人間は孔雀なのか猿なのか?
という問いにおいて「人間は孔雀である」と答える方はいないだろう。普通に考えて「人間は猿である」もしくは「猿とまでは言えないが孔雀よりは猿に近い」と答えるはずだ。しかしながら生殖の文脈では「人間は孔雀である」と考える方が多い…というより、昭和平成の人間にはソレが常識としてインストールされている。例えば以下のような説明を聞いて、その誤りを指摘出来る昭和平成生まれの方は恐らく私のnoteの読者か、高校で生物学を履修した者だけだろう。
自然界において雄は出来るだけ多くの配偶者を求めて行動するのに対し、雌は競争する雄の中から配偶者を選択する。それ故に雄は雌に選ばれるよう必死に努力し、雌を誘惑する為に雄孔雀の羽のように自らを誇示し、雌の承認を得なければならない。1方雌は子供を産めるので雄のような努力抜きに存在価値がある。換言すれば、雄は雌に種をつけるだけの消耗品であり、これが人間社会において男性が女性より冷遇されがちな理由である。
言う間でもなく…いや、残念ながら言わないと分からない方が大半だろうが…これは間違った説明だ。その理由は3つある。まず1つは「自然界において性的アプローチする役割は雄に固定されてはいない」ことだ。
例えばタマシギはメスはオスよりも大きく鮮やかな色彩をしており求愛もする。


こうした例はハゼやカマキリやシクリッドやハイエナやペンギンやレンカクや…等と無限に見出す事が出来るうえに、そもそも論として鮭や蛙など雌が産んだ卵に雄が精子を雑にかけて終わる種もあり「性的アプローチ」という概念自体がない種も多いのだ。より詳しくはコチラ参照
(更なる、そもそも論で言えば「男性が女性に性的アプローチして受け入れて貰う」という繁殖形態…自由恋愛自体がここ半世紀程度の1部地域(国)で見られる慣習でしかない。しかもその持続性の乏しさは我々自身が現在進行形で証明している)
そして第2に男性が女性より(あからさまに)冷遇されるようになったのは、ここ半世紀の先進国に限る現象であることだ。まずはコチラの画像を見て欲しい。

上の図はgoogle booksの言語データを解析したものであり、雑に言えば共感(empathy)という言葉は本来はジェンダーフリーな概念であり、1970年代までは男性にも女性にも結び付けられて語られていたのだ。それがハッキリ変わるのは1980年代に入ってのことである。
これに対して「いやいや共感という言葉は心理学的な概念だから、昔はそこまで使われなくても当然じゃないか」という声もあるかもしれない。だが「安全」ならどうだろうか?「女性を守れ!」「女性を1人にするのは危険だ!」というのは我々の内面には常識レベルで刷り込まれているし、女性は男性に比して肉体的な力を弱いので昔からそのような規範があった…と現代人は思いがちだ。なんなら義務教育を忘れて「男性が女性の安全に気を遣うのは本能なんだ!」と言い出す方もいるかもしれない。しかし現実はコレだ。

これは人類はずっと女性より男性の安全を気にしており、女性の安全を気にするようになったのは1980年代からということだ。最も人類が女性より男性の安全を気にするのは労災や犯罪被害者の男女比を考えれば当然であり、逆にそれらの男女比にも関わらず女性の安全のことばかり気にする現代が極めて特異的である証拠に他ならならない。参考までに数字をあげると労災死傷者の男女比は75:25で労災死は95:5で犯罪被害は60:40ぐらいだ。
要するにコノ手の「自然界では雄は本来使い捨て」「雌は選ばれる側の性」的な言説は、現在の社会において女性がある種の貴族・特権階級化している現象を後付けで(誤った)生物学のレトリックで正当化してる詭弁に過ぎないのだ。
そして3つ目、これが真に生物学的に本質的な理由だが「人間は雄が子育てにコミットする種である」という点である。
