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癒しはつながりから生まれる

最近 インスタライブなんかやってみたりしているのです。
特にお題を決めていたわけでもなく とりあえず何をしているのかを知ってもらおう というだけの取っ掛かりでした。
昨晩 アニマルメディスンブックの編集さんとのコラボのなかで 何を話せばいいのか考えていました。私は何を話せばいいんだろう?というところが いつも迷うわけです。なぜかというと 人は何を求めて生きてきて どういう経緯でアニマルメディスンというものが生まれたのか? この部分をスピリチュアル抜きに説明することが難しかったのでした。
まあ こんなときにAIというものを使ってみると 人は自然や動物たちに癒しを求める という答えが返ってきました。
そこから考えていくと 確かに木も草も生えない 鳥も虫も生き物もいない 人工物と人間だけしかいない世界では なんにも面白くはないなあと思い至ります。
自然の一部として生きてきた時代の人間たちは 当たり前に自然のもの 天然のものを与えられたものとして受け取り 様々な種のいのちとのつながりのなかで暮らしてきました。この 自分たちが与えられた物質的なもの 例えば食べ物や着るために使う木の繊維や 目でみて体感していく天気を教える鳥や動物たちの動きや 身を守るための術 そういったことが すべてメディスンと呼ばれていましたよ ということと まとめました。
そこで体感したもの 存在のような「生き方」を トーテムと呼び尊び暮らしに取りれてきたというのが スピリチュアル抜きの説明になるのかな。

なぜタイトルが「癒しはつながりから生まれる」なのか。
今の時代 私たちは自然と密接につながるような暮らしが難しくなっているし 種を越えて人生を共有する存在として 様々な生き物たちを家族として迎えます。なぜ動物や鳥や虫 爬虫類たちと暮らすのか?
たぶん…ですよ? そこに私たちは癒しと 何かしらの気づきを得ているからなのかと推測したからです。
私は子どものころから家には なにかしら動物たちがいました。いないことがあったのは もうこの子で最後にしよう そう思って我が家の猫さまを看取った後でした。車にはねられたところを保護し 下半身が動かなくなり介護が必要な子でした。夜中でも排泄すれば大きな声で教えてくれるので 当時はなかった動物用のおむつ的な物も必要ない手のかからない子でもありました。 自力で立ちたい 歩きたいという意思があってか 一年経つころには神経が回復したのか 歩けません と言われた子はふつうに歩き 高いところにもジャンプで登り トイレも自力で行ける普通の暮らしができるようになりました。ただ事故のときに腎臓を傷めていたのが 後にダメージとして亡くなりました。
もう お見送りは自分のメンタルが持たないな だから もう動物たちと暮らすのは これっきりにしよう そう決めた別れでもありました。

その頃 伯母をひとり引き取って同居していたストレスもあってか 毎日が苦痛でしかなくなっていきいます。人間対人間だけの生活で ものすごく自分が狭く苦しくなっていくのが分かりました。なんのために仕事をするのか? 毎日 私ってなにが楽しいの? どこか病んでいる自分に気づいてはいるものの 解決策は精神科に行くことでもカウンセリングを受けることでもなく 人以外との つながりを もう一度求めることだとも理解していました。そこで たまたま出張先で出会った駅前の譲渡会から 一頭の若い男の子の猫さんを迎えました。本当にメディスンとの出会いです。私はまた生きる気力も意味も取り戻すことができたのでした。

今の世の中では簡単にペットロスという言葉にまとめられますが ただ家族を亡くした喪失感が埋まらないということではなくて 大切なつながりを失った 現実的にこころが通うつながりが途絶えてしまった とどのつまりは それかなあと思ったりもします。

自分以外の存在と暮らすと 人間はお世話しないと とか お世話してあげている という言い方をしますが 私が変態なのか させてもらえることで彼らとつながっていて ものすごくしあわせだったりします。
では人間の伯母と暮らしていたストレスはなんだったのか?というと 人間は自分でできることだけど敢えてせずに やってもらって当たり前と態度にも言葉にも出すこと。そして私は悪くないとウソを吐いてまで周囲の同情を引く よろしくない知恵と言葉を持っていること。共生とか共存ではなく 回避できるのに依存が当然になるのも人間か…という どうでもいいっちゃあいいことでした。

人間以外のものとつながることでしか 人間ってやっぱり健やかには生きられない そんなことをお話ししたインスタライブだったかな。


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