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【人物月旦 #22】😁盾と剣のはなし

はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。

こんにちは、Bell noteです。
久しぶりに人物月旦を書くことにしました。

いままで人物月旦を書き続けてきて、いつか必ず、書かなければならないと思っていた人がいます。ただ、なかなか書けませんでした。

書けない理由は、感謝が大きすぎるからではありません。
むしろ逆で、まだ返せていない借りがあるからです。
返せないまま書くのは、どこか虫のいい話のような気がして、ずっと後回しにしていました。

でも、返せないまま時間だけが過ぎていくことの方が、よほど失礼な気がして、今日、ここに書くことにしました。
この記事は、借りの清算ではありません。借りたままでいる、ということの記録です。



出会いの話

川上先生に最初に会ったのは、私がまだ若くて、なんの立場もなく、一担当者として初めて海外の取引先と仕事に関わり始めた頃のことです。

外資企業との取引が決まり、英文の契約書が送られてきました。

それまで国内の仕事しかしてこなかった私は、英語での会話はなんとかできても、法的な文書の交渉など、まったく未知の領域でした。英文契約書というものが、どれほどの意味を持つものなのか、その時の私には、正直なところよくわかっていませんでした。

社内の担当部署に相談したところ、「英文契約は扱ったことがない」という答えが返ってきて、一枚の名刺を渡されました。

それが川上先生でした。

初めてお会いした時の印象は、ひとことで言えば「とっつきにくい」でした。

小柄で、眼鏡をかけていて、見た目は穏やかそうなのに、話し始めると妙に圧があります。相槌が少ない。こちらが話している途中でも、頷くわけでも、表情を変えるわけでもなく、ただ静かに聞いている。話し終えると、少し間を置いてから、短い言葉で要点だけを返してくる。

余計なことを言わない人だな、と思いました。

それは、不愛想というのとも少し違う。言葉を選んでいる、というより、不要な言葉を最初から持っていない、という感じでした。

費用の話を聞いて、正直驚きました。1時間あたりの単価が、私の感覚をはるかに超えていた。それだけではなく、打ち合わせ場所への移動時間も、きっちり工数として計上されます。電車の中でも頭は動いているから当然だ、という理屈は理解できましたが、最初はやはり、少し面食らいました。

「この先生、すごいな」と思いながら、しかし選択肢はなく、お願いすることにしました。

仕事は、丁寧でした。

英語の文書の意味を正確に読み解き、こちらが守るべき部分と、交渉できる部分を、静かに整理してくれる。声を荒らげることも、感情を込めることもなく、ただ、問いの順番を間違えない。

「ここは譲れます」「ここは譲れません」「その理由はこうです」

その整理の仕方を横で見ながら、私は少し安心しました。

怒りや焦りのまま走っても、守れるものは守れない。守るためには、守るための言葉が要る。そういう当たり前のことを、当たり前の声でやっている人が、目の前にいました。

その後も、別の外資系企業との取引が続き、相手方で行われた大きな会議に同席してもらったこともあります。

その時の先生は、相手がどれだけ大きな企業の偉い人であっても、まったく動じませんでした。

へりくだるわけでも、媚びるわけでもなく、ただ、同じ温度で、同じ速度で、言葉を置いていく。相手が圧をかけてきても、こちらが焦り始めても、先生の声のトーンだけは変わらない。

その冷徹さが、不思議と頼もしかった。

その日も、移動時間は計上されました。私はもう驚かなくなっていました。


先生のプライベートな顔

そういったやり取りを重ねるうちに、先生も私のことを、少しずつわかってくれてきたのだと思います。

あるとき、先生が食事に誘ってくれるようになりました。

それまで仕事の場でしか会ったことのなかった先生が、プライベートで誘ってくれた。その変化が、少し嬉しかったのを覚えています。

先生は、食べることが好きな人でした。

ただ、その「好き」の方向性が、独特でした。

有名店や話題の店には、あまり興味がない。華やかな場所より、知る人ぞ知る、という場所を好む。表通りから少し外れた、看板も控えめな、でも食材と料理人にこだわり抜いた店を、先生はたくさん知っていました。