自分を象アザラシと勘違いする類人猿
1871年、チャールズ・ダーウィンは『人間の由来』において、自然淘汰とは異なる進化の駆動力として「性淘汰」を提唱した。生存に直接寄与しない、あるいは生存にはむしろ不利となるような形質(孔雀の巨大な尾羽や鹿の重厚な角など)が進化する理由を説明するため、彼は2つのメカニズムを特定した。即ち同性間の闘争と異性による選好である。
この概念は1972年にロバート・トリヴァースが提唱した「親の投資理論」によって理論的に強化された。トリヴァースは異形配偶子という根本的な非対称性に着目した。雑に言えば、雄は小さく安価な配偶子(精子)を大量に生産する1方、雌は大きく栄養価の高い配偶子(卵子)を少数生産し、さらに哺乳類においては妊娠・授乳という莫大な生理的コストを負担する。この投資の不均衡により、雌は繁殖における「制限資源」となり、雄はその資源を巡って激しく競争することになる…という理論だ。「自然界では雄は本来使い捨て」「雌は選ばれる側の性」的な言説の元ネタである。
この理論的枠組みは「雄間競争・雌による選好(MCFC)」モデルとして定着し、多くの動物種、特に性的2型の著しい種の行動を説明する強力なツールとなった。特に象アザラシのように雄が雌の数倍の体格を持ち、激しい物理的闘争を行う種においては、MCFCモデルは完璧な整合性を見せる。そこでは少数の勝者である雄が多数の雌を独占し、雄の繁殖成功度の分散は極めて大きい。
が、当然人間は人間であり、象アザラシではない。このモデルは人間には適用不可能なのだ。
人間は人間である
類人猿でMCFCモデルをとる種は象アザラシ同様に性的2型が著しい…雌雄の差が激しいという共通点を持つ。これは説明するより見る方が早いだろう。ゴリラやヒヒがMCFCモデルの類人猿であるが、その雌と雄の違いを見て欲しい。


このようにMCFCモデルの類人猿は雄が雌よりも圧倒的に巨大であったり、巨大な犬歯を持っていたりと性的2形がハッキリしている。その観点から見ると、人間の雌雄の差は微小だ。身長と体重に大きな違いが見られないのは勿論、最近はジェンダーレスだの男の娘だの外見だけでは雌雄の区別がつかない個体すら発生している。そしてMCFCモデルの最大の特徴は「雄が育児に関与しない」ことだ。雄は雌に種付けしたら、特に何をするでもなく雌を放置する。MCFCモデルにおいて雄は正真正銘の「ピュッ係」だ。これが人間に当て嵌らない事は言う間でもない。
相互配偶者選択(MMC)モデル
人間は他の動物には類を見ないほど、父親が育児や母親の養育にコミットする種である。そして雄が子育てに多大なコストを支払うようになると、トリヴァースの親の投資理論が予測する力学は逆転、あるいは収束する。雄もまた「貴重な投資者」となり、配偶相手の質(繁殖能力、遺伝的質、協力的な性格など)を慎重に選ぶようになるのだ。その結果、雌もまた雄に選ばれるために競争する必要が生じる。これが「相互配偶者選択(MMC)」である。
霊長類において、雄間競争が激しい種ほど、雄の体格は雌よりも大きくなる傾向があり、尚且つ雄の育児コミットは小さくなる傾向がある。これはレンシュの法則と呼ばれている。
・ゴリラ(1夫多妻・ハーレム型):
ゴリラは典型的なMCFC種である。シルバーバックと呼ばれる優位雄は、複数の雌を独占し、他の雄を力で排除する。その結果、雄の体重は雌の約2.24倍に達する。この極端な性的2型は雄同士の物理的闘争が繁殖成功の主要因であったことを物語っている。
・テナガザル(1夫1婦・ペア型):
テナガザルは典型的なMMC種である。テナガザルは雌雄で厳密なペアボンドを形成し、雄と雌が共同でテリトリーを防衛する。彼らの体重比(雄/雌)は1.01〜1.10程度であり、性的2型は殆ど存在しない。
・人間(???):
