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ロキソニ「ずとまよ飯」問題?邦楽ファンと洋楽ファンの違いを考える

はじめに

Summer Sonicを手がけるクリエイティブマンと、ROCK IN JAPAN FESTIVALなど数多くのフェスやメディアを手がけるrockin’onがタッグを組んで立ち上げた新フェス「rockin’on sonic(以下、ロキソニ)」。
その第2回の出演者として、ずっと真夜中でいいのに。(以下、ずとまよ)が発表された。

この発表が、思いのほか議論を呼んでいる。

「洋楽フェスなのに邦楽(ずとまよ)かよー」のようなあるある騒動だ。

どちらも音楽が好きなはずなのに、洋楽ファンと邦楽ファンは、そもそも見ている方向が違うのだろうと考える。
そして、そのズレが、たびたび不毛な衝突を生んでしまうのだと体感で感じている。

僕はサマーソニックに16年ほど通ってきたが、こうした議論を多く見てきた、近年本家サマソニのボーダーフリー化が進み、もはや懐かしさすら感じる。

せっかくなので、自分の経験をもとに、この視点や構図を少し整理してみたいと思う。

ロキソニ誕生の背景

ロキソニは、rockin’onとクリエイティブマンによる共同企画として生まれたいわば「サマソニのもうひとつの形」を提示する試みである。

もともとサマーソニックは洋楽を中心にスタートし、長く“都市型ロックフェス”の象徴とされてきた。
だが近年はK-POPやJ-POPなどの出演が増え、アメリカのCoachellaのような総合型フェスへと変化している。
ギターロックが見られない日もあるほどだ。

その流れの中で、時代の流れに逆らった「純粋なロックフェス」を模索する形で誕生したのがロキソニだった。(コンセプト的にはラウドパークに近いだろう)
興味深いのは、邦楽シーンを中心に築いてきたrockin’onが、初めて洋楽主体のフェスに挑戦したことだ。

「洋楽アーティストのみで、2ステージ・全アクト被りなし。すべて観られる構成がロキソニの特徴です」

プロデューサー 山崎洋一郎(2024年コメントより)

会場にはCOUNTDOWN JAPANの会場である幕張メッセを流用し、GALAXYステージとCOSMOステージの2構成で展開された。

しかし、初年度の開催後には「収益的にはかなり厳しかった」とのコメントもあったという。
洋楽一本では採算が難しいという、現実的な課題が浮き彫りになった。

洋楽ファンと邦楽ファンの違い

まず前提として、「洋楽ファンが邦楽を見下している」というのは誤解だと思う。
多くの人は日本で生まれ育ち、邦楽を通じて自然に洋楽へと広がっていったリスナーだ。
単純に「海外の音楽文化に惹かれている」というだけの話である。洋楽ファンは、特定のアーティストというよりも文化そのものを愛好する傾向がある。
同じ趣味を共有できる場が少ない分、その文化に対して強い共感と誇りを抱く人も多い。

一方で、「洋楽を聴いている自分が好き」という表層的な優越感に浸る層も存在する。そうした態度が、真摯なリスナーの印象まで歪めてしまうのは少し残念だ。
また、洋楽ファンはフェスにおいても体験全体の流れを重視する傾向がある。

タイムテーブルを眺めながら「1日でどんなバンドを巡れるか」「どんな音楽の旅になるか」といった、全体の構成を楽しむ。
その日のラインナップを「自分の中でどう組み立てるか」が、洋楽ファンのフェス体験の醍醐味なのだ。

対して邦楽ファンは、アーティスト個人への熱量がとても高い。
フェス全体を楽しむというよりも、推しの出演枠を目当てに足を運ぶ人が多い印象だ。
もちろん、すべての人がそうというわけではないけれど、そうした傾向があるのは確かだと思う。

日本のロックシーンは、ガラパゴス的な環境の中で独自に進化してきた。
そのため、ファンダム構造が強く、コミュニティとしての結びつきが深いのが特徴だ。
「同じアーティストを好きな人たちが、同じ空間で応援する」そんな明確な目的意識のもとで成り立っており、
その一体感や熱量の高さこそが邦楽フェスの大きな魅力だと思う。

