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ギフテッド教育は、日本の学校を変えるのか。それとも、新しい選抜ラベルを増やすだけなのか。

「ギフテッド」という言葉が、日本の教育ニュースでも少しずつ普通に出てくるようになった。

先日も、Yahoo!ニュースで朝日新聞配信の記事を見かけた。
タイトルは、「『ギフテッド』特異な才能持つ子、大学で授業受講可 文科省が制度案」というものだった。
特定の分野で突出した才能を持つ小中学生が、クラスを離れて高校や大学で授業を受けられるようにする。2030年度にも導入される次の学習指導要領に、こうした特例を盛り込む案が出ている、という内容である。

日本でも、いよいよそういう話になってきたのか、と思ってしまう。

ただ、ここで少し立ち止まる必要がある。
『ギフテッド教育』という言葉は、響きがよい。才能を伸ばす。個性を尊重する。画一教育から脱する。どれも反対しにくい言葉である。
けれども、教育制度というものは、きれいな言葉で始まっても、現場に入った瞬間に急に泥臭くなる。

誰を対象にするのか。
誰が判断するのか。
親が強く言った家庭だけが得をしないのか。
学校の先生に、また新しい負担を乗せるだけではないのか。
選ばれた子と選ばれなかった子の間に、妙な線が引かれないのか。

このあたりを曖昧にしたまま「才能を伸ばしましょう」と言っても、たぶんうまくいかない。

私はカナダ、オンタリオ州に住んでいるので、こちらの学校制度を見る機会がある。オンタリオでは、ギフテッド教育は長く制度の中に入っている。だからといって、カナダが理想郷だと言いたいわけではない。むしろ、長くやっているからこそ、制度の強みも副作用も見えやすい。

そして、オンタリオの制度を見てまず感じるのは、ギフテッドが「すごい子を褒める・伸ばすだけの仕組み」として置かれているわけではない、ということだ。

オンタリオでは、ギフテッドは特別支援教育、つまり Special Education の中に位置づけられている。もう少し制度的に言えば、Intellectual Exceptionality の一つである。日本語の感覚で言えば、これは少し奇妙に聞こえるかもしれない。日本でギフテッドと言うと、天才児、英才教育、飛び級、エリート育成、という方向に話が流れやすい。

しかしオンタリオでは、ギフテッドは「通常の授業だけでは教育的ニーズを満たせない子ども」として扱われる。
ここが大きい。

つまり、才能はご褒美ではない。
才能は支援対象にもなる。

これは、かなり重要な発想だと思う。

TDSB: Toronto District School Board、つまりトロントの教育委員会の制度を見ると、ギフテッドの子どもはIPRCという委員会で識別される。IPRCは Identification, Placement and Review Committee の略で、子どもにどのような例外的ニーズがあるかを判断し、どのような教育配置が適切かを決める仕組みである。識別されると、IEP、Individual Education Plan、つまり個別教育計画が作られる。

ここで大事なのは、ギフテッド教育が単に「ギフテッドクラスに入れるかどうか」ではないという点である。
識別があり、配置があり、個別計画があり、見直しがある。
制度としては、かなり面倒くさい。だが、その面倒くささこそが制度である。

通常学級に残りながら、必要に応じて支援を受ける形もある。特別教育の先生が通常学級の先生に助言する形もある。小集団や個別の支援を受けることもある。さらに必要な場合には、Gifted ISPと呼ばれる集中的な支援プログラムに入ることもある。TDSBでは、ギフテッドの特別教育クラスは小学校ではGrade 4から始まり、高校では一部の科目をギフテッド向けのクラスで学び、他の科目は通常クラスで学ぶ形もある。

一方、ウォータールー地域のWRDSBでは、少し違う形も見られる。通常学級内での支援、巡回型のエンリッチメント教師による支援、Grade 4から8を対象にした週1回のArea Class、Grade 5から8を対象にしたfull-time の(Enrichment Classを実施する学校に通学して)Congregated Enrichment Classなどがある。つまり、同じオンタリオ州でも、教育委員会によって実装は少しずつ違う。

このあたりが、カナダらしい。
国全体で一つの正解があるわけではない。州が制度を持ち、教育委員会が運用し、学校や地域の事情で形が変わる。日本から見ると、少しバラバラに見える。だが、そのバラバラさの中に、子どもに合わせる余地もある。