では人間は何処に位置するのか?人間の平均的な体重比は約1.15(15〜20%の差)である 。この数値はゴリラのような「2倍」の世界とは程遠く、テナガザルの「等倍」に近い。人間の体格差は完全な1夫1婦制種よりは幾分かは大きいが、典型的な乱婚種や1夫多妻種よりは遥かに小さい。
犬歯の退縮:平和的な配偶への移行
体格以上に重要な指標が「犬歯(Canine)」の大きさである。霊長類の雄にとって、犬歯はライバルを威嚇し傷つけるための主要な武器である。ヒヒやゴリラの雄は、雌に比べて巨大で鋭利な犬歯を持っている。
しかし人間の特徴は、この犬歯の性的2型が劇的に縮小、あるいは消失している点にある 。アウストラロピテクスのような初期人類の段階ですら、犬歯の縮小は顕著である。これは人間の進化の極めて早い段階で、雄同士の直接的な物理的闘争(噛みつき合い)が、配偶獲得の主要な手段ではなくなったことを意味している。



MCFCモデルが予測するような「暴力的な競争による雌の独占」が常態化していたならば、武器としての犬歯は維持、あるいは強化されていたはずだ。犬歯の退縮は、ヒトの雄が物理的威嚇ではなく、別の形質を通じて配偶者を獲得する戦略へ移行したこと、即ちMMC的なペア形成への移行を裏付ける強力な解剖学的証拠である。
隠蔽された排卵と「父親」の誕生
犬歯の退縮とセットで語らねばならない人間特有の形質がある。それが「隠蔽された排卵」だ。
ヒヒやチンパンジーを見れば分かる通り、多くの霊長類の雌は排卵期になると性器周辺が大きく腫れ上がり、赤く色づく。「私は今、妊娠可能です!」と強烈にアピールするわけだ。これを「性皮腫脹」という。この信号が出ると雄たちは興奮し、交尾を巡って激しい競争を繰り広げる。しかし排卵期が終われば雄の関心は急速に冷め、雌との結びつきは解消される。これが乱婚やハーレム型の基本スタイルだ。

チンパンジー のメスの腫脹した性皮
対して人間の女性は、いつ排卵しているのか外見からは全く分からない。これは生物学的に極めて重要な意味を持つ。
もし排卵日が明確なら、雄はその日だけ雌をガードして交尾すれば、最小のコストで自分の遺伝子を残せる(=ピュッ係で済む)。しかし排卵日が分からなければ、雄は「いつ妊娠するか分からない」ため、特定の雌の傍に長期間留まり、継続的に交尾を行い、かつ他の雄を排除し続けなければ父性(自分の子供か?)を確信出来ない。
この「隠蔽された排卵」こそが、雄を特定の雌に縛り付け、長期的なペアボンド(夫婦関係)を形成させ、結果として雄を「子育て」へコミットさせる最大の要因なのだ。
脳の巨大化と共同養育の不可避性
更にダメ押しとなるのが、人間の脳の巨大化だ。人間は直立2足歩行のために骨盤が狭くなったにも関わらず、巨大な脳を持つ子供を産まねばならない。その結果、人間の赤ん坊は他の動物に比べて極めて未熟な状態で生まれてくる(生理的早産)。馬の子供は生まれてすぐに立ち上がるが、人間の子供は1人で歩くのに1年、自立するのに10年以上かかる。
この「手のかかる子供」を、母親1人のリソースで育て上げるのは原始環境では不可能に近い。高カロリーな食料を運び、外敵から守る「父親」の存在が生存に必須だったのだ。雑に言えば、
1.子供が手がかかりすぎるため雄の協力(投資)がないと雌も子も生存出来ない
2.人間の雄を協力させる為に排卵を隠蔽して長期間つなぎとめる戦略をとった。
3.多大な投資を強いられるようになった雄は投資先を厳選するようになった。
なぜ現代人は「人間は孔雀だ」と誤認するのか
以上見てきた通り、解剖学的証拠(犬歯・体格差)も生理学的証拠(排卵隠蔽・生理的早産)も、人間が「雄が1方的にアピールし雌が選ぶ」という孔雀モデル(MCFC)の種ではないことを示している。
では何故冒頭のように「人間は孔雀である(男は消耗品、女は選ぶ側)」という誤った認識が昭和平成の常識となったのか?
