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小説 セリヌンティウス


序章

セリヌンティウスは激怒した。

石の牢獄に閉ざされた午後は、時の流れさえも深い泥の底に沈むように鈍く、湿り気を帯びた重い空気が肌にまとわりつく。呼吸するたび、冷たさが肺の奥底まで静かに沈殿していくのを、私はただ抗えずに沈黙のまま受け入れた。低く圧し掛かる天井は幾重にも積み上げられた灰色の石でできており、その表面には永い時の流れのなかで苔が静かに根を張り、ほの暗い光のなかでかすかな緑色の輝きを放っている。まるで遠い昔の記憶が石肌に宿っているかのように、私の視界を静かに満たしていた。小窓から差し込む一筋の光は、宙に舞う埃の粒を金色に染め上げ、冷たい石の床の上に淡い模様を描き出す。それは遥かな昔に見た夢の残り香が、この牢獄の隅々に静かに漂っているようでもあった。私は、その光の筋を、ただ黙然と見つめ続ける。時折、心の底に沈む思いが静かな波紋となって胸の内側に広がっていくのを感じていた。粗末な藁の寝床には、長い年月のあいだに染み込んだ土と汗の匂いが深く刻まれ、その気配がこの牢の空気に溶け込み、私の呼吸とともに身体の奥深くへと静かに沁み込んでいく。指先で壁をなぞれば、ざらりとした冷たさが皮膚に残り、爪の間には細かな石の粉が入り込む。その感触が私の存在をこの閉ざされた世界に繋ぎ止めているかのように思われた。格子の向こう、薄暗い廊下には兵士の影が長く伸び、松明の揺れる火が石壁に不規則な光と影を踊らせる。時折、遠くから響く靴音が、この沈黙の海に乾いた波紋を投げかけていた。

私は、王の命によってこの石室に囚われている。ただ一つ、メロスが私を人質として差し出したからだ。私はそれをまるで他人事のように静かに受け入れたが、実際には怒りを押し殺していた。

誰もが私を誠実な友と呼び、私自身もまた、その役割を演じることに慣れきっていた。だが、心の奥底には冷たい水脈のような思いが絶え間なく流れ、己の命を惜しむ気持ちと、損得を秤にかけて生きてきた自分への諦念が、石のように重く胸の奥に横たわっていた。私は、誰よりも自分自身を愛しているという事実を、誰にも悟られぬよう、誠実な仮面を被り続けてきた。その仮面の下で、冷笑と打算に満ちた本当の顔を、ひたすら隠し通してきたのである。そんな私が今、メロスの代わりに人質となって牢獄に閉じ込められているという現実を、受け止められるはずがない。

午後の光はいつしか牢獄の隅に消え、薄闇が静かに忍び寄る。天井を見上げると、細く張り巡らされた蜘蛛の巣があり、その中で小さな虫がもがきながらも逃れられずにいる姿が、私の運命を暗示しているかのように思えた。生への執着だけを頼りに、命にしがみつくように必死にもがいている虫とは異なり、私は溢れ出る怒りを沈めながら、ただ静かに待ち続けるしかなかった。

約束の日の日没まで、残りあと48時間。

二章

盛夏の午後、牢の石壁にもたれながら、遠い過去の記憶が静かに意識の底から浮かび上がろうとしていた。

幼い日のメロスは、いつも太陽の下で泥にまみれ、川の水を跳ね上げては、無垢な笑い声を惜しげもなく響かせていた。その声は夏空の彼方へと溶けて消え、魚を追いかけて転び、膝を擦りむいても痛みなど意に介さず、ただ大きな声で笑い続けていた。
「絶対、捕まえてやる!」
そう叫びながら川の中へと飛び込む彼の背中を、私はいつも少し離れた場所から静かに見つめていた。彼の“絶対”という言葉は、軽やかに宙を舞い、結果などどうでもよいといった無邪気さで、私は失敗の後始末を引き受けることになると知りつつも、黙って見守ることしかできなかった。
メロスの無邪気さは、時に羨望を呼び起こしながらも、同時に心の奥底でどうしようもなく疎ましく感じられた。彼のように単純に生きられたなら、どれほど心安らかであろうかと、ふと思うことがあったが、私は己の損得を秤にかけ、常に冷静に立ち回る術を、幼い頃から自然に身につけてしまっていた。