では、ギフテッド教育にはどんなメリットがあるのか。

一つ目は、学習速度と深さを調整できることである。
これは単純だが大きい。

授業が簡単すぎる子どもがいる。
説明を一度聞けば分かる。
計算練習を何十問もやらされると苦痛になる。
教科書の先を読みたい。
先生の求める答えではなく、別の問いを立ててしまう。

こういう子どもにとって、普通の授業は必ずしも楽ではない。できるのだから楽だろう、と思われがちだが、実際には逆であることもある。退屈は、子どもから学ぶ意欲を削る。簡単すぎる課題を長く続けさせられると、努力の仕方も、失敗の仕方も、深く考える習慣も育ちにくい。

二つ目は、似たような知的速度や関心を持つ子どもと出会えることである。
これは意外に大きい。

ギフテッドの子どもは、必ずしも万能ではない。数学は異様に速いのに、字を書くのが苦手な子もいる。言語能力は高いのに、同年代との会話が合わない子もいる。抽象的な議論はできるのに、生活面では年齢相応に幼い子もいる。いわゆる非同期発達である。

同じような凸凹を持つ子に出会うことは、「自分だけがおかしい」という感覚を弱める。
これは学力の問題というより、孤立の問題である。

三つ目は、学校側が対応を制度として言語化しやすくなることである。
日本の学校では、よくできる子への対応が、担任の先生の善意や工夫に依存しやすい。よい先生に当たれば伸びる。そうでなければ、「もう分かっているなら静かにしていて」となる。これは教育制度ではなく、運である。

制度があると、「この子には何が必要か」を学校組織として話しやすくなる。もちろん制度があっても運用は難しい。だが、少なくとも話し合うための言葉はできる。

ただし、ここからが問題である。

ギフテッド教育には、かなりはっきりした副作用もある。

まず、選抜は必ず家庭の力を反映する。
心理検査を受ける。学校に相談する。制度を調べる。先生に説明する。教育委員会とやり取りする。こういうことができる家庭と、できない家庭がある。親の情報力、英語力、交渉力、時間、経済力が、子どもの識別に影響してしまう。

これはカナダでも問題になる。制度があるから公平、というほど単純ではない。むしろ制度があるからこそ、制度にアクセスできる家庭とできない家庭の差が出る。ギフテッド教育は、放っておくと「才能の支援」ではなく、「制度を使える家庭の追加特典」になりやすい。

次に、ラベルの問題がある。
「あなたはギフテッドです」と言われることは、子どもにとって救いにもなる。自分が変なのではなく、学び方が合っていなかったのだと思えるからである。

しかし同時に、それは呪いにもなる。
失敗しづらくなる。
努力よりも「賢い自分」を守ろうとする。
周囲からは「できるんだから大丈夫でしょ」と思われる。
本人も、自分の苦手を言い出しにくくなる。

特に難しいのは、2E、twice-exceptional と呼ばれる子どもたちである。才能と困難が同時にある子どもたちだ。高い知的能力がある一方で、学習障害、ADHD、自閉スペクトラム、実行機能の弱さ、書字の困難などを抱えることがある。才能が困難を隠し、困難が才能を隠す。
この層を見落とすと、ギフテッド教育はかなり危うい。

さらに、日本で特に気をつけるべきなのは、ギフテッド教育が「新しい受験ルート」になってしまう危険である。

日本の教育文化は、何でも序列化しやすい。
偏差値がある。
検定がある。
合格実績がある。
親の安心がある。
塾のビジネスがある。

そこにギフテッドという言葉が入ると、たぶんすぐに「ギフテッド判定対策」みたいなものが出てくる。ギフテッド塾、ギフテッド模試、ギフテッド面談対策。冗談のようだが、日本なら十分あり得る。というより、かなり高い確率でそうなると思う。

だから、日本がオンタリオから学ぶべきなのは、ギフテッド教育の表面ではない。
学ぶべきなのは、「才能を称号ではなく、教育的ニーズとして扱う」という考え方である。

日本で必要なのは、「ギフテッドの子を選ぶ制度」ではない。
「通常の教室では学びが合わなくなっている子に、別の学び方を用意する制度」である。

そのためには、三つの層で考えるのが現実的だと思う。

第一層は、通常学級の中の拡充である。
発展課題、別解の追究、探究課題、上位概念への接続、作品づくり、説明する力の育成。これは特定の子だけに閉じなくてよい。全員に開かれた形で、深く学びたい子が深く入れる余地を作る。

