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2024年夏の甲子園準V、関東第一・米澤貴光監督の原点

甲子園準優勝で思い出した「原点の記事」

2024年の夏、母校・関東第一高校が甲子園決勝に進出、延長タイブレークの末に惜しくも京都国際高校に敗れたが、同校初となる夏の甲子園準優勝。その瞬間、ふとある記事のことを思い出した。

あれは2001年。当時、同期の“今”を伝えるために制作した会報誌『貫行』(野球部の「貫行寮」から命名)に、米澤貴光の監督就任1年目を追った記事を掲載した。
タイトルは「米澤貴光、チーム再建への挑戦 ~1年目の手応え~」。

当時、関東一高は前任の小倉全由監督が学校から離れて日大三高の監督に就任して以来、東東京大会の1回戦でコールド負けをするなど、チームは低迷していた。
それでもその会報誌のなかで、「米澤が甲子園で優勝したいといっても誰も笑うものなどいない」ということを書いたし、いつか全国優勝できるチームをつくってくれる、そう思っていた。

23年前。米澤監督26歳。就任1年目の夏が終わり、2年目の秋を迎えていた。

■ チーム低迷期に託された再建のバトン

2001年の東東京大会・準決勝で都城東高校に敗れた翌日、関東一高の監督、米澤貴光は千葉県鎌ヶ谷市の白井グランドにいた。ノックを打つ手を止めると、1日も休まず練習をスタートさせた新チームの選手達に対して、こう怒鳴った。

3年生はエラーで負けたんだろ。大事なのは技術より先に、絶対ボールを捕ってやるっていう気持ちなんだよ」。

今朝の新聞には都立城東・梨本監督の「練習量ではどの学校にも負けてない」というコメントが載っていた。でも米澤は「練習量の差だけではない」と思っていた。ただ「負ければすべて言い訳になる」と反論したい気持ちを抑え、悔しさをぐっと胸のなかにしまいこんだ。

ちょうど1年前、関東一高にとってはまさかの敗戦だった。東東京大会の1回戦、日大一高にコールド負け。初戦での敗退、しかもコールド負けというあまりにも不甲斐ない結果に、スタンドで応援していた野球部の父母会のなかでは「子供を関東一に入れて失敗した」という会話が飛び交っていた。
小倉全由監督がチームから離れてから5年、関東一高は毎年のように勝てないという低迷状態が続き、その凋落ぶりは誰がみても明らかだった。

そんな時、白羽の矢が立てられたのがOBの米澤貴光だった。米澤は関東一高を卒業後、中央大学に進学。社会人のシダックスを経て、その年の4月から母校のコーチを務めていた。

コーチに就任してすぐ、強く感じた第一印象を今でも覚えている。それは「選手の意識の低さ」だった。
社会人野球の強豪、シダックスでもプレーするなど、常に高いレベルを見据えてきた米澤にとって、久々に帰ってきた母校の雰囲気はあまりにも変わり果てていた。

ベンチに入って試合に出るだけで満足してしまう。甲子園に出たいという言葉が口だけに聞こえる。夢のまた夢としか思っていない」。

まず監督に就任した当初、基本方針として掲げたのは「気持ちの重要性」と「練習の動機づけ」だった。
気持ちの重要性-。

■ 弱気で終わった“あの夏”の悔しさ

米澤はあの日のことを思い出すことがあるという。1993年、夏の東東京大会・修徳との決勝、自分が最後のバッターとして敗れたあの夏のことを。甲子園をかけた9回、のちに巨人やメジャーでも活躍することになるマウンド上の高橋尚成を追いつめ、関東一は2点をとって1点差に迫っていた。そして、なおも2死2塁という同点のチャンスでバッターボックスに入ったのが米澤だった。

いつもは自分が決めてやろうと強気でバッターボックスに入るのに、あの時だけは弱気で、何も考えることができなかった」。

ツースリーから2球続けてファールで粘ったものの、最後は高橋尚成の渾身の外角ストレートに手が出ず、見逃しの三振でゲームは終了。あと一歩で甲子園には届かず、米澤は高校野球生活を終えることになる。

その後、社会人野球でプレーしているなかでも「技術的にホームランを打つことができるとか、バックホームでストライクを投げるとか、それは当り前。でも試合の大事な場面、緊張感のなかでどれだけそれができるか」が勝負を分けてきた。
だから9回2死から逆転できるチーム。そういう野球を目指そうと思った。