ある年の村の祭りの夜、提灯の淡い灯りが揺れる細い路地で、メロスは突然立ち止まり
「なあ、セリヌンティウス、俺たち、ずっと友達でいられるよな?」
と、屈託のない笑顔で問いかけてきた。その問いかけは、夜空に浮かぶ星のように澄んでいて、どこか儚い。私は微笑みながら
「当たり前だろう」
と応えた。その瞬間、自分の声の響きに、わずかな虚しさを感じていた。友情とは、こうして言葉にするほどに脆く、曖昧なものなのかもしれない。私は彼の純粋さを傷つけぬように慎重に言葉を選び、しかし心の奥では、己の損得を冷ややかに計算していた。
「どうしたんだメロス、まったく変な質問をするやつだなあ」
私はそう言いながら、内心では疑いと皮肉、そして小さな優越感を抱いていた。

そんなメロスは、初めて会う人に私を紹介するとき、いつも「竹馬の友だ」と言った。私にとって、彼の無垢さこそが都合のよい飾りであり、誠実な友として振る舞うことで、私は自分の評判を守っていた。

やがて私たちは大人になり、メロスは村を離れ、私は石工として町に残った。彼が村に戻ってくるたび、私は表面上は懐かしさを装いながらも、心の奥底では彼の単純さと愚直さをどこか滑稽に感じていた。
「セリヌンティウス!」
変わらぬ声で名を呼ぶ彼の姿に、私は微笑みつつも、彼の純粋さを利用することばかりを考えていた。村人たちの前で誠実な友を演じることに、私は何のためらいも感じていなかった。誰かのために何かをするふりをしながら、心の底では常に己の利益を優先し、損得を秤にかけていた。だが、そうして生きることが、この世界で賢く立ち回る唯一の術だと、私は信じて疑わなかった。

そして、それから二年の歳月が流れた。
昨日の夕刻過ぎに、町で耳にしたうわさ話が、胸の奥底に鈍い痛みを呼び起こした。メロスが王に反抗し、捕らえられたという知らせを聞いた瞬間、嫌な予感が冷たい汗となって背筋を伝う。
「王様は、人を殺します。今日は、六人殺されました。」
弟子のフィロストラトスが小声で私に耳打ちをした。暴君ディオニスは邪知暴虐で、この世の者とは思えないほどの非道な存在である。万が一にも巻き込まれれば命は危うい。その一方で、メロスのことを思うと胸騒ぎがしてならなかった。私は夜のうちにこの町を離れようと決意し、フィロストラトスに三日分の食料を手配するよう指示をした。

しかし、それから半時も立たぬうちに、王城からの使者が重い足音とともに現れ、私は無言のまますべてを受け入れるしかなかった。

「セリヌンティウス、わが友よ。実は……」
メロスの真剣な眼差しと切実な声に、私はただ静かにうなずいた。暴君ディオニスを前に、拒むことなど到底できるものではなかった。唇を噛みしめながら、はらわたが煮えくり返る思いを必死に押し殺していた。

メロスが暮らしているのは、家畜の匂いと汗と土埃が染みついた、文明の端っこにも引っかからないような田舎町であり、ここ王都シクラスからは十里ほど離れている。ゆっくり歩いたとしても、片道十時間程度の距離だ。妹の結婚を祝福し一晩ゆっくりと過ごしたとしても、二日もあれば十分に戻ってくることができる。

遠くで雷鳴が轟き、やがて牢獄の屋根を激しく打つ雨音となって響き渡る。この天候には不安がよぎるものの、野山で鍛えたメロスならきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、せめて気持ちを落ち着けようとする。