第二層は、校内または地域内のプルアウト型支援である。
週に数時間でもよい。一定期間だけでもよい。同じ関心や能力特性を持つ子が集まり、通常授業より深い課題に取り組む。これは、オンタリオのArea Classのような発想に近い。

第三層は、学校外との接続である。
大学、高専、研究機関、博物館、企業、オンライン講座、科学コンテスト、芸術団体。学校だけで全部を抱え込む必要はない。むしろ、学校だけで抱え込もうとすると失敗する。特に高度な数学、科学、プログラミング、音楽、美術などは、学校の先生だけで対応するには限界がある。

ただし、ここでも条件がある。
外部接続を、親の送迎力と情報力に依存させてはいけない。
都市部の家庭だけが使える制度にしてはいけない。
大学の近くに住む子だけが得をする制度にしてはいけない。

オンライン、地域拠点、自治体間連携、交通費支援、学校内での接続時間の確保。そうした地味な制度設計がなければ、「大学で授業を受けられます」と言っても、それは一部の家庭の話で終わる。

もう一つ大事なのは、先生に全部やらせないことである。

日本の教育改革は、現場の先生に新しい理念を渡して、「あとはよろしくお願いします」になりやすい。探究も、英語も、ICTも、生成AIも、個別最適も、特別支援も、全部学校へ降ってくる。そこにギフテッドも追加するなら、現場はたまったものではない。

必要なのは、担任の努力ではなく、支援のインフラである。
自治体単位の専門チーム。
心理職や特別支援の専門家。
外部機関との接続コーディネーター。
教材と評価の共有基盤。
保護者対応のガイドライン。
そして、定期的な見直し。

ギフテッド教育は、子どもを一度分類して終わりではない。
むしろ、更新し続ける制度でなければならない。

子どもは変わる。
得意分野も変わる。
興味も変わる。
困りごとも変わる。
小学生のときに数学が突出していた子が、中学生で書くことに目覚めるかもしれない。逆に、小学生のときに天才扱いされた子が、高校で初めて壁にぶつかるかもしれない。

だから必要なのは、「この子はギフテッドである」と固定する制度ではない。
「この子には今、どの学びの環境が必要か」を見直し続ける制度である。

最後に、私はギフテッド教育を国家の人材戦略だけで語ることには慎重であるべきだと思う。もちろん、突出した才能を伸ばすことは国の知的資本になる。AI時代、科学技術、人文学、芸術、ビジネス、どの分野でも、標準化された人材だけでは足りない。

しかし、公教育の出発点は、国のための天才養成ではないはずだ。
少なくとも義務教育段階では、まず子ども本人の学びと生活を守ることが先に来るべきである。

授業が簡単すぎて苦しい子がいる。
周囲と話が合わず孤立する子がいる。
才能があるのに、学校ではただ扱いにくい子と見られる子がいる。
逆に、才能という言葉で困難を見落とされる子もいる。

そういう子どもたちを、学校という硬い装置の中で潰さないこと。
ギフテッド教育の本質は、たぶんそこにある。

日本がこれからギフテッド教育を始めるなら、カナダをそのまま真似る必要はない。
オンタリオの制度にも課題はある。選抜の偏りもある。地域差もある。心理検査への依存もある。分離型プログラムの難しさもある。

それでも、学ぶべきことはある。
才能は称号ではなく、教育的ニーズである。
支援は一回の選抜ではなく、継続的な見直しである。
学校だけで抱え込まず、地域と外部機関に接続する必要がある。
そして、できる子を特別扱いする制度ではなく、通常の教室では合わない子に別の呼吸の仕方を与える制度でなければならない。

ギフテッド教育は、日本の学校を変えるきっかけになるかもしれない。
ただし、それは「天才児を見つける制度」としてではない。

子どもを一つの教室、一つの学年、一つの速度、一つの正解に閉じ込めてきた学校のあり方を、少しだけ動かす制度としてである。


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