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津軽の座敷わらしたちが、ついてきた

青森の津軽半島を旅したことがある。男ふたりの旅だ。
ずいぶん前のことで、僕たちはまだ若かった。青森の駅でレンタカーを借り、すこし走るとリンゴ畑があらわれて、ほんのりと紅をさしたような果実がいくつもいくつも枝からぶらさがっていて、遠目にはまるで花のようだった。
やがて僕たちは広々とした田んぼに囲まれながら、そこをドライブすることになった。田んぼの大地は長くつづいた。秋のはじまるころで、稲穂が首を垂れていた。曇天の空だったが、どこか豊かな気分があった。

ずいぶん走って、左手に寒々とした日本海が見えた。右手には静かで寂しげな水をたたえた湖もあった。太宰治が「浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じ」と書いた十三湖だ。僕たちは海の近くの砂浜にクルマをとめ、日本海も眺めた。朽ちかけた廃船がひとつあり、浜辺ではこどもがふたり、釣りをしていた。ほかに人影はなかった。

その日の夜は、ある町の古くて立派な旅館に、僕たちは宿をとった。
明治時代に建てられた豪邸を旅館にしたもので、やや暗い感じの、それでも造りのしっかりとした広い建物だった。黒光りする長い廊下、歳月をへた柱や天井、古い調度類もみごとに磨きこまれている。きらびやかで派手というのではなく、落ち着いて風格があって、そこにいるだけで土地の古老と静かに話をしているような感覚があった。
僕たちはその旅館の1階の畳の部屋にとおされ、そこで夕食をとり、風呂にはいって床に就いた。

その夜のことだ。
枕もとで、パタパタと幼いこどもたちの走り回るような足音がして目が覚めた。部屋は真っ暗で、なにも見えない。けれども、パタパタ、パタパタ、と何人かの足音が聞こえる。どう考えても奇妙なことだが、恐ろしいという感じはなかった。陽気に戯れているという感じなのだ。
これは、座敷わらしなのではないか。
旧家に出没するとされるこどもの妖怪、あるいは精霊である。
しかし、それが現実だったのか夢だったのかはわからない。僕はまた、いつの間にか眠ってしまっていた。

そういうものに親和性がある体質かもしれない、と中高生のころから感じてはいた。
金縛りにあって、その最中に女性の顔が渦のなかにあらわれるのを見たことがある。あるいは当時は存命だった祖母が、遠くに住んでいたにもかかわらず、僕が寝ている部屋にふっと姿をみせたこともある。もちろん幻覚だ。しかし、妙に実体感があった。天井が同じリズムで5回軋み、静かになったあと、また5回軋み音がしていたこともあった。無音になったあと、数を数えてみると、同じ数だけ数えるとまた軋み音がはじまる。こういう現象は一定期間つづいた。妙な胸騒ぎと、かなりの恐怖心があったのを覚えている。
おとなになったあと、年下の友人からこんな話を聞いたことがある。
「自分が死ぬ夢をよく見るんですよ。それも同じシーンを。僕は侍の格好をしていて、だれかに刀で斬りつけられて、そのあと腹を刺されるんです」
これは明らかに夢のなかだが、それでも同じ夢を何度も見るというのも奇妙な話だ。
彼もとりたててスピリチュアルに関心があるわけではなく、話はそれきりになった。たいていは、そんなものではないかと思う。よくわからないものを憶測で語ったところであまり意味はない。

話をもどそう。津軽半島での出来事だ。古い旅館に僕たちは一夜をすごし、すっきりした気持ちで目覚めた。焼き鮭に卵焼、煮物などたっぷりのおかずと白飯で朝食すませ、広々とした二階建ての日本家屋と立派な庭をひととおり見学して、僕たちはまたクルマで旅をつづけた。そのあと、青森県内で3泊ほどした。いい旅だった。

それから何年かたってからのことである。僕はあのときの旅の同行者と飲む機会があって、冗談まじりの口調で真夜中の足音の話をした。とくにそれを気にしていたわけでもない。酔っていたわけでもなかった。ただ、いっしょに旅をしたことを思いだして、ひとつのエピソードとして話しただけだった。
「俺も、聞いたよ」
「えっ、そうだったの」
すくなからぬ驚きはあった。
「うん。でも、怖いという感じはなかった」
「そうだねぇ」
と、こんな感じでその話はおわった。