約束の日の日没まで、残りあと30時間。

三章

夜明けの淡い光が石牢の隅々に静かに満ちていくとき、私は重い鉄格子の向こう側に佇む看守たちの無表情な横顔を、まるで生気を失った彫像のように、冷ややかなまなざしで見つめていた。彼らは命じられるままに規則正しく歩みを進め、忠実さという名の殻に自らを閉じ込めている。己の損得も顧みず、ただ上位者の意志に身を委ねることに安堵しているのだと、私は心の底で蔑みを隠さずにいた。時折、牢のさらに奥からは、他の囚人たちの呻き声や怒号が、石壁に吸い込まれ、やがて静寂に溶けて消えていく。彼らの絶望や怒りの叫びは、私の耳には遠い異国の鐘の音のように、どこか現実味を欠いて響く。私は決して彼らと交わろうとはせず、同情や連帯感を抱くことは弱さの証でしかないと、自らに言い聞かせてきた。

やがて、重い足音とともに王の使いが牢に現れる。昨晩、私のもとへやってきた兵士だ。昨夜の薄暗がりでは気づかなかったが、今こうして改めて顔を見やると、白髪混じりのハゲ頭が隠しようもなく露わになっている。
「セリヌンティウス、王が呼んでいる」
私は感情を顔に出さないまま、指示に従い立ち上がり、その忌々しいハゲ頭の後ろを歩いた。

王の間に導かれ、私は己の本心を覆い隠すことに全神経を注ぐ。王の眼差しは氷のように冷たく、底知れぬ残酷さを湛えながら、私の魂の奥底まで見透かそうとするかのようであった。
「お前は、友を信じるのか?」
王の問いかけに、私は静かにうなずき
「信じております」
と答える。

暴君ディオニスにとって、これはただの気まぐれな遊戯。答えを誤れば、すぐさま命を奪われるだろう。今この場所で、決して気を抜くことはできない。

王はわずかに満足げな笑みを浮かべた。
「人は、信じるに値するものか。」
私は声を抑えて答える。
「人は、信じるに値します。」

自分の回答に手応えを感じた矢先、暴君ディオニスの鞭が、ハゲ頭の額を鋭くはじいた。私の立ち位置からは詳細は見えない。しかし、それは何かの失態への罰ではなく、ただ私に恐怖を植え付けるための理不尽な暴力であると悟らされた。ハゲ頭は右足を強く石床に打ちつけ、改めて直立不動の敬礼の姿勢を取る。暴君ディオニスは静かに背を向け「下がれ」とだけ命じた。

ハゲ頭の先導で牢に戻ると、看守たちは変わらず無表情のまま、規則正しく廊下を往復していた。その重く乾いた足音は、石の床に一定のリズムを刻みながら、冷えきった空気の中に淡々と溶け込んでいくようだった。
敬礼しかけた看守の腕を、ハゲ頭は警棒で強く叩き、無言の圧力を送った。私を再び牢へ閉じ込め、ガチリと鍵をかけるその手には、どこか苛立ちが滲んでいた。
「……そう、かっかとするな」
私はわざと軽口を口にする。立ち去ろうとした彼の足が、その言葉にわずかに止まる。腫れた額を手で押さえ、聞き取れぬほどの声で何かを呟いたその口元には、ぞわりと背筋が寒くなるような、不穏な笑みが浮かんでいた。

牢にひとり取り残され、ディオニスの顔が脳裏によぎった瞬間、氷の刃でも突き立てられたような恐怖が全身を貫いた。体がひとりでに震え、肩が小さく揺れていることに、自分でも気づかぬほどだった。
「ちょっとおくれて来るがいい。」
メロスが立ち去るときに、あの男が言い放った言葉だ。それと重なるように、ハゲ頭の不気味な笑みがふと脳裏をかすめ、胸の奥に生まれた不安が音もなく波紋を広げてゆく。