肉が特に好きで、ステーキや焼肉によく連れていってもらいました。焼肉は、有名チェーンではなく、肉屋が直営しているような店を選ぶ。素材が違う、と先生は言っていました。そこに連れていってもらって、初めてその意味がわかりました。

カニも好きで、その季節には必ずといっていいほど、カニを食べに行きました。フランスの田舎料理も好きでした。パリの洒落たビストロではなく、地方の料理人が東京に持ち込んできたような、飾り気のない料理を出す店。外から見ると、高級店には見えない。でも入ってみると、素材と技術に妥協がない。

先生の店の選び方は、仕事の仕方と似ていると思いました。見た目の格より、中身の質。知名度より、実質。

そして先生はワインも好きでした。詳しいというより、好きな飲み方を知っている、という感じでした。食事に合わせて、さりげなく選ぶ。そこに自慢がない。

プライベートでの先生は、仕事の時よりも、少しだけ言葉が増えました。

そしてほぼ毎回、同じ話をしました。

近代日本の外交史、とりわけ幕末から明治にかけての条約交渉についての話です。

先生は趣味として、定説と呼ばれてきた条約解釈を、外交文書や交渉記録といった一次資料から疑い直す研究を続けていました。それは、仕事の合間に静かに積み上げてきた、先生だけの探求でした。

「定説というのは、誰かが決めたものだ」と先生は言いました。「原文に戻って読み直すと、別の意味が出てくることがある」

条約史の話をする時の先生は、仕事の時とは少し違う表情をしていました。淡々としているのは同じでしたが、言葉の量が増える。ある交渉記録の解釈について、ある外交文書の読み方について、「ここが定説と違う」という部分になると、少しだけ前のめりになる。

私はほとんど聞き役でした。正直、条約史はそれほど詳しくない。でも、その話を聞いている時間が、妙に好きでした。

なぜかというと、先生が仕事でやっていることと、趣味でやっていることが、まったく同じ回路で動いているのがわかったからです。既成の答えを鵜呑みにしない。一次資料に戻る。証拠を積み上げてから、結論を出す。

弁護士として法廷で使う論理と、外交史家として条約文書を読む論理が、この人の中では同じものでした。

そういう一貫した人を、私は信頼します。


怒ってくれた日のこと

転機になったのは、私が関わったウェブシステムの話でした。

開発に深く携わり、リリースまでに相当な時間と苦労をかけたシステムがありました。試行錯誤を重ね、何度も作り直して、ようやく市場に出せたと思っていたところ、明らかにそれを模倣したと思われるサービスが、別の会社から出てきました。

私は、悔しさよりも先に、目の前が暗くなりました。頑張ってきたことが、砂の城のように見えた瞬間でした。

川上先生に相談したとき、先生は怒りました。

それまで感情を表に出すことのなかった先生が、珍しく、はっきりと怒った。声が大きくなったわけではありません。ただ、言葉の端が、いつもより鋭くなった。眼鏡の奥の目が、少し違う光を持った。

「それはおかしい。戦いましょう」

その言葉が、私には思いのほか、響きました。

法的な問題として怒ったのではなく、こちらがどれだけ苦労してきたかを知っていたから怒ってくれた。そう感じたからです。先生は、食事のたびに私の仕事の話を聞いてくれていました。開発がどれだけ大変だったか、リリースまでにどれだけ時間がかかったか、そういう話を、先生は黙って聞いていた。

だから、その悔しさの重さを、わかってくれていた。

結果として、裁判になり、勝つことができました。

あの裁判以来、川上先生との関係は、仕事の外にも広がっていきました。プライベートで食事に行く回数が、増えていきました。先生はいつも、同じような店を選んだ。カウンターで、静かに飲みながら、条約史の話をする。私はほとんど聞き役でしたが、その時間が、妙に好きでした。

先生のことを、私は心の中で「盾と剣」だと思うようになっていました。

攻める時の理屈と、守る時の理屈。その両方を持っている人。そして、それを使うタイミングを間違えない人。

仕事で何かを決める前に、「これを文章で説明できるだろうか」と考える癖が、いつからかついていました。その癖は、先生の仕事の仕方を横で見てきた時間から、自然に身についたものだと思っています。