その原因は恐らく「セックスと生殖の混同」だ。
女性はセックスにおいては男性と比して圧倒的需要格差を持つ事は間違いない。マッチングアプリ、SNS、性風俗産業…それらは誰の目にも明らかな女性>男性の力学が可視化されている。しかしながら、これは親の投資理論で説明可能だ。何故ならセックスにおけるリスクは女性>男性なのだから。
女性は男性とのセックスにおいて妊娠可能性がある。しかし男性は女性を妊娠させたとしても、直ちに養育コストを払わなければならないわけではない。ワンナイトやそれに類する関係なら、女性を妊娠させても追跡される事はほぼなく、また妊娠させたとしても現代社会においては堕胎が可能だ(言う間でもなく堕胎は女性側に負担を強いる営為である)。言わばセックスに限定すれば男性はピュッ係で済む。
そして我々の社会は長らくセックス=結婚だった。婚前交渉は厳禁とされ、セックスは夫婦間のみに許された営為であり、雄は産まれてくる子が自分の子である確信を持ちやすかった。その規範が滅んでも恐らく昭和ぐらいまではセックス=恋人の証として、グレートダウンしたものの生殖や父性確信をある程度は保証していた。私は女性の平成時代まで続いた「選ばれる性」としての力学は、この幻想の切り売りに支えられたものだと考えている。要は男性にとってセックスは「コストを負わずに或いは最小限で繁殖と父性確実性を得られる行為」という感覚や社会規範があったのだ。
しかし令和に入って、この幻想はいよいよ底が見え始めた。雄側が現代社会においてセックスと繁殖・父性確実性は全く別の概念である事に気付いたのだ。
現代において男性は必ずしも結婚しなくても、あるいは1生の責任を負わなくても、セックスという快楽にアクセス出来るようになった。勿論そこには「モテる男」と「モテない男」の格差(性淘汰)は存在するが、重要なのは「結婚(長期的な資源供給)」=「セックス」ではなくなった事が誰の目にも自明になったという点だ(恋人とイコールですらない)。
これにより結婚は純粋に「共同で子供を育て、家庭を運営するプロジェクト」へと回帰した。そうなるとどうなるか? 男性の視点はシビアになる。
「1夜の相手(セックス)」なら、男性はストライクゾーンを広く取るだろう。これは孔雀モデル的な動きだ。しかし「生涯の稼ぎの半分を投資し、自分の子供の母親となる相手(結婚)」となれば話は別だ。男性は本来の生物学的モデルであるMMC(相互配偶者選択)モードを全開にする。
即ち「若さは?健康は?性格は?経済観念は?共働きでリソースを分担できるか?」と、女性を厳しく査定し始めるのだ。
ここで悲劇が起きる。「人間は孔雀だ(私は選ばれる側だ)」と勘違いしたままの女性は、自分を磨く努力や、相手にメリットを提供するという発想を持たない。「ありのままの私」を受け入れない男性を「甲斐性がない」「見る目がない」と批判し、孔雀の雌のように待ち続ける。
しかし本来のMMCモデルに目覚めた「高スペックな男性」ほど、コストパフォーマンスの悪い「孔雀気取りの女性」を敬遠し、共に人生を歩める「パートナーとしての女性」を選んでいく。これがマッチングアプリは男余りなのに、結婚相談所では女余りになるカラクリの正体だ。実際ハイスペ男性は明確にセックス相手と結婚相手の雌を区別し、結婚相手には「地味で恋愛経験のない女性(処女)」を選ぶ傾向が確認されたりしている。
人間は孔雀ではない。
人間は雌雄が共に手を取り合い、過酷な環境で未熟な子供を育て上げるために進化した協力的な猿である。
互いに選び、互いに選ばれる。互いに投資し、互いにリターンを得る。それこそが犬歯を捨て、排卵を隠し、巨大な脳を手に入れた我々ホモ・サピエンスの「自然な」姿ではあるが、恐らくコレに戻るのは難しいだろう。我々は昭和・平成の「孔雀の夢」を抱えて溺死する猿である。