正午が近づいているというのに、メロスはまだ姿を現していない。昨晩の豪雨は朝方には小雨になり、今は太陽が濡れた地面を照らしている。時間はまだ十分にある。焦る必要はない、大丈夫だ。
「走れ!メロス」
その言葉が、知らぬ間に唇からこぼれていた。呟きは誰に届くこともなく、厚い石壁に吸われるように消えていった。

日没まで、残りあと8時間。

四章

やがて傾き始めた午後の陽が、鉄格子越しに鈍色の光を落とし、牢の奥をほのかに照らした。無言で扉を開けたのは、右目のあたりに暗い痣を帯びたハゲ頭だった。無言の誘導で、私は処刑場へ向かうのだと悟る。

遠く、群衆のざわめきが波のように響き、足元では看守たちの足音が乾いた音を石畳に残していく。

「メロスは来ない」
ハゲ頭は俯いたまま、低くつぶやく。だが私は耳を貸さぬふりをして歩みを進めた。
「お前は、ディオニスの恐ろしさを何も知らぬのだ」
その声は、私の不安を焚きつけるように冷たく響く。忌々しいやつだ。
「メロスは山賊に襲われている」
その言葉を耳にした瞬間、私は頭の中が真っ白になった。しかし、事態を飲み込むのに時間はかからなかった。私は深く息を吸った。動揺を悟られてはならぬ。
「う、嘘だ。俺を不安にさせようと、でたらめを言っているんだろう」
力なくそう吐き捨てる私に、ハゲ頭は何も答えない。うつむいたままの彼の表情は見えないが、髪の薄い後頭部越しに、かすかな嘲笑の気配が伝わってくる気がした。

私は処刑台へと歩きながら、初めて自分が本当に処刑されるかもしれないという現実に思い至った。これまで、メロスの身勝手な行動に巻き込まれたことへの怒りは感じていたが、彼が戻ってこないという可能性については、一度たりとも疑ったことがなかった。その無意識の確信に気づいたとき、足元がほんのわずかぐらついた気がした。

ふと心は過去へと泳ぎだす。
夕暮れの桟橋、少年だった私は虚勢を張って滝つぼに身を投げた。水面に浮かび上がれず、暗闇に呑まれそうになったとき、周囲の友は叫び惑うばかりだったが、ただ一人、メロスだけが迷わず飛び込んできてくれた。激しい流れに揉まれながら、彼は己の命など顧みず、必死に私を引き上げてくれた。水の冷たさと恐怖が心を蝕む中、その腕の温もりが鮮やかに胸に刻まれ、私は初めて友情の強さと優しさに涙した日のことを思い出した。

遠く霞む空に祈るような思いで目を向け、メロスの苦悩を想像した。いま、彼は山賊に捕まり、その荒々しい手によって幾度も地に叩き付けられ、身体の痛みよりも、果たせぬ約束への絶望で魂をすり減らしていることだろう。血にまみれた顔で、心の奥底にただ誓いの重みだけを抱きしめ、何度も苦しみに歯を食いしばっている。きっとメロスにとって、肢体の傷より、友との約束を裏切る悔しさこそが、一層鋭く胸を裂いているに違いない。

その悔しさは、次第に暴君ディオニスへの怒りとして胸にせり上がってきた。友と自分をこの苦しみへと追い込んだ者への、静かな憤激が心臓の奥深くを強く脈打っている。

時間はゆっくりと流れ、夕暮れの翳りはまだ遠く感じられる。
日没まで、残り2時間。

五章

処刑台の周囲には、すでに人だかりができていた。にわかに押し寄せる声の波は、ざらりとした土埃のように空気を満たし、ひやりとした好奇の目が無数にこちらを貫いていた。誰かが失笑を漏らし、別の誰かは口元に手をあてて囁く。どこか浮き立つような身勝手さと、他人の運命をただ愉快な見世物として消費する無関心が、そこかしこで渦巻いている。