十年という空白

仕事の内容が変わり、私は国内の事業から海外の新規事業へと軸足を移していきました。

そうなると、川上先生に相談する機会は、自然と減っていきます。

一年に一度会えるかどうか。やがて、数年に一度になっていきました。

先生は暑いのが苦手で、夏になると那須に移っていました。東京の蒸し暑い夏を、先生は好きではなかった。だから夏の間は、ほぼ那須にいる。涼しい高原で、好きな本を読んで、ゆっくり過ごす。そういう人でした。

それを聞いた時、先生らしいな、と思いました。暑さに我慢して東京にいるより、さっさと涼しい場所に移ってしまう。合理的で、自分の快適を大事にする。

それでも、古い名刺入れの中には、先生の名刺が入っていました。

引き出しを整理していると、たまに出てくる。角が少し丸くなった、革製の名刺入れ。開けると、先生の名刺がそこにある。見るたびに、「元気にされているだろうか」と思う。それだけで、連絡はしないまま、時間が過ぎていきました。

十年近く、そういう関係が続きました。


あの夜の話

事態が動いたのは、世界全体が止まっていたあの時期のことです。

海外に立ち上げた拠点で、問題が起きていました。

渡航が制限され、現地に入ることができない。そういう状況の中、拠点の責任者との関係が、じわじわと歪んでいく。画面越しの報告の向こうに、見えていない何かがある感覚が積み重なっていく。

状況を打開しようと、近隣の別拠点の責任者を上位職として入れる体制を組みました。現場に別の視点を加えること、そして管理の透明性を高めること。その判断に、私は迷いがありませんでした。

しかし、その動きが、相手には別の意味で伝わっていたようでした。

そしてある日、届いたのは「正式な申し立て」の言葉でした。

「上司からハラスメントを受けている」「精神的に追い詰められている」「やり取りが苦痛になっている」

読みながら、怒りよりも先に来たのは「ああ、こう来たか」という妙な納得でした。

少し冷静に考えれば、おかしな話でした。

やり取りはすべて、メールかウェブ会議を通じたものです。物理的に同じ場所にいたことすら、ほとんどない。記録が残らない形でのやり取りは、構造的に不可能に近い状況でした。調べれば、すぐにわかるはずのことです。

にもかかわらず、社内の担当部署が取った態度は、事実確認ではありませんでした。

「どちらが正しいかは、問題ではない」「相手がそう感じているのであれば、それが事実だ」「ここは一歩引いてもらえれば、収まる」

ハラスメントという申し立てがあれば、組織がまず守りの姿勢に入るのは、今の時代、必要なことだとは思います。

その夜、私は自宅の机で、引き出しを開けました。

整理しようとしていたわけではありません。ただ、何かを確認したかったのかもしれない。何かに触れたかったのかもしれない。

引き出しの奥から、古い名刺入れが出てきました。

革の角が、長い年月で少し丸くなっていました。新品の頃は、もっときっぱりした形をしていたはずなのに。

私はそれを開いて、一枚をゆっくり引き抜きました。

そこにある名前は、今夜いちばん思い浮かべていた人のものでした。

迷いました。

十年近くブランクがある。今の会社とも関係のある先生に、個人的なことで迷惑をかけるわけにはいかない。それに、この種の話は、外に持ち出すことで動き始める。一度動き出せば、止めることはできない。

私は長い間、画面を見つめていました。

同じ問いが、何度も頭の中を回っていました。

「穏便に済ませるために、頭を下げればいいのではないか」

その考えが浮かぶたびに、どこかが固くなりました。

頭を下げれば、確かに早い。長引くこともない。でも、その先に何が待っているかは、想像できました。一度「認める」形を作ってしまえば、次は、どこまで認めるのか、という話になる。謝罪の言葉は、便利です。一度口にすれば、いくらでも意味を広げられる。