練習の動機付けについては、その夏、甲子園で優勝を果たした智弁和歌山・高嶋監督の言葉も参考にした。
「なぜ、その練習をするのか。監督の気持ちをちゃんと伝えれば、選手は必ずついてくる」。

■ まず鍛えるべきは“土台”――体力で意識が変わる

そこで米澤は、野球における基本となる考え方を三角形に例え、選手たちにまずこう示した。「一番下の土台となる部分が基礎体力。その上が技術。次が応用。そして一番上のてっぺんの部分が戦術になる。今のおまえたちは逆三角形になっている。つまり野球の知識については詳しいけど、一番下の基礎体力がないんだ。だからまずは体力をつけることからはじめよう」。

練習ではその言葉通り、走り込みを中心にロングティーなど体力トレーニングに重点を置いた。体力がついてくると打者はバットを強く振れるようになり、飛距離が伸びた。ピッチャーは球速、球のキレが増し、それが選手個々の自信になっていく。こうした意識改革と体力アップはすぐに成果となってあらわれた。夏休みの練習試合、それは米澤が「ほとんど負けなかった」というほど、連勝を続けていく。

バックネット裏で練習を見つめていた父兄たちのなかでは「米澤さんが監督になって、子供たちの顔が明るくなりましたよ。この人に付いていけば必ず強くなれるって。光明が見えてきた。そう思っています」という前向きな言葉が出るようになった。

■ 苦い初陣、失敗から学ぶ

そして迎えた秋のブロック予選。1回戦から順調に勝ち上がり、決勝では都立八王子北との対戦となった。都立といっても日大二高を甲子園に導いた実績のある監督と、右のサイドスローの好投手を擁する都八王子北に、米澤は大会前から警戒心を抱いていた。

 試合も立ち上がりから先制を許す厳しい展開となる。しかし5回、ソロホームランで同点に追いつくと、なおも四球と2本のヒットで一死満塁という絶好のチャンスを迎える。
ここで米澤は打席に向かう2番の古川を呼び寄せると、こう指示を出した。

初球を狙え」‐。

言葉通り初球を叩いた古川だが、打球は力のない内野フライとなり、チャンスを生かすことができない。引き寄せていた流れはそこで断たれた。
2-7。米澤が監督になって初めて迎えた公式戦はブロック予選での敗退となり、都大会の本戦にさえ進めないという厳しい結果で終わることになる。

 「あの試合は、完全に俺の監督としての経験不足が裏目に出た。古川というのは打つ時に体が開くバッター。だからあのチャンスでは、じっくりボールの軌道を見せたほうがよかったのかもしれない」。

米澤はあとになってそう述懐した。たしかに満塁の場面、投手は押し出しを嫌がり、初球からカウントを稼ぎにくる。野球のセオリーからいえば、「甘くなる初球を狙え」という指示は間違えていない。

でも監督にはバッター一人ひとりのクセや特徴、さらにはその選手の思考タイプ、心理状況まで察し、それを総合的に判断して指示を出すということが求められる。結果としてはそうした監督の判断、指示を出すことの難しさを痛感したホロ苦い公式戦の“監督デビュー”となった。

恩師の一言に学ぶ――監督に必要な「声かけの力」

その年のオフには、これまでに経験したことのないような厳しいトレーニングと練習を課した。そのため、冬が終わろうとする頃には選手達の基礎体力は飛躍的にアップし、それが野球の技術にも確かに結びつつあった。

4月上旬から始まった春の都大会では、順調にベスト8まで進む。そして迎えた準々決勝では、昨年の秋の都大会を制し、春のセンバツ大会にも出場している日大三高との対戦となった。
この大会でも圧倒的な優勝候補にあげられていた日大三高だったが、初回、日大三の3者凡退に対して関東一は無得点ながらチャンスをつくるなど、押し気味に進める。しかし2回、先頭打者を四球で歩かせると、次打者の送りバントをピッチャーが2塁へ悪送球するなど、エラーも絡んで先制を許してしまう。その後は一方的な展開になり、日大三高との力の差をまざまざと見せつけられる。4番・原島には3打席目の初球をセンターバックスクリーンへ、続く4打席目にもワンスリーから外のストレートをレフトへ、2打席連続でスタンドへ運ばれた。結局、試合は9回までいったものの0対7。完敗だった。