一方で、その熱量の高さゆえに、自分たちの空間として閉じて見えてしまうこともある。
推しへの愛が強いあまり、他のアーティストや新しい出会いや価値観に意識が向きにくくなる、そんな傾向も少なからずあるように思う。

どちらの楽しみ方も音楽との向き合い方として間違ってはいない。
フェス全体を巡って体験するのも、ひとつのアーティストをとことん推すのも、どちらも音楽の魅力を味わうための自然で素敵なスタイルだと自分は考えている。

ただし、どうしても噛み合わない部分はある。
それでも、フェスというごちゃ混ぜの空間は、そうした構造の壁を少しでも超えられるように工夫や努力が重ねられているのが現状である。

混ぜるな危険構造と「ずとまよ飯問題」

海外アーティストの来日機会は限られており、フェスでは「できるだけ多くのバンドを見たい」と思うのが自然だ。
だからこそ、その貴重な枠に邦楽勢が入ると、洋楽ファンが機会損失的に感じるのは理解できる。

一方で、邦楽ファンは「アウェーな洋楽フェスに推しが出る!」と喜びながらも、現地では雰囲気に馴染めず、推しの出番だけだけが目的になってしまうことが少なくない。

そして楽しみ方の違いが現地でも可視化されてしまうことが多いのが問題である。
その光景はサマーソニックでもしばしば見られる。

代表的な例が、2013年のミスチル出演時に話題となった「ミスチル地蔵問題」だ。

サマソニではこんなことがしょっちゅう発生している。

楽しみ方の違いが文化の衝突を生んでしまう。

そして、今回の論争を象徴したのが「ずとまよ飯時間」問題だった。

SNSで「ずとまよの出番は飯の時間」と揶揄され、激しい反発が巻き起こっている。

シニカルな表現でずとまよへのヘイトだと思われているが、今年の年始に参加した身からすると本質違うのでは?と自分は考えている。

今年の年始ロキソニのタイムテーブルを見てみよう。

rockin’on sonic 2024 タイムテーブル

ロキソニは2ステージ制・被りなしの進行のため、すべてのラインナップのジャンルを固めてしまって観客にはほとんど休憩時間がなかった。

つまり、洋楽ファンのように「できるだけ多くのライブを観たい」と思う人にとっては、文字通り「飯を食う暇もない」状態だったのだ。

実際、飲食ブースの売上にも影響が出るほどで、これは設計上のミスと言わざるを得ない。

フェスの運営においては、飲食やアルコールの売上も重要な収益源だからだ。

快適だが見たいアクトが詰まりすぎて、あまり使えない飲食エリア


そしてシニカルな表現ではあるが、「ずとまよ飯」は構造的に起こりうる現象だ。

同会場で行われるカウントダウンジャパンでは、好きなアーティストを見たあとに飲食ブースで時間を過ごせる設計となっており、このエリアは常に賑わっている。

フォトスポットなどにも行列ができ、フェス全体の熱気を支える空間になっている。
つまり「その間見ていないアーティストが存在することが前提の会場設計」になっているのである

いわゆるずとまよ飯タイムのようなものは、言語化されていないだけで、どこのフェスにも存在する。
そして、それを笑い飛ばせるくらいの余裕こそが、本来フェスには必要なのだと思う。

では、なぜこの問題が炎上したのだろう。
推しへの攻撃として受け取られたからだろうか?
おそらく、そうではない。

本質的には、お互いのフィールドの根本の設計がまったく違うからだ。
洋楽フェス邦楽フェスでは、観客がどう時間を過ごすか、どんな体験を期待して来ているか、その前提がそもそも違う。
ひとつは音楽を浴び続ける空間として設計され、もうひとつは好きなアーティストを応援する場として組み立てられている。