私は、そこに立ちたくありませんでした。

先生に、直接頼むのではなく、「信頼できる別の弁護士を紹介してほしい」という内容のメールを書きました。状況の説明も、感情も、できるだけ削いで。短い文章でした。

先生に迷惑をかけたくないから、別の人を紹介してほしい。その気持ちは本当でした。

送信ボタンを押した後、深く息を吐きました。

返事は、思っていたよりも早く届きました。

長い文章ではありませんでした。

「絶対に謝ってはいけない」

「あなたの件は、他の弁護士には任せられない」

それだけでした。

私は、画面を見つめたまま、しばらく動けませんでした。

紹介を頼んだのに、自分が引き受けると言ってくれた。十年近くブランクがあっても、まるで昨日の続きのように。迷惑がかかることを承知の上で。

「あなたの件は、他の弁護士には任せられない」

その一言の意味を、私はしばらく考えていました。

技術的な意味ではないと思いました。複雑な案件だから、ということではない。

この人との二十年近い時間の中で積み上がった何かが、その一言に込められていた。そう感じました。

その夜、私は初めて、落ち着いて息ができた気がしました。


事実を並べるということ

そこから先は、土日のたびに打ち合わせをしました。

画面越しに、先生の顔と話す。先生は自宅から繋いでくれていたようでした。背景に、本棚が見えました。幕末外交や条約史に関わりそうな背表紙が、何冊か並んでいるのが見えた気がしました。

先生は裏方に徹してくれました。表には出ない。あくまでも、私が一人で考え、私が書いた文書として、組織に提出する形をとりました。

先生の名前は、どこにも出てこない。費用の請求書もない。ただ、土日のたびに時間を割いて、画面の向こうから、問いを出し続けてくれました。

先生がやったことは、問いの順番を整えることでした。

「何が起きたのか、時系列で出してください」「感情と評価は入れないでください」「第三者が読んで、同じ意味に受け取れるかどうかを確認してください」

その言葉は、かつて食事の場で条約史の話をしていた時の先生と、同じ回路から出ていると思いました。定説を疑う前に、まず一次資料を並べる。証拠を積み上げてから、結論を出す。仕事でも、趣味でも、この人の思考の構造は変わらない。

私は、過去のやり取りを一つずつ掘り起こしました。

メール。会議の記録。送信日時。添付ファイル。

どれも普段なら意識せずに流してしまうものです。でも、一つひとつが「その時、何が起きていたか」を黙って語っていました。

「連絡がなかった」と言われている時期に、こちらから送っていた確認の文面。「無視された」とされているやり取りの前後に、きちんと残っている応答の履歴。

それらを見つけるたびに、少しずつ、冷静さを取り戻していきました。

事実は、声を上げません。感情的にもなりません。ただ、並べ方を間違えなければ、嘘をつくこともありません。

整理した資料を先生に送ると、返事は簡潔でした。

「よく整理されています」

それだけで、十分でした。

組織の中での話し合いでは、穏便に済ませるよう求める言葉が繰り返されました。

「どちらが正しいかは重要ではない」「一度、引いてもらえれば収まります」「形だけでも」「あなたのためを思って言っている」

そのたびに、私は先生の言葉を思い出しました。

――絶対に謝ってはいけない。

その一言が、あの夜から、私の背骨になっていました。

一度文章にした覚悟は、揺らぎませんでした。

結果として、私は頭を下げませんでした。

事実を並べ、線を引き、そのこちら側に立ち続けました。

大きな処分も、派手な決着もありませんでした。ただ、役割と責任は再定義され、同じ曖昧さは消えました。

後日、すべての点が繋がる事実が明らかになりました。

相手はその後、退職しました。そしてその退職の前後から、点と点が繋がり始めました。

申し立てが行われた時期の少し前から、相手は秘密裏に自分の別会社を準備していたことがわかりました。そして在職中に、経費の私的な流用が行われていた痕跡も明らかになりました。