この足音について、僕にはもうひとつ話があったが、それは口にしなかった。
その話というのは、津軽の旅からもどって数日後のことだ。そのころは都心部から私鉄で15分か20分ほど離れた駅で、ひとり暮らしをしていた。その部屋で夜中に寝ているときに、あの足音を聞いたのだ。パタパタパタ、パタパタパタ。なんだ、ついてきたのか。そんな気持ちがわいてきて、やっぱり怖いという感じはなかった。むしろこどもたちが嬉しそうにはしゃいでいる感じさえ伝わってきた。
昼間に電車に乗ったり、都心部を歩いていたりしたとき、目には見えないおそらくは野良着のような服装の幼いこどもたちが数人、僕のうしろをちょこちょこと歩いていたという姿を想像すると、思わず頬がゆるむ。
足音は一夜だったか二夜だったか聞こえて、それきりになってしまった。

柳田国男の『遠野物語』は読んだことがあった。そこには座敷わらしに関する逸話が三つ登場する。目に見えることもあれば、足音や気配といった痕跡だけが残る場合もある。柳田が取材したのは岩手県で、僕たちが旅したのは青森県だ。場所は違うけれど、日常の世界のすぐ隣に、もうひとつ別の層があるような感覚はどこか似ている。

「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」

柳田は『遠野物語』の序文にこう書いた。ここでいう平地人とは、人里や町で暮らす人々というほどの意味だろう。いまの時代なら、ほとんどの人が平地人だ。都市化によって、見えないものの気配や土地の記憶は急速に薄れていった。柳田の言葉には、そうしたものを忘れるなという痛切な思いがこめられている。それは占いというものにも、どこか通じているように思う。

時代や地域によって、忘れられたり、逆にもてはやされたりする占いがある。
いまの日本では霊感占いが圧倒的な人気だ。いわゆるスピリチュアル系の分野である。IT企業が運営する電話占いやチャット占いでも、霊感を看板に掲げるところは多い。人気があるいっぽうで、胡散くさいという声も少なくないだろう。しかし霊感や直感、あるいは幽霊の存在を、まったくの虚構と断じてしまうのもすこし乱暴な気がする。もしかすると、それらはまだうまく説明できていない種類のエネルギー、あるいは感覚の働きなのかもしれない。

もっとも僕自身は、スピリチュアルな世界やオカルティズムに傾倒しているわけではない。かといって、頭から否定するつもりもない。政治体制や文化風習が異なる隣国がある、というくらいの距離感だ。

そんな僕のところに、ときどき奇妙な依頼がくることがある。
「念を送ってほしい」
これは、願いを叶えるために、精神的なエネルギーや強い思いをて伝えるという、スピリチュアルな行為をさす。
「わかりました。ではお祓いをして拝んでおきます」
などとは口が裂けてもいわない。この手の依頼はていねいに断っている。できもしないことを引き受ければ、結局は自分の首を絞めるだけだからだ。

占い師としてクライアントにむきあうとき、僕は霊感という言葉を使わない。存在を否定しているわけではないが、それを扱う技術を自分がもっていないからだ。
むしろ僕が頼りにしているのは、これまで身につけてきた技術だ。カッコよくいえば、細部に注意を払いながら、言葉という簪を一本一本つくるような仕事だ。それがクライアントの髪にうまく似あえばいい。技術を重んじることで再現性が生まれ、ズレを感じたときには修正もできる。霊感を看板にしている占い師であっても、結局はどこかで同じことをしているのではないだろうか。

霊感というものは、メディアの仕組みに似ている気もする。
占う側と占われる側のあいだに、なにか別の存在をおき、その声を聞いたり様子をうかがったりする。英語でこうした占い師をミディアム、つまり中間にあるものと呼ぶ。なるほどと思う。

その「あいだ」におかれるものは、守護霊でも水晶玉でもいい。恐山のイタコのように、自分の身体そのものを依り代にすることもあるだろう。考えてみれば、僕たちが毎日接しているスマートフォンやテレビも、遠くの出来事やだれかの声を運んでくる媒介装置だ。

もちろん、こんなことをいえば叱られるかもしれない。科学と迷信をいっしょににするな、と。それももっともだ。見えない存在の声を聞いたといって、それを「わかりました」とだれかに伝えることに、たしかな証拠があるわけではない。

けれども同時に、僕たちは目に見えないものに囲まれて暮らしてもいる。遠い国の戦争でさえ、僕たちは画面の映像としてしか知らない。それはどこか、座敷わらしの話のように、別の世界の出来事として受けとられてしまう。

確証のないものに踊らされる危険はたしかにある。あいだに立つものを疑う視線も必要だろう。だが、目に見えないという理由だけですべてを切りすててしまうのも、また乱暴な態度ではないか。驕るなかれ。

柳田の言葉を借りるなら、僕たちはもっと戦慄すべきなのだ。

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