 試合後、日大三の小倉監督は、かつての教え子を呼び寄せると、諭すようにこう話した。

なあ米澤、監督っていうのは選手に対する一言、フォローの言葉っていうのがとっても大切なんだぞ」。

さっきまで圧倒的な力を見せつけられていただけに、その裏には小倉監督の選手に対する言葉の配慮、後押しがあったのかと思うと、米澤は改めて監督の重要性を再認識した。

■送り出す“ひと言”が、選手を変える

春の大会が終わると、米澤は夏の大会に向けて2つの課題を頭のなかで考えていた。
ひとつは春の大会で20近くもエラーした守備面の強化だった。そのため練習時間の約8割を守備練習に費やした。そのぶん、打撃面では不安が残ったが、守りでリズムをつくらないと試合の流れをつかめない。それは米澤がこれまでの経験のなかで培ってきた野球哲学の一つであり、信念でもあった。

そしてもう一つの課題。それは選手に対して何を言ってあげればいいのか、監督としての課題であり、心の面でのアドバイスの仕方だった。

そこで米澤はある大学のメンタルトレーニングの講習に参加することにした。ここで学んだのが「ペップトーク」というものだった。「最後に送り出すための一言、これを選手は待っているんだって」。
小倉監督から聞いた言葉の重要性、これをメンタルトレーニングは確かに裏付けていた。

この話を聞いて米澤はひとつのエピソードを思い出していた。
それはこの夏の甲子園、準決勝で日大三に敗れた横浜高校。神奈川大会の決勝戦でのことだ。1回表、桐光学園に4点を先制された横浜高校の渡辺監督は、ようやくスリーアウトをとってベンチに戻ってきた選手達に対して、こう話したという。

もう甲子園はあきらめなさい。そのかわりこの試合を思いっきり楽しめ」-。

まだ1回表が終了した時点でのことだ。しかし、この言葉で開き直った横浜高校の選手たちは、すぐにその回の攻撃で同点に追いつくと、試合の中盤で逆転して甲子園出場を果たした。渡辺監督は選手に対して計算して話したのか、自然とその言葉が出てきたのか、それはわからない。
しかし、それは永年の監督経験における成功や失敗を繰り返して培ってきた「カン(感性)」に基づく言葉であったことは間違いない。
 こうしたペップトークは永年の経験がモノをいうが、これを理論的に学べるのがメンタルトレーニングということになる。

「講師の先生が言っていたなかで、心・技・体というのは一番はじめに“心”がくる。高校野球ではどうしても技・体の厳しい練習によって心が培われると考えられる。しかしメンタルトレーニングでは、前向きな充実した心があって、初めて技・体が身につくようになる」と説明されるという。
「心を鍛えるのにメンタルトレーニングだけではいいと思わない。だから選手達には練習への姿勢とか、普段の寮生活の態度とか、すべて心の面が野球につながるんだよって話しているんだ」。米澤は選手たちに心の重要性をそう説いている。

■「確認通りです」――分析と信頼でつかんだ雪辱の勝利

7月、監督として初めて迎えた夏の大会は、春の大会でベスト8までいった関係で、第二シードからのスタートとなった。初戦となった3回戦の開成に10-0で6回コールド勝ちすると、関東一高はベスト8まで順当に勝ち上がった。そして準々決勝の相手は、昨年夏の1回戦で、コールド負けを喫しているあの日大一高だった。

選手たちはこの1年やってきたことに自信を持っていたし、「去年の雪辱を晴らしたい」という強い気持ちに満ち溢れていた。しかもこの試合の前、日大一の試合の偵察にいった米澤は、ある選手の動きによって、投手の配球パターンを見破っていた。ただそれを選手たちに伝えるかどうか、最後まで悩んでいた。投球前に球種がわかることで、逆にバッターの力が入ってしまう危険性があったからだ。そこで米澤はキャプテンの佐藤だけを呼んで、このことを明かしたうえで、反応をうかがってみた。
すると佐藤の回答は「知っていたほうがいいです」ということだったので、選手全員を寮の大広間に集めると、ビデオによって3度ほど確認させた。

 試合が始まると、先頭打者の菅原がいきなりスリーベースを放つ。「いける」-。チームの誰もがそう思った。3番・佐藤のタイムリースリーベースでベンチに戻ってきた菅原は、米澤から「どうだ?」と聞かれると、「はい、確認した通りです」と笑顔で答えた。投手の球種がわかるという余裕が選手を伸び伸びプレーさせ、先発全員の12安打。6対1で日大一を下し、見事に昨年のリベンジを果たした。