あの申し立ての意味が、ようやく見えてきました。

事実を並べるという先生の教えに従っていなければ、私はこの真実に辿り着く前に、その仮面に押し潰されていたかもしれません。

その事実を知った時、私は怒りよりも先に、静かな確信を覚えました。

あの時、頭を下げなくてよかった、と。

そして同時に、先生に連絡して良かった、と。

もしあの夜、「穏便に済ませる」という選択をしていたら、どうなっていたか。頭を下げた記録が残り、それがどう使われたかは、わかりません。

事実を並べ、線を引き、そのこちら側に立ち続けたことで、後から何かを言われる余地を、最初から作らずに済みました。

先生の「絶対に謝ってはいけない」という一言は、結果として、私を守りました。


封筒の話

騒動が落ち着いてから、しばらくして、私は川上先生にアポを取りました。

土日を何度も使ってもらった。裏方に徹してもらった。本来なら相当な費用が発生するはずの時間を、個人的な義理で引き受けてもらった。

電車移動も工数カウントする先生が、土日を何週も、無償で使ってくれた。そのことの重さを、私はよくわかっていました。

白い封筒に、気持ちを入れて持っていきました。足りないことはわかっていましたが、気持ちとして。手土産も持って。

先生は、手土産は受け取ってくれました。でも、封筒には手を伸ばしませんでした。

机の上に置いたままの封筒を、先生は一度だけ見て、何も言わずに視線を戻しました。

沈黙が、少し続きました。

私は、そのまま引けませんでした。

先生は、いつもの調子で言いました。

「いい。そういうことじゃないから」

それだけでした。

感謝の言葉もなく、照れた様子もなく、ただ、「その話は終わり」という空気を作った。その不器用な誠実さが、封筒を受け取られるよりも、ずっと重かった。

私は、何も言えませんでした。

「そういうことじゃない」という言葉の意味を、私なりに受け取っていました。費用の話ではない、ということです。お金で精算できる関係でもなければ、お金で精算する気もない、ということです。

代わりに、「先生の好きな高級ステーキをご馳走させてください」と言いました。先生が好きな店があることを、以前の食事で知っていたからです。一人一食で相当な金額がかかる店でしたが、それくらいのことはさせてほしかった。

先生は、少しだけ表情を緩めて、「それはいい」と言ってくれました。

ただ、その約束は、すぐには果たせませんでした。

先生は暑いのが苦手で、夏の間は那須にいる。だから夏が終わるまで待つしかない、という話になりました。

ところが、そのうちに、また別のことが重なりました。コロナの余韻が残っていた時期で、なかなかタイミングが合わなかった。

2年ほど前に、「約束が果たせていないので」と連絡しました。その時、先生はなんだかんだと理由をつけて、断りました。

今も、その約束は宙に浮いたままです。


おわりに

人物月旦を書く時、私はいつも、その人が私に何を残してくれたかを考えます。

川上先生が残してくれたものを、ひとつだけ選ぶなら、それは言葉です。

「絶対に謝ってはいけない」

たった一行です。

言葉の意味は、単純です。でも、あの夜、あのタイミングで、その言葉をくれた人がいた。十年近くブランクがあっても、紹介を頼んだのに自分が引き受けると言った人がいた。それが、私には何よりも大きかった。

人は、背骨を一本持てれば、立っていられます。

あの修羅場を振り返ると、私の背骨は、先生の一言でできていた気がします。

先生のことを思い返すと、いつも食事の場面が浮かびます。カウンターで、ワインを飲みながら、幕末外交の話をしている先生の横顔。淡々としているのに、定説の話になると少しだけ前のめりになる。

既成の答えを疑い、一次資料に戻る。

その回路は、仕事でも変わりませんでした。

そういう一貫した人間を、私は信頼します。

先生のことを、「盾と剣」だと思っていたことがあります。

でも今思えば、それは少し違うかもしれない。

盾も剣も、使い方を間違えれば、自分を傷つけます。先生が教えてくれたのは、道具の使い方ではなく、「どこに立つか」ということでした。

「ここまでは引き受ける。ここから先は引き受けない」

その線を、自分の手で引くこと。

それが、今回の出来事から、私が受け取ったものだと思っています。

先生は今も、どこかで仕事をされていると思います。そして今も、条約史の定説を疑い続けているだろうと思います。暑い季節になれば、那須に移っているだろうと思います。

ステーキの約束は、まだ果たせていません。

この記事が、その前置きになれば、少し気が楽になる気がしています。

いつか必ず、果たします。

その時まで、この借りは、借りたままにしておきます。


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