暴君ディオニスが私の前に姿を現した。氷のような視線が私を貫き、沈黙の緊張があたりを支配する。
「もうじき、約束の刻限だ。どうやら君の友は戻らなかったようだな。」
その声は群衆全体に向けて放たれ、場に冷たい波紋を広げる。続けて王は、一時間後に処刑を執行すると無慈悲に宣告した。最後に皮肉げな高笑いを響かせ、闇にまぎれるようにその姿を消していった。

思わぬ王の登場で群衆のざわめきがいっそう激しくなった時、その声が聞こえた。
「犬死するくらいなら、一矢を報いてみないか」
押し殺した笑いと見下しの入り混じる、異様な響きを帯びて私の耳に絡みついた。足元に線を落とすと、ハゲ頭の眼差しがまっすぐ私を射抜いていた。まるで、私の胸奥の弱さと焦りを見透かすかのように。

処刑が執行される直前に、私がハゲ頭の腰に差してある短刀を奪い取り、暴君ディオニスの胸を貫く、それが奴の提案だった。その決行の瞬間、奴は腰ひもをわざと緩め、私の身体の拘束を解いてくれるという。あとはすべて、一瞬の機をつかむだけだ。
タヌキめ、悔しいがこのまま黙って犬死をするなんてごめんだ。

西陽に照らされ、影が足元から遠ざかるようにのびてゆく。
日没まで、残りわずか。

六章

再び暴君ディオニスが処刑場に姿を現した。
勝利の確定したゲームにすでに飽きているようにも見える。遠い西側の空を眺め、刑吏であるハゲ頭に無言の指示を命じた。

縄を首にかけるために、私の方に向かってくるハゲ頭の右腰には、約束通り短剣が帯びられている。王との距離はおよそ2メートル、その間に障害物はない。
いよいよだ。足元から熱が這い上がってくるような感覚、それが恐怖なのか、興奮なのか、自分でも判別がつかない。心臓は速く、しかし妙に静かに鳴っている。指先がびりつき、全身の筋肉が、張りつめた弓のように研ぎ澄まされていく。目の前を歩くハゲ頭の足取りが、やけに緩やかに見える。時間が、まるで粘り気を帯びて引き延ばされたかのようだ。頭の中で段取りを反芻する。足を一歩踏み出し、右手で柄を握り、振りかぶって心臓を突く。たったそれだけで、すべてが変わる。血が騒ぎ、喉が渇く。息を吸い込み、全神経が、いままさにその瞬間を待ち構えている。

やれる。やらなければならぬ。
私は、決意とともに、静かに右足を踏み出そうとした。

夕日の最後の一片の残光が消えようとしたその瞬間、群衆のざわめきが一際大きくなり、誰かの叫ぶ声が空気を切り裂いた。

「待て! 私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ!」
私は思わず顔を上げる。人混みをかき分けて、泥と汗にまみれた男が、必死の形相でこちらへ駆け寄ってくる。その姿は、かつて太陽の下で川辺を駆けていた少年のままだった。メロスは処刑台に駆け上がり、私の両足にしがみついた。
「間に合った……! セリヌンティウス、私は約束を守ったぞ!」
私は言葉を失い、彼の顔を見下ろした。その目には疑いも打算もなく、まっすぐな信頼と歓喜が宿っていた。胸の奥に熱いものが込み上げ、これまで凍りついていた心のなかに、初めて何かが溶け出すのを感じていた。メロスは泥だらけの姿で処刑台に駆け上がり、荒い息と血と汗と土の匂いを全身にまとい、苦難の道のりを物語る無数の傷と、それ以上に鮮やかな生命の輝きを湛えていた。
「セリヌンティウス。」
メロスは私の両肩を強く掴み、まっすぐに私の目を見つめる。その瞳の奥には、疑いも計算もなく、ただ約束を守ったという誇りと、私への揺るぎなき信頼が宿っていた。私は、その温度に圧倒され、これまで誰よりも冷たく、孤独であることを誇りとしてきた自分のすべての計算が、今や無意味なものへと変わっていくのを感じていた。胸の奥で何かが崩れ、熱いものが込み上げ、私は言葉を失い、ただメロスの姿を見つめるしかなかった。

