水を飲む音が #ショートショート #シロクマ文芸部
水を飲む音がする。
年老いた男は、暗闇の中でじっと耳を澄ませた。
ごごごご...…。
低い、地鳴りのような音が遠くから響いてくる。
男は手探りでマッチを擦ると、瓦礫から見つけたランタンに火を灯した。
頼りない明かりであたりを見渡すと、
やはり嵐が過ぎ去ったあとのような惨状が広がっていた。
何隻もの船の残骸、引き裂かれたぼろぼろの帆、流木の山。
そして、自分以外に人の姿はなかった。
男は立ち上がろうと地面に手をついた。
だがとたんに地面がぐにゃりと沈み込んで、男はよろけて倒れてしまった。
衝撃で、老体に痛みが走る。
弱々しいうめき声をあげるが、それを聞く者はここにはいない。
ランタンの火だけが、わずかに揺らめいただけだった。
男は早くこの場所から離れようと考えていたが、どこまでも続いているであろう深い闇の中を、大小の瓦礫に阻まれながら歩けるほど、男は若くはなかった。
ここに留まらざるをえないことを察し、男は深い溜息をついて目を閉じた。
自分の死期を悟りながら、
頭にもう一度、我が子の姿を思い浮かべる。
男には幼い息子がいた。
歳を重ねてからこさえた子で、人とは違うことを指さされることもあったが、男にとってはやはり可愛い我が子だった。
あまり言うことを聞かず、ウソもつき、学校をサボってばかりのやんちゃな子だったが、妻も身寄りもない男にとっては、愛情を注げる唯一の存在だった。
行方が分からなくなって数日、いてもたってもいられなくなって、無謀にも小さなボートで捜索に出たのが間違いだったのだろうか。
いつか帰ってくることを信じて、ずっと家で待っていた方がよかっただろうか。
男の頭をわずかに後悔の念がよぎったが、あといくばくもないであろう自分の命と、いま見舞われている大事を思うと、すぐに諦めがついた。
後悔を生きる力に変えられるほど、やはり男は若くなかった。
ごごごごーーー。
さきほどの、水を飲んだ音が近づいてきた。
ランタンに照らされた肉の壁がゆらゆらと前後に揺れたかと思うと、
直後、大量の海水が津波のように押し寄せてきた。
男はすんでのところで船の残骸にしがみついた。
冷たい水が、男の身体を激しく揺さぶった。
轟音の中で無数の瓦礫がぶつかりあい、濁流が荒れ狂う。
男をいためつける嵐は、しかし、徐々に勢いをなくしていった。
巨大な肉の壁がまたゆっくりと脈打ち、海水を更に奥底へと運んでいったのだ。
凄まじかった轟音は次第に遠ざかり、
やがて、ちゃぷちゃぷという淀んだ音に変わっていった。
しばらくして水面が完全に落ち着くと、
あたりはまた、不気味なほど静かになった。
男はそっと目を開けたが、もうそこにはなにも映らなかった。
ランタンはとうに流され、老いた男を再び完全な暗闇が包み込んでいた。
男はまた目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
「息子よ...…。私が木から作った、不思議で愛しいピノキオよ。
お前だけは、どうか無事であってくれ」
そしてまた、
あの水を飲む音が。
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