私たちが直面する課題の解決に向けた変化を求めており、特に
「捨てない経済」
の概念が注目を集めている。
循環経済の実現は、現代社会に必要な変化の一つとされており、自然資源の枯渇や環境破壊を防ぐためには欠かせない。
知らないことが、たくさんある現実に、直面したとしても、それを、面白いと思えるか、だから、人生、楽しいのだと感じられるか、日々、試されている自分を感じていたい。
そうやって、私は生きて、知らないことが、たくさんあるままに・・・、日々、老いていきたい。