「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
私は、すべてを察し、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、今度は私が伝えた
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
するとメロスも腕に唸うなりをつけて私の頬を殴った。

「ありがとう、友よ。」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

群衆が静かに二人を取り囲む。その中からすすり泣く声が漏れ始めた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様子を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

その瞬間、群衆の静けさが破られた。抑えていた感情が一気に爆発するように、天地を揺るがすほどの歓声が巻き起こる。歓喜と感動の声は渦となり、大地を震わせるほどに広がっていった。

「万歳、王様万歳。」

だがその時、メロスと熱い握手を交わすディオニスのすぐ傍らで、死んだ魚のような目をした禿げ頭の男が、音もなく短剣を鞘から抜くのが見えた。

私はすかさず、近くの少女が手にしていた緋のマントをひったくるようにして奪い、その布でメロスの体を包み込むように覆い、群衆からの視界を遮った。

誰もが感動の余韻に酔いしれ、歓声と涙に溺れるそのただ中で、メロスの背後に立っていた王の身体が、かすかに、小刻みに震えていた。

エピローグ

「万歳、王様万歳。」
群衆は、抑えきれない熱気に沸き立つ奔流のようだった。あちこちで歓声が上がり、手を叩き、抱き合い、感極まって涙を流す者もいる。

その熱狂のただ中で、ハゲ頭の短剣は、王の脇腹に沈み込んでいた。ディオニスは驚愕に見開いたまま、苦悶のうちに声もなく震えているが、その異変に気づく者は誰ひとりいない。

さすがは近衛兵、狙いは正確。一撃で急所を穿っている。だが、年老いた腕では力が足りなかったのか、致命傷には至っていない。

私は、興奮と期待に満ちた群衆を横目に、素早くハゲ頭から短剣をひったくるように奪い取り、それを頭上高く振り上げた。

ディオニスの瞳が、大きく見開かれたままかすかに揺れる。傷の痛みに必死に堪えていたその目に、今度は確かな「恐怖」が浮かんだ。

あれほど傲慢不遜だった男が、今や石像のように立ちすくみ、喉の奥から微かな呻き声をもらしている。その視線は、まるで死を目前にした獣のようにうつろで揺れ、助けを求めるように彷徨っていた。

私は、ためらいなく短剣を振り下ろし
ハゲ頭の咽元へと突き刺した。

鈍い音とともに剣先が肉を断ち、鋭く裂けた頸動脈から鮮烈な血飛沫が宙に舞う。空気が一瞬にして紅く染まり、群衆の間に凍りつくような静寂が流れ、やがて割れるような悲鳴が広場全体を切り裂いた。

歓喜に沸いていた熱狂は、一瞬にして恐怖の騒然へと姿を変える。護衛の兵たちが剣に手をかけ、一斉に王のもとへと駆け寄った。王を囲むようにして隊列を組み、身を挺してその身を守ろうとする。

返り血を浴びた私の口元が、わずかに歪む。
友情を証明した名誉、そして王の命を救ったこの劇的な手柄、それらがもたらすであろう破格の褒美と栄光を思えば思うほど、喜悦が体の奥から沸き上がってくる。我慢しきれず、私はついに声を上げて笑い出した。

それは徐々に加速し、ついには広場中に響き渡る大きな高笑いとなった。群衆のどよめきも、兵たちの警戒に満ちた視線も、もはや私の耳には届かない。あるのはただ、勝利と栄光を確信する悦び。それだけだった。


最後まで読んでいただきありがとうございました
このような長文を書くことにチャレンジをしたのは初めてです
ジェイムズを読んだのりで書いてみました、お粗末様でした

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