その構造の違いを理解しないまま語り合えば、噛み合わないのは当然なのだと思う。

分断を超える試み

ロキソニ2025のブッキングには、明確な意図がある。
山崎洋一郎のコメントにこうある。

邦楽アーティストのファンがトップレベルの洋楽を目撃し、
洋楽ファンが邦楽トップを目撃する。
その“交差の瞬間”を作りたかった。

プロデューサー 山崎洋一郎(2025年コメントより)

これは単なる話題づくりではなく、文化的接続を意識したブッキングが見えている。
運営に関わるクリエティブマンの近年のサマソニでも、固定ファンを持つアーティストの前後に「新しい発見」を仕込む構成が増えている。
運営側のフェスを体験として設計する力は確実に進化している。

ずとまよのファンになったとして考えみよう。

まず、KNEECAPを観て「洋楽フェス来たな!」と感じるだろうし、そのあと飲食ブースでWolf AliceをBGMにして過ごし、
Underworldで踊るか、Travisまで残ってくれたら御の字だ。

そうした流れを、彼らは意図して設計しているはずだ。

逆にヘッドライナーであるPet Shop Boysのファンにはずとまよが刺さりそうだ、奇抜だが妙に納得もできる。

自分はPet Shop Boysはマツケンサンバ的な紅白歌合戦的な存在だと思ってる

こんな騒動になってしまったのだから。
ずとまよも炒飯をを作って欲しい

なんならPet Shop Boysのニール・テナントもライブ中に炒飯作っていて欲しい。

洋楽ファンとってもずとまよのライブはエポックメイキングで面白いものになるだろう。

補足だが、近年の爆発的な集客でコントロール不能が想定されるアクトであれば、朝イチのタイムテーブルに設定されるだろう。

今回のずとまよはそれには確実に該当していない。

rockin’onの功罪

ここまで書いてきた問題の根底には、ロッキング・オンが邦楽フェスを事実上囲い込み、一強構造を築いたことが、日本の音楽シーンに大きな影響を与えてきたという現実がある。

メディアとしての功績は計り知れないが、その一方で「ロキノン的なものが正解」とされすぎた副作用も無視できない。
結果として、邦楽と洋楽の接点がメディア上で語られにくくなった。

しかし本来、両者は常に影響し合ってきている。
たとえば、先日のOasis来日公演でサポートを務めたASIAN KUNG-FU GENERATION。
彼らのように「自分たちが何に影響を受けたか」を率直に語る姿勢こそが、その接続の象徴だと思う。

ずっと真夜中でいいのに。のACAね氏が言うように、
邦楽と洋楽を意識していない」という感覚こそ、すでに新しいリスナー世代のリアルだろう。

洋楽ファンも堅苦しくならずに、邦楽ファンもアウェー意識を持たずに、ただ純粋に音楽と場所を楽しむ場としてフェスを楽しんでほしいと思う。(チケット高いけども)

好きなものは自分で決めすぎないほうが、案外楽しかったりするものだ。

おわりに

フェスというのは、偶然の出会いと発見を楽しむ場だ。
文化の境界を越えていく音楽の瞬間を、僕は何よりも楽しいと思っている。

実は数年前、ずっと真夜中でいいのに。をソニックマニアで観たとき、いつも通りの楽しみ方をしていたら、ちょっとしたプチ炎上をしてしまい、ファンの方々からお叱りを受けたことがある。

そのときから、「なぜこんなにも違いがあるのだろう」とずっと考えてきた。だからこそ、今回改めてこうして文章にしてみようと思ったのだ

結局のところ、音楽の良し悪しはフィールドの違いで決まるものじゃないし、この手の論争になるのはそこに集まる人たちの楽しみ方だけだと思う。

だからこそ、みんながそれぞれのペースで、思い思いに音楽を楽しめたらいい。
価値観も感じ方も人それぞれでいいのではなかろうかと思う。

余談

CDJ30日のチケットにも当選したので、CDJもロキソニにも行く予定だ。

CDJ 30日に行きます


年末年始が、いまから少し楽しみである。

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