■伝えきれなかった「勝ち方」――1年目の監督が学んだ現実

 西東京大会の準決勝をはさんだ翌々日、実に95年以来という準決勝進出に選手たちの足は震えていた。相手は2年前に甲子園に出場して、都立旋風を巻き起こした都城東高校。

試合は序盤まで、接戦で進む。初回に1点を先制されるが、2回には逆転。しかし、すぐ3回には同点に追いつかれるという展開に。そして2対2で迎えた5回、2死2塁の場面で平凡なフライをセカンドの菅原が落球すると、そこから流れが変わった。この回に3点を勝ち越されて、6回にも1点、7回にはゴロを捕球しようとしてピッチャーが転倒してしまうというミスもあり、1死満塁というピンチを招く。ここで都城東の8番打者に走者一掃のタイムリーを打たれると2-9、あっという間にコールドゲームによって試合は終了した。

 実はこの試合でも相手チームに配球がわかるある動きがあり、米澤はそれをつかんでいた。しかし、いい当たりが野手の正面をつくなど運にも見放されたが、都城東の選手には大事な場面で大きな2つのファインプレーがあった。逆に関東一は大事な場面でのミスが響いた。

 「要はその差だよ。力の差はなかった」。

米澤は敗因をそう話した。ではその差とは何か。

「結局、ボールを捕ることに対する執念だと思うんだ。選手達の気持ちの強さ。甲子園に対しての意識の差かな」。

 関東一の選手は、あと2つ勝てば甲子園という大舞台に足が震えていた。それに対して、都城東の選手は1年生の時にスタンドながら甲子園を経験、確かにそれを身近なものだと感じていた。目には見えない伝統は、必ず年代を超えて受け継がれる。勝つためには何をすればいいか、先輩たちの練習や試合の姿勢をみて、それを後輩たちが1年1年残していく。そして伝統になる。一方で最近の成績が思わしくない関東一の選手達は「勝つための方法」がわからなくなっていた。

 米澤はそれを1年間に渡って示してきたつもりだったが、「教え切れなかったのは監督の責任」と選手たちをかばった。

 「最後はエースを替えるタイミングを間違えたし、代打を送るべきところでも出せなかった。監督としては試合の流れが変わるのがもっとも怖い」。

1年を通して米澤は「監督が試合の展開をつくる」ということを学んだという。
 「大量点をとりにいくのか、接戦に持ち込むのか、監督には試合の展開をつくる必要がある。そうしないと勝てないということがわかった。でも負けたんだから、すべて監督の力不足。日々の練習メニューから、選手との対話まで、すべて含めてね」。そういうと米澤は唇をかみしめた。

■台風一過の空の下で――変わり始めた関東一と監督の2年目

8月22日。台風11号が関東地方に上陸したこの日、「日大三高が甲子園で優勝」というニュースを室内の練習中に聞いた。春の大会で圧倒的な力の差を見せつけられた日大三のチーム力を思い出すと、米澤は「あと何年であんなチームをつくれるだろうか」と考えてみた。

 夏の全国制覇を果たした小倉監督だが、かつてこんな話を聞いたことがある。

まだ関東一が野球では無名のころ、監督に就任した際に≪甲子園に出れるようなチームをつくります≫って挨拶したんだ。そうしたら学校関係者はこぞって≪そんなの無理だよ≫って笑ったんだぜ」。

 今、米澤が「甲子園で優勝したい」と言っても誰も笑うものなどいない。それは小倉監督や歴代OBが築き上げてきた関東一高の伝統にほかならない。

 昨年監督に就任した当初、米澤は自分が現役だった頃とはまるで違う関東一高に戸惑っていた。しかしそれから1年で、チームは確かに変わりつつあった。「去年の同じ頃とは話す内容が違う」とチームの成長に目を細める。夏の大会における第二シードからの準決勝進出という3年生が残した結果は、これまで足りなかったという「自信」と「誇り」をわずかながらでも後輩たちに残すことができたのではないか。

 室内での練習が終わる頃、さっきまで灰色の分厚い雲がかかっていた鎌ヶ谷のグランド上空には、いつしか台風一過の青空が広がっていた。そして米澤は、監督就任から2年目の秋を迎えた。


それから7年後の2008年、春のセンバツ大会に監督として甲子園初出場を果たした米澤。さらにその夏も東東京を制覇し、甲子園では3回戦まで進出した。2010年夏はチーム25年ぶりとなるベスト8入り。3回戦の“東京対決”では早稲田実業にもに勝って、和泉監督には「東京一のチーム」と言わしめた。

2012年(監督13年目)は春のセンバツ甲子園でベスト4。
2015年夏はオコエを擁してベスト4。
そして2024年:夏の甲子園で準優勝(決勝)延長タイブレークの末惜